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第3章 罠
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アリカは、窓を叩く雨音で目を覚ました。カーテンの隙間から覗く外はまだ薄暗く、鈍色の雲が空を覆っている。
隣に視線を向けると、ハティがそこにいた。アリカは起き上がってうんと伸びをした。
「おはよ。また来たの?」
「お前の顔を見に来ては悪いか」
アリカは少し考えて、それから首を傾げた。
「悪い、って言ったらもう来ない? ハティの顔を見ていると、なんだか気分が悪くなるし」
「……それはお前の都合だ。俺には俺の都合がある」
「あーもう。遠回しに来るなって言ってるの。分かるでしょう? 全く、調子が狂うわ」
「お前こそ、頑なではないか。この俺の手をこれほど煩わせているのは後にも先にも多分お前だけだろうな」
言外に、アリカ以外ならば容易に手玉に取れると言っているようで、ハティの大層な自信にアリカは吹き出した。
「で、いつからそこにいるの?」
「さあな。どうでもよかろう」
「毎日寝起きを確認しに来なくても、今のところ逃げたりしないから大丈夫よ。ハティも暇じゃないでしょう。こんなところで油を売って、臣下をあんまり困らせないことね」
軍議の時間のたびにハティを探しにやってくる臣下達があまりにも哀れで、アリカは言わずにいられなかった。ハティがアリカを訪れている時に邪魔をすると酷い目に合うというのは、ハティを探して呼びに来た臣下達の間では暗黙の了解だった。
アリカの忠言にハティは不機嫌そうに答える。
「俺の時間をどう使おうが、俺の勝手だろう。誰にも文句は言わせぬ」
「天下無敵のハティ様に文句を言う人なんている?」
アリカが声を立てて笑うと、ハティは憮然として返した。
「俺の目の前にな」
アリカは苦笑した。
「今日は軍議じゃないの?」
「そう毎日軍議を行うわけでもない。今日は休みだ」
「貴重な休みなのに、こんなところで時間を潰すなんて勿体ないと思うけど。あたしは逃げないから、気分転換でもしてきたら? まあ、外は雨だし、遠駆けもできないでしょうけれど」
「時間が惜しい故、ここに来ている」
「何それ……もっと有意義に使いなさいよ。バルドの様子を見に行くとか」
「もう見てきた。お前に会いたがっていた」
「そう……」
バルドの呪詛は複雑なものだった。彼自身に向けられたもの、皇族に向けられたもの。二つの呪いが、複雑に絡んでいたのだ。
宮廷魔術士のローレルはあっけなく死んでしまった。呪詛を返され苦しみのたうち回りながら死んだのだろうが、真偽は誰にも分からない。彼の部屋に踏み込んだ時には、既に息を引き取っていたという。
目を覚ましたバルドの落ち込みようは誰の目から見ても明らかで、流石のハティもかける言葉が見つからなかったようだ。ずっと近くでバルドを支えてきた男に裏切られ、呪われていたのだ。その衝撃は想像するに難くない。
ハティは目を眇め、ベッドに腰かけた。
「あいつは、お前に訊ねたいことがいくつかあるようだな。俺も、いくつか質問したいことがある」
「何?」
「ドール王、レイジーンのことだ」
その名を聞いた途端、アリカの胸は不穏に騒めいた。
バルドやハティがおにいさまのことを疑問に思うのも無理はない。その疑問の答えをアリカに求めるのも、当然と言える。
バルドの解呪をして感じたあの思念は、どこまでも、いつまでも、アリカを苦しめるあの方――卑劣で、傲慢な、おにいさまのそれに間違いない。おにいさまはバルドを呪った。
あの人は、アリカが思うよりもずっと、愚かだったのだ。
アリカかおにいさま、どちらかが死を迎えるまで、アリカはかの国に縛られ続けることになる。ずっと、過去を辿り、前に進むこともできず。
アリカは震える声で何とか答えた。
「おにいさまの、何を知りたいの?」
「ドール王も破魔の力を持っているのか?」
「ない。それはあたしだけの力だから。あたしが子どもを生まない限り、破魔はあたしだけの魔法よ」
「……そうか。では、呪詛を返されて生きていられる可能性は、どれくらいある」
「呪いの強さと耐性によるわ。呪いを返すと倍になって術者に向かうから。皇族への呪いほど強力なものは、返されたらまず助からないはずなんだけど……色々と思うところはある」
おにいさまは愚かだが、馬鹿ではない。
アリカが帝国側についている以上、呪詛が返される可能性を考えないはずがない。
呪術師としてローレルを使っていたことから、もしやと思っていることがあった。
おにいさまは、自分の身替りを何人も用意させているのではないかと。
アリカはそこまで考えて青ざめた。十分あり得ることだ。
「では、呪術者は――レイジーンは今も生きていると思うか?」
「多分、生きている」
「やはりそう思うか……」
そうなると、また同じことが起こるだろう。レイジーンは、先代皇帝の心臓を所持している。呪いの媒介はあちらにあるのだ。
バルドが呪詛に捕まり、アリカの命は狙われる。
ハティは深いため息をついた。だから、こうして毎日アリカの様子を見に来ているのだ。
相手が、いつアリカを奪いに来てもおかしくない。
ちらりとアリカを見やれば、まだ顔色が悪いまま、うなされるように同じ言葉を呟いている。
「どこに逃げても、おにいさまの影がつきまとう……。あたしは、一体どこに行ったら……」
「ここにいればよかろう。どこかに行く必要などない」
アリカはゆっくりとハティを見上げた。それまで霞を掴むように不安に揺れていた紅蓮の双眸が、今は鮮烈に、ハティを射る。
ぷつんと音を立てて、アリカの中で何かが切れた。
「どうしてそうやって優しくするの。大切に扱うの、あたしを惑わせるの! あたしは、ハティの何なの? 玩具、愛玩動物、弟を助けるための道具、取引相手でしょう? ……そうだって、言ってよ」
「違う」
怖い。苦しい。息が、詰まりそうだった。
ハティの目は何よりも雄弁に、その想いを伝えてくる。
アリカがずっと目を背けてきた情愛が、漏れ出してくる。
「……やめてよ。どこまでも追いかけてきて、時間の無駄だって気づかないの。あたしは、ハティを振り回して、散々無碍にして。普通、どんなに鈍感で馬鹿な男でも脈なしだって分かる。あたしは、この先も誰かに深入りすることはできない。いい加減、諦めて!」
アリカの細い腕を強く掴んで、ハティは唸るように訊ねた。
「そうやって、いつまで一人でいるつもりだ。逃げ出して、その先に何があるという」
「何もないわ。ただ、虚しいだけ。でも……それでいいの。大切にしていたものを無くしてしまうより、ずっといい」
ハティはアリカから手を放した。感情に任せて掴んだ跡がありありと浮かび、気まずそうにアリカを見下ろす。
アリカは情緒不安定だった。いつもの気丈さはどこにいったのか、今にも泣きだしそうになりながら続けた。
「……少しでも情が移ると、それが心に刺さる。いつまでもあたしを苛むわ。それに、大切な人ほど、失った時の悲しみは大きい……。誰かに心を縛られるくらいなら、一人でいる方がましよ。最初から失う心配をしなくて済む。傷つくこともない。いつまでも自由でいられる! ……望むままに、生きられる」
全く心が動かないと言い切るには、正直、もう手遅れだと思っている。アリカが望むまいと、無意識のうちに一線を越えてしまっている気がした。
ドールから逃げ出してからこれまでは、金で買われる一晩限りの関係が多く、これほど長く誰かと一緒にいたことはなかった。相手がどんな人間かも知ることもなく。アリカの正体を知られることもなく。ただ互いの肉体を求め、貪って、薔薇を渡して、金を貰う。刹那的な関係。
ハティとの関係も、そうでなくてはならなかった。
ネーヴェフィールで出会った頃の、アリカを冷たく見つめて、侮蔑さえ浮かんだあの視線のまま、アリカを監視していなければならなかった。
「身体の傷は、放っておいても癒える。でもね。心の傷は、いつまで経っても……消えないの。忘れていたころに疼きだすの……」
アリカはつらつらと、レイジーンのことや、これまでのことを話し出した。
◇
――優しく人当たりのいいレイジーンは、いつも沢山の人に囲まれていた。その傍らには、将来王の腹心となると目されていたロベリアがおり、二人は周囲が羨むほど仲の良い友だった。
だが、ロベリアはある日突然、レイジーンの妹である聖女を守護する騎士となると言い出す。妹の騎士となるのならばと、レイジーンはそれを許した。
アリカの知る限り、レイジーンがおかしくなってしまったのは、その頃からだったような気がする。
ロベリアは破魔の聖女の代弁者として、その当時の階級制度を批判した。どれほど努力しても魔力が低ければ報われない、それはおかしいと。その考えに賛同するものは次々現れ、階級制度の改善を王へ直訴した。
更には、神殿に幽閉同然の生活を強いられているアシュラムの解放と、失われた王位継承権の復権を求めたのだった。
その時、王太子は親友であるロベリアの数々の行動を知らなかった。水面下で進む革命の動きに王太子が気づいたのは、とある臣下の一言であった。曰く、『ロベリアの言う通り王太子は完全に、聖女に劣っている』。
そう思っていたのはその者だけではなかった。
国を率いる者としての才覚は父に劣り、その他で特筆すべき点はない。ならば、破魔の力を持つ第一王女の薔薇姫の方が、よほど王としての資質がある――そんな風に陰で言われていたのだ。
もちろん、アリカはそんな世論はつゆ知らず、神殿の中で過ごしていた。
ロベリアは革命が成されるまでは、アリカにその目論見を明かすつもりは微塵もなかったのだ。
それまで誰も気が付かなかった、レイジーンの奥に秘められた冷酷無慈悲なその本性は、その頃からゆっくりと花開き始めた。
ロベリアが聖女の騎士に就任してからしばらくして。聖女の神殿に送られてくる罪人の数が倍以上に増えた。急激に罪人が増えたことに疑問を持つものもいたが、誰も問いただすことはしなかった。
聖女は十三歳を迎えていた。幼さを残せども全くの無知というわけでもない。もちろん、罪人増加の件に疑念を抱いてはいたが、神殿の外で起こることは遠い国の出来事と同じようなものだった。
王太子が言うことには、「国家転覆を目論む輩が存在する。彼らを見過ごしてはおけない」――と。
ただ不思議だったのは、罪人は皆一様に、鉄の仮面を被って連れてこられたこと。それも、誰一人として聖女の前で言葉を発することもなく、何の弁明もせず、黙り込んだまま。
それまで聖女が顔を隠して罪人に相対することはあっても、逆はなかった。それに裁定を下す聖女を前にして釈明の言葉もないなど、おかしなことだった。
彼らをあまりに哀れに思って、聖女はレイジーンに懇願した。
「ここに送られてくる者達の仮面を、外してやることはできませんか?」
「罪人の顔を見ては余計な情けが沸くだろう。お前は優しすぎる。罪人にまで心を砕くほどに。公正な裁定を下すためには、顔を隠していたほうがいいのだ」
「お心遣いはうれしいわ。でも……」
「全てはアシュラムの為を思ってやったのだよ。不満か?」
どこか冷たさの籠る声に身が竦んだ。また何か機嫌を損ねるようなことを言ったのかと不安になり、口を噤む。
兎に角、兄に嫌われたくなかった。温かく接してくれるのはレイジーンとロベリア、父と神官長だけだった。父の訪問はめっきり減り、神殿にやってくるのは兄とロベリアだけだった。
怖かったのだ。
兄に見捨てられるのが。
「……いいえ。わたくし、少しでもお役に立てるようにがんばりたい。だから、また会いにきてね。おにいさま」
「……そうだな。お前はいい子だ、アシュラム。お前だけだよ、私の言うことを聞いてくれるのは」
レイジーンは聖女を抱き寄せて額にそっと口づけした。
「おにいさま、愛してるわ」
私も、とは。言ってくれなかった。
口答えをしたからいけないのだ。おとなしく言うことを聞けば、おにいさまはまた、好きになってくれる、愛してくれる――そう信じていた。
レイジーンはその頃、謀反を企んだとして、破魔の聖女の信徒を大量に虐殺した。何の罪もない、非力な子どもや老人まで。ほぼ、無差別に。聖女を崇拝したというだけで。
父であるドール王はレイジーンの度の過ぎた行動を諫めたが、父がアシュラムを庇うような態度に逆上し、そのまま父を幽閉し、実権を握っていたのだという。
その時はまだ、おとうさまは生きていたのだ。
レイジーンの行動に反感を持つ者は沢山いた。王への仕打ちを抗議するもの、何の抵抗もできない信徒達を殺したことを批判するもの。多くの有力貴族達は、王太子を責めた。
――王としての資質に欠ける、国を亡ぼすおつもりか。
――聖王の嫡子がこれとは嘆かわしい。これほど無能な王太子も珍しかろう。
――大した力もない平凡な王太子が、何を考えていらっしゃるのか。
――殿下は恥を知らぬのですか。
そこでレイジーンは彼らにこう言った。
――反逆の芽を早めに摘むことの何がいけないのか。
そして、レイジーンに反感を持つ者、批判的な者は皆、あらぬ罪を着せられて聖女の神殿へと送り込まれ、罪人の数が飛躍的に増加したのだ。
魔法を奪われた貴族の末路は悲惨だ。生きた屍を憐れむものはいない。故に、はじめ彼らは、聖女を襲うことはしなかった。刃を向けなければ、聖女から魔法を奪われることはない。
公平な裁きを下す聖女が、無実の人間を裁くような真似はしないだろう。誰もがそう思っていた。
もちろん、聖女も刃を向けない相手を赦した。
しかし、次第に罪人達の行動が変化し始めた。
聖女と二人きりになるなり、彼らは殺意を隠すこともなく襲い掛かってきた。殺してでも鍵を奪い、一刻も早く逃れたい――言葉を発せられなくとも、彼らの意志は明確だった。
そこには、恐怖と憎悪が滲んでいた。
断ち切れないほどの、深い憎悪だ。
聖女がどれほど人を助けようと、どれほど罪を赦そうと、彼らは外に出ると容赦なく処刑されたのだ。
聖女が赦せば、やり直しの機会が与えられる――そんなものは、既に過去の話となっていた。
何かの間違いだと思い、おにいさまに手紙を添えた。
『愛するおにいさま。わたくしが赦したものたちは、いずれも心の清くやさしい人達です。どうか、その命を無碍になさらぬようお願い申し上げます』
しかし、レイジーンからの返事はいつまで経ってもなかった。
人づてに聞いた話では、手紙を呪いの籠ったものとして焼かせたらしい。
何かの手違いでそう思い込んでしまったに違いない、おにいさまに限って、妹の手紙を読まずに焼くなど――アリカはそうやって、自分に言い聞かせていた。
そんなことが何年か続き、いつしか、聖女の騎士だったロベリアも、アシュラムを育ててくれた神官長のニコルも、聖女のもとを訪れることがなくなっていった。
元々神殿では、聖女が求めない限り誰からも声をかけられることはない。しばらくの間誰とも言葉を交わすことはなかった。
だから知らなかったのだ。神官長が交代したことも。
十五歳の頃。
国を裏切った大罪人が送られてきた。
どんな極悪人かと震えていたが、その人を見て息を吞む。
鉄仮面を被ってはいたが、長年共に生活してきた彼を、見間違うはずもない。
「ニコル……?」
恐る恐る訊ねれば、彼は無言で頷いた。
「声を出せないのですか……?」
また、頷く。
ニコルは舌を抜かれていたのだ。
「何があったの? しばらく見かけないうちに、どうして……」
ニコルは擦り切れた革の手帳を取り出した。その時垣間見た左手は、爪が全て剥がされ、小指は切り落とされ血が滴っていた。
拷問を受けた跡だ。
「神官であるあなたに、一体誰がそんな酷い仕打ちをしたのですか……」
厳格だが確たる信念をもってアリカを育ててくれた男が、罪人として拷問を受けたという事実は、雷で撃たれるよりも衝撃的だった。
聖女に会う前の身体検査で手帳を取られなかったのは幸いであった。ニコルは、覚束ない手つきで手帳を開くと、自らの血で不穏な文字を綴っていく。
――レイジーン、王の呪殺、謀る、告発、失敗……。
「何を言っているの……」
――私、セラフィト皇帝に手紙。貴女の保護、依頼。
「それを、咎められたというの? でもどうして……保護の必要など――」
――レイジーン、あなたを利用、不穏分子処分。都合のいい駒だが疎ましい。ここは危険。
「待って。すぐにそれを信じろと言われても……」
まさか、兄が己を疎ましく思うはずがない。動揺する聖女にニコルは血の滲む手帳を見せた。
――貴女の迷いは分かる。
「証拠はあるの? おにいさまがおとうさまを呪い、罪なきもの達をここに送り込んだという証が」
――外に出てみて。ここ、安全ではない。逃げて。
「逃げるって、どこに……。わたくしは、ほかの場所を知らない」
――ロベリアを頼れ。ここに近寄れないでいるが、まだ生きている。貴女を王に据えることを諦めていない。聖女の信徒を率いて最後まで戦うつもりだ。貴女は彼らの希望。生きなければならない。
聖女は首を振った。
「次の王はレイジーンおにいさまです。わたくしは、王になどなりたくない。そんなことを望んだ覚えはない!」
――民が死に絶える前にレイジーンの暴挙を止めて。処刑を恐れて、王太子に意見する者はいない。
綴られる言葉は到底信じられないものばかりだった。
声を震わせ、囁くように返した。
「わたくしに、おにいさまをお諫めせよと言うの?」
――貴女が正しいと思うことを言って。かつての貴女は何にも臆せず真っ直ぐだった。
何が正しく、何が間違っているのか。
その時は分からなかった。
かつて臆することなく言えた言葉も、その時は鋭い諸刃のようで、口にすれば自身をも傷つけた。
「勝手だわ……ロベリアもニコルも。そしておにいさまも。皆、結局はわたくしを都合のいい道具として扱っているだけじゃない。思い通りにできる都合のいい王が欲しいだけじゃない! それでおにいさまだけが悪いと言えるの? 元はと言えば、ロベリアがおにいさまの傍を離れたからいけないのではないの。きっとあの人さえ裏切らなければ、おにいさまが変わってしまうこともなかった! わたくしとの関係が変わることもなかった!」
反論する気力もないのか、ニコルは項垂れた。
ニコルが嘘をついているとは思えない。だが、受け止めるには時間が必要だった。
とにかく、ニコルには何の罪もないのだ。
「……あなただけでもお逃げなさい。わたくしとあなたが知る道を辿っていけばいい」
ニコルを逃した明朝、新たに就任したという神官長が大きな包みを手に挨拶に来た。
「ごきげんよう、聖アシュラム」
「ニコルは、どうなりましたか?」
震える聖女に、彼は何の躊躇いもなく応える。
「聖女のご意思に従って、反逆者ニコルは処刑いたしました。これはその証拠」
彼が包みを広げると、中にはニコルの首が納められていた。
「わたくしの……意思ですって? 何を言っているの……」
「こちらに、聖女からの証書がございます」
「そのようなものを書いた覚えはないわ!」
「では、ご覧になりますか?」
書状を突き付けられ、絶句した。
その筆跡は紛れもなく自分のもの。見慣れた字体、癖。それから、捺されているのは聖女の象徴、薔薇の印章。全て完璧に模倣されている。
焼き捨てられたと思っていた手紙から、アリカの字を模倣したのだろう。いくら書いた覚えがないと言い張ったところで、その時のアリカにはどうにもできなかった。
卑劣な仕組みだった。
どちらに転んでも、悪いのは聖女なのだから。
罪もない人を断罪させ、無実の者から魔法を奪い、魔法を奪い損ねたら首を刎ねて死に追いやる聖女――そうやって民衆の敵意と憎しみを煽り、聖女の逃げ道を絶った。怒りの矛先を聖女へと向けさせた。
逃げたところで、誰も聖女の言葉を信じない。どんな弁明をしようが、火に油を注ぐだけ。もう、誰を信じていいのか分からなかった。
真実、都合のいい駒だった。
あれほど愛したおにいさまは、今までも、これからも、アリカを愛することはないのだ。
薄々分かっていた。
邪魔だったのだ。いつ自分にとって代わるか分からない、民の心を容易に掴む力を持ち、有能な友を奪った破魔の聖女が。
もう二度と、優しかったおにいさまは戻ってこない――そう分かっていても、望みを捨てきることはできなかった。
おにいさまを心から嫌いになれなかった。
愚かだった。どうしようもなく、愚かだったのだ。
それからほどなくして、潜伏していたロベリアが、聖女の信徒を率いて王太子軍へ戦いを挑んだ。
結果は、惨敗だった。
聖女も、生き残った信徒達も処断された。
◇
――話し終える頃には窓を叩く雨は弱まり、雲の間隙から一筋の光が地上へと降り注いでいた。
「結局誰も幸せにならなかった。大切に思っていた人たちは皆、あたしのせいで、人生を狂わされた。破魔の聖女さえいなければって、何度も思って、言われ続けた。あたしに近づいて幸せになった者はいない。関わったものは口々に言ったわ。お前のせいだ、お前が悪いって。でも、全くその通りなの。あたしが普通の女の子だったら、何も起こらなかった。大好きなおにいさまに捨てられることもなかった。
もう、限界なの。大切な人達がいなくなるのを見ているのは。だからもう、誰かに、心を許したりしない」
黙って聞いていたハティは、アリカの肩を抱き寄せて額に唇を落とす。
「筆舌に尽くせぬほど、辛かろうな……」
思いがけないほど、優しくハティは言った。
「全てがお前のせいではない。お前は悪くない。……いつか、もう大丈夫だと――自分を許せる時が必ずやってくる。だからそう自分を責めるな」
唄うように柔らかな声でハティはアリカを宥めた。アリカはつい、ハティの身体にしがみ付いて額をくっつける。彼の温もりは心地よく、つい気が緩むようだった。
今まで誰もそんなことを言ってくれなかった。
利用する為の甘言だとしても、ハティの言葉に救われるような気がした。
「……そうだと、いいな」
「大丈夫だ、その時まで俺が傍にいよう」
「諦めろって、言ってるじゃない……。本当、どうしようもないくらい馬鹿ね……」
髪を弄ぶ節くれた指。ほのかにかおる汗の匂い。逞しい胸板、アリカを支える腕。広い背中。ゆっくり聞こえる鼓動。
アリカはただ黙って、その身を預けた。肌をくっつけていると安心する。
かつて、心の奥底にしまい込んだ気持ちがじわじわと漏れ出してくるようだった。必死に捨てようとしたけれど、捨てきれなかった思いが。
胸が、疼く。
アリカの髪を撫でながら、ハティは呟いた。
「どちらにせよ、まどろっこしい真似などせずに、直接レイジーンの息の根を止めるしか方法はないようだな」
「ドールへ向かうの?」
「準備が整い次第な。俺はこのまま攻め入ってもいいが、それだと納得せぬ者がいるのだ」
「ハティって、なんていうか、案外堅実な手を打つわよね」
「兵の数には限りがある。あらゆる可能性を考えて動くことに越したことはないだろう? ……お前も来るか?」
言われている意味が分からず、アリカは一瞬黙り込んだ。
「いいの? あたしがついて行っても、邪魔になるだけでしょ……?」
「お前には、見届ける義務があると思うが?」
おにいさまがセラフィトを呪っている以上、この件を解決しない限り本当の自由などやってこない。どれほど夢みたところで、おにいさまと向き合わない限り、永遠に。
これ以上逃げたところで、無意味だ。今ハティから自由になったところで、結局また次の誰かが、アリカを利用しようと企むだろう。
ハティはそれを承知で、アリカに提案しているのだ。
アリカは力を抜いて微笑んだ。
「……そうだったわね。それなら、おにいさまとの決着はあたしがつける」
「お前にできるのか?」
「見くびらないでよ。もうおにいさまに未練なんてないわ……。あたしがやらねばならないの。それが、けじめよ」
隣に視線を向けると、ハティがそこにいた。アリカは起き上がってうんと伸びをした。
「おはよ。また来たの?」
「お前の顔を見に来ては悪いか」
アリカは少し考えて、それから首を傾げた。
「悪い、って言ったらもう来ない? ハティの顔を見ていると、なんだか気分が悪くなるし」
「……それはお前の都合だ。俺には俺の都合がある」
「あーもう。遠回しに来るなって言ってるの。分かるでしょう? 全く、調子が狂うわ」
「お前こそ、頑なではないか。この俺の手をこれほど煩わせているのは後にも先にも多分お前だけだろうな」
言外に、アリカ以外ならば容易に手玉に取れると言っているようで、ハティの大層な自信にアリカは吹き出した。
「で、いつからそこにいるの?」
「さあな。どうでもよかろう」
「毎日寝起きを確認しに来なくても、今のところ逃げたりしないから大丈夫よ。ハティも暇じゃないでしょう。こんなところで油を売って、臣下をあんまり困らせないことね」
軍議の時間のたびにハティを探しにやってくる臣下達があまりにも哀れで、アリカは言わずにいられなかった。ハティがアリカを訪れている時に邪魔をすると酷い目に合うというのは、ハティを探して呼びに来た臣下達の間では暗黙の了解だった。
アリカの忠言にハティは不機嫌そうに答える。
「俺の時間をどう使おうが、俺の勝手だろう。誰にも文句は言わせぬ」
「天下無敵のハティ様に文句を言う人なんている?」
アリカが声を立てて笑うと、ハティは憮然として返した。
「俺の目の前にな」
アリカは苦笑した。
「今日は軍議じゃないの?」
「そう毎日軍議を行うわけでもない。今日は休みだ」
「貴重な休みなのに、こんなところで時間を潰すなんて勿体ないと思うけど。あたしは逃げないから、気分転換でもしてきたら? まあ、外は雨だし、遠駆けもできないでしょうけれど」
「時間が惜しい故、ここに来ている」
「何それ……もっと有意義に使いなさいよ。バルドの様子を見に行くとか」
「もう見てきた。お前に会いたがっていた」
「そう……」
バルドの呪詛は複雑なものだった。彼自身に向けられたもの、皇族に向けられたもの。二つの呪いが、複雑に絡んでいたのだ。
宮廷魔術士のローレルはあっけなく死んでしまった。呪詛を返され苦しみのたうち回りながら死んだのだろうが、真偽は誰にも分からない。彼の部屋に踏み込んだ時には、既に息を引き取っていたという。
目を覚ましたバルドの落ち込みようは誰の目から見ても明らかで、流石のハティもかける言葉が見つからなかったようだ。ずっと近くでバルドを支えてきた男に裏切られ、呪われていたのだ。その衝撃は想像するに難くない。
ハティは目を眇め、ベッドに腰かけた。
「あいつは、お前に訊ねたいことがいくつかあるようだな。俺も、いくつか質問したいことがある」
「何?」
「ドール王、レイジーンのことだ」
その名を聞いた途端、アリカの胸は不穏に騒めいた。
バルドやハティがおにいさまのことを疑問に思うのも無理はない。その疑問の答えをアリカに求めるのも、当然と言える。
バルドの解呪をして感じたあの思念は、どこまでも、いつまでも、アリカを苦しめるあの方――卑劣で、傲慢な、おにいさまのそれに間違いない。おにいさまはバルドを呪った。
あの人は、アリカが思うよりもずっと、愚かだったのだ。
アリカかおにいさま、どちらかが死を迎えるまで、アリカはかの国に縛られ続けることになる。ずっと、過去を辿り、前に進むこともできず。
アリカは震える声で何とか答えた。
「おにいさまの、何を知りたいの?」
「ドール王も破魔の力を持っているのか?」
「ない。それはあたしだけの力だから。あたしが子どもを生まない限り、破魔はあたしだけの魔法よ」
「……そうか。では、呪詛を返されて生きていられる可能性は、どれくらいある」
「呪いの強さと耐性によるわ。呪いを返すと倍になって術者に向かうから。皇族への呪いほど強力なものは、返されたらまず助からないはずなんだけど……色々と思うところはある」
おにいさまは愚かだが、馬鹿ではない。
アリカが帝国側についている以上、呪詛が返される可能性を考えないはずがない。
呪術師としてローレルを使っていたことから、もしやと思っていることがあった。
おにいさまは、自分の身替りを何人も用意させているのではないかと。
アリカはそこまで考えて青ざめた。十分あり得ることだ。
「では、呪術者は――レイジーンは今も生きていると思うか?」
「多分、生きている」
「やはりそう思うか……」
そうなると、また同じことが起こるだろう。レイジーンは、先代皇帝の心臓を所持している。呪いの媒介はあちらにあるのだ。
バルドが呪詛に捕まり、アリカの命は狙われる。
ハティは深いため息をついた。だから、こうして毎日アリカの様子を見に来ているのだ。
相手が、いつアリカを奪いに来てもおかしくない。
ちらりとアリカを見やれば、まだ顔色が悪いまま、うなされるように同じ言葉を呟いている。
「どこに逃げても、おにいさまの影がつきまとう……。あたしは、一体どこに行ったら……」
「ここにいればよかろう。どこかに行く必要などない」
アリカはゆっくりとハティを見上げた。それまで霞を掴むように不安に揺れていた紅蓮の双眸が、今は鮮烈に、ハティを射る。
ぷつんと音を立てて、アリカの中で何かが切れた。
「どうしてそうやって優しくするの。大切に扱うの、あたしを惑わせるの! あたしは、ハティの何なの? 玩具、愛玩動物、弟を助けるための道具、取引相手でしょう? ……そうだって、言ってよ」
「違う」
怖い。苦しい。息が、詰まりそうだった。
ハティの目は何よりも雄弁に、その想いを伝えてくる。
アリカがずっと目を背けてきた情愛が、漏れ出してくる。
「……やめてよ。どこまでも追いかけてきて、時間の無駄だって気づかないの。あたしは、ハティを振り回して、散々無碍にして。普通、どんなに鈍感で馬鹿な男でも脈なしだって分かる。あたしは、この先も誰かに深入りすることはできない。いい加減、諦めて!」
アリカの細い腕を強く掴んで、ハティは唸るように訊ねた。
「そうやって、いつまで一人でいるつもりだ。逃げ出して、その先に何があるという」
「何もないわ。ただ、虚しいだけ。でも……それでいいの。大切にしていたものを無くしてしまうより、ずっといい」
ハティはアリカから手を放した。感情に任せて掴んだ跡がありありと浮かび、気まずそうにアリカを見下ろす。
アリカは情緒不安定だった。いつもの気丈さはどこにいったのか、今にも泣きだしそうになりながら続けた。
「……少しでも情が移ると、それが心に刺さる。いつまでもあたしを苛むわ。それに、大切な人ほど、失った時の悲しみは大きい……。誰かに心を縛られるくらいなら、一人でいる方がましよ。最初から失う心配をしなくて済む。傷つくこともない。いつまでも自由でいられる! ……望むままに、生きられる」
全く心が動かないと言い切るには、正直、もう手遅れだと思っている。アリカが望むまいと、無意識のうちに一線を越えてしまっている気がした。
ドールから逃げ出してからこれまでは、金で買われる一晩限りの関係が多く、これほど長く誰かと一緒にいたことはなかった。相手がどんな人間かも知ることもなく。アリカの正体を知られることもなく。ただ互いの肉体を求め、貪って、薔薇を渡して、金を貰う。刹那的な関係。
ハティとの関係も、そうでなくてはならなかった。
ネーヴェフィールで出会った頃の、アリカを冷たく見つめて、侮蔑さえ浮かんだあの視線のまま、アリカを監視していなければならなかった。
「身体の傷は、放っておいても癒える。でもね。心の傷は、いつまで経っても……消えないの。忘れていたころに疼きだすの……」
アリカはつらつらと、レイジーンのことや、これまでのことを話し出した。
◇
――優しく人当たりのいいレイジーンは、いつも沢山の人に囲まれていた。その傍らには、将来王の腹心となると目されていたロベリアがおり、二人は周囲が羨むほど仲の良い友だった。
だが、ロベリアはある日突然、レイジーンの妹である聖女を守護する騎士となると言い出す。妹の騎士となるのならばと、レイジーンはそれを許した。
アリカの知る限り、レイジーンがおかしくなってしまったのは、その頃からだったような気がする。
ロベリアは破魔の聖女の代弁者として、その当時の階級制度を批判した。どれほど努力しても魔力が低ければ報われない、それはおかしいと。その考えに賛同するものは次々現れ、階級制度の改善を王へ直訴した。
更には、神殿に幽閉同然の生活を強いられているアシュラムの解放と、失われた王位継承権の復権を求めたのだった。
その時、王太子は親友であるロベリアの数々の行動を知らなかった。水面下で進む革命の動きに王太子が気づいたのは、とある臣下の一言であった。曰く、『ロベリアの言う通り王太子は完全に、聖女に劣っている』。
そう思っていたのはその者だけではなかった。
国を率いる者としての才覚は父に劣り、その他で特筆すべき点はない。ならば、破魔の力を持つ第一王女の薔薇姫の方が、よほど王としての資質がある――そんな風に陰で言われていたのだ。
もちろん、アリカはそんな世論はつゆ知らず、神殿の中で過ごしていた。
ロベリアは革命が成されるまでは、アリカにその目論見を明かすつもりは微塵もなかったのだ。
それまで誰も気が付かなかった、レイジーンの奥に秘められた冷酷無慈悲なその本性は、その頃からゆっくりと花開き始めた。
ロベリアが聖女の騎士に就任してからしばらくして。聖女の神殿に送られてくる罪人の数が倍以上に増えた。急激に罪人が増えたことに疑問を持つものもいたが、誰も問いただすことはしなかった。
聖女は十三歳を迎えていた。幼さを残せども全くの無知というわけでもない。もちろん、罪人増加の件に疑念を抱いてはいたが、神殿の外で起こることは遠い国の出来事と同じようなものだった。
王太子が言うことには、「国家転覆を目論む輩が存在する。彼らを見過ごしてはおけない」――と。
ただ不思議だったのは、罪人は皆一様に、鉄の仮面を被って連れてこられたこと。それも、誰一人として聖女の前で言葉を発することもなく、何の弁明もせず、黙り込んだまま。
それまで聖女が顔を隠して罪人に相対することはあっても、逆はなかった。それに裁定を下す聖女を前にして釈明の言葉もないなど、おかしなことだった。
彼らをあまりに哀れに思って、聖女はレイジーンに懇願した。
「ここに送られてくる者達の仮面を、外してやることはできませんか?」
「罪人の顔を見ては余計な情けが沸くだろう。お前は優しすぎる。罪人にまで心を砕くほどに。公正な裁定を下すためには、顔を隠していたほうがいいのだ」
「お心遣いはうれしいわ。でも……」
「全てはアシュラムの為を思ってやったのだよ。不満か?」
どこか冷たさの籠る声に身が竦んだ。また何か機嫌を損ねるようなことを言ったのかと不安になり、口を噤む。
兎に角、兄に嫌われたくなかった。温かく接してくれるのはレイジーンとロベリア、父と神官長だけだった。父の訪問はめっきり減り、神殿にやってくるのは兄とロベリアだけだった。
怖かったのだ。
兄に見捨てられるのが。
「……いいえ。わたくし、少しでもお役に立てるようにがんばりたい。だから、また会いにきてね。おにいさま」
「……そうだな。お前はいい子だ、アシュラム。お前だけだよ、私の言うことを聞いてくれるのは」
レイジーンは聖女を抱き寄せて額にそっと口づけした。
「おにいさま、愛してるわ」
私も、とは。言ってくれなかった。
口答えをしたからいけないのだ。おとなしく言うことを聞けば、おにいさまはまた、好きになってくれる、愛してくれる――そう信じていた。
レイジーンはその頃、謀反を企んだとして、破魔の聖女の信徒を大量に虐殺した。何の罪もない、非力な子どもや老人まで。ほぼ、無差別に。聖女を崇拝したというだけで。
父であるドール王はレイジーンの度の過ぎた行動を諫めたが、父がアシュラムを庇うような態度に逆上し、そのまま父を幽閉し、実権を握っていたのだという。
その時はまだ、おとうさまは生きていたのだ。
レイジーンの行動に反感を持つ者は沢山いた。王への仕打ちを抗議するもの、何の抵抗もできない信徒達を殺したことを批判するもの。多くの有力貴族達は、王太子を責めた。
――王としての資質に欠ける、国を亡ぼすおつもりか。
――聖王の嫡子がこれとは嘆かわしい。これほど無能な王太子も珍しかろう。
――大した力もない平凡な王太子が、何を考えていらっしゃるのか。
――殿下は恥を知らぬのですか。
そこでレイジーンは彼らにこう言った。
――反逆の芽を早めに摘むことの何がいけないのか。
そして、レイジーンに反感を持つ者、批判的な者は皆、あらぬ罪を着せられて聖女の神殿へと送り込まれ、罪人の数が飛躍的に増加したのだ。
魔法を奪われた貴族の末路は悲惨だ。生きた屍を憐れむものはいない。故に、はじめ彼らは、聖女を襲うことはしなかった。刃を向けなければ、聖女から魔法を奪われることはない。
公平な裁きを下す聖女が、無実の人間を裁くような真似はしないだろう。誰もがそう思っていた。
もちろん、聖女も刃を向けない相手を赦した。
しかし、次第に罪人達の行動が変化し始めた。
聖女と二人きりになるなり、彼らは殺意を隠すこともなく襲い掛かってきた。殺してでも鍵を奪い、一刻も早く逃れたい――言葉を発せられなくとも、彼らの意志は明確だった。
そこには、恐怖と憎悪が滲んでいた。
断ち切れないほどの、深い憎悪だ。
聖女がどれほど人を助けようと、どれほど罪を赦そうと、彼らは外に出ると容赦なく処刑されたのだ。
聖女が赦せば、やり直しの機会が与えられる――そんなものは、既に過去の話となっていた。
何かの間違いだと思い、おにいさまに手紙を添えた。
『愛するおにいさま。わたくしが赦したものたちは、いずれも心の清くやさしい人達です。どうか、その命を無碍になさらぬようお願い申し上げます』
しかし、レイジーンからの返事はいつまで経ってもなかった。
人づてに聞いた話では、手紙を呪いの籠ったものとして焼かせたらしい。
何かの手違いでそう思い込んでしまったに違いない、おにいさまに限って、妹の手紙を読まずに焼くなど――アリカはそうやって、自分に言い聞かせていた。
そんなことが何年か続き、いつしか、聖女の騎士だったロベリアも、アシュラムを育ててくれた神官長のニコルも、聖女のもとを訪れることがなくなっていった。
元々神殿では、聖女が求めない限り誰からも声をかけられることはない。しばらくの間誰とも言葉を交わすことはなかった。
だから知らなかったのだ。神官長が交代したことも。
十五歳の頃。
国を裏切った大罪人が送られてきた。
どんな極悪人かと震えていたが、その人を見て息を吞む。
鉄仮面を被ってはいたが、長年共に生活してきた彼を、見間違うはずもない。
「ニコル……?」
恐る恐る訊ねれば、彼は無言で頷いた。
「声を出せないのですか……?」
また、頷く。
ニコルは舌を抜かれていたのだ。
「何があったの? しばらく見かけないうちに、どうして……」
ニコルは擦り切れた革の手帳を取り出した。その時垣間見た左手は、爪が全て剥がされ、小指は切り落とされ血が滴っていた。
拷問を受けた跡だ。
「神官であるあなたに、一体誰がそんな酷い仕打ちをしたのですか……」
厳格だが確たる信念をもってアリカを育ててくれた男が、罪人として拷問を受けたという事実は、雷で撃たれるよりも衝撃的だった。
聖女に会う前の身体検査で手帳を取られなかったのは幸いであった。ニコルは、覚束ない手つきで手帳を開くと、自らの血で不穏な文字を綴っていく。
――レイジーン、王の呪殺、謀る、告発、失敗……。
「何を言っているの……」
――私、セラフィト皇帝に手紙。貴女の保護、依頼。
「それを、咎められたというの? でもどうして……保護の必要など――」
――レイジーン、あなたを利用、不穏分子処分。都合のいい駒だが疎ましい。ここは危険。
「待って。すぐにそれを信じろと言われても……」
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――貴女の迷いは分かる。
「証拠はあるの? おにいさまがおとうさまを呪い、罪なきもの達をここに送り込んだという証が」
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――ロベリアを頼れ。ここに近寄れないでいるが、まだ生きている。貴女を王に据えることを諦めていない。聖女の信徒を率いて最後まで戦うつもりだ。貴女は彼らの希望。生きなければならない。
聖女は首を振った。
「次の王はレイジーンおにいさまです。わたくしは、王になどなりたくない。そんなことを望んだ覚えはない!」
――民が死に絶える前にレイジーンの暴挙を止めて。処刑を恐れて、王太子に意見する者はいない。
綴られる言葉は到底信じられないものばかりだった。
声を震わせ、囁くように返した。
「わたくしに、おにいさまをお諫めせよと言うの?」
――貴女が正しいと思うことを言って。かつての貴女は何にも臆せず真っ直ぐだった。
何が正しく、何が間違っているのか。
その時は分からなかった。
かつて臆することなく言えた言葉も、その時は鋭い諸刃のようで、口にすれば自身をも傷つけた。
「勝手だわ……ロベリアもニコルも。そしておにいさまも。皆、結局はわたくしを都合のいい道具として扱っているだけじゃない。思い通りにできる都合のいい王が欲しいだけじゃない! それでおにいさまだけが悪いと言えるの? 元はと言えば、ロベリアがおにいさまの傍を離れたからいけないのではないの。きっとあの人さえ裏切らなければ、おにいさまが変わってしまうこともなかった! わたくしとの関係が変わることもなかった!」
反論する気力もないのか、ニコルは項垂れた。
ニコルが嘘をついているとは思えない。だが、受け止めるには時間が必要だった。
とにかく、ニコルには何の罪もないのだ。
「……あなただけでもお逃げなさい。わたくしとあなたが知る道を辿っていけばいい」
ニコルを逃した明朝、新たに就任したという神官長が大きな包みを手に挨拶に来た。
「ごきげんよう、聖アシュラム」
「ニコルは、どうなりましたか?」
震える聖女に、彼は何の躊躇いもなく応える。
「聖女のご意思に従って、反逆者ニコルは処刑いたしました。これはその証拠」
彼が包みを広げると、中にはニコルの首が納められていた。
「わたくしの……意思ですって? 何を言っているの……」
「こちらに、聖女からの証書がございます」
「そのようなものを書いた覚えはないわ!」
「では、ご覧になりますか?」
書状を突き付けられ、絶句した。
その筆跡は紛れもなく自分のもの。見慣れた字体、癖。それから、捺されているのは聖女の象徴、薔薇の印章。全て完璧に模倣されている。
焼き捨てられたと思っていた手紙から、アリカの字を模倣したのだろう。いくら書いた覚えがないと言い張ったところで、その時のアリカにはどうにもできなかった。
卑劣な仕組みだった。
どちらに転んでも、悪いのは聖女なのだから。
罪もない人を断罪させ、無実の者から魔法を奪い、魔法を奪い損ねたら首を刎ねて死に追いやる聖女――そうやって民衆の敵意と憎しみを煽り、聖女の逃げ道を絶った。怒りの矛先を聖女へと向けさせた。
逃げたところで、誰も聖女の言葉を信じない。どんな弁明をしようが、火に油を注ぐだけ。もう、誰を信じていいのか分からなかった。
真実、都合のいい駒だった。
あれほど愛したおにいさまは、今までも、これからも、アリカを愛することはないのだ。
薄々分かっていた。
邪魔だったのだ。いつ自分にとって代わるか分からない、民の心を容易に掴む力を持ち、有能な友を奪った破魔の聖女が。
もう二度と、優しかったおにいさまは戻ってこない――そう分かっていても、望みを捨てきることはできなかった。
おにいさまを心から嫌いになれなかった。
愚かだった。どうしようもなく、愚かだったのだ。
それからほどなくして、潜伏していたロベリアが、聖女の信徒を率いて王太子軍へ戦いを挑んだ。
結果は、惨敗だった。
聖女も、生き残った信徒達も処断された。
◇
――話し終える頃には窓を叩く雨は弱まり、雲の間隙から一筋の光が地上へと降り注いでいた。
「結局誰も幸せにならなかった。大切に思っていた人たちは皆、あたしのせいで、人生を狂わされた。破魔の聖女さえいなければって、何度も思って、言われ続けた。あたしに近づいて幸せになった者はいない。関わったものは口々に言ったわ。お前のせいだ、お前が悪いって。でも、全くその通りなの。あたしが普通の女の子だったら、何も起こらなかった。大好きなおにいさまに捨てられることもなかった。
もう、限界なの。大切な人達がいなくなるのを見ているのは。だからもう、誰かに、心を許したりしない」
黙って聞いていたハティは、アリカの肩を抱き寄せて額に唇を落とす。
「筆舌に尽くせぬほど、辛かろうな……」
思いがけないほど、優しくハティは言った。
「全てがお前のせいではない。お前は悪くない。……いつか、もう大丈夫だと――自分を許せる時が必ずやってくる。だからそう自分を責めるな」
唄うように柔らかな声でハティはアリカを宥めた。アリカはつい、ハティの身体にしがみ付いて額をくっつける。彼の温もりは心地よく、つい気が緩むようだった。
今まで誰もそんなことを言ってくれなかった。
利用する為の甘言だとしても、ハティの言葉に救われるような気がした。
「……そうだと、いいな」
「大丈夫だ、その時まで俺が傍にいよう」
「諦めろって、言ってるじゃない……。本当、どうしようもないくらい馬鹿ね……」
髪を弄ぶ節くれた指。ほのかにかおる汗の匂い。逞しい胸板、アリカを支える腕。広い背中。ゆっくり聞こえる鼓動。
アリカはただ黙って、その身を預けた。肌をくっつけていると安心する。
かつて、心の奥底にしまい込んだ気持ちがじわじわと漏れ出してくるようだった。必死に捨てようとしたけれど、捨てきれなかった思いが。
胸が、疼く。
アリカの髪を撫でながら、ハティは呟いた。
「どちらにせよ、まどろっこしい真似などせずに、直接レイジーンの息の根を止めるしか方法はないようだな」
「ドールへ向かうの?」
「準備が整い次第な。俺はこのまま攻め入ってもいいが、それだと納得せぬ者がいるのだ」
「ハティって、なんていうか、案外堅実な手を打つわよね」
「兵の数には限りがある。あらゆる可能性を考えて動くことに越したことはないだろう? ……お前も来るか?」
言われている意味が分からず、アリカは一瞬黙り込んだ。
「いいの? あたしがついて行っても、邪魔になるだけでしょ……?」
「お前には、見届ける義務があると思うが?」
おにいさまがセラフィトを呪っている以上、この件を解決しない限り本当の自由などやってこない。どれほど夢みたところで、おにいさまと向き合わない限り、永遠に。
これ以上逃げたところで、無意味だ。今ハティから自由になったところで、結局また次の誰かが、アリカを利用しようと企むだろう。
ハティはそれを承知で、アリカに提案しているのだ。
アリカは力を抜いて微笑んだ。
「……そうだったわね。それなら、おにいさまとの決着はあたしがつける」
「お前にできるのか?」
「見くびらないでよ。もうおにいさまに未練なんてないわ……。あたしがやらねばならないの。それが、けじめよ」
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