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第7夜 マギ・チェス
13
しおりを挟む「――ああ、いらしていたのですか。こうして対面するのは随分久しぶりですね、殿下」
「ブラーヴ候……軍議は終わったのか」
「はい。此度もつつがなく」
レグルスは向かいに腰かけた男を見て胃が痛くなった。
いつにも増してその眼差しは冷ややかだ。恐らく、グレイシアから商船での出来事を聞いているに違いない。刺すような視線を浴びても、レグルスは毅然とそれを受けた。
セラフィトの未来が掛かる中で私情を挟むほど、ブラーヴ候も、レグルスも、愚かではない。
グレイシアはロランと行動している。レグルスではないにせよ皇子と共にいることには変わりなく、二人の関係性がどうであれ、ブラーヴ候としてはむしろ好ましい状況のはずだ。皇子とはいえ既に祖国から遠のいた男の元で寂しく過ごすよりは、そのままロランに付いて戻ってくる方が親としては嬉しかろう。
何せよ客観的に見ても熱を上げて追いかけまわしているのはグレイシアの方で、レグルスにはもうその気がない。かと言ってこちらから離縁を切り出せば角が立つ。苦肉の策で、レグルスがどれほど妻を愛しているか語って聞かせると、彼女は話の途中でレグルスの頬を引っ叩いて部屋を飛び出した。……結局、離縁まで話は持っていけなかった。
酷いことをしている自覚はあるが、他にどうせよと言うのだろう。
心がないのに束縛するのは、互いに不幸だ。
だが、娘を持つ父親としての気持ちは理解できるし、ブラーヴ候の無言の非難を前にすると罪悪感が込み上げる。
キースは、「父は妃殿下を気に入っていると思いますよ。あんなに賢い女性、そうそうお目に掛かれないし。殿下の花嫁でなければ囲っていてもおかしくなかった」と言うが、それが冗談か本気かレグルスには判別がつかない。ただ、二人の密会場所として屋敷を提供している辺り、まるきり嘘でもないのだろうが、その心中はさぞや複雑だろう。
キースに怒っていないのか訊ねると、レグルスの顔をまじまじと眺めて唸った後、大事な妹を無碍にされて怒らない方がおかしいと苦笑された。
それでも夫婦の仲を引き裂こうとしないのだから、なかなか人間が出来ている。……いや、そのような暴挙に出ればレグルスに半殺しにされるとキースも分かっているのだろう、多分。
誰の目から見てもレグルスが政略結婚相手を大切にしているのは明らかだったし、彼女を取り上げようものなら精神を病んでしまいそうなほどには狂っている。――要するに、かつて女にだらしなかった皇子が嘘のように一途で本気、全く茶化す隙もないものだから、怒りたくとも怒れない。
女からの誘いは絶対に断らなかったのに、今では何をしようが全く靡かなくなったのだから、昔のレグルスを知る者からすればさぞや仰天ものだろう。
そう。グレイシアはマリアベルを前にすると甘くでろでろに溶けてしまうレグルスの実態を知らないのだ。未だに皇子然とした姿が唯一のレグルスの顔だと思っている。こればかりは言葉で説明しても理解されない。
頬杖をつき、ブラーヴ候は冷笑を浮かべた。
「本日は妃殿下はご一緒ではないのですか?」
「先に帰した」
「左様ですか。珍しいですね、ここ暫くは片時も放さずにいらっしゃったでしょう。……見ているこちらが恥ずかしくなるほど熱烈でしたのに」
マリアベルは、母のことを確認するため、一人でパイロープと接触しようとしている。
レグルスはそれを許容できない。
今日とて先に帰したものの、ルトに彼女を追わせている。何かあればすぐに知らせるよう伝えてあるし、城に行けば皇子の警護をしているイヴァンもいる。
とにかく、レグルスは城内でも始終彼女に付きまとい、冗談めかして――という体裁の下、至極真剣に――口説きまくっては素気無く断られるというのを繰り返していた。その場面を度々ルークに目撃されては、害虫を見るような眼差しを向けられた挙句に舌打ちされたが、知ったことではない。
軽薄に愛を囁く皇子として名を馳せた身、口説く行為自体に違和感はなかろう。二人の関係を知る者からすれば、レグルスが片時も放さぬように見えるのも仕方のないことだが、行動を共にしていると外部に思われるのはあまりよろしくない。
「そう、見えていたか……以後気を付けよう」
「そうしていただけると助かります。あからさまですと、ルーク陣営に不審がられましょう。表向き妃殿下がルークの支えとなっている以上、殿下とは敵対関係にあるべきですから」
「敵対関係……」
何とも嫌な言葉だ。声に出すだけで気分が悪くなる。
ブラーヴ候は、顔を顰めるレグルスをじっと見つめた後、どこか満足げに口角を上げた。
「ところで、軍議の内容をお伝えしても?」
「ああ、聞こう」
「――次期遠征に向け、領民より更に厳しい徴発をせねばなりません。従わねば厳しい罰則が科されます。それでも拒否するようなら、応じるまで、連帯責任で身内を一人ずつ打ち首に処せ、と。それが陛下のご意向です」
「……そうか」
「恐らく、労働階級にはもう差し出すものがございません。馬も家畜も食糧も搾り取られては日々の暮らしもままならない。重い徴収に耐え兼ね、財を持って逃げ出すものが後を絶ちません。民の不満は高まる一方でございます。このままでは、いずれ人民は消え、地方は潰えるでしょう」
「ふむ。暴動が起きるのも時間の問題だな」
レグルスは溜息をついた。
案の定、としか言いようがなかった。
初回の徴発は民も素直に応じた。皇帝が凱旋するたびに国が豊かになると信じて疑っていないからだ。――先帝の前例があるから。
しかし、一度の徴発では不十分だとルークは考えた。だからこその、二度目の徴発。しかも、今度はもっと差し出せと民に命じる。
富める者は応じられるだろうが、中流階級以下には耐えられない。食うものも満足に得られなくなり、結果、治安が悪化する。
それを見越してロランには助言してある。地方を回り、困窮に喘ぐ者には物資を与え、暴徒から民を守れと。
レグルスに対して意固地になっていたから、素直に言うことを聞いたかどうかは分からないが、そこまで餓鬼でもないだろう。
「陛下は此度の軍議で、暴動は更に厳しく取り締まるようにと御命じになられました。逆徒が出た集落は見せしめに焼いても構わぬ、と」
「相変わらず過激だな」
「あまり驚かれないのですね、殿下」
「まあ、予想していた。我が君も、私も」
地獄絵図が目に浮かぶようだった。救済措置は存在しない。暴徒は次々現れるだろうし、弱者は搾取され続ける。民意は意に介さず覇道を征く……レグルスには到底真似できない。
「奴が欲しいのは名君や賢帝の称号などではなかろう。だから平然と民を虐げる」
「左様ですね。流石の分析力だ」
「この世は単純明快、力ある者こそが絶対正義、能力のない者は潰えるし、そういう輩は替えが利く消耗品、気にするだけ無駄だ――我が君曰く、奴はそう言って憚らんらしい。極論、民がどうなろうがあいつは顧みないし、最悪国が傾こうと構わぬのだろう……よくもまあ、そんな皇子の支持を表明できたものだな、ブラーヴ候」
「他に選択肢がございませんでしたし、あの時点ではロラン殿下の生死も不明だったので。ですが、結果的に良かったのではございませんか。分かりやすく悪逆非道で、打倒するのに負い目もない。中途半端でないだけ、ルーク様は御立派ですよ」
「御立派、ね」
レグルスは苦笑する。
「そろそろ、民の目も覚めるでしょう。ルーク様は英雄ではなくただの獣だと気付いたところにファーレン軍を率いたロラン殿下が現われ民を救えば、人心は容易く翻る……――まあ、よくそんな筋書きを思いつくものですね、妃殿下も。一体どこまで見据えているのやら。つくづく、敵に回したくない御方だ」
恐らく、ルーク陣営はこれを機に瓦解する。
ルークを御すパイロープを失った今となっては、誰もルークの暴走を止められぬ。
誰が何を告げようと――それが同調であれ批判であれ――もう信用しないだろう、マリアベルはそう言った。
片割れに疑念を抱いて切った時点で、彼は確固たる拠所を喪ったのだ。ルークにとって、全ては虚妄となった。信者も側近もそのうち離れていく――いや、切り捨てられるに違いない。そのたびに新たな駒――隷下を迎えるだろうが、結局それも使い捨てることになる。そのうち替えもきかなくなり、彼の周りには何もなくなるのだ。機械的に従う召喚士の部隊はいるだろうが、人を替えの効く道具だと思うあの男のこと、ぞんざいに扱っているのは容易に想像できるし、そのうち彼らも潰える。
最後まで残っているのはマリアベルだけだろう。
安定してルークの玉座を支えた聖女は使える、そういう意識があの男の中に刷り込まれている以上、マリアベルの言には耳を傾けざるを得ない。
聖女はルークの意に沿わないことは言わぬ。
彼の発言をそのまま繰り返し、さも彼女こそが真の理解者であるかのように振る舞う……それだけでルークの心を根こそぎ絡めとっていくに違いない。
彼女は静かで揺るがぬ。
雑音がないので、いつの間にか内側に踏み込まれるのを許してしまう。気付いた時にはもう遅い。鋭い刃を喉元に突きつけられているのだから。
――多分、あと一押しでルークは転落する。
「ちなみに、ロラン殿下は南部周辺を回っているようです。接触した者が数名、殿下に追従しています」
レグルスはほっと胸を撫で下ろした。
「そうか。あいつの動向だけは、引き続きしっかり把握して欲しい」
「無論です」
◇
城の地下牢獄へ続く階段は薄暗く、冷えた空気が漂っていた。入口には見張りの衛兵が二人、気だるそうに欠伸をしていたが、マリアベルの姿を見るなり姿勢を正した。
気が緩むのも無理からぬことだろう。
地下牢には幾つもの独房が並んでいたが、そのほとんどは空だった。ルークは罪人を捕らえても、拘留することがまずない。――即、裁きを下すからだ。
だからこの状況は稀だ。
――たった一室に、あかりが灯っている。
マリアベルは鉄格子の前に立ち、薄闇の中でじっとしている女を見た。マリアベルに気付くと、女は忍び笑いを漏らした。
「よく来たね、ブランシェ。このまま誰も来なければ舌でも噛み切ってやろうと思うくらいには退屈していたのだけれど、お前とまた会えて嬉しいよ」
黙したままのマリアベルに、薄暗い独房の中でパイロープは欠伸交じりに訊ねた。
「さて、一応聞いておこうか。――ルークに見限られた憐れな魔女に、今更何の用だい? 供も連れずに一人で地下牢をうろつくなんて、ルークが知ったら、あいつ、ひっくり返るに違いないよ」
ようやく掴んだ一人の時間だ。レグルスは軍議が終わるのをブラーヴ候の屋敷で待ち、話を詰めると言っていた。恐らく、当分城には戻らない。今ならば、誰にも邪魔立てされずにこの女を問い詰められる。
マリアベルは静かにパイロープを見下ろした。
「……アレクシア様の行方について、知っていることを話しなさい」
パイロープは目を眇めた。
「ほう、随分と強気なお願い――というよりも、命令に近いか。因みに、拒否権はある?」
「愚問ですね。格上には逆らわぬ――それが魔女の掟でしょう?」
「あーはいはい、分かったよ。お前が望むなら昔話でも何でもしよう、可愛いブランシェ。外の見張りに聞かれると面倒だ、もう少しこっちへおいで」
警戒したまま近づくと、パイロープはくすくすと笑った。
「それじゃあまるで立場が逆みたい。囚われているのはあたくしの方なのに、お前の方が余程怯えている。大丈夫、何も取って食ったりしないよ。ふふっ、本当に可愛いね。あれほど冷厳だった魔女が、あたくしに見向きもしなかったお前が、王子さまの為にあたくしの言葉を求めてきた……そう、悪くない気分だ」
――笑みを張りつけたまま、パイロープは語りだした。
セラフィトから誘拐してきたレグルスの心身を痛めつける為に、代わるがわる魔女にいたぶらせてはいたが、一向に屈する様子はなかった。皇子はとても頑なで、両親の愛を信じて疑っていなかったのだ。どれほど傷つけてもその目はひたすら真っ直ぐで、純粋で、誇り高かった。
それがまた気にくわない。怯えて泣いて逃げる癖に、肝心なところは折れないのが面白くない。
レグルスを追いつめる何かが足りていない、いびり方を変える必要がある――パイロープは漠然と考えていた。
転機は、レグルスを魔女の塔に幽閉してから二年が経とうとしていたある日に訪れた。
ウィストからやってきた赤い竜――フェリックスと出会ったのだ。
――竜の眼、それをレグルスに与えれば。破魔は不完全になる。
――おとうさまの宝を歪めて返せば、一体どんな反応をするのだろう。
考えるだけで背筋がぞくぞくした。ああ、早く見てみたい。――早く。
そこでパイロープはフェリックスに「竜の眼をちょうだい」と言った。
フェリックスは笑って答えた。
「対価として、竜の眼に値する何かを――破魔の瞳をいただけるのなら、この両目は喜んで差し上げますよ」
破魔の血族の知り合いなどおらぬが、パイロープには当てがあった。恐らく、ほんの少しだけ仕込んでやれば容易く手に入る、そういう存在が一人、脳裏を過ぎった。
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それでもグラディオ家を軽んじる貴族がいると言うのだから、不可思議だ。――あの一族には触れるな、そういう掟でもあるのかもしれないがパイロープは知るべくもない。
とにかく、狙いはその女に絞られた。
各地へレグルスの噂を流布すれば、その女騎士は容易く罠に飛び込んできた。
アルストリアの国境付近の集落でパイロープはアレクシアと接触した。
相当腕が立つという話だったから、どれほど恐ろしい見た目なのかと思えば、それは気高く凛々しい、騎士然とした美しい女だった。無駄な肉は削げ落ち、女性らしい丸みはない。剣を振う腕は筋肉質で、隠された体幹も相当鍛え上げられていようと容易に想像できた。長い髪を一つに括り、少し吊り上がった紅蓮の双眸は強い決意と覚悟、焦燥と怒りを持って、全てを呑む炎のようにパイロープを見据えていた。
おびき出された自覚があるようだった。それでも縋らずにいられぬ、そんな焦りと恐怖が見て取れ、パイロープは薄く笑んだ。
本来、アレクシアは強者なのだろう。心身共に強靭で、傷一つつけられぬほどに。だがどうだ。その心は今や、少し揺するだけで、壊れるに違いない。
正攻法ではアレクシアには勝てない。ましてや破魔の報復がある以上、パイロープは圧倒的に不利だ。
――元より、力づくで奪うつもりもない。
可愛い息子にどうしても会いたくて、取り戻したくて、職務を放棄してまで国を飛び出すほどだ。たった一言で彼女はパイロープの言いなりになる。
レグルスを映した魔石を渡せば、アレクシアの顔色は途端に変わった。もうこの女は、パイロープに服従するしかなくなったのだ。
パイロープは笑いだしたいのを堪えて囁いた。
――レグルス皇子に会わせてあげる。その代わり、お願いを聞いて欲しい。
――両目を抉りだしてちょうだい。命より大切な皇子を抱きしめられるなら、その綺麗な紅蓮の眼はいらないだろう?
アレクシアは迷いながらもパイロープの条件を飲んだ。おかしいと思っただろう、眼玉を交換条件にされるなど。しかし、ようやく掴んだ情報だ、これを逃せばどうなるか――そんな彼女の気持ちが手に取るように分かった。
パイロープは終始主導権を握っていた。
自らの手で両目を刳り出す女は震えていた。激痛に耐えるように奥歯を噛みしめていたものの、時折呻き声が漏れる。
……馬鹿な女。
両目を失い、痛みに喘いで膝をつくアレクシアを見て、この上なく愉悦に浸った。人の心は脆い。言葉一つで翻弄され、あり得ぬ虚言に怯える。
もうアレクシアは皇子を見ること叶わなくなった。それどころか、愛する皇帝の姿すら。
このまま放置してもよかったが、どこぞの誰が盲いた女を介抱するとも限らない。生かして逃がせば、いずれ帝国に流れ着き、レグルスの居場所を突き止められるかもしれない。かといって、この女を殺すとなると血が流れることは間違いなく、報復で魔法と魔力を失うことになる。
――ならば。
アレクシアを傷つけないように拘束させると、アルストリアの研究所にある冷凍室に運ばせた。そのまま凍結させ、今も深い眠りについている――。
破魔の瞳を手に入れると、レグルスと初めて対面してみようという気になった。それまでは下っ端達に適当にいびっておけと命じていたが、そろそろ変化が必要だったし。
己こそがアルストリアを統べる魔女だと気取られぬよう、表立っていたぶることはせず、あくまでも中立、出来る限り優しく接した。
するとあの馬鹿な皇子は、母親の眼差しを感じ取ったのか、はたまた別の理由からか、パイロープを姉のように、母のように慕った。
そこからレグルスは沼に嵌るように、パイロープを求めた。己を苛む元凶とも知らず。
ただ、竜の眼だけは頑なに受け取ろうとしなかった。おとうさまに愛されたくはないのか、力が欲しくはないのかと、どれほど惑わせても、首を縦に振らない。
――ああ、腹立たしい。どういう訳か思い通りにはならない。心のどこかで、レグルスはパイロープを拒絶している。自分は自分、流されたくないし、屈したくない……そういう確固たる意志を持っている。餓鬼の癖に。
そのうち、フェリックスの実験で美しい白の魔女が現われた。
パイロープの思い描いていたものと多少異なるものの、レグルスは結果的に竜の眼――その時丁度アルストリアの研究所を訪れていた幼竜の――を受け入れた……。
「……つまり、アレクシア様は生きたまま凍結され、アルストリアに拘束されていると?」
「そうだよ。両目は欠損しているけれど、他は無事だろうね」
「……そう。生きている……」
(良かった……レグルス殿のおかあさまは生きている!)
その事実を反芻すると、安堵のあまり気が抜けた。
それが分かればもうパイロープに用はない。
背を向けたその刹那。
鉄格子越しでパイロープが甲高く笑った。
「油断したね、ブランシェ」
「……!」
振り向けば、顔の穴という穴から血を垂れ流したパイロープが視界に飛び込む。
両足に見えざる何かが絡みついたようで、身動きが取れない。マリアベルの指先は震えていた。
――いつの間にか魔女の領域に浸かりかけている。
「格上には逆らえない? その掟が何だというの。あたくしの領域に引きずりこんでしまえば関係ない。そもそも、このセラフィトはあたくしに縁の深い場所。お前の領域とは成り得ない……」
パイロープの魔性の本能はマリアベルを恐れているが、彼女の理性はそれを力づくで捻じ曲げたのだ。
相当痛いはずだ。辛いはずだ。――それを微塵も感じない。
どれほど血を流しても屈しないその執念が恐ろしい。
(なんという精神力……)
「お前の能力、有り難く奪わせてもらうよ。ブランシェ」
「――……っ」
「抵抗しても無駄だよ。魔女の魔法は必中。逃れる術などありはしない――そうか、お前の本質は召喚ではなく、幻惑か。なるほど、数多の人間を誑かしてきたお前にはお似合いだね。……なら、それをもらおうかな」
パイロープは血の滴る唇を吊り上げた。
「知っているかい? 魔女の魔法――本質を奪うとね、意識喪失するんだ。精神の半分を抜き取るようなものだから、とフェリックスは言っていたけれど、あたくしは詳しく知らない。まあ、要するに、何か欠けて不完全になるから自意識が保てないのだろうね」
全身から力が抜ける。目の前が霞む。
パイロープの声が次第に遠のいていく。
(ああ、駄目……。戻ると、約束したのだから……)
「残念だよ、ブランシェ。お前の美しい瞳から輝きが失せてしまう。折角ルークの側でうまくやってきたのにね。お前があたくしを怒らせなければ、お前から強奪せずに済んだのに。レグルスのことは心配しないでおくれ。お前の代わりに、あたくしがその愛を受け取ってあげる。ついでに、ルークのことも揶揄ってやらないと。ふふ、感謝しなくちゃねえ。お前のおかげで、楽しみが増えたよ――って、もう聞こえてないか! あははははは!」
そのまま倒れるマリアベルを見下ろしてパイロープは笑った。
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