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第6夜 セラフィトの皇太子
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その夜、ロランはまんじりともせず天井を見上げていた。
あてがわれた城の客間は広い。だが孤児院とは違って、冷えた秋の空気を感じることもない。窓の外を眺めれば、夜空の向こうには冴えた月が浮かんでいた。
かつてないほど大きな決断を迫られている――その重圧で息が詰まりそうになる。全てを放り出して逃げ出してしまいたい衝動に駆られるが、一体どこに逃げ場があるのだろう。
昨年の今頃は、将来の不安など感じることもなく、安穏と過ごしていた。レグルスにくっついてウィストを訪れ、楽しい日々を送っていた。それはこれからもずっと続いていくのだと信じて疑っていなかったのだ。
隠れていたところで事態は好転しない、それは理解している。ならば取るべき道は一つだ。それでも迷ってしまうのは、立ち向かうにはあまりにも恐ろしい相手だと知っているからだ。
ロランは大きく溜息をついた。
(駄目だ、外の空気を吸ってこよう)
細心の注意を払い、そっと部屋の扉を開けると、間の悪いことに灯りを持ったソフィと鉢合わせた。
こっ酷く叱られる――そう思って身構えたが、予想とは裏腹に彼女はロランをぼんやりと見つめただけだった。視界には入っているはずだが存在をまるで認知していないようだ。灯りに照らされるその顔はひどく憂鬱そうで、迷いを抱えるロラン以上に深刻な状態のように思える。
声をかけることを躊躇っていると、ソフィはようやくロランに気が付いて目を瞬かせた。
「まあ、殿下。どうされました? ……眠れませんか?」
「うん。目を瞑っても色々考えてしまうから」
「そうですか……」
それからソフィは開いた口をそのまま閉ざした。ルークのことや帝国の情勢を隠していたことが後ろめたいのだろうか、どこかよそよそしい態度で視線を逸らす。
ロランはそんな彼女の顔を覗き込んだ。
「そうだ、お茶でも飲んでいかない? 先生が嫌でなければだけど。……駄目?」
ソフィは迷うように返した。
「お招きにあずかりたいところですが、あまり殿下を贔屓にすると公に叱られてしまいます。今日のことにしても、殿下に肩入れしすぎだと――」
本来であれば中立の立場を貫かねばならなかったのだろう。彼女の役目は帝国の皇子を匿うだけに非ず、その監視も兼ねていたはずである。ウィストの未来を預けるに足る者か見定めるために、公平な視点が求められていたはずなのだから。
ロランは小さくうなだれた。
(そうだ、先生にとっての一番は僕ではないのだから)
すっかり気落ちするロランを前に、ソフィは罪悪感に駆られたようだ。宥めるように付け加えた。
「ですが、内緒で一杯お付き合いするくらいならば咎められることもないでしょう。丁度一息つきたいと考えていたところですし。そうだ――ハーブティーなどはいかがですか?」
月明りに照らされた卓上に茶器を用意すると、ソフィは慣れた手付きで茶をいれた。
差し出された茶からは、甘い花の香りに似た匂いが漂う。その香りが鼻腔を満たすと浮足立っていた気分が僅かに落ち着いたようだった。
「今日は孤児院に戻らなくていいの? アルは……大丈夫?」
「お気遣いありがとうございます。心配ありません、カイムに任せてきました」
ロランは何とも言えない表情で黙り込んだ。
あのカイムが子ども達の面倒を見れるとも思えない。アルだって、あの状態ではカイムの支援もできないだろうし。一気に心配になる。
「僕、孤児院に戻った方がよかったんじゃないかな」
「……それはいずれ。ご決断を下された後の方がよろしいかと。今は、こちらに留まるべきかと存じます」
「でも、何だかこの部屋落ち着かないんだよね。無駄に広いし」
寒々しい室内を示すと、ソフィは怪訝そうに首を傾げた。
「以前はこちらのお部屋で過ごされていたと、公から伺っておりますよ」
ロランはふわりと笑んだ。
「そうだった。おかしいよね、去年まではお部屋が狭いって感じていたのに。今じゃ広すぎると思うんだもの」
「お気持ちはわかります。私もたまに屋敷に帰ると同じようなことを感じます。我が家ながら、居場所がない」
孤児達の世話をしているものの、ソフィは貴族なのだ。自ら好んで子どもの面倒を見ているために、なかなか屋敷に帰ろうとしない。彼女の家宰であるヘンリーは、誰が家主か分からなくなると度々こぼしている。
ロランはじっとソフィを見つめて囁いた。
「先生、よかったら一緒に寝ない? 僕が眠れるまで、ほんの少しでいいから」
「まあ。御戯れがすぎますよ」
ソフィはようやく柔らかな笑みを浮かべた。
ロランは内心胸を撫で下ろしつつ返した。
「冗談じゃないよ。本当に落ち着かないんだ。思うんだけど、孤児院に馴染みすぎたのかも。こうしている間も、あそこに帰りたい衝動が湧いてくるんだ。不思議だよね。子ども達から泥団子を投げつけられた時は、あんなに嫌だと思っていたのに」
「……殿下は随分と孤児院に溶け込まれました」
「見分け、つかないでしょ?」
悪戯っぽく首を傾げるとソフィは苦笑を浮かべた。
「ところで、先生はこんな夜中に何をしていたの? 孤児院とは違って、見回りする必要ないでしょう?」
「今日運ばれてきた病人の見回りですよ」
静かで澄んだ口調だったが、ロランは心臓が鷲掴みにされたような心地がした。
「病人って、ファーレンの船から降りてきた? お城に運んだの?」
「はい。収容できる場所や、治療できる人数に限りがございますので、分散して運んだのです。私も多少は治癒術に心得がございますから、医務官が休息する間に見回りを」
感情を抑えるように返したソフィの瞳が、深く陰る。そこに彼女の心の闇を見つけた気がした。これ以上踏み込んではならないと直感したが、次の瞬間には質問していた。
「あの人達は、どこから来たの?」
「……マナから聞いた話では、あの子達はずっと、ジュタにある竜の教団の実験場に囚われていたとのことです。救出されるまで時間が歪んだその場所で、延々と苗床のような扱いを――強制的に子どもを産まされ、その子ども達はすべからく兵として育てるために奪われたと聞いています。しかも、一部の者は己の複製体を作り出されたとか」
ロランは全身から血の気が引いた。
ジュタ――ルークの隣、ファーレンの領地だ。去年から孤立し、橋を架けて欲しいと嘆願されたがロランにはどうすることもできなかった。ルークが竜の教団と繋がりがあることは既に明るみになっている。であれば、そのジュタの実験場もルークが絡んでいたとみるのが自然だ。
あの時動いていれば、ウィストの召喚士達は無事でいたのだろうか。
召喚士達が無惨な姿で戻ってきたのは、ロランのせいだと言えないか。
ミレーヌから相談された時にすぐ行動していれば。すぐ父に謁見してジュタのことを伝えていれば。何かが変わったのではないのか。
(全部、僕のせいなんだ……)
鳩尾が途端に冷えていく。
声を失うロランに構う余裕もないのか、ソフィは声を震わせながら続けた。
「……あの中には、マナの教え子もおりました。私の知り合いも、アルと一緒に孤児院で過ごした子も。行方不明だったあの子達が生きて帰ってきてくれたことを喜ぶべきなのでしょうけれど、救出から随分経った今でも精神は閉ざされたまま。あの子達の受けた傷はきっと一生消えない――そう思うと、やるせない。この島は、あの男にとってさしずめ牧場なのでしょう。ルークが帝国に君臨する限り同じようなことがこれからも起こる。そのたびにあの子達は悪夢のような日々を思い出して苦しむのでしょう。そして私たちも……」
ロランは唇を噛みしめて俯いた。
助けて欲しいと悲鳴をあげてくれた方がましだった。
ソフィに責められているわけでもないし、皇帝になれと強要されているわけでもない。それでも、彼女の言葉が刺さる。
ただ、このまま隠れていれば、後味の悪い結果になるのは明らかだ。苦いものが込み上げてきて、罪悪感から胸が押しつぶされそうになる。
青ざめるロランにようやく気付いたのか、ソフィははっと口を噤んだ。
「詮無きことをお話ししてしまいました。どうか、今の発言はお忘れください……」
忘れられるはずがないのだ。ジュタから帰還した召喚士達とは、既に一本の糸で繋がれているようなものだった。
港での異様な空気、泣き崩れたソフィ、青ざめるアルの姿が脳裏を過ぎる。それは、ロランの中に消え得ぬ刻印を残した証左に他ならない。ウィストの民の苦しみがそのまま心に突き刺さる。
ロランは俯いたまま呟いた。
「先生。僕は、どうすればいいと思う?」
ソフィはゆっくりと頭を振った。
「……それは、お答えできません」
「どうして?」
「答えは全て殿下の中に」
ソフィはそれ以上語らず、二人の間に沈黙が流れた。
少なからず期待していた。
ソフィならばロランを引き留めてくれるのではないかと。
ルークと戦うのはやめた方がいい、死にに行くようなものだと言ってはくれないかと。
彼女は先の戦いでルークの恐ろしさを知っている。
ルークはウィストの召喚士から強力な手駒を量産し、帝国全土を掌握しつつある。何から何までロランは兄の足元にも及ばない。帰ったところで味方はいない。今セラフィトに戻ったところで勝てる見込みは希薄である。
それでも積極的に異を唱えないのは、ルークを打倒するのはロランであるべきだと考えているからではないか。
彼女は優しいので、ロランを追いつめるようなことは言うまい。お願いだから戦ってほしい、その言葉を必死に飲み込んでいるに違いないのだ。何気ない一言で決断が揺らぐことをソフィは知っている。
重苦しい沈黙の中で、ソフィはそっと息を吐いた。
「――私がお言葉を掛けられるような立場ではないのは承知しておりますが、ただ、殿下には一時の感情に任せて決断していただきたくはないのです。よくお考えになっていただきたい」
「……僕に、できると思う?」
ロランの瞳は不安に揺れた。
褒めそやされて育ってきたし、自分でも称賛に足る力があると信じて疑ってこなかった、おめでたいことに。一年前ならば、恐れ知らずのまま己がルークを打倒してみせると啖呵を切っていたことだろう。
だが今は違う。周囲の者が見ていたのはアデレイドの名と皇子としての身の上で、ロラン自身ではあるまい。賢いと持てはやされたのも、同年代の子と比べればの話で、大人に交わるにはやはりまだ経験も知識も足りない――そう、身の程を知ったのだ。
皆の期待を背負ってルークに立ち向かえる――そういう自信が足りない。
ソフィは震えるロランの手に、柔らかなその手を重ねた。
「ええ、もちろん」
ソフィは真っ直ぐロランを射抜いた。そこに迷いはない。
彼女は力なき皇子を信じてくれているのだ。
――その夜、ロランは覚悟を決めた。
◇
日が昇るのと同時に、ロランは意を決して魔術師団長室の扉を叩いた。
顔を強張らせて応答を待っていたものの、中から出てきたのは痩身の中年男性だった。猫背で、顔には無精ひげが生えている。身だしなみはおよそ整っているとは言えず、髪もぼさぼさだった。彼は驚き戸惑うロランを見るなり、途端に姿勢を正した。
「何か御用ですか?」
「マナ女史はご不在?」
「ああ、師の御客人ですか。申し訳ないが、師はこちらにはいない」
「ではどちらに?」
所在を訊ねると、彼は頭を掻いた。
「恐らく、弟子――病人のところに向かったのではないかと。相当心配されておられたから」
ロランは彼に礼をいい、城内の医務室に足を運んだ。ベッドに三人の少女が横たわっていたが、皆心ここに非ずといった表情で宙を見つめている。
だがマナの姿はどこにもない。
医務室内はこれ以上ないほど緊迫した空気に満ちていた。ロランが入室しても誰も構おうとせず、存在が邪魔だという無言の圧をひしひしと感じた。
それでも、どうにかして忙しなく動き回る医務官を捕まえると、「マナ女史は確かにここに顔を出したがすぐに出ていきました」と素っ気なくあしらわれる。めげそうになりながらもロランは問うた。
「どこに行ったか知らない?」
「さあ。分かりません。用はそれだけですか。なら早く出て行って」
その後もあちこちをたらい回しにされ、ようやくマナの元に辿りついた時には正午を過ぎていた。
マナ女史は、離宮の庭にいた。
そこはレグルスの側室達が住まう場所であり、マナが訪れるような用向きがロランには想像できない。むしろ、マナの主――マリアベルとは対立する関係にあるはずで、マナも彼女達によい感情は抱いておらぬだろう。
怪訝に思いながらも近づくと、ロランに気付いた小柄な女史は眩しそうに目を細めた。
「遅かったですね、殿下。もしや、迷われましたか」
「それは、マナ女史が一か所にとどまってくれないから」
「あら、これは失礼。お子様と違って、あたくしは忙しい身ですからね。夜明けと同時に訪れてくだされば、まだ部屋に居りましたものを」
「僕だって暇じゃないよ。日課もできていないもの」
ソフィはロランに毎日魔術の課題を出す。ロランはそれを日課としていた。更に、カイムからは素振りを朝夕百回ずつ行うようにと言われている。マナを探し回ったおかげで何も達成できていなかった。
不満げなロランに、マナは改めて座るよう促した。
卓上には紅茶が用意されている。カップは全部で八つ。二人で飲むには明らかに多すぎる。
ロランはおどけるように肩を竦めてみせた。
「これからお茶会でもするつもりなの? 離宮で?」
「仰る通りです。――これから客人が参ります。殿下にはあたくしの代わりに、その方々の接待をしていただきたい」
ロランは訳が分からず首を傾げた。
「僕が?」
「年上の女性がお好みだと、レグルス殿がおっしゃっていました。たらし込むのが大層お上手だとも」
ロランは顔をひきつらせた。
マナが離宮で何をさせようとしているのか察せられたのである。
「まさか、兄様の側室達をもてなせなんて言わないよね?」
「まあ、流石ご聡明な殿下だこと。何を言わずともご理解いただけて何よりですわ」
高らかに笑うマナにロランは頭を抱えた。
「何、どういうこと? 勝ち筋を教えてくれるのではなかったの?」
マナは笑みを深めた。
「ええ、そういう御約束ですものね。故にこうして、茶会の席を設けて差し上げたのですわ。酒盛りはお子様には早すぎますし、菓子をつまみつつ茶を嗜むのがお小さい殿下にはお似合いでございましょう。これはいわば、あなたに与えるあたくし――いえ、レグルス殿と姫様からの課題」
「課題……? 側室とお茶会することが?」
ロランは首を傾げた。
「あら、こういうことになると察しが悪いですわね。お子様の皇子ではお分かりにならないかしら」
そう言うと、マナは手にしていた本を差し出した。表題はかすれていて読めないが、中身は新しい。どうやら帝国の歴史書のようだった。近年の軍拡についても記述されており、戦功を認められて新興貴族として名を連ねることになった家のことにまで言及されているから驚きだ。ロランは記載事項のほとんどに聞き覚えがあった。
数か所の項目に印がつけられており、その共通点に思い当たることがある。
(兄様の側室の家だ)
歴史書の記述では、レグルスの側室のほとんどが帝国で生きていく上で欠かせない――セラフィトの生命線を担っていると言えた。今まで意識したこともなかったが、レグルスが国の命綱を握っているのに等しいのだ。彼が国を出なければ、皇室にとっては非常に有益な縁故である。
(そうか、だからこそセラフィトは――ルーク兄様はレグルス兄様の側室達を国に戻したかった。今のままでは、ウィストに手出し出来ないから帰還を迫ったんだ)
近年属国になったエクシリア王国などは、今では帝国の食糧生産の八割を担っている。
帝国でも農業は行われているが、それも限定的である。
かといって、土壌改善をしてまで農耕地を広げるような計画もない。百五十年ほど前は積極的に開墾が行われていたものの、それによる環境の変化が原因で希少な動植物か絶え、最終的には魔石の発掘量が減ったという記述があった。農業は定められた土地でしか行ってはならないことになっている。新たに開墾するには国の許可が必要とされるが、帝国内で農場を広げたという話はあまり聞いたことがない。
故に、エクシリアが帝国に対して食糧の供給を止めれば相当な痛手となることは間違いない。そうさせないためにも、レグルスがかの国から娘のコレットをもらい受けたのだろうから。
更に、問題なのはエクシリアだけではない。
(……ブラーヴ公爵令嬢、グレイシア)
皇族に連なるブラーヴは三公とされ、古から皇族を支えてきた公爵家の一つである。
かの家は軍事への影響力が非常に強い。何しろ、帝国軍元帥は代々ブラーヴ候が任命されている。そう考えると、武勇に秀でたレグルスに愛娘を嫁がせたのも自然なことだ。
そうでなくとも、皇族に連なる三公にはとてつもない影響力がある。ロランの後ろ盾であったアデレイド家がそうであったように。ただ、ブラーヴとアデレイドは近年折り合いが悪く、顔を合わせてもろくに挨拶もしない。皇后の座を巡って何かと争いが絶えないからだろう。そのブラーヴ候がルーク皇太子を承認したのは、他の選択肢が潰えていたからだ。グレイシアのロランへの態度も、思えば友好的だったとは言い難い。レグルスの前では慈愛に満ちた姉のような素振りをしていたが、視界からレグルスが消えると態度が一変した覚えがある。
兎に角、公爵令嬢であるグレイシアは側室の中でも非常に有用な取引材料となることは間違いない。何しろ、ブラーヴ候とその子息のグレイシアへの溺愛ぶりは有名であった。相手がレグルスだからと結婚を許したのに、まさか島国に連れて行かれるとは思いもしなかっただろう。
考えるほど、側室達がウィストにいるこの状況が如何に有利であるか気付かされる。
(義姉様は将来的にセラフィトと争いになることを見越していた……?)
ロランはマナの反応を探るように呟いた。
「……側室達を味方に引き込めば、その一族と交渉できるかもしれない。――セラフィトの生命線を担う彼らが僕に味方してくれれば、ルークから離反する者も出てくるかもしれない……お茶会で側室達とそういう駆け引きをするということ?」
「ご明察。なかなか頭の回転が速くて結構なことですわ。彼らを味方に引き込むのが勝ち筋の第一だというのが、姫様達のご意見です」
マナは満足げに微笑んだ。
「ただ、一つ問題がありますの」
「問題って?」
訊ねたところで、マナは人差し指を唇の前で立てた。何事かと首を傾げていると、背後から足音が近づいてくる。
振り返ると、レグルスの側室であるオリヴィアとコレットが連れ立ってやってくるところだった。
――後は殿下の良きように。あたくしはこれにて失礼いたします。
マナの気配が消え、ロランとオリヴィアの視線がぶつかると、彼女は驚愕に目を瞠った。
「……御存命でいらっしゃったのですね、ロラン殿下」
「たまには皆で楽しくお茶会しましょう、なーんて、おかしな申し出だと思いましたよ。何か裏があるに違いないとは思いましたが、まさかロラン殿下がおでましだなんて」
二人の側室は動揺を隠せないのか思ったことをそのまま口走っているようだった。
ロランは困惑したまま返す。
「僕、死んだと思われていたの?」
「……正直に申し上げると。ルーク殿下が皇太子になられたと聞いた時、亡くなられたのかと」
「とにかく、ご無事で何よりでした、殿下。今日呼ばれたのは、何も告げずにウィストを飛び出していったきり、まったく音沙汰のないレグルス殿下を偲ぼうとお誘いをいただいたからなのですよ。私はレグルス殿下がご不在でも全然寂しいとは思いませんけど、側室の大半はご不満のご様子。まあ、ぎすぎすしていること。半年以上も放置されてれば当然でしょうけど」
コレットが満面の笑みで説明するのを、ロランは気まずい思いで聞いた。
そもそもレグルスが国を明けているのはロランのせいでもある。レグルスに心底惚れている側室からすれば、恨んでも恨み切れないだろう。
ロランは後ろめたく思いながら二人に訊ねた。
「ところで、他の側室は一緒ではなかったの?」
コレットとオリヴィアは顔を見合わせてからおずおずと返した。
「……多分、おいでにならないかと」
「私たちも迷ったのですが、何だか、お世話になっている身でお断りするなどあまりにも失礼かと思いまして……。立場も非常に微妙なところですし」
ロランはマナの言っていた問題を理解し、途端に頭痛がした。
側室達は基本的にはウィスト側の招致に応じない構えなのだ。
彼女達はレグルスの側室ではあるものの、その一族はセラフィトにある。ルークの意に沿わぬ行動をとったものの末路がどうなるのか熟知している以上、下手にウィストと親しくもできない。安易に誘いに応じて――それがたとえ茶会だろうと――ルークから疑念を持たれれば家族が危ういのだ、不安を抱くのも当然と言えた。
かといって国に戻ったところで、ルークこそが正義だというおかしな気風になった帝国に馴染めるとも思えず、帰りたくないのが実情なのだ。
(ルークに積極的に従うわけじゃないけど、ウィストに友好的というわけでもないということかな……)
何より、彼女達が信奉するのはレグルスである。馬鹿々々しいことであるが、レグルスがいない帝国は何の意味もなさないと考える者は確かに存在していた。ルークが国を席巻するなどもってのほか。そうなれば祖国は嫌悪の対象でしかない。
その最たる例が、グレイシアだった。
ロランは姿の見えないブラーヴ令嬢について訊ねた。
「グレイシアも同じような考え?」
二人はまた困惑したように顔を見合わせた。
「グレイシア様は、もうずっとお部屋に引きこもっておられます」
「ただ、今回のお誘いについては、応じる義理はないとだけ……。恐らくそれを聞いて側室のほとんどが招致に応じなかったのではないでしょうか。自称寵姫の機嫌を損ねると厄介ですから」
あてがわれた城の客間は広い。だが孤児院とは違って、冷えた秋の空気を感じることもない。窓の外を眺めれば、夜空の向こうには冴えた月が浮かんでいた。
かつてないほど大きな決断を迫られている――その重圧で息が詰まりそうになる。全てを放り出して逃げ出してしまいたい衝動に駆られるが、一体どこに逃げ場があるのだろう。
昨年の今頃は、将来の不安など感じることもなく、安穏と過ごしていた。レグルスにくっついてウィストを訪れ、楽しい日々を送っていた。それはこれからもずっと続いていくのだと信じて疑っていなかったのだ。
隠れていたところで事態は好転しない、それは理解している。ならば取るべき道は一つだ。それでも迷ってしまうのは、立ち向かうにはあまりにも恐ろしい相手だと知っているからだ。
ロランは大きく溜息をついた。
(駄目だ、外の空気を吸ってこよう)
細心の注意を払い、そっと部屋の扉を開けると、間の悪いことに灯りを持ったソフィと鉢合わせた。
こっ酷く叱られる――そう思って身構えたが、予想とは裏腹に彼女はロランをぼんやりと見つめただけだった。視界には入っているはずだが存在をまるで認知していないようだ。灯りに照らされるその顔はひどく憂鬱そうで、迷いを抱えるロラン以上に深刻な状態のように思える。
声をかけることを躊躇っていると、ソフィはようやくロランに気が付いて目を瞬かせた。
「まあ、殿下。どうされました? ……眠れませんか?」
「うん。目を瞑っても色々考えてしまうから」
「そうですか……」
それからソフィは開いた口をそのまま閉ざした。ルークのことや帝国の情勢を隠していたことが後ろめたいのだろうか、どこかよそよそしい態度で視線を逸らす。
ロランはそんな彼女の顔を覗き込んだ。
「そうだ、お茶でも飲んでいかない? 先生が嫌でなければだけど。……駄目?」
ソフィは迷うように返した。
「お招きにあずかりたいところですが、あまり殿下を贔屓にすると公に叱られてしまいます。今日のことにしても、殿下に肩入れしすぎだと――」
本来であれば中立の立場を貫かねばならなかったのだろう。彼女の役目は帝国の皇子を匿うだけに非ず、その監視も兼ねていたはずである。ウィストの未来を預けるに足る者か見定めるために、公平な視点が求められていたはずなのだから。
ロランは小さくうなだれた。
(そうだ、先生にとっての一番は僕ではないのだから)
すっかり気落ちするロランを前に、ソフィは罪悪感に駆られたようだ。宥めるように付け加えた。
「ですが、内緒で一杯お付き合いするくらいならば咎められることもないでしょう。丁度一息つきたいと考えていたところですし。そうだ――ハーブティーなどはいかがですか?」
月明りに照らされた卓上に茶器を用意すると、ソフィは慣れた手付きで茶をいれた。
差し出された茶からは、甘い花の香りに似た匂いが漂う。その香りが鼻腔を満たすと浮足立っていた気分が僅かに落ち着いたようだった。
「今日は孤児院に戻らなくていいの? アルは……大丈夫?」
「お気遣いありがとうございます。心配ありません、カイムに任せてきました」
ロランは何とも言えない表情で黙り込んだ。
あのカイムが子ども達の面倒を見れるとも思えない。アルだって、あの状態ではカイムの支援もできないだろうし。一気に心配になる。
「僕、孤児院に戻った方がよかったんじゃないかな」
「……それはいずれ。ご決断を下された後の方がよろしいかと。今は、こちらに留まるべきかと存じます」
「でも、何だかこの部屋落ち着かないんだよね。無駄に広いし」
寒々しい室内を示すと、ソフィは怪訝そうに首を傾げた。
「以前はこちらのお部屋で過ごされていたと、公から伺っておりますよ」
ロランはふわりと笑んだ。
「そうだった。おかしいよね、去年まではお部屋が狭いって感じていたのに。今じゃ広すぎると思うんだもの」
「お気持ちはわかります。私もたまに屋敷に帰ると同じようなことを感じます。我が家ながら、居場所がない」
孤児達の世話をしているものの、ソフィは貴族なのだ。自ら好んで子どもの面倒を見ているために、なかなか屋敷に帰ろうとしない。彼女の家宰であるヘンリーは、誰が家主か分からなくなると度々こぼしている。
ロランはじっとソフィを見つめて囁いた。
「先生、よかったら一緒に寝ない? 僕が眠れるまで、ほんの少しでいいから」
「まあ。御戯れがすぎますよ」
ソフィはようやく柔らかな笑みを浮かべた。
ロランは内心胸を撫で下ろしつつ返した。
「冗談じゃないよ。本当に落ち着かないんだ。思うんだけど、孤児院に馴染みすぎたのかも。こうしている間も、あそこに帰りたい衝動が湧いてくるんだ。不思議だよね。子ども達から泥団子を投げつけられた時は、あんなに嫌だと思っていたのに」
「……殿下は随分と孤児院に溶け込まれました」
「見分け、つかないでしょ?」
悪戯っぽく首を傾げるとソフィは苦笑を浮かべた。
「ところで、先生はこんな夜中に何をしていたの? 孤児院とは違って、見回りする必要ないでしょう?」
「今日運ばれてきた病人の見回りですよ」
静かで澄んだ口調だったが、ロランは心臓が鷲掴みにされたような心地がした。
「病人って、ファーレンの船から降りてきた? お城に運んだの?」
「はい。収容できる場所や、治療できる人数に限りがございますので、分散して運んだのです。私も多少は治癒術に心得がございますから、医務官が休息する間に見回りを」
感情を抑えるように返したソフィの瞳が、深く陰る。そこに彼女の心の闇を見つけた気がした。これ以上踏み込んではならないと直感したが、次の瞬間には質問していた。
「あの人達は、どこから来たの?」
「……マナから聞いた話では、あの子達はずっと、ジュタにある竜の教団の実験場に囚われていたとのことです。救出されるまで時間が歪んだその場所で、延々と苗床のような扱いを――強制的に子どもを産まされ、その子ども達はすべからく兵として育てるために奪われたと聞いています。しかも、一部の者は己の複製体を作り出されたとか」
ロランは全身から血の気が引いた。
ジュタ――ルークの隣、ファーレンの領地だ。去年から孤立し、橋を架けて欲しいと嘆願されたがロランにはどうすることもできなかった。ルークが竜の教団と繋がりがあることは既に明るみになっている。であれば、そのジュタの実験場もルークが絡んでいたとみるのが自然だ。
あの時動いていれば、ウィストの召喚士達は無事でいたのだろうか。
召喚士達が無惨な姿で戻ってきたのは、ロランのせいだと言えないか。
ミレーヌから相談された時にすぐ行動していれば。すぐ父に謁見してジュタのことを伝えていれば。何かが変わったのではないのか。
(全部、僕のせいなんだ……)
鳩尾が途端に冷えていく。
声を失うロランに構う余裕もないのか、ソフィは声を震わせながら続けた。
「……あの中には、マナの教え子もおりました。私の知り合いも、アルと一緒に孤児院で過ごした子も。行方不明だったあの子達が生きて帰ってきてくれたことを喜ぶべきなのでしょうけれど、救出から随分経った今でも精神は閉ざされたまま。あの子達の受けた傷はきっと一生消えない――そう思うと、やるせない。この島は、あの男にとってさしずめ牧場なのでしょう。ルークが帝国に君臨する限り同じようなことがこれからも起こる。そのたびにあの子達は悪夢のような日々を思い出して苦しむのでしょう。そして私たちも……」
ロランは唇を噛みしめて俯いた。
助けて欲しいと悲鳴をあげてくれた方がましだった。
ソフィに責められているわけでもないし、皇帝になれと強要されているわけでもない。それでも、彼女の言葉が刺さる。
ただ、このまま隠れていれば、後味の悪い結果になるのは明らかだ。苦いものが込み上げてきて、罪悪感から胸が押しつぶされそうになる。
青ざめるロランにようやく気付いたのか、ソフィははっと口を噤んだ。
「詮無きことをお話ししてしまいました。どうか、今の発言はお忘れください……」
忘れられるはずがないのだ。ジュタから帰還した召喚士達とは、既に一本の糸で繋がれているようなものだった。
港での異様な空気、泣き崩れたソフィ、青ざめるアルの姿が脳裏を過ぎる。それは、ロランの中に消え得ぬ刻印を残した証左に他ならない。ウィストの民の苦しみがそのまま心に突き刺さる。
ロランは俯いたまま呟いた。
「先生。僕は、どうすればいいと思う?」
ソフィはゆっくりと頭を振った。
「……それは、お答えできません」
「どうして?」
「答えは全て殿下の中に」
ソフィはそれ以上語らず、二人の間に沈黙が流れた。
少なからず期待していた。
ソフィならばロランを引き留めてくれるのではないかと。
ルークと戦うのはやめた方がいい、死にに行くようなものだと言ってはくれないかと。
彼女は先の戦いでルークの恐ろしさを知っている。
ルークはウィストの召喚士から強力な手駒を量産し、帝国全土を掌握しつつある。何から何までロランは兄の足元にも及ばない。帰ったところで味方はいない。今セラフィトに戻ったところで勝てる見込みは希薄である。
それでも積極的に異を唱えないのは、ルークを打倒するのはロランであるべきだと考えているからではないか。
彼女は優しいので、ロランを追いつめるようなことは言うまい。お願いだから戦ってほしい、その言葉を必死に飲み込んでいるに違いないのだ。何気ない一言で決断が揺らぐことをソフィは知っている。
重苦しい沈黙の中で、ソフィはそっと息を吐いた。
「――私がお言葉を掛けられるような立場ではないのは承知しておりますが、ただ、殿下には一時の感情に任せて決断していただきたくはないのです。よくお考えになっていただきたい」
「……僕に、できると思う?」
ロランの瞳は不安に揺れた。
褒めそやされて育ってきたし、自分でも称賛に足る力があると信じて疑ってこなかった、おめでたいことに。一年前ならば、恐れ知らずのまま己がルークを打倒してみせると啖呵を切っていたことだろう。
だが今は違う。周囲の者が見ていたのはアデレイドの名と皇子としての身の上で、ロラン自身ではあるまい。賢いと持てはやされたのも、同年代の子と比べればの話で、大人に交わるにはやはりまだ経験も知識も足りない――そう、身の程を知ったのだ。
皆の期待を背負ってルークに立ち向かえる――そういう自信が足りない。
ソフィは震えるロランの手に、柔らかなその手を重ねた。
「ええ、もちろん」
ソフィは真っ直ぐロランを射抜いた。そこに迷いはない。
彼女は力なき皇子を信じてくれているのだ。
――その夜、ロランは覚悟を決めた。
◇
日が昇るのと同時に、ロランは意を決して魔術師団長室の扉を叩いた。
顔を強張らせて応答を待っていたものの、中から出てきたのは痩身の中年男性だった。猫背で、顔には無精ひげが生えている。身だしなみはおよそ整っているとは言えず、髪もぼさぼさだった。彼は驚き戸惑うロランを見るなり、途端に姿勢を正した。
「何か御用ですか?」
「マナ女史はご不在?」
「ああ、師の御客人ですか。申し訳ないが、師はこちらにはいない」
「ではどちらに?」
所在を訊ねると、彼は頭を掻いた。
「恐らく、弟子――病人のところに向かったのではないかと。相当心配されておられたから」
ロランは彼に礼をいい、城内の医務室に足を運んだ。ベッドに三人の少女が横たわっていたが、皆心ここに非ずといった表情で宙を見つめている。
だがマナの姿はどこにもない。
医務室内はこれ以上ないほど緊迫した空気に満ちていた。ロランが入室しても誰も構おうとせず、存在が邪魔だという無言の圧をひしひしと感じた。
それでも、どうにかして忙しなく動き回る医務官を捕まえると、「マナ女史は確かにここに顔を出したがすぐに出ていきました」と素っ気なくあしらわれる。めげそうになりながらもロランは問うた。
「どこに行ったか知らない?」
「さあ。分かりません。用はそれだけですか。なら早く出て行って」
その後もあちこちをたらい回しにされ、ようやくマナの元に辿りついた時には正午を過ぎていた。
マナ女史は、離宮の庭にいた。
そこはレグルスの側室達が住まう場所であり、マナが訪れるような用向きがロランには想像できない。むしろ、マナの主――マリアベルとは対立する関係にあるはずで、マナも彼女達によい感情は抱いておらぬだろう。
怪訝に思いながらも近づくと、ロランに気付いた小柄な女史は眩しそうに目を細めた。
「遅かったですね、殿下。もしや、迷われましたか」
「それは、マナ女史が一か所にとどまってくれないから」
「あら、これは失礼。お子様と違って、あたくしは忙しい身ですからね。夜明けと同時に訪れてくだされば、まだ部屋に居りましたものを」
「僕だって暇じゃないよ。日課もできていないもの」
ソフィはロランに毎日魔術の課題を出す。ロランはそれを日課としていた。更に、カイムからは素振りを朝夕百回ずつ行うようにと言われている。マナを探し回ったおかげで何も達成できていなかった。
不満げなロランに、マナは改めて座るよう促した。
卓上には紅茶が用意されている。カップは全部で八つ。二人で飲むには明らかに多すぎる。
ロランはおどけるように肩を竦めてみせた。
「これからお茶会でもするつもりなの? 離宮で?」
「仰る通りです。――これから客人が参ります。殿下にはあたくしの代わりに、その方々の接待をしていただきたい」
ロランは訳が分からず首を傾げた。
「僕が?」
「年上の女性がお好みだと、レグルス殿がおっしゃっていました。たらし込むのが大層お上手だとも」
ロランは顔をひきつらせた。
マナが離宮で何をさせようとしているのか察せられたのである。
「まさか、兄様の側室達をもてなせなんて言わないよね?」
「まあ、流石ご聡明な殿下だこと。何を言わずともご理解いただけて何よりですわ」
高らかに笑うマナにロランは頭を抱えた。
「何、どういうこと? 勝ち筋を教えてくれるのではなかったの?」
マナは笑みを深めた。
「ええ、そういう御約束ですものね。故にこうして、茶会の席を設けて差し上げたのですわ。酒盛りはお子様には早すぎますし、菓子をつまみつつ茶を嗜むのがお小さい殿下にはお似合いでございましょう。これはいわば、あなたに与えるあたくし――いえ、レグルス殿と姫様からの課題」
「課題……? 側室とお茶会することが?」
ロランは首を傾げた。
「あら、こういうことになると察しが悪いですわね。お子様の皇子ではお分かりにならないかしら」
そう言うと、マナは手にしていた本を差し出した。表題はかすれていて読めないが、中身は新しい。どうやら帝国の歴史書のようだった。近年の軍拡についても記述されており、戦功を認められて新興貴族として名を連ねることになった家のことにまで言及されているから驚きだ。ロランは記載事項のほとんどに聞き覚えがあった。
数か所の項目に印がつけられており、その共通点に思い当たることがある。
(兄様の側室の家だ)
歴史書の記述では、レグルスの側室のほとんどが帝国で生きていく上で欠かせない――セラフィトの生命線を担っていると言えた。今まで意識したこともなかったが、レグルスが国の命綱を握っているのに等しいのだ。彼が国を出なければ、皇室にとっては非常に有益な縁故である。
(そうか、だからこそセラフィトは――ルーク兄様はレグルス兄様の側室達を国に戻したかった。今のままでは、ウィストに手出し出来ないから帰還を迫ったんだ)
近年属国になったエクシリア王国などは、今では帝国の食糧生産の八割を担っている。
帝国でも農業は行われているが、それも限定的である。
かといって、土壌改善をしてまで農耕地を広げるような計画もない。百五十年ほど前は積極的に開墾が行われていたものの、それによる環境の変化が原因で希少な動植物か絶え、最終的には魔石の発掘量が減ったという記述があった。農業は定められた土地でしか行ってはならないことになっている。新たに開墾するには国の許可が必要とされるが、帝国内で農場を広げたという話はあまり聞いたことがない。
故に、エクシリアが帝国に対して食糧の供給を止めれば相当な痛手となることは間違いない。そうさせないためにも、レグルスがかの国から娘のコレットをもらい受けたのだろうから。
更に、問題なのはエクシリアだけではない。
(……ブラーヴ公爵令嬢、グレイシア)
皇族に連なるブラーヴは三公とされ、古から皇族を支えてきた公爵家の一つである。
かの家は軍事への影響力が非常に強い。何しろ、帝国軍元帥は代々ブラーヴ候が任命されている。そう考えると、武勇に秀でたレグルスに愛娘を嫁がせたのも自然なことだ。
そうでなくとも、皇族に連なる三公にはとてつもない影響力がある。ロランの後ろ盾であったアデレイド家がそうであったように。ただ、ブラーヴとアデレイドは近年折り合いが悪く、顔を合わせてもろくに挨拶もしない。皇后の座を巡って何かと争いが絶えないからだろう。そのブラーヴ候がルーク皇太子を承認したのは、他の選択肢が潰えていたからだ。グレイシアのロランへの態度も、思えば友好的だったとは言い難い。レグルスの前では慈愛に満ちた姉のような素振りをしていたが、視界からレグルスが消えると態度が一変した覚えがある。
兎に角、公爵令嬢であるグレイシアは側室の中でも非常に有用な取引材料となることは間違いない。何しろ、ブラーヴ候とその子息のグレイシアへの溺愛ぶりは有名であった。相手がレグルスだからと結婚を許したのに、まさか島国に連れて行かれるとは思いもしなかっただろう。
考えるほど、側室達がウィストにいるこの状況が如何に有利であるか気付かされる。
(義姉様は将来的にセラフィトと争いになることを見越していた……?)
ロランはマナの反応を探るように呟いた。
「……側室達を味方に引き込めば、その一族と交渉できるかもしれない。――セラフィトの生命線を担う彼らが僕に味方してくれれば、ルークから離反する者も出てくるかもしれない……お茶会で側室達とそういう駆け引きをするということ?」
「ご明察。なかなか頭の回転が速くて結構なことですわ。彼らを味方に引き込むのが勝ち筋の第一だというのが、姫様達のご意見です」
マナは満足げに微笑んだ。
「ただ、一つ問題がありますの」
「問題って?」
訊ねたところで、マナは人差し指を唇の前で立てた。何事かと首を傾げていると、背後から足音が近づいてくる。
振り返ると、レグルスの側室であるオリヴィアとコレットが連れ立ってやってくるところだった。
――後は殿下の良きように。あたくしはこれにて失礼いたします。
マナの気配が消え、ロランとオリヴィアの視線がぶつかると、彼女は驚愕に目を瞠った。
「……御存命でいらっしゃったのですね、ロラン殿下」
「たまには皆で楽しくお茶会しましょう、なーんて、おかしな申し出だと思いましたよ。何か裏があるに違いないとは思いましたが、まさかロラン殿下がおでましだなんて」
二人の側室は動揺を隠せないのか思ったことをそのまま口走っているようだった。
ロランは困惑したまま返す。
「僕、死んだと思われていたの?」
「……正直に申し上げると。ルーク殿下が皇太子になられたと聞いた時、亡くなられたのかと」
「とにかく、ご無事で何よりでした、殿下。今日呼ばれたのは、何も告げずにウィストを飛び出していったきり、まったく音沙汰のないレグルス殿下を偲ぼうとお誘いをいただいたからなのですよ。私はレグルス殿下がご不在でも全然寂しいとは思いませんけど、側室の大半はご不満のご様子。まあ、ぎすぎすしていること。半年以上も放置されてれば当然でしょうけど」
コレットが満面の笑みで説明するのを、ロランは気まずい思いで聞いた。
そもそもレグルスが国を明けているのはロランのせいでもある。レグルスに心底惚れている側室からすれば、恨んでも恨み切れないだろう。
ロランは後ろめたく思いながら二人に訊ねた。
「ところで、他の側室は一緒ではなかったの?」
コレットとオリヴィアは顔を見合わせてからおずおずと返した。
「……多分、おいでにならないかと」
「私たちも迷ったのですが、何だか、お世話になっている身でお断りするなどあまりにも失礼かと思いまして……。立場も非常に微妙なところですし」
ロランはマナの言っていた問題を理解し、途端に頭痛がした。
側室達は基本的にはウィスト側の招致に応じない構えなのだ。
彼女達はレグルスの側室ではあるものの、その一族はセラフィトにある。ルークの意に沿わぬ行動をとったものの末路がどうなるのか熟知している以上、下手にウィストと親しくもできない。安易に誘いに応じて――それがたとえ茶会だろうと――ルークから疑念を持たれれば家族が危ういのだ、不安を抱くのも当然と言えた。
かといって国に戻ったところで、ルークこそが正義だというおかしな気風になった帝国に馴染めるとも思えず、帰りたくないのが実情なのだ。
(ルークに積極的に従うわけじゃないけど、ウィストに友好的というわけでもないということかな……)
何より、彼女達が信奉するのはレグルスである。馬鹿々々しいことであるが、レグルスがいない帝国は何の意味もなさないと考える者は確かに存在していた。ルークが国を席巻するなどもってのほか。そうなれば祖国は嫌悪の対象でしかない。
その最たる例が、グレイシアだった。
ロランは姿の見えないブラーヴ令嬢について訊ねた。
「グレイシアも同じような考え?」
二人はまた困惑したように顔を見合わせた。
「グレイシア様は、もうずっとお部屋に引きこもっておられます」
「ただ、今回のお誘いについては、応じる義理はないとだけ……。恐らくそれを聞いて側室のほとんどが招致に応じなかったのではないでしょうか。自称寵姫の機嫌を損ねると厄介ですから」
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