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第6夜 セラフィトの皇太子
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しおりを挟む呆然としている間にルークと共にやってきた女はその姿を消していた。ロランは声をかける機を完全に逸してしまったのだ。
あれほど楽しみにしていた晩餐会を楽しむ余裕すら失くし、料理長が腕によりをかけた豪華な料理も、口に入るものは全て砂のような味しかしなかった。取り巻き達が憤慨した様子で騒いでいたが、無意味な雑音としてロランの耳を侵しただけだった。
(見間違いかな……でもあれは絶対に召喚魔法だった……)
一度見たら忘れえぬ白銀の髪。たおやかで美しい後姿。仮面とベールに隠れてはいたが、あの凛とした佇まい、間違えるはずもない。指し示す事実は一つだ――ウィスト大公、マリアベル。それ以外の一体誰が。
だが、ルークに問いただしたところで正直に答えるはずもないだろう。
思案するロランの周囲ではルークの取り巻き達が興奮した様子で盛り上がっていた。
「あれが例の教団の聖女だとか――」
「なるほど、噂に違わぬ素晴らしい力だ。あれほど美しい魔法を見たことがない」
「虚空から颯爽と現れた一角獣はこの世のものとは思えないほど神秘的だった」
ルーク派の話題は次第に他の派閥の諸侯にも広がっていった。
「実は、私も見ましたの」
声をひそめて令嬢が話し出すと、ちらほらと召喚を目撃したとの声が上がる。
城に出没した魔獣は一匹ではなかったらしい。話を統合すると全部で五匹。セラフィトの精鋭達に先駆けてそれを全て駆除したのはルークと連れの女だった。兵達の動きはいつも通り迅速ではあったが、彼女の魔法には及ばなかったのだ。宮廷魔術師ですら彼女の処理能力の速さに敵わなかった。
「それは美しかった。水面が揺らめくように空が揺れ、青い光の粒が逆巻く中からそれは颯爽と駆け下りてきた。魔獣を全て貫き倒すと水晶を転がしたような鳴き声をあげて消えていってしまいましたが、闇の中で白銀の光の尾を引いて去る姿は――そう、聖獣、とはああいうものを言うのでしょう。きっと乙女の声に呼応して現れた神の使いに違いありません」
目撃者が感嘆の溜息交じりに語った内容に、皆口々に同意した。
「復活祭のこの日に現れたのは偶然ではありますまい。伝説にあるように、神が国の窮状をお救い下さるため聖女を遣わした――そうとしか考えられない!」
随分と都合のいい解釈が聞こえてきてロランは思わず苦笑した。
皆が語る内容はどう考えても召喚魔法のそれである。しかし、ルーク派以外の貴族は誰もそのことに気づいていない。
教義では悪しきものと忌避される召喚士だと知れば一体どんな反応をするのだろうか。知らないから賛辞の句が浮かぶのだ。
大陸に生きる召喚士は絶えたと言われて久しい。
迫害に耐えかねてか、執拗に狩られてかは分からないが、とにかくその姿は消えた。だから皆本物の召喚魔法を見たことがない。美しく幻想的な魔法陣は未知のもので物珍しい。実際の召喚魔法を見て魅了されてしまうのも仕方のないことかもしれない。それを見越してわざわざ多くの人が集まる中で召喚魔法を見せた、とも考えられる。
あのルークがそのような演出を考えられるとは、ロランにとってはちょっとした驚きであった。
兎に角この流れはロラン派、リヒャルト派にとって不利であることは間違いない。どの派閥にも所属していない貴族達までもがルークが連れてきた女を誉めそやすのだから悔しくてたまらないのだろう。一様に苦々しい表情を浮かべていた。ここで後れを取れば挽回し難いことは自明の理である。しかも、主役がまだ来ていないリヒャルト派はどう頑張っても焼け石に水程度の好感度しか得られないだろう。支持を取り付けるには程遠い。
諸侯の大半はルークの獰猛さと恐ろしさを知っているにも拘わらず、好意的な意見ばかりが口々に上がる。遅れてきたというのにそれを批判する者は誰もいない。
ルーク派の貴族は意気揚々と言葉を継いだ。
「そうだ、それこそ聖女の再臨ではないか! 流石はルーク殿下。聖女を伴ってこられるとは、神がルーク殿下の帝位をお望みだという証に他ならないだろうよ!」
(相変わらずルーク兄様の周りって全肯定派しかいないなあ……まあ、諫言なんて聞き入れるような人でもないんだけど)
そもそも諫言などしようものならば斬り捨てられてもおかしくはないし、一族郎党皆殺しにあっても文句は言えないだろう。
結局皆ルークを恐れているのだ。心から信頼しているわけではない。
それが厄介だ。報復を恐れて皆ルークにしがみついて離れようとしない。互いに監視しあい、裏切りが発覚すれば私刑となる。一度ルーク派となった者を離反させるのは難しいだろう。
「アデレイド候もブラーヴ候も今宵ご決断なさることだろう!」
それを聞いていたロラン派とリヒャルト派がいよいよ我慢できずにいきり立った。
「何を馬鹿なことを! かの皇子の野蛮さを差し置いて何を都合よく語るのだ! ルーク派は工作活動も大概にしろ!」
「そうだ。ロラン殿下こそ至高の皇帝におなりだろうよ。若年ながらもご聡明であらせられる。見よ、あの愛くるしいお姿を! 守るに値するお方だ」
「いやいや待てよ。リヒャルト殿下こそ帝位に相応しい。何といっても普段より守りは盤石である! むやみやたらに攻め込むどこぞの皇子とはわけが違うのだ」
「引きこもって怪しげな実験ばかりをしている皇子のどこが相応しいのだ、たわけ!」
今にも掴みかかって殴り合いになりそうなほど険悪な雰囲気にロランは割って入った。
「皆、何やら面白そうな話をしているね。でも、当事者を置いてけぼりで話すのもいかがなものかと思うのだけれど」
にっこりと天使の如き微笑み浮かべる末の皇子にその場の誰もがたじろいだ。
うわずった声をあげたのはルークの取り巻きだ。
「これはロラン殿下……ご機嫌麗しゅう……」
「そんな口上はいいよ」
微笑むロランに取り巻き連中は何故か悲鳴をあげつつ頷いた。
彼らにとって、ロランは微妙な立場にある皇子だ。
ルーク陣営にとっては同じアデレイドの支援を受ける末の皇子故あまり邪険にはできず、リヒャルト陣営にとってはルークといつ同盟を組まれるか分からぬ相手だ。ロランの派閥を勝手に名乗る者も本人の前では大人しくしているほかない。
かしこまった者達にロランは訊ねた。
「僕が訊きたいのは話題に上っていた聖女のことなのだけれど。話を聞いていた限り、召喚士のように思えるね。以前我が国が総出で捜索に当たっていたはずでしょう。どれだけ探しても大陸では見つけられなかった――ルーク兄様が召喚士を伴ってきたことを父上はご存じなのだろうか。青目の娘は国を挙げて保護するという約定だったはず。そのためにウィストに兵を向けたのだもの。違う?」
実際はともかく、大義名分は諸国より狙われ続ける召喚士の保護であった。ロランはそれを忘れていない。
「それは……」
狼狽える取り巻き達に、ロランは無邪気を装って追及した。
「それをルーク兄様は私利私欲で連れまわしているの? そもそも、聖女って何かな? 教会の認定もなしに召喚士を聖女と呼んでいいの? 思うに、教義に反するんじゃないかしら」
ルーク派に流れは持って生かせない――末の皇子からはそのような意思が感じられた。
成人したての末の皇子は、純真無垢そのままで無知だと思い込んでいた取り巻き達はついぎょっとした。リヒャルトが不在の場ではルークの一人勝ちになるのは至極当然のことだと受け止めていたのだ。
それがどうしたことか、この伏兵は。
ロランは笑みを崩さず続けた。
「それとも、教会とは関係がない団体の聖女なの?」
取り巻き達は口ごもり目配せをしあう。
誰もはっきりと答えられない中、ロランはそれ見たことかと内心笑っていた。
何故ルークがマリアベルと一緒にいるのか理由は分からぬ。だが、マリアベルはおいそれと小道具に使えるようなものではない。召喚士を引っ張り出して皇太子レースを優位に運ぼうという腹積もりだったのかもしれないが、こうして疑問を呈すればいずれ綻びが出てルーク派から離脱する者が必ず出てくるはずだ。何しろ、貴族の大半は敬虔な教会信者だ。教義を遵守し、占者の託宣を信じる。召喚士を囲っていたと知れれば反発しないわけがない。
そもそも、あのマリアベルを利用できるはずもないのだ。
マリアベルはウィストの大公としてあるべきだ。よく分からぬ信仰宗教の聖女に祀り上げて良い人ではない。
近いうち、聖女の噂も消えるだろう。
たまたま都合よく現れた魔術師が魔獣を倒した――そういう噂をこちらで流布させればいい。
ロランは軽く考えていた。
◇
グレイブ・フォン・フローズヴィトニルソンの屋敷に招待されたのは、復活祭が過ぎて数日経ってからのことだった。
結局リヒャルトは来ず、グレイブは随分と苦い思いをした。
リヒャルトの子ども誕生で沸くはずだったのに、話題の大半はルークと連れ立った淑女に掻っ攫われてしまい完全に立場をなくしてしまったのだ。中立派の諸侯からの支援を確約させるつもりが、逆に評判を落としてしまった。
それについてはロランも気落ちしていた。
ルークが皇帝などセラフィトにとっては悪夢以外の何ものでもないのだが、諸侯はすっかり浮かれていた。ロランが召喚士のことを指摘しても、今は信仰の自由が許されているだとか、民衆は不敗で無敵の皇帝を求めているだとか言う始末だ。
グレイブは神妙な顔でロランを迎えると、人払いをして扉を閉める。そのままロランの正面に座り、ブランデーと蜂蜜入りの紅茶を呷った。
「どうしたのですか、叔父上」
「この記事を読んで欲しい」
グレイブが差し出したのは町で発行された新聞だ。日付を見ると復活祭の翌日になっている。
『復活祭に聖女再臨か――第二皇子殿下と共に人々の窮状を再び救う』
大きな見出しで書かれた記事にロランは目を丸くした。
『復活祭に沸く城下町に十三匹の魔獣が出没したのは宵闇深い刻限だった。
その時祭りの盛り上がりは最高潮で、暗がりで蠢く影に気付く者はおらず、危うく多くの人々がその毒牙に掛かるところだった。近年、帝都を含む都市部では魔獣の姿の目撃情報は激減している。通常であれば人里離れた僻地に行かねば魔獣を見る機会はないだろう。警戒が薄れていたのは否めない。年に一度の祭りで警備も緩んでいた。そこに現れた災厄だ、民は困惑し混乱していた。
その窮状に現れたのが我が国の第二皇子と見慣れない女性だ。これまで見たことがない魔法を使い、魔獣を見事撃退した。
その手並みは実に鮮やかだった。
空に美しい魔法陣が浮かんだ刹那、光の粒子が舞い上がり青く美しい鳥が現われ魔獣を撃退したのだ。
幸いにも魔獣出現による被害者はこれまで報告されていない。十三匹もの魔獣が出たにも拘わらず損害が出なかったことは奇跡としか言いようがないだろう。
目撃したAさんは「空の魔法陣から出でたのは、まるで伝説の神鳥のようでした。あんなに綺麗な魔法陣も、鳥もこれまで見たことがありません。きっと神が我々に救いの手を差し伸べてくれたのだと思います」と語った。
この復活祭の日に合わせて現れたのは正に聖女再臨の証左だろう。
「ルーク殿下は我々の命の恩人です。危険を顧みず立ち向かってくださるなんてなかなかできないことですよ。素晴らしいお方だ。私たちをお助けくださった聖女様にも感謝してもしきれません」
ここにきて第二皇子を次期皇帝にとの期待の声が高まっているのは間違いないだろう。一刻も早く皇太子に立たれることを望むばかりだ――』
「何これ……どういうこと?」
「読んだままの意味だよ、ロラン殿下。民衆は熱烈にルークを支持しているのだ」
「……だって、あのルーク兄様ですよ。凶暴を地で行く……あんなのが皇帝になったら一体どんな酷い目にあわされるか……。皆正気とは思えません」
戸惑いつつグレイブを見つめると、叔父は頭を振った。
「民はそんなこと想像もしない。何しろ、ルークは復活祭の日に聖女を伴って民衆を救った。何も知らない者からしたら英雄以外の何だっていうのだ? 好印象を与えるのも仕方のないことだろう。それに、戦いに明け暮れていたのは兄上――陛下とて同じことだ。併合したおかげで周辺諸国との軋轢はなくなり、円滑な貿易ができるのも、国内の産業に力を入れられるようになったのも、戦いに勝ち続けてきたからだと皆知っている。負けて属国となった国々は哀れだけれど、そのおかげで豊かになったのも確かだ。故に民が強い皇子を支持したくなるのも理解できる」
「そんな……でも、あのルーク兄様が慈善でそんなことするわけがありません。どう考えたって派手な演出でしょう。そんなにあっさりとルーク兄様を受け入れてしまうなんて……」
ロランは愕然とした。追い打ちをかけるようにグレイブは続けた。
「ルークの意図はともあれ、女性を連れて城下町の魔獣を討伐したのは確かだ。その事実はもう覆らないよ」
「でも、連れていたのは召喚士でしょう。それこそ世界中の皆が恐れていた相手のはずです」
「そうなのだけどね……何も知らない人にとっては結果が全てなのだろう。有事の際にはルークが――もとい、ルークの囲っている召喚士が助けてくれると印象付けられてしまった。ルークを戴く国は安泰だと大合唱をする町もあるという」
グレイブは溜息をついた。
「我々は完全に出遅れたのだ。これまで中立を決めていた諸侯もルーク支持を表明し始めている……。ルークを厭っていたブラーヴ候傘下の諸侯が、だよ」
「何ですって!?」
ロランは驚愕のあまりソファーから勢いよく立ち上がった。
ブラーヴ候はレグルスの支持を決めており、その傘下の諸侯もそれに倣っていた。ただ、レグルスが皇太子候補から外れた瞬間から彼らは中立となっていたのだが、その多くはルークを嫌悪している。
それがまさかルーク陣営に入るとは。にわかには信じがたいことである。
ロランは前髪をくしゃくしゃにかき回してぼやいた。
「そんなことってありますか……。だって、本当につい最近まで嫌っていた相手に下るなんて」
「それが、あるんだ……」
グレイブは沈んだ面持で返した。
曰く、諸侯達は半ば仕方なく第二皇子に鞍替えしたという。
ルークと聖女の活躍を聞いた民は、第二皇子こそが皇帝に相応しい、未だ空位の皇太子に在るべきだと思い至ったのだろう。ルークを頑なに支持しない諸侯の屋敷に詰め寄って毎日抗議をしたという。それも過激な者は鋭利な武器を手に詰めかけた挙句、爆発騒ぎを起こして危うく死人が出るところだったとか。
良識ある諸侯が何を言っても聞く耳持たず、家族やその周囲にまで危害が加えられそうになったところでついには折れたのだ。これ以上の暴動が起きれば民も諸侯側も危ないと判断してのことだ。
一度ルーク陣営になると今度はなかなか抜けられない。周りが同調圧力をかけてくるから。
「私たちはルークを少し侮っていたのかもしれない。ただ暴虐なだけの男ではない。ルークはあの日、遅刻してきただろう?」
「ええ、皇子の中で一番乗りが僕で。兄様達はなかなかいらっしゃらなかった……それって、まさか――」
「そう、城下町の魔獣討伐に乗り出していた。復活祭が皇族にとって特別な祭事だと誰もが知っている。それを遅らせてまで民衆を助けた。批判する者などいようはずもない。あれは巧みな謀略で世論を味方につけたのだよ……」
「それじゃあ叔父上は僕たちに――リヒャルト兄様に勝ち目はないと?」
「……今日お招きしたのはそのリヒャルト殿下のこともあってな」
グレイブは困ったように白髪交じりの頭を掻いた。
「あれからリヒャルト殿下と全く連絡が取れていない。使いを出しても返事はなく、いつも手ぶらで戻ってくる。それも、使いの様子もおかしいのだ。屋敷に行ったところまでは覚えていると言うが、その後取り次ぎの侍従と話した記憶は全くないという。それでも書簡はいつも渡しているようなんだが……もう意味不明で困っている。ロラン殿下はどうだろうか、以前図書館で会ったと言っていたが」
「僕もあれ以来リヒャルト兄様をお見掛けしていませんよ。図書館で会ったのだって偶然だし……大体、リヒャルト兄様が外に出ていること自体が奇跡だったというか」
「違いない。だが、これ以上世論がルークに傾く前にリヒャルト殿下に前面に出てもらわねばならない。あの方にはあの方なりの良さがある。リヒャルト殿下が玉座に就けば外側ではなく内側に目を向け、技術者の育成に力を入れたり、新しい魔術式の研究を推進しようとされるだろう。そうすることでもっと国は豊かになれるはずなのだ。……諸国を侵略せずともな」
「そも、もう攻める国もないのではありませんか。大陸西側は父上があらかた平定されてしまわれた。逆らうような国もありません」
「そうだな。だからこそこれからは、最強の皇帝である必要はないというわけだ。求められるのは、安定した治世。波乱は必要ない。ルークのような皇帝は排斥されて然るべきだと私は思う……。陛下は武断の方ではあるが、何も武功だけで皇太子を選んだりしない。ちゃんと総合的に判断を下される……私の知る兄上ならば、だが」
求められるのが強さではないのならば、軍事国家として成立してきたセラフィトはこれからどこに向かうのだろう?
これまで軍人として働いてきた者達はいずれも好待遇であったが、その処遇はどうするのだろうか?
ロランには少しも想像できなかった。そして、やはり君主には向いていないのだと改めて自覚する。兎に角、必要なのはリヒャルトのような人材なのだろう。
きっとそれはルークも分かっているのではなかろうか。
リヒャルトは表に出ないが、邪魔な勢力であることに変わりはない。
ロランは呟いた。
「ともあれリヒャルト兄様が心配ですね……」
「ああ……。そこでロラン殿下にお願いしたい。リヒャルト殿下のご様子を見てきていただけないか。流石にロラン殿下が直々に参られればリヒャルト殿下も無条件で受けれいるだろうし」
「分かりました。僕が兄様の様子を見てまいります」
グレイブからの依頼を受けたロランは、その足でリヒャルトの屋敷に向かった。
領地は帝都から北上し馬車で四半日の場所にある。深い森に囲まれた道を通り抜けると大きな湖が見えてくる。その畔にある流麗な街にリヒャルトは屋敷を構えていた。
そこにはリヒャルトが呼び寄せた研究者たちが集い、新しい魔導具の開発や魔石の加工技術の研鑽を積んでいる。リヒャルトはそこで本当にやりたいことしかやっていなかった。
クリーム色の焼けた煉瓦を積み上げて築かれた立派な建物、その左右には円錐形の尖塔が建っている。白壁にくすんだ赤茶色の尖った屋根が際立って、どこか古城を思わせる。
美しく細工された門をくぐると馬車に気付いた門番が止まるよう指示をしてきた。
「どなたですか」
門番は機械的にロランに言った。その目はどこか精細を欠いていて、ぼんやりとしている。ロランを見ても慌てふためく様子もない。己が誰なのか知らないのだろうか――ロランは内心首を傾げながらも答えた。
「ロランだ。至急兄様にお会いしたい」
「殿下はご留守です」
「それじゃあ中で待たせてもらおう――」
「殿下はご留守です」
門番は無機質に繰り返した。
ロランは嫌な予感がしていた。
「第四皇子として命じる、今すぐに屋敷に通せ」
「殿下は……ご留守……」
皇子、という言葉に門番は頭を抱えてその場にうずくまって動かなくなった。やはり何かがおかしい。
不気味に思いながらも馬車を玄関に寄せさせ、ぼんやりとしながら止めようとしてくる使用人を押しのけてホールに強行した。
屋敷の中は奇妙な静寂に包まれていた。赤子が生まれたというのに泣き声や物音すらしない。
「リヒャルト兄様!」
大声で叫んでも返事はなく、侍従や侍女達はロランがやってきたというのに客人を出迎えようとする素振りすら見えない。ロランの不安はどんどん膨れ上がっていった。
ただ引きこもっているだけの状況とは思えない。とにかく異様だった。
掃除をしている侍女を見つけて声をかけても返事がない。庭師は延々と剪定作業をし、厨房では料理人が椅子に腰かけて宙を見つめていた。壁に掛かった立派な時計はまだ夕食の時間を指すには早く、おやつの時間には遅すぎる。
ロランは戦慄しながら屋敷の中を歩いた。誰もロランの相手をしようともしない。何故来たのか聞こうともしない。いくら弟皇子とはいえ勝手に入りこんだことを咎めようともしない。
(一体どうなって――)
階段を駆け上がって何十とある部屋を一つ一つ開け放ち、リヒャルトが籠っている場所を探すうち、ロランはようやくその部屋を見つけた。
沢山の本が山積みになり、床には中身がよく分からない怪しげな瓶が多数転がっている。危うく踏みそうになるところを何とか回避して歩き、ロランは兄の後姿を見つけて安堵のあまり泣きそうになった。
「リヒャルト兄様、よかった――」
この状況ではもしかしてリヒャルトは別の場所に監禁でもされているのではないか――そんなことを考えていただけに、リヒャルトを発見できたことはロランにとって心底嬉しいことだった。屋敷の人々がおかしいのはきっとリヒャルトの実験か何かなのだろう。
散乱する書類や干上がった蛙を踏みつけないように気をつけながらリヒャルトが深々と腰掛ける椅子に近寄って、ロランは半泣き笑いで兄の肩を叩いた。
「グレイブ叔父上も心配しておられたんですよ――」
「……」
無視を決め込むリヒャルトにロランは段々腹が立ってきた。不気味な屋敷の中を必死に探したというのに、返事の一つもしないなんて。また本か何かに熱中しているに決まっている。
むくれたまま兄の顔を覗き込んだロランはあっと小さく声をあげてその場に尻もちをついた。
リヒャルトの目は精細に欠いている。その瞳にロランの姿は映っていたが、焦点は合っていない。
どんなに呼びかけても反応はなく、揺さぶってもつねってもうんともすんとも言わない。
第一皇子リヒャルト・フォン・ハイジーン=セラフィトは、廃人同然になっていた。
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