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第5夜 叛逆
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◇
暗雲立ち込めていた空を割り、ようやく日の目が出てきたのは夕刻になってからのことだった。西領と東領を隔てて聳える連峰から覗く夕陽がブルーム全体を薔薇色に染め上げていた。
叩きつけるような激しい雨は止んでも、吹き荒ぶ風は刺すように冷たい。高台に立つ孤児院からは荒波立つ海が見え、激しく波がぶつかるたびに潮の花が生じては散る。海路の果てにある雲の間隙からは金色の光の柱が降り注いで、荒れた海面を照らしていた。波に呑まれそうになりながらも、ゆっくりと進む貿易船には、沢山の頑丈な鉄の箱が乗っている。
かつては、海に浮かぶ船の影はなく、ただ穏やかな水平線が果てまで続く景色が広がっていた。それが今では、貿易船が頻繁に行き来する海上が望める。それもこれも、すべてウィストがセラフィト帝国との戦いに破れ、レグルスがウィスト公国解体に着手してからのことだ。
未だに、夢でも見ているような気分だった。
かつては外の世界さえ知らず、この孤児院に開いた道を誰にも内緒で使って、それだけで不安と期待で胸がはち切れそうだったというのに。黒竜に会うために、禁忌を破って外に出た頃がひどく懐かしい。
黒竜の名は、シリウスと言う。
シリウスは傷が癒えるとすぐにマリアベルを置いて、白竜を探す途方も無い旅に出てしまった。マリアベルは外の世界に憧憬するだけで、この国からは出てはならないことを幼いながらに知っていた。
そんなマリアベルがこの国を出られたのは、奇しくもあのフェリックスのおかげ。
漁業のためだけに開かれていた長閑な港も、今ではすっかり国の玄関口として栄えている。人々の往来は増え、秘されてきたこのウィストは、もはや開かれた場所になったのだ。
レグルスを迎えてからと言うもの、この国は劇的な変化が起きてばかりである。
ウィストの周辺海域には、幾つかの渦潮がある。航路は単純ではないし危険も伴う。珍しい品や高価な品を狙って、海賊共もこの海域を跋扈し始めている。それでも他に手段がないため、何日も航海をし、商品を運ぶしかない。
召喚士ならば、安全に物資を運び出すことができるのだが。それに名があって魔力が宿る限り、召喚士は何でも呼び寄せられる。ただ、己の魔力の許容量を超えてしまうものに限っては、呼び寄せてはならないことになっている。呼べたとしても、それを扱いかね、術者の安全が脅かされるだけである。
召喚士が召すのは、何も魔物や妖魔の類だけではなかった。それを誰も分かっていないのだ。大陸では相変わらず青目の存在は禁忌扱いで、国が開かれたからといって、その意識がすぐに変わるものではない。それに、この島国で育ってきた召喚士達も、未だに異国のものを警戒していた。
戦時中、どれほどの召喚士達が無理やり連れ去られそうになったことか。青目たる召喚士を忌みながらも、召喚士の力を欲する。その矛盾は、いつまでたっても解消されない。召喚士の力を知ったもの達にとって、それは強力で利便性の高い道具でしかないのだ。竜も召喚士も、ただの道具ではないというのに。
双方、互いを忌避し合い、相互理解など程遠いことであった。
海の果てに溶けるように小さくなっていく貿易船を眺め、マリアベルは目深に被っていたフードを外し、背後に控える己の影に問いかけた。
「レグルス殿下は?」
「変わらず、部屋で過ごされることは多いですが、最近は、また離宮への渡りもしているようです」
「そうですか」
薔薇色に染まる空の果てを見上げ、ひとりごちるように呟いた。
「彼らの話を、どう思いますか?」
「あの、帝国兵共のことですか」
「帝国兵……ね。随分と躾のなっていないこと」
マリアベルは形の良い目を眇めた。
「レグルスの指示だとお思いで?」
カイムの問いかけを背に、マリアベルはゆっくりと歩き出した。沈黙を守るマリアベルに従い、カイムもその後を追う。
土砂降りの雨で、足場はぬかるんでいた。カイムがすかさずマリアベルの手を恭しく取って、華奢な身体を支えるように寄り添う。
小路を真っ直ぐ進んでから、曲がり角に差し掛かれば、その先には孤児院の白い東屋がある。
辺りに人影はない。金色の西陽に照らされて、浮かび上がる二つの影だけが、東屋まで伸びている。その屋根からは雫が次々と落ちて、地面には水溜りが出来ていた。水溜りに落陽が映りこみ、眩い光が反射している。そこここには、よく手入れされた竜胆の花が植えられていた。あの豪雨の中でも、強かに咲く花を見て、マリアベルは些か表情を緩ませた。
レグルスは、軍人としては大変優秀で、組織の末端に至るまでよく訓練されていた。レグルス直属の部隊は誰を捕まえても一騎当千と謳っても過言ではないほどの精鋭揃いで、誰が抜けたとしてもその穴埋めを即座にできるほどの技量を持っていた。
元は軍規違反を犯した荒くれものや、帝国正規軍では扱いきれずに持て余していた問題児、一癖も二癖もある連中の処遇に困り果てた帝国軍の上層部が、常に最前線において先陣を切るレグルスの部隊に押し付けた者達だと聞き及ぶ。要するに、金獅子の部隊は体のいい厄介払いの捌け口にされ、かの部隊送りにされたもの達を帝国軍部では『島流し』と呼んだ。常に血の雨が降るような前線で敵と激突する立ち回りの部隊に送り込んでしまえば、有耶無耶の中で処分できると踏んでのことだったのだろう。ただ、その見積もりも甘く、レグルスはその問題児連中を纏め上げ、一騎当千の兵に鍛え上げて率いた。そのことからもレグルスの将としての力量が知れる。
どれほど厳しい訓練が課されているかは想像に難くない。それでいて、レグルス自身も日々の鍛錬を怠らない。故に、彼の部下達は皆それに習い、レグルスの期待に応える。帝国の頃より付き従ってきた部隊からは崇拝されているし、公国軍も彼の力量を目の当たりにして、一武人として、尊敬するものが後を絶たない。
彼には、人を惹き付ける何かがあるのだ。マリアベルの知る限り、軍部内で、レグルスを侮るものはいない。彼を侮るのは、彼の本質を知らぬ者なのだ。その甘い笑みの下に隠された、鋭さを見抜けない。
少なくとも、マリアベルの前ではいつでもレグルスは紳士だった。自らの心の傷を抉り出された後でさえ。
女性を甘く誘いながら、それでいて瞳の奥ではどこか冷めた目で女を見ていたけれど、それを気取られるような言動は決してとらなかった。
――その、抜け目のないレグルスが。
マリアベルは、左手の薬指に嵌められた指輪に視線を落とし、カイムへと問いかけた。
「ねえカイム。弱いもの達が強力な組織を突き崩すのに、最も有効な手立ては何だと思いますか?」
「弱者は、所詮弱者。強者には勝てません。故に、突き崩すこともあろうはずがない」
生真面目な答えを聞いて、マリアベルは肩を竦めた。
「それは、強者ゆえの驕りというものですね」
「私は今まで、格下のものに追い詰められることもなければ、負けたこともございません。姫様に命を捧げる騎士として、敗北はあってはならないことです」
「そうですね。わたくしも、そんな貴方が誇らしい」
「そのようにおっしゃっていただけるとは、この上ない誉です」
立ち止まり、深々と頭を下げるカイムを促して、マリアベルは東屋の小さな木の椅子に腰掛けた。風に揺れる木々からは、珠のような水が滴り、カイムの黒髪を濡らす。
マリアベルに倣ってカイムが座ると、椅子はみしりと軋むような音を立てて、大鋸屑混じりの埃が落ちた。それも大分古い作りであるし、いつ朽ちてもおかしくはない。カイムは珍しく焦った様子で、素早く立ち上がる。マリアベルは僅かに口元を緩めた。
古くなった木面をそっとなぞり、カイムへ静かに問いかける。
「それでは、圧倒的不利な状況にあるものが戦いを挑んだら、必ず負けてしまうのでしょうか?」
「真っ向から勝負を挑めば、もはや語る必要もないのでは。現実とは、そういうものです」
「一縷の希望もない回答ですね。貴方らしく、とても実直。確かに真っ向勝負では、相手を突き崩すなど難しいでしょう」
「数の有利で勝利するか、もしくは兵を訓練し、一騎当千に値する将を育てれば勝てるかと」
「カイム、貴方は敵の外から攻めることばかりを考えているのですね」
マリアベルの足元に、青い魔方陣が浮かび上がる。次の瞬間、そこから一冊の本が現れる。ずしりと重く、分厚いそれを開くと、古書独特の埃くさい香りが鼻につく。ゆっくりと頁をめくり、本へ視線を落としたまま、マリアベルは続ける。
「攻撃特化の突撃も、強固な護りの前では消耗戦になるだけ。被害甚大は免れぬでしょう」
「では、どうすれば?」
「もし、わたくしなら……相手が瓦解するのを待ちます」
「待つ、のですか?」
「そう。内側から壊れるように、小さな楔を打ち込んで待つのです」
「内部崩壊を狙うということですか」
マリアベルはまたゆっくりと頁をめくった。
「強い組織とは、どういうものだと思いますか?」
「意思が統一されているものかと」
「そうですね。組織内の思考が纏まっているほど、組織は強くなる」
「では、わが国は安泰でしょう」
「あら、何故?」
「姫様の元、統率されたわが国が脆弱であろうはずがない」
揺るがない言葉に、マリアベルは苦笑を浮かべた。
「今、この国にはいくつの勢力があると思いますか?」
「穏健派と反帝国派でしょうか」
「……いくつあるにせよ、派閥があるという時点で、この国にも衝かれるべきところがあるのですよ。故に、貴方が思うような強固な国ではない。それはわたくしも自覚しています」
カイムはむっつりとそのまま黙り込んだ。
穏健派にも幾つか派閥がある。このまま急速に国家建て直しを計る急進派、そして現状維持を望む保守派。
急進派は中枢に取り込まれた若輩貴族を中心に、レグルスが着々と築きつつある現体制を支持する動きも見せている。終戦当初こそ反発のきらいもあったが、今では無意味にレグルスへ噛み付くことも激減している。むしろ、レグルスの手腕に心服している様子すら垣間見せることもあり、帝国の力を逆に利用して列国に劣らぬほどの強国を作ろうと意気込んでいる。底辺に位置づけられた召喚士の地位向上を目指し、将来的には大陸諸国へ召喚士を派遣させ、利益を得ることを望んでいた。
保守派は古くから大公家に仕える老練の諸侯が多く、日和見を決め込むように見せて、しっかりと守るべきものは守っていた。帝国の影をちらつかせることで、他国から付け入られる隙をなくし、その間に少しでも国力を回復させ、また元の閉鎖国へと戻したい腹なのだろう。暴かれてしまったとはいえ、異国風土が入り乱れるのを良しとはしない。
保守派も急進派も、帝国に明らかな叛意を見せないという点では合致しており、今のところこの派閥が帝国連中と表立って大きな衝突を起こしたことはない。
問題は、反帝国派。
帝国の勢力が国内に及ぶことを良しとせず、徹底的にこの国から帝国の影響を排除しようとする勢力。
「組織の――国の一番手っ取り早い纏め方というのはね、敵を作ることなのです。共通の敵がいれば、それまでばらばらだった人々の結束は強固になります。故に、集団を纏め上げる際には、強力な外敵が必要になってくる。そして敵を排除するために、団結するもの」
逆に言えば、思想がいくつも分裂するほど、組織は脆弱になり、そこを衝けば一気に瓦解する。そうならないためにも、志を纏めるためには分かりやすい外敵が必要なのだ。それは、単純明快に敵意と悪意を向けられる対象であるほどいい。組織にとって、体のいいスケープゴート。
「共通の敵……ですか」
マリアベルは頷いた。
「今、この国にとって一番分かりやすい敵というのは、言わずもがな帝国であり、その象徴でもあるレグルス殿下でしょう。けれどようやく落ち着いてきたこの国の現状を理解していれば、今帝国に叛意を見せるのは、愚行の一言に尽きる」
「それでも、セドリック様は――」
マリアベルはカイムの唇にそっと細い指を押し当てた。
「如何にこの場にわたくしと貴方しかいないとはいえ、その名を、容易く口にしてはなりませんよ、カイム」
「申し訳、ありません」
気圧されるように押し黙り、カイムはその場に畏まった。
「この国も、一枚岩ではありません。それぞれの思惑があり、同じ国内にありながらも求める方向は揃わない。けれど今はただ牙を隠し、帝国が擁した大公と――殿下に仕えるしか道はないのです」
「はい」
重々しくカイムは頷いた。
「ただ、幸か不幸か、あの方は大変真っ当にこの国を統治しようとしています」
どうせ、事が済んでしまえば適当に言い繕ってこの国から出て行くのだと思っていた。魔女を忌避し、マリアベルにも上っ面しか見せないところからも、この国に腰を据えて長丁場でことに当たろうなどとは考えないだろうと。
国を解体させるだけならば、恐怖で人を縛り上げて服従させるのが手っ取り早い。圧倒的な力量差を見せ付けて戦意を削ぎ、反抗の意思を潰す。帝国が大陸で行ってきた所業を鑑みれば、この国を解体しに来たレグルスも同じ手段を選ぶものだと、恐らく誰もが思ったことだろう。
だが、現実は違う。
大陸中を慄かせた金獅子が暴力で人を束ねることはなく、いつだって人の尊厳を護るような草案を提出してくる。もっと強引に国を解体するのかと思えば、少しずつ、真綿に包むように。大切にされていると錯覚してしまいそうなくらい、レグルスはこの国のことを考えていた。
この国に磐石な礎を持たないレグルスにしてみれば、僅かでも支持が欲しいところ。だからこそだ。
多くの民に見られていると知っているからこその振る舞い。すべてレグルスの計算の内なのだ。どこまでも、抜け目のない人。
「その背中を見たものならば、殿下がどれほどこの国の為に――不本意とはいえ――心を砕いているか知るでしょう。困ったことに、殿下は人を誑し込むのがお上手なのです」
「……悪辣なことで」
「殿下の行動を目の当たりにすれば、帝国の代理とも言える殿下を、正面から敵視するものなどいないでしょうね。客観的に見ても、殿下は良い統治者と言えます。そんな殿下に敵対しようものならば、流石の民も不信を抱く」
マリアベルの瞳が途端に冷たく光った。
「しかしそれでは、都合が悪いものがいる」
「反帝国派ですか」
「さあ、どうでしょうか。ですがこの国において、レグルス殿下は絶対的な敵意を向ける対象でなくてはならないという考えを持っている――……」
マリアベルはそこで言葉を濁した。
反帝国派といえば、そこで自然とセドリックの名が思い浮かぶ。
教会にて、セドリックと話した際には、レグルスの意思で蛮行が繰り広げられていると疑っていないようだった。マリアベルも、たとえレグルスへの敵意を煽るためとはいえ、優しいセドリックが民を傷つけかねないような行為を容認するとは、到底考えられないのだ。
ウィスト国内では、レグルスに敵意を持つものも多く、一概にどの派閥で誰が仕組んだか、断定しにくい。
ただ、レグルスが帝国の皇子である限り、国内の足並みをそろえる為、レグルスを敵として位置づけた方が諸侯を纏め上げるのは簡単なことは確かだ。
「その為には、レグルスの蛮行を広める必要があると?」
「そうです」
自らの言葉のなんと冷たいことか。マリアベルはどこか他人事のように、己が口から零れる言葉に耳を傾けた。
「如何に殿下が僅かながらに支持を広げつつあるとはいえ、帝国への恨みや憎しみは根深い。ようやく得た信用も、些細なことで壊れてしまうくらいには、ね」
誰も、真実信用しないレグルスのこと。内心ではいつ首を取られるかと思いながらも、軍を率いる――何と哀れなことか。
「根底に蔓延る負の感情を絆すことは容易くありません」
ましてやレグルスは帝国の皇子。如何にレグルスが兵士達から尊敬されているとはいえ、今の公国軍は、正統な後継者であるマリアベルを護るという大義名分があり、それだけでどうにか保っているようなものなのだ。
「何かのきっかけで疑心暗鬼になった途端、内部から崩壊していくのは目に見えています。一度崩れてしまえば、その崩壊の連鎖を止めることは難しいでしょう」
レグルスも、それが分からぬほど愚かではない。
自らを窮地に追い込むような所業を、許すはずもないのだ。
(折角、苦労して積み上げてきたものを……)
珍しく苦渋の表情を見せるマリアベルを気遣うように、カイムが遠慮がちに声をかけてくる。
「姫様?」
「ああ、この気持ち、何と言えばよいのでしょうか……」
身体の中心から煮えたぎるような音が聞こえる。マリアベルは分厚い本を静かに閉じ、山際に沈んでいく夕陽を眩しげに見つめた。
「そう――屈辱、だわ」
マリアベルは、自然と零れた己の発言に虚を衝かれた。そのような言葉が出てきたことも驚きだが、何よりそんな気持ちが沸いてきたことが訝しい。そこまでレグルスのことを知っているわけでもなければ、レグルスと親密な関係でもなんでもないのだ。
マリアベルが一体、レグルスの何を知っているというのだろう。レグルスが本当は何を考えているのか、マリアベルにはちっとも分からない。セドリックが時間が必要だと言うからレグルスを妖魔の作り出す迷宮に陥れたけれど、そこで見たレグルスの姿に憐憫の情を抱かずにはいられなかった。レグルスだって、忌避すべき魔女からそのような情を寄せられたと知れば、また何か企んでいるのかと勘繰るに違いない。
だが、例えレグルスに無関心を貫き通しても、目の届く範囲である限り、否応なしにその動きが分かってしまう。マリアベルはレグルスの努力を確かに見てきたのだ。内心では何を思っていたのか分からない。敵愾心しか向けられない環境の中で、さぞや不本意であったことだろう。
その努力を真っ向から否定するような、レグルス自身がこれまで積み重ねてきたものが簡単に崩される様を見るのは、不快以外のなにものでもない。
居場所が無いと嘆く皇子が、憎悪の渦中にありながらも築き上げてきたものを、悪戯に崩されるなどと。
今度ははっきりと、屈辱を感じた。
たとえ兄であるセドリックがこの件に一枚噛んでいるとしても、マリアベルまで侮辱されたような気がして、とても穏やかな気持ちではいられない。マリアベルの為といって、レグルスを徹底的に敵として排除するのは何か違う。自分を出汁にして、レグルスを陥れるのは、公平とはいえない。
(違う。セディ兄様は、そんなことしない)
唇を噛み締め、荒れた暗がりの海を眺める。
夕陽は、完全に落ちていた。
◇◆◇
「どうしたんだい、マリア?」
泣きじゃくる小さな少女の顔を覗き込んで、セディは思わず顔をしかめた。
「お兄さま?」
「どうして泣いているんだい?」
「わたし、ひとりぼっちなの?」
幼い妹はぽろぽろと涙を流し、セディの顔を見上げた。セディは妹の言うことがいまいち要領を得ず、宥めるように頭を撫でる。
「そんなことないよ。マリアには、僕もお父さまもお母さまもいるだろう?」
「でもどうして、お外に出られないの? フェリックスがね、マリアはいっつもひとりぼっちでかわいそうだって言うの。この先もずっと、お外には出られないって」
「マリア……」
しゃっくり上げて泣く小さな妹を膝の上に乗せ、優しく頭を撫でて、セディはため息をついた。
「また、フェリックスに会ったのかい?」
「いけないの?」
「いいかい? マリア。フェリックスの言うことをそのまま信じたらいけないんだ。フェリックスはこの国にずっといるわけじゃない。マリアの傍にずっといるわけじゃないんだよ」
懇々と言い聞かせるセディに、幼い妹は不思議そうに首をかしげた。
「どうして? フェリックスはマリアをひとりにしないって、約束してくれたのに」
「そんな口約束、意味がないんだ。フェリックスはね――」
「ちがうわ。わたしの名まえとフェリックスの名まえにかけて、約束したもの!」
この時、セディは妹が大切なものを一番厄介な相手に渡してしまったことを知った。
召喚士にとって、名前は命だ。真の名を渡すということは、相手に隷属することを意味する。ましてや相手はフェリックス・アルストロメリア=フィンメル。
フィンメルとは、召喚士と竜の逃れた天空の名であり、その名を名乗るフェリックスは、間違いなく唯人ではないのだから。
「――セドリック様?」
呼ばれて、咄嗟に振り返ろうとして彼は苦笑した。
今、その名で呼ぶのはアレン・ハーデンスか、バーベリドだけ。
「アレン、失格だね」
「申し訳、ありません……」
「畏まったその話し方も駄目だよ。今の君は、私の友人で上官だ」
「長年の癖というのは、すぐには正せまい」
「まあ、そうだろうね……」
彼は苦笑を浮かべた。
「けれど、セドリックは死んだ。そうはっきりと言ったのは、君だろう?」
「何を考えていた? ネロ」
「昔のことをさ……」
妹を失うのはもう嫌だ。
あの時のように、もう妹を泣かせるのは、耐えられない。
ネロは闇に浮かび上がる白亜のジェンシアナ城を眺めてから、踵を返した。
暗雲立ち込めていた空を割り、ようやく日の目が出てきたのは夕刻になってからのことだった。西領と東領を隔てて聳える連峰から覗く夕陽がブルーム全体を薔薇色に染め上げていた。
叩きつけるような激しい雨は止んでも、吹き荒ぶ風は刺すように冷たい。高台に立つ孤児院からは荒波立つ海が見え、激しく波がぶつかるたびに潮の花が生じては散る。海路の果てにある雲の間隙からは金色の光の柱が降り注いで、荒れた海面を照らしていた。波に呑まれそうになりながらも、ゆっくりと進む貿易船には、沢山の頑丈な鉄の箱が乗っている。
かつては、海に浮かぶ船の影はなく、ただ穏やかな水平線が果てまで続く景色が広がっていた。それが今では、貿易船が頻繁に行き来する海上が望める。それもこれも、すべてウィストがセラフィト帝国との戦いに破れ、レグルスがウィスト公国解体に着手してからのことだ。
未だに、夢でも見ているような気分だった。
かつては外の世界さえ知らず、この孤児院に開いた道を誰にも内緒で使って、それだけで不安と期待で胸がはち切れそうだったというのに。黒竜に会うために、禁忌を破って外に出た頃がひどく懐かしい。
黒竜の名は、シリウスと言う。
シリウスは傷が癒えるとすぐにマリアベルを置いて、白竜を探す途方も無い旅に出てしまった。マリアベルは外の世界に憧憬するだけで、この国からは出てはならないことを幼いながらに知っていた。
そんなマリアベルがこの国を出られたのは、奇しくもあのフェリックスのおかげ。
漁業のためだけに開かれていた長閑な港も、今ではすっかり国の玄関口として栄えている。人々の往来は増え、秘されてきたこのウィストは、もはや開かれた場所になったのだ。
レグルスを迎えてからと言うもの、この国は劇的な変化が起きてばかりである。
ウィストの周辺海域には、幾つかの渦潮がある。航路は単純ではないし危険も伴う。珍しい品や高価な品を狙って、海賊共もこの海域を跋扈し始めている。それでも他に手段がないため、何日も航海をし、商品を運ぶしかない。
召喚士ならば、安全に物資を運び出すことができるのだが。それに名があって魔力が宿る限り、召喚士は何でも呼び寄せられる。ただ、己の魔力の許容量を超えてしまうものに限っては、呼び寄せてはならないことになっている。呼べたとしても、それを扱いかね、術者の安全が脅かされるだけである。
召喚士が召すのは、何も魔物や妖魔の類だけではなかった。それを誰も分かっていないのだ。大陸では相変わらず青目の存在は禁忌扱いで、国が開かれたからといって、その意識がすぐに変わるものではない。それに、この島国で育ってきた召喚士達も、未だに異国のものを警戒していた。
戦時中、どれほどの召喚士達が無理やり連れ去られそうになったことか。青目たる召喚士を忌みながらも、召喚士の力を欲する。その矛盾は、いつまでたっても解消されない。召喚士の力を知ったもの達にとって、それは強力で利便性の高い道具でしかないのだ。竜も召喚士も、ただの道具ではないというのに。
双方、互いを忌避し合い、相互理解など程遠いことであった。
海の果てに溶けるように小さくなっていく貿易船を眺め、マリアベルは目深に被っていたフードを外し、背後に控える己の影に問いかけた。
「レグルス殿下は?」
「変わらず、部屋で過ごされることは多いですが、最近は、また離宮への渡りもしているようです」
「そうですか」
薔薇色に染まる空の果てを見上げ、ひとりごちるように呟いた。
「彼らの話を、どう思いますか?」
「あの、帝国兵共のことですか」
「帝国兵……ね。随分と躾のなっていないこと」
マリアベルは形の良い目を眇めた。
「レグルスの指示だとお思いで?」
カイムの問いかけを背に、マリアベルはゆっくりと歩き出した。沈黙を守るマリアベルに従い、カイムもその後を追う。
土砂降りの雨で、足場はぬかるんでいた。カイムがすかさずマリアベルの手を恭しく取って、華奢な身体を支えるように寄り添う。
小路を真っ直ぐ進んでから、曲がり角に差し掛かれば、その先には孤児院の白い東屋がある。
辺りに人影はない。金色の西陽に照らされて、浮かび上がる二つの影だけが、東屋まで伸びている。その屋根からは雫が次々と落ちて、地面には水溜りが出来ていた。水溜りに落陽が映りこみ、眩い光が反射している。そこここには、よく手入れされた竜胆の花が植えられていた。あの豪雨の中でも、強かに咲く花を見て、マリアベルは些か表情を緩ませた。
レグルスは、軍人としては大変優秀で、組織の末端に至るまでよく訓練されていた。レグルス直属の部隊は誰を捕まえても一騎当千と謳っても過言ではないほどの精鋭揃いで、誰が抜けたとしてもその穴埋めを即座にできるほどの技量を持っていた。
元は軍規違反を犯した荒くれものや、帝国正規軍では扱いきれずに持て余していた問題児、一癖も二癖もある連中の処遇に困り果てた帝国軍の上層部が、常に最前線において先陣を切るレグルスの部隊に押し付けた者達だと聞き及ぶ。要するに、金獅子の部隊は体のいい厄介払いの捌け口にされ、かの部隊送りにされたもの達を帝国軍部では『島流し』と呼んだ。常に血の雨が降るような前線で敵と激突する立ち回りの部隊に送り込んでしまえば、有耶無耶の中で処分できると踏んでのことだったのだろう。ただ、その見積もりも甘く、レグルスはその問題児連中を纏め上げ、一騎当千の兵に鍛え上げて率いた。そのことからもレグルスの将としての力量が知れる。
どれほど厳しい訓練が課されているかは想像に難くない。それでいて、レグルス自身も日々の鍛錬を怠らない。故に、彼の部下達は皆それに習い、レグルスの期待に応える。帝国の頃より付き従ってきた部隊からは崇拝されているし、公国軍も彼の力量を目の当たりにして、一武人として、尊敬するものが後を絶たない。
彼には、人を惹き付ける何かがあるのだ。マリアベルの知る限り、軍部内で、レグルスを侮るものはいない。彼を侮るのは、彼の本質を知らぬ者なのだ。その甘い笑みの下に隠された、鋭さを見抜けない。
少なくとも、マリアベルの前ではいつでもレグルスは紳士だった。自らの心の傷を抉り出された後でさえ。
女性を甘く誘いながら、それでいて瞳の奥ではどこか冷めた目で女を見ていたけれど、それを気取られるような言動は決してとらなかった。
――その、抜け目のないレグルスが。
マリアベルは、左手の薬指に嵌められた指輪に視線を落とし、カイムへと問いかけた。
「ねえカイム。弱いもの達が強力な組織を突き崩すのに、最も有効な手立ては何だと思いますか?」
「弱者は、所詮弱者。強者には勝てません。故に、突き崩すこともあろうはずがない」
生真面目な答えを聞いて、マリアベルは肩を竦めた。
「それは、強者ゆえの驕りというものですね」
「私は今まで、格下のものに追い詰められることもなければ、負けたこともございません。姫様に命を捧げる騎士として、敗北はあってはならないことです」
「そうですね。わたくしも、そんな貴方が誇らしい」
「そのようにおっしゃっていただけるとは、この上ない誉です」
立ち止まり、深々と頭を下げるカイムを促して、マリアベルは東屋の小さな木の椅子に腰掛けた。風に揺れる木々からは、珠のような水が滴り、カイムの黒髪を濡らす。
マリアベルに倣ってカイムが座ると、椅子はみしりと軋むような音を立てて、大鋸屑混じりの埃が落ちた。それも大分古い作りであるし、いつ朽ちてもおかしくはない。カイムは珍しく焦った様子で、素早く立ち上がる。マリアベルは僅かに口元を緩めた。
古くなった木面をそっとなぞり、カイムへ静かに問いかける。
「それでは、圧倒的不利な状況にあるものが戦いを挑んだら、必ず負けてしまうのでしょうか?」
「真っ向から勝負を挑めば、もはや語る必要もないのでは。現実とは、そういうものです」
「一縷の希望もない回答ですね。貴方らしく、とても実直。確かに真っ向勝負では、相手を突き崩すなど難しいでしょう」
「数の有利で勝利するか、もしくは兵を訓練し、一騎当千に値する将を育てれば勝てるかと」
「カイム、貴方は敵の外から攻めることばかりを考えているのですね」
マリアベルの足元に、青い魔方陣が浮かび上がる。次の瞬間、そこから一冊の本が現れる。ずしりと重く、分厚いそれを開くと、古書独特の埃くさい香りが鼻につく。ゆっくりと頁をめくり、本へ視線を落としたまま、マリアベルは続ける。
「攻撃特化の突撃も、強固な護りの前では消耗戦になるだけ。被害甚大は免れぬでしょう」
「では、どうすれば?」
「もし、わたくしなら……相手が瓦解するのを待ちます」
「待つ、のですか?」
「そう。内側から壊れるように、小さな楔を打ち込んで待つのです」
「内部崩壊を狙うということですか」
マリアベルはまたゆっくりと頁をめくった。
「強い組織とは、どういうものだと思いますか?」
「意思が統一されているものかと」
「そうですね。組織内の思考が纏まっているほど、組織は強くなる」
「では、わが国は安泰でしょう」
「あら、何故?」
「姫様の元、統率されたわが国が脆弱であろうはずがない」
揺るがない言葉に、マリアベルは苦笑を浮かべた。
「今、この国にはいくつの勢力があると思いますか?」
「穏健派と反帝国派でしょうか」
「……いくつあるにせよ、派閥があるという時点で、この国にも衝かれるべきところがあるのですよ。故に、貴方が思うような強固な国ではない。それはわたくしも自覚しています」
カイムはむっつりとそのまま黙り込んだ。
穏健派にも幾つか派閥がある。このまま急速に国家建て直しを計る急進派、そして現状維持を望む保守派。
急進派は中枢に取り込まれた若輩貴族を中心に、レグルスが着々と築きつつある現体制を支持する動きも見せている。終戦当初こそ反発のきらいもあったが、今では無意味にレグルスへ噛み付くことも激減している。むしろ、レグルスの手腕に心服している様子すら垣間見せることもあり、帝国の力を逆に利用して列国に劣らぬほどの強国を作ろうと意気込んでいる。底辺に位置づけられた召喚士の地位向上を目指し、将来的には大陸諸国へ召喚士を派遣させ、利益を得ることを望んでいた。
保守派は古くから大公家に仕える老練の諸侯が多く、日和見を決め込むように見せて、しっかりと守るべきものは守っていた。帝国の影をちらつかせることで、他国から付け入られる隙をなくし、その間に少しでも国力を回復させ、また元の閉鎖国へと戻したい腹なのだろう。暴かれてしまったとはいえ、異国風土が入り乱れるのを良しとはしない。
保守派も急進派も、帝国に明らかな叛意を見せないという点では合致しており、今のところこの派閥が帝国連中と表立って大きな衝突を起こしたことはない。
問題は、反帝国派。
帝国の勢力が国内に及ぶことを良しとせず、徹底的にこの国から帝国の影響を排除しようとする勢力。
「組織の――国の一番手っ取り早い纏め方というのはね、敵を作ることなのです。共通の敵がいれば、それまでばらばらだった人々の結束は強固になります。故に、集団を纏め上げる際には、強力な外敵が必要になってくる。そして敵を排除するために、団結するもの」
逆に言えば、思想がいくつも分裂するほど、組織は脆弱になり、そこを衝けば一気に瓦解する。そうならないためにも、志を纏めるためには分かりやすい外敵が必要なのだ。それは、単純明快に敵意と悪意を向けられる対象であるほどいい。組織にとって、体のいいスケープゴート。
「共通の敵……ですか」
マリアベルは頷いた。
「今、この国にとって一番分かりやすい敵というのは、言わずもがな帝国であり、その象徴でもあるレグルス殿下でしょう。けれどようやく落ち着いてきたこの国の現状を理解していれば、今帝国に叛意を見せるのは、愚行の一言に尽きる」
「それでも、セドリック様は――」
マリアベルはカイムの唇にそっと細い指を押し当てた。
「如何にこの場にわたくしと貴方しかいないとはいえ、その名を、容易く口にしてはなりませんよ、カイム」
「申し訳、ありません」
気圧されるように押し黙り、カイムはその場に畏まった。
「この国も、一枚岩ではありません。それぞれの思惑があり、同じ国内にありながらも求める方向は揃わない。けれど今はただ牙を隠し、帝国が擁した大公と――殿下に仕えるしか道はないのです」
「はい」
重々しくカイムは頷いた。
「ただ、幸か不幸か、あの方は大変真っ当にこの国を統治しようとしています」
どうせ、事が済んでしまえば適当に言い繕ってこの国から出て行くのだと思っていた。魔女を忌避し、マリアベルにも上っ面しか見せないところからも、この国に腰を据えて長丁場でことに当たろうなどとは考えないだろうと。
国を解体させるだけならば、恐怖で人を縛り上げて服従させるのが手っ取り早い。圧倒的な力量差を見せ付けて戦意を削ぎ、反抗の意思を潰す。帝国が大陸で行ってきた所業を鑑みれば、この国を解体しに来たレグルスも同じ手段を選ぶものだと、恐らく誰もが思ったことだろう。
だが、現実は違う。
大陸中を慄かせた金獅子が暴力で人を束ねることはなく、いつだって人の尊厳を護るような草案を提出してくる。もっと強引に国を解体するのかと思えば、少しずつ、真綿に包むように。大切にされていると錯覚してしまいそうなくらい、レグルスはこの国のことを考えていた。
この国に磐石な礎を持たないレグルスにしてみれば、僅かでも支持が欲しいところ。だからこそだ。
多くの民に見られていると知っているからこその振る舞い。すべてレグルスの計算の内なのだ。どこまでも、抜け目のない人。
「その背中を見たものならば、殿下がどれほどこの国の為に――不本意とはいえ――心を砕いているか知るでしょう。困ったことに、殿下は人を誑し込むのがお上手なのです」
「……悪辣なことで」
「殿下の行動を目の当たりにすれば、帝国の代理とも言える殿下を、正面から敵視するものなどいないでしょうね。客観的に見ても、殿下は良い統治者と言えます。そんな殿下に敵対しようものならば、流石の民も不信を抱く」
マリアベルの瞳が途端に冷たく光った。
「しかしそれでは、都合が悪いものがいる」
「反帝国派ですか」
「さあ、どうでしょうか。ですがこの国において、レグルス殿下は絶対的な敵意を向ける対象でなくてはならないという考えを持っている――……」
マリアベルはそこで言葉を濁した。
反帝国派といえば、そこで自然とセドリックの名が思い浮かぶ。
教会にて、セドリックと話した際には、レグルスの意思で蛮行が繰り広げられていると疑っていないようだった。マリアベルも、たとえレグルスへの敵意を煽るためとはいえ、優しいセドリックが民を傷つけかねないような行為を容認するとは、到底考えられないのだ。
ウィスト国内では、レグルスに敵意を持つものも多く、一概にどの派閥で誰が仕組んだか、断定しにくい。
ただ、レグルスが帝国の皇子である限り、国内の足並みをそろえる為、レグルスを敵として位置づけた方が諸侯を纏め上げるのは簡単なことは確かだ。
「その為には、レグルスの蛮行を広める必要があると?」
「そうです」
自らの言葉のなんと冷たいことか。マリアベルはどこか他人事のように、己が口から零れる言葉に耳を傾けた。
「如何に殿下が僅かながらに支持を広げつつあるとはいえ、帝国への恨みや憎しみは根深い。ようやく得た信用も、些細なことで壊れてしまうくらいには、ね」
誰も、真実信用しないレグルスのこと。内心ではいつ首を取られるかと思いながらも、軍を率いる――何と哀れなことか。
「根底に蔓延る負の感情を絆すことは容易くありません」
ましてやレグルスは帝国の皇子。如何にレグルスが兵士達から尊敬されているとはいえ、今の公国軍は、正統な後継者であるマリアベルを護るという大義名分があり、それだけでどうにか保っているようなものなのだ。
「何かのきっかけで疑心暗鬼になった途端、内部から崩壊していくのは目に見えています。一度崩れてしまえば、その崩壊の連鎖を止めることは難しいでしょう」
レグルスも、それが分からぬほど愚かではない。
自らを窮地に追い込むような所業を、許すはずもないのだ。
(折角、苦労して積み上げてきたものを……)
珍しく苦渋の表情を見せるマリアベルを気遣うように、カイムが遠慮がちに声をかけてくる。
「姫様?」
「ああ、この気持ち、何と言えばよいのでしょうか……」
身体の中心から煮えたぎるような音が聞こえる。マリアベルは分厚い本を静かに閉じ、山際に沈んでいく夕陽を眩しげに見つめた。
「そう――屈辱、だわ」
マリアベルは、自然と零れた己の発言に虚を衝かれた。そのような言葉が出てきたことも驚きだが、何よりそんな気持ちが沸いてきたことが訝しい。そこまでレグルスのことを知っているわけでもなければ、レグルスと親密な関係でもなんでもないのだ。
マリアベルが一体、レグルスの何を知っているというのだろう。レグルスが本当は何を考えているのか、マリアベルにはちっとも分からない。セドリックが時間が必要だと言うからレグルスを妖魔の作り出す迷宮に陥れたけれど、そこで見たレグルスの姿に憐憫の情を抱かずにはいられなかった。レグルスだって、忌避すべき魔女からそのような情を寄せられたと知れば、また何か企んでいるのかと勘繰るに違いない。
だが、例えレグルスに無関心を貫き通しても、目の届く範囲である限り、否応なしにその動きが分かってしまう。マリアベルはレグルスの努力を確かに見てきたのだ。内心では何を思っていたのか分からない。敵愾心しか向けられない環境の中で、さぞや不本意であったことだろう。
その努力を真っ向から否定するような、レグルス自身がこれまで積み重ねてきたものが簡単に崩される様を見るのは、不快以外のなにものでもない。
居場所が無いと嘆く皇子が、憎悪の渦中にありながらも築き上げてきたものを、悪戯に崩されるなどと。
今度ははっきりと、屈辱を感じた。
たとえ兄であるセドリックがこの件に一枚噛んでいるとしても、マリアベルまで侮辱されたような気がして、とても穏やかな気持ちではいられない。マリアベルの為といって、レグルスを徹底的に敵として排除するのは何か違う。自分を出汁にして、レグルスを陥れるのは、公平とはいえない。
(違う。セディ兄様は、そんなことしない)
唇を噛み締め、荒れた暗がりの海を眺める。
夕陽は、完全に落ちていた。
◇◆◇
「どうしたんだい、マリア?」
泣きじゃくる小さな少女の顔を覗き込んで、セディは思わず顔をしかめた。
「お兄さま?」
「どうして泣いているんだい?」
「わたし、ひとりぼっちなの?」
幼い妹はぽろぽろと涙を流し、セディの顔を見上げた。セディは妹の言うことがいまいち要領を得ず、宥めるように頭を撫でる。
「そんなことないよ。マリアには、僕もお父さまもお母さまもいるだろう?」
「でもどうして、お外に出られないの? フェリックスがね、マリアはいっつもひとりぼっちでかわいそうだって言うの。この先もずっと、お外には出られないって」
「マリア……」
しゃっくり上げて泣く小さな妹を膝の上に乗せ、優しく頭を撫でて、セディはため息をついた。
「また、フェリックスに会ったのかい?」
「いけないの?」
「いいかい? マリア。フェリックスの言うことをそのまま信じたらいけないんだ。フェリックスはこの国にずっといるわけじゃない。マリアの傍にずっといるわけじゃないんだよ」
懇々と言い聞かせるセディに、幼い妹は不思議そうに首をかしげた。
「どうして? フェリックスはマリアをひとりにしないって、約束してくれたのに」
「そんな口約束、意味がないんだ。フェリックスはね――」
「ちがうわ。わたしの名まえとフェリックスの名まえにかけて、約束したもの!」
この時、セディは妹が大切なものを一番厄介な相手に渡してしまったことを知った。
召喚士にとって、名前は命だ。真の名を渡すということは、相手に隷属することを意味する。ましてや相手はフェリックス・アルストロメリア=フィンメル。
フィンメルとは、召喚士と竜の逃れた天空の名であり、その名を名乗るフェリックスは、間違いなく唯人ではないのだから。
「――セドリック様?」
呼ばれて、咄嗟に振り返ろうとして彼は苦笑した。
今、その名で呼ぶのはアレン・ハーデンスか、バーベリドだけ。
「アレン、失格だね」
「申し訳、ありません……」
「畏まったその話し方も駄目だよ。今の君は、私の友人で上官だ」
「長年の癖というのは、すぐには正せまい」
「まあ、そうだろうね……」
彼は苦笑を浮かべた。
「けれど、セドリックは死んだ。そうはっきりと言ったのは、君だろう?」
「何を考えていた? ネロ」
「昔のことをさ……」
妹を失うのはもう嫌だ。
あの時のように、もう妹を泣かせるのは、耐えられない。
ネロは闇に浮かび上がる白亜のジェンシアナ城を眺めてから、踵を返した。
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