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第5夜 叛逆
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◇
「あら、いらっしゃい。ベル」
子供たちに囲まれていたマリアベルは、おっとりとした声に面を上げた。
「アンベール卿、こんにちは」
「いやだ、ベルにアンベール卿だなんて呼ばれると、なんだかこそばゆいじゃない! 公の場じゃないんだし、前みたいに、親しみを込めてソフィ先生でいいのよ? あの規律にうるさいヘンリーだってここではわたしのこと、ソフィ先生って呼ぶんだから」
ソフィはマリアベルが小さな頃から、ちっとも変わらない。マリアベルはソフィの優しい笑みに心から安堵した。
肩の力を抜いて、視線を巡らす。
ここに来ると、灰色の世界に色が戻るのだ。丘に吹く風は冷たいけれど、懐かしい香りを運んでくれる。子ども達が大事に育てた竜胆の花や、丹精込めて育てた色とりどりの野菜。海上は陽の光を反射して輝いている。冬の蒼穹は清々しく、鳥たちが甲高く囀りながら旋回していた。
子ども達はマリアベルの前で無邪気に笑い、めいめいが話を聞かせてくれる。ここでのマリアベルは、ただの『ベル』であり、ウィスト公国の大公『マリアベル』ではない。それが、どうしようもなく尊いことに思えるのだ。
だが、マリアベルはどんなに子ども達に慕われても、笑うことはできなかった。子ども達の境遇を想う度に、自分の不甲斐なさを噛みしめ、苦渋の思いがこみ上げる。ただ、ぎこちない笑みで応じることしかできない。
ソフィは優しい眼差しでマリアベルを見つめ、湯気の立つティーカップを差し出して、にこりと微笑んだ。突然マリアベルが訪れたことに驚きもしなければ、むしろ来ることを予期していたかのような素振りで隣に腰掛ける。マリアベルは有り難く紅茶を受け取った。はちみつとブランデー入りの紅茶は、深く甘美な口当たりだ。
ほっと一息つくマリアベルに、ソフィは笑みを深めた。
「このあたりも随分物騒になったし、一人じゃお城を抜けてくるのも大変だったでしょう? 金獅子殿は何もおっしゃらなかった?」
「あの方でしたら、ずっと部屋にお籠りです。四六時中、配下の者に守られて、わたくしの監視どころではないでしょう。おかげで、自由に動き回れます」
あのレグルスが引きこもるなど笑い話にしかならない。
最も、精神面の脆弱さは既に明るみになっているわけだが、それでも数々の戦場の最前線で剣を振るったあの男が、たった一度薬を盛られたからといって、易々と折れるはずもない。
かといって、巷を騒がせる金獅子の部隊を名乗るもの達は、あまりにも下劣で到底レグルスの配下のものとは思えないのだ。
一体、何をしているというのか。彼の腹心であるルトも、このところ姿を見ない。レグルスに付きっきりになっていると理解できるが、以前はあれほど紅茶談義に花を咲かせていたのに、こうも姿を見ないと心配である。――体調を崩していないといいが。
互いに過干渉しないことが暗黙の了解、いわば、仮面夫婦の掟である。どんなにレグルスのことを気にかけても、マリアベルが表立って動くことは難しい。
「あら。そうなの? てっきり、もう一生離さないっていう勢いで、側室なんてそっちのけで貴女を侍らせているのかと思ったわ」
「面白い冗談ですね」
軽く流すマリアベルに、ソフィは苦笑を浮かべる。
「でも真面目な話、監視するっていう意味で、閣下はあなたを野放しにしないと思っていたけど。そうでもないみたいね」
「どうでしょうか。相変わらず、殿下の配下はわたくしの周りに張り付いておりますけれど」
「見張りの目を掻い潜ることなんて、ベルにとっては容易いでしょ? 閣下だってそれはご承知のはずよ。だからこそ、直接ご自身の傍に置くかと思ったわ。あの方、結構切れ者だと踏んでいたから、あまりにベルのこと放任している現状を見ると、なんだか逆に怖くてね。それに今、巷で金獅子の紋を背負った兵士達が女子供を狙っているじゃない。それを放置しているのも、おかしな話じゃない? このままじゃ、心配で子ども達を外で遊ばせてあげることもできないわ」
それはマリアベルも感じていたことだ。
レグルスの様子は遠目で確認している。
特に変わった様子もなく、側室達に不満を抱かせる様子もなく、うまく渡り合っているところを見るに、身体はもうすっかり元気なのだろう。
それでは以前のように、警戒心を露わにして自らマリアベルの機嫌を伺いに来るのかと思えば、そうでもない。
依然として直接の接触はなく、特別、外部への用事がない限りは部屋で大人しくしている。
何よりも気がかりなのは、レグルスがこの現状を表向きでは静観していること。民衆に与える印象が悪くなるような行動は、本来であれば忌避すべきだ。
あの金獅子の名を笠にして跳梁跋扈する者達の背後に何があるか、マリアベルは未だ掴みかねていた。ただ断言できるのは、レグルスはこの件に絡んでいないということ。
そういえば、金獅子を騙るもの達を調べている時に、必ずと言っていいほどさる男が現れるが、あれは一体何なのだろうか。マリアベルの幻術も利かず、ただ一人立ち向かってきた無謀なあの人は。
マリアベルはふと思い出したかのように呟いた。
「そういえば、この間子ども達と一緒にいたあの男性は、結局何なのですか?」
「子ども達と一緒――ああ、サードさんのことね。気になるの? ベルが男性のこと聞いてくるなんて、何だか新鮮ねえ。シリウス様以来じゃない? 大体最近のベルったら、全く浮ついた話もなくて、閣下との甘いあれこれもないんだもの。あの大陸中の女性を虜にしたっていう帝国第三皇子を捕まえておいて、よ。例え元は帝国の出でも、今はこの国に身も心も魂も埋める勢いでいるであろう人と、何もないなんて本当に大丈夫かしらと心配してたのよ。ああでも、ベルはサードさんのような、どこか影のある男性っていうの? なんかよく分からないけど、不器用で優しい人が好きなのね! 器用な殿下とはなんていうか、正反対な? そういうこと?」
ソフィはやけに弾んだ声で捲し立てた。
激流の如く発せられるソフィの言葉に口を挟む間もなく、マリアベルは困惑して返す。
「意地悪しないで、教えてください」
「ふふ、ごめんね、揶揄いすぎちゃったかしら。――サードさんは、今うちで預かってる自称傭兵さんなんだけど、これがなかなか面白い人なのよ。なんだかんだ言いながら、面倒見がよくてね。子ども達の相手をしてくれてるの。アルの紹介でね、ネロにも会わせたわ」
孤児院預かり――中立筆頭でありながら、反帝国組織との繋がりも浅からぬソフィア・アンベールの監視下にあり、更にはあの人が直に会ったというのか。
マリアベルは内心驚きつつも、平坦に返す。
「……そうですか。そこまで、信用できる方だと」
「うーん、どうかしらねえ。そこは判断に困るのよね。身元だって不確かだし、自称傭兵さんだけど、どこまでが本当なのか怪しいものね。奥さんいるみたいだし、ただの流浪人っていう風でもないし、いまいち掴めないのよね。でも、わたしは嫌いじゃないわ。だって、子ども達があんなに懐いているんですもの。子どもほど、人を映す純粋な鏡はないじゃない? だから、ここに置いてあげてるの」
子ども達が懐いているという言葉が全てを物語っているようである。
おまけに余計な世話好きで、妙なところで心配性。優しさなのかなんなのか、お節介が過ぎるほど。余裕で場を収められるマリアベルに、予想だにしないところから介入してくる人。
マリアベルは思わずため息を漏らした。
「確かに、悪い人ではないのでしょうね」
そう言い置いて優雅に紅茶を飲むマリアベルに、ソフィはところで、と切り出した。
「最近、エリカは元気にやってるかしら? 今は離宮の方で働いてるって聞いたんだけど……なんだか、ひどく落ち込んでいるみたいだったから」
「エリカは、こちらに帰ってきましたか?」
「いいえ、帰ってきてないの。でも……アレンとは時々、偶然町中で会うみたいでね。その時に、いつも元気がないみたいだって聞いて」
マリアベルは僅かに眉根を寄せ、再度確認するように問いかけた。
「アレン……。アレン・ハーデンスですか?」
「そう。貴女もよく知る、連隊長のアレン・ハーデンス」
元々、マナとソフィとアレンは、同期で長らくの友人だった。
おっとりしているソフィと、高飛車なマナは正反対に見えるが、本質は似ているのだろう。腐れ縁とも言うべきか、二人は幼い頃からの親友なのだ。
一方のアレンは、マリアベルが幼かった頃から、セドリックに連れられてこの孤児院をよく訪れていたし、ソフィの方もそんなアレンを快く迎えていた。
マナが孤児院で子供たちへ講義をするというときには、マリアベルも必ずついていった。
マナとアレンが一緒になると、毎回決まって諍いが起こり、それをやんわりと制裁するのがソフィの役目だった。
アレンがこの孤児院を定期的に訪れているのは知っていたし、エリカもこの孤児院の出身だ。
二人の接点が全くないわけではない。
かといって、そこまで親しくしている様子もなかった。むしろ、小さな頃のエリカは、アレンを怖がっている節さえあったのだ。
エリカは、何か変わったことがあれば、いつも真っ先にマリアベルに泣きついてきた。泣き虫のエリカは、嬉しいこと、悲しいこと、驚き、恐れ、何を経験するにしても涙ながらに語る。
アレンとエリカが会ったというのは、マリアベルからしてみれば、十分に変わった出来事と言える。
だが、その二人が偶然なりとも町中で遭遇したという話は、マリアベルも知らないことだった。
マナから一度、城でアレンとエリカが会っていたらしいという話は聞いたが、エリカ本人からは何も知らされていない。
思えば、エリカがオリヴィア付きになってからというもの、定期的な連絡を取るだけで、エリカからは一切、マリアベルへ近づくことはなかった。
「そういえば、アレンったら、最近洒落っ気づいてきたのか、刺青なんてしてるのよ」
「刺青?」
マリアベルの反芻に、ソフィは面白そうに返す。
「青い薔薇の刺青よ。流行っているのかしら? でも流行を追うアレンを想像すると、なんだかおかしくって」
気にかかることは他にもある。
エリカ、アレン、そして、巷の金獅子を名乗る連中に共通する青薔薇の刺青。
エリカと金獅子の連中に接点はない。コレットやソフィが言うように、ただ流行っているだけではない。
そもそも、あの堅物のアレンが、流行を追い求めるなど到底考えられないのだ。エリカだって、周りに流されるような子ではない。
「エリカ……」
「エリ姉がどうかしたの?」
ひとりごちたマリアベルに、いつの間にか傍にきていたアルが訊ねる。
エリカはよく、当時まだ幼かったアルと遊んでやっていたのだ。二人は本当に仲が良かった。
「エリ姉、この間この近くまで来てたんだ。でもさ、先生に挨拶もせずに、俺の顔見るなり急いで帰っちゃったんだよ。職場でなんか嫌なことでもあったのかな……。なんか、思いつめた顔してたんだ」
「そう、ですか……」
「ベル姉、エリ姉に会ったら、話聞いてあげてよ。エリ姉はベル姉のこと大好きだから、ベル姉の前では素直になると思うんだ」
曇りない純粋な瞳が、マリアベルを射抜く。マリアベルは硬く頷き、唇を引き結んだ。
そんなことよりも、とアルがソフィへ向き直る。
「大変なんだよ先生」
「何かあったの? また喧嘩?」
「違うよ。おにーさんが、突然いなくなっちゃったんだ」
「何だ、そんなこと。大丈夫よ、きっとお花摘みよ」
「そうじゃなくて、隣にいたはずなのに、一瞬でどっか消えちゃったんだよ! それこそ、召喚術みたいにさ!」
アルの言葉に、マリアベルは瞠目した。
◆
幼い頃、魔女の塔に閉じ込められた日々の事は、レグルスにとっては忌むべき過去だ。
魔女はレグルスを散々惑わせた。中には、小さなレグルスを自らの子どものように扱う変わった魔女もいたが、それは極稀な例だ。レグルスを弄ばなかったのは、レグルスの記憶におぼろげにいる少女だけだった。
風に靡く豊かな赤金色の髪、そして紅玉のような神秘的な双眸。
人形のように美しく整った顔立ちで、薔薇の花が誰よりも似合う少女。いつも自信に満ち溢れ、他の魔女に何を言われようとも毅然とした態度で寄せ付けなかった。
同じだと信じていた。
彼女も、レグルスと同じように魔女達の狂宴の場に売りに出されたのだと。
レグルスの瞳に似た紅い瞳が、まだ純粋な少年だったレグルスに親近感を抱かせた。
彼女は塔の中の誰よりも、レグルスの気持ちを理解してくれた。
泣きじゃくる少年の話を、微笑みを浮かべながら聞き入って、最後には必ず『大丈夫』と言ってレグルスを抱きしめてくれるのだ。
あの人は優しかった。
魔女達の退屈凌ぎの玩具だったレグルスをたびたび救い出しては、『大好きだよ、王子さま』と必ず囁いた。
少女だけが、傷ついたレグルスを理解して、守ろうとしてくれた。
レグルスにとっての光――
(待て)
ざあざあと、不快な音が耳元で鳴る。包み込むような優しい音色ではなくて、強引に飲み込んでしまうような、気持ちの悪い音だ。
(では、顔のないあの人は誰だ)
一体、誰のことを差して、光だと思ったのだろう。おぼろげで、顔も覚えていないというのに。
(あの人は、本当にあの塔にいたのだろうか)
思い出そうとすると、不快な音は大きくなり、激しい痛みが頭を締め付ける。
胸は早鐘を打ったように高鳴り、目の前が真っ白になる。
視界がぐらついて気持ち悪い。
額にはびっしりと珠のような汗が浮かび、身体はやけに熱かった。レグルスはたまらずその場にしゃがみ込んだ。
(あの人は、都合のいい幻か?)
記憶はひどく不確かで、様々な場面が閃いては、幻のように消えていく。
そんな中でも、レグルスの心に鮮明に刻まれているのは、ひどく裏切られ、傷ついたという記憶だ。
魔女が憎い、その思いが刻まれたのは、この魔女の塔の記憶に拠るものなのは確かなこと。人として扱われず、散々弄ばれたあの時が、レグルスを魔女不信にさせたことには変わりない。
『幻なんかじゃない』
さらりと、白銀の髪がレグルスにかかり、甘い花の香りが鼻腔を擽る。レグルスは瞠目し、鼓動が跳ね上がった。
はっとして面を上げれば、白い仮面を付けた白銀の髪の少女が、レグルスをのぞき込んでいた。
仮面の少女と視線が合うと、少女は口の端を釣り上げて微笑んだ。
『都合のいい幻なんかじゃないわ。それを思い出させてあげる』
少女は、呼吸の乱れるレグルスを後ろから包み込むように抱きしめた。温かな感触と、甘い匂いがレグルスを満たす。先ほどは触れたくとも触れられなかったものが、今はレグルスの背にある。
突如、レグルスの瞼に少女の手が置かれ、暗闇がレグルスの視界を覆った。少女は、静かにレグルスへ告げる。
『目を閉じて、光を見て』
「光……?」
優しい陽だまりのような音がレグルスの耳を擽る。その刹那、暗闇に覆われていた視界に、星のような光が灯る。光に吸い寄せられるように凝視すれば、流れた星が落ちてくるかのように、次第に光はレグルスへと近づき大きくなっていく。
その光の中には、一人の少女がうずくまっていた。
レグルスは戸惑いながら少女を見つめる。声をかけようにも、喉に何か閊えているようで息が漏れるだけだ。
これも幻なのかとぼんやりと考えれば、白い仮面の少女の声が囁いた。
『忘れてしまったの? ねえ王子さま。あなたはよくご存知ではなくて?』
光は次第に収まり、景色は暗転する。埃まみれの暗がりの中、その少女は咽び泣いているようだった。
その足元には、少女を捕らえる魔法の楔が打ち込まれ、彼女を囲うように魔法陣が描かれていた。
レグルスはその魔法陣が何であるか、一目で理解した。一度、魔女の迷宮に落ちた時に、同じ魔法陣を見たのだ。即ち、召喚のためのそれ。
それにしても、見覚えのある部屋だ。レグルスは、得体の知れない既視感に寒気を覚える。
特にこれと言って目印となるようなものが配置されているわけでもない。冷たい石壁に、灰色の天井。鉄格子から差し込む細い光だけが頼りの部屋。陰湿な闇に覆われた灰色の部屋。記憶を探っていくと、思い当たる場所が一つだけある。
レグルスは頭を振った。
まさか、そんなはずがあるものか。
目の前で行われているのは召喚魔法だ。召喚を使えるものなど、青い目を持つ者以外あり得ない。レグルスは無意識に、竜の目が埋め込まれている片目を抑えた。
魔法陣の外に目を向ければ、生々しく血痕が辺りに飛び散っている。その跡を辿れば、無数の人々が地面に転がっていた。なんと、その大半の目が抉り出され、そこに眼球があるはずの場所は空洞になっている。既に多くの者が虫の息で、動ける者は皆無のようだ。時折、ようやく指先を動かす程度で、地面に這いつくばったままだ。
その中でも一際異彩だったのが、頭が吹き飛んでいる女の死体だ。術者のローブをまとい、魔法陣の最も近くで斃れているところを見るに、恐らくその頭のない女が魔法陣の少女を召喚したのだろう。
刳り抜かれた眼がどこにあるのかは、探さずともすぐに分かった。魔法陣を組成している一部に、眼球が配置されていたのだ。どの眼球の色も総じて青く、全て召喚士の目だということは、知識の乏しいレグルスにも判別できた。
眼は魔力の塊とも言える。それが召喚士の目だとなれば、並みの人間では到底補えないような魔力が手に入る。原則として、己の魔力に見合わぬものの召喚は成功しない。だから、こうして魔力を補強することによって、より強力なものを召喚できる――そういう原理だったのだろう。
しかし、召喚が成功したとしても、召喚士の手に余る力の場合、術者はその命を持って贖うより他ないのだ。事実、召喚した少女の力を御しきれず、術者は死んだ。
不完全な形で召喚されなかっただけましだが、もし失敗していたら、異形のものが現れていただろう。
突如として見えた光景は、レグルスを不快にさせ、吐き気を催させた。自らの意思とは関係なくその映像は否応なしにレグルスの視界を侵した。――こんなものを見たいと望んだわけではない。
第一、この少女のことを知らない。レグルスがはっきりと覚えているのは、薔薇の似合うあの少女。憎くて愛しい、あの人だけだ。あの人は、愚かしくも来るはずのない父親の影を求めて泣くレグルスに、いつだって優しく微笑んでくれた。この少女が一体、レグルスの光だったあの顔のない少女となんの関係があるという。
暗い疑念を抱くレグルスの思考を割くように、細い光が入り込む。軋む音を立てて扉が開かれ、人影が滑り込んできた。
思わずその影を凝視する。
あまりにも、見知った姿だった。
底知れぬ笑みを浮かべる紅い髪の男――フェリックスその人に他ならなかった。こればかりは、間違うはずもない。
フェリックスは咽ぶ少女の前にしゃがみ込み、そっと肩に手を置いた。
『涙を拭いて、姫。これはやむなき犠牲。この者たちは、きっと一生、貴女をあの国から出すことを良しとしなかった』
フェリックスの声に面を上げた少女の姿に、レグルスの鼓動は逸る。
あどけなさが残るが、その姿はレグルスの知るあの人の姿と重なる。美しい青い双眸は涙に濡れて、虚空を映していた。その姿に、レグルスの胸は締め付けられる。
幼い頃、不遇の環境に置かれたのは己だけだと思っていた。これ以下の環境はないだろうというほど、人としての尊厳すら与えられなかった過去は、誰にも理解されるはずがないと。結局、己とは対極にいるマリアベルは優しい両親や兄に愛され、真綿に包まれるように大切にされて、何の障害も受けずに生きてきたのだと、そう思っていた。
本当にこれは幻ではないのか?
見ただけでも気分が悪くなるようなこの光景が、現実に起こったことだというのか?
そもそも、これはレグルスの知るあのマリアベルの在りし日の姿だというのだろうか。
レグルスの自問に答えるように、白い仮面の少女が寄り添った。
『そうよ、これはわたしの記憶。マリアベルが捨てたもの。そしてあなたがきっと無意識のうちに探していたもの』
(探していたもの……?)
『ずっと、外の世界に憧れていたわ。シリウス様やフェリックスから聞く話は、とても面白かった。いつか、わたしも海の向こう側に行かれると思っていた。フェリックスは小さなわたしに約束したんだもの。わたしをいつか必ず呼び寄せてくれるって』
レグルスの耳元で、白い仮面の少女が囁く。
レグルスは不審げに眉を顰める。フェリックスといえば、マリアベルの周りをうろついているあのアルストリアの食客だ。気が付けば城内にあの男の姿を見ても、なんの違和感もなくなりつつあるのだから恐ろしい。人心掌握の術に長けた男だと感じていたが、その口のうまさといったら、あのマナですら裸足で逃げ出すことだろう。
そんなフェリックスが、まだあどけない少女の心を掴めないはずもない。
『わたしはその言葉を信じた。黒竜シリウス様と同じ、気高い一族が出でる門から現れた彼が、嘘を言うはずがないと思って。だって、わたしは竜の門を守るためにいるんだもの』
その言葉に、レグルスは瞠目した。
天へと至る唯一の道――竜の門は、ウィスト公国が代々守ってきたものだ。フェリックスはその門から現れたという。つまり、彼は竜か、または天へと逃れていった召喚士の末裔ということになる。
ウィスト公国の者達は、竜を敬愛し、それを守るためにこの島全土を世界から秘匿した。その門から出てきたものの言うことを、信じないというのはあり得ないのだ。
『だから、フェリックスの言う通りにした』
「あいつの言う通り?」
『そう。フェリックスは島の召喚士の名を所望したわ。わたしを呼び寄せるためには、それが必要だと言ってね。だからわたしは、数ある名を渡したの』
召喚士のみならず、魔法の力を持つ全ての種族にとって、名というのは重要な意味を持つ。
名を掴まれるということは、魂を掴まれるのと同じことだ。隷属か服従か。いずれにせよ、常に背後で刃物を突き付けられている感覚に近い。
帝国においても、名を渡すことによって貴族は皇帝へ忠誠を誓う。恐らくウィストでも同様で、大公への忠義の証として、名を渡していたのだろう。
白い仮面の少女は、虚ろに視線をさ迷わせる小さなマリアベルを見下ろして呟いた。
『わたしは幼すぎて、気づかなかった。周囲の大人たちも、大体、フェリックスには心酔していたわ。誰も、彼の行いに異を唱えようとしない。名を所望するあの男の異様さに気づきながら、見て見ぬふりをした。けれどその後、行方不明になる召喚士は後を絶たなかった――その大半は、フェリックスの信奉者と、わたしが名を渡した者』
レグルスはそこらに転がる肉塊を視界の端に置き、全てを察した。
彼らは皆、フェリックスによって喚び出され、更にマリアベルを召喚するための礎にされたのだ。
『わたしは誰かを踏み台にしてまで、国外に出たかったわけじゃない。国の支柱になりつつあった白の魔女が島から出られないのは当然のこと。そのことに不満なんてなかった。皆わたしを大事にしてくれたし、愛してくれたわ。確かに外に憬れていたけれど、それでも祖国が大好きだった。それなのに、外に出たと分かった瞬間、期待するのを辞められなかった。信じられないでしょう? こんな残酷な現実を突き付けられても、わたしは外の世界に出たという事実に、刹那の喜びを感じたの。ただフェリックスに利用されただけだというのに。わたしは、そんな自分が許せなかったわ』
仮面の少女はレグルスの耳元で自嘲気味に囁いた。
レグルスの脳裏に、ふとマリアベルの後ろ姿が浮かび上がる。
籠の中の鳥のように飼い殺されて、監視されるように城の中で過ごすあの人は、いつだって静かだった。そこに何の感情も浮かべずに、ただありのまま与えられた現実を見据えるだけ。その胸中に秘められたものは誰にも計り知れない。
時折、海の向こうを眺めていたあの人は、一体どんな気持ちでいたのだろうか。
マリアベルはフェリックスの姿を認めると、その腕を鷲掴み、ぞっとするほど冷たい視線を投げつけた。
フェリックスはそんな少女の刺し殺すような視線を正面から受けながら微笑み、その右手をとって恭しく唇を寄せる。
『さあ、約束は果たしました。ねえ、姫。初めての外の世界はいかがですか? 貴女を連れ出すのは大変でした。竜の因子を継ぐ姫よ。足りない魔力を補っても、結局貴女を御することは誰にもできない。けれどね、あの子は別です。あの子は、あなたの魔力を抑え込むことができる。姫も驚いたでしょう? 抵抗することもままならずに……』
マリアベルは言葉を呑んで、ただ虚ろにフェリックスを見下ろす。何故このようなことを、などという愚かな問いは決してしない。一言も言葉を発さずに、黙して唇を噛みしめる。さぞや、悔しかったことだろう。フェリックスの甘言に耳を傾け、名を渡したという愚行を、あのマリアベルが許せるはずもない。それも、己が望んだ結果だと知れば、なおのこと言葉もないだろう。
フェリックスは少女を見上げ、唇の端を釣り上げた。
魔力を抑え込まれては、得意の召喚術はおろか、どんな魔術も使えない。逃げる術などないのだと、はっきりと宣言されたようなものだ。
甘い顔で微笑んで、フェリックスは続ける。
『この塔の住人は、貴女を歓迎するでしょう。貴女と同様、魔女に生まれた者達がここにはたくさんいるのです。その中でも貴女は特別な人。最も気高く美しい魔力を持つ姫。さあ、いつものように笑ってください。このフェリックスめを呼んだあの優しい声で』
マリアベルがフェリックスの手を払いのけるのと同時に、空間にひびが入る。そして再び景色は暗転し、今度は無数の星が、闇の中で輝いていた。それまでの狭い部屋から、広い空間に変わったのだ。
そこは、硝子張りの薔薇の庭園で、色とりどりの薔薇がそれぞれ植えられている。硝子の向こうには白い尖塔が聳え、その塔の陰から満月がのぞいていた。月光が庭園を淡く照らす。そこに咲く深紅の薔薇。
あまりにも見覚えのある景色に、レグルスの鼓動が一気に高鳴る。
そして、次の瞬間疑念は確信へと変わる。
どこからか、必死で駆けてくる足音がする。次第に近づく音とともに、レグルスの心臓の音も大きくなった。
レグルスの背中に寄りかかるようにして、仮面の少女が『来るわ』と囁く。レグルスは思わず力み、刹那、息を止める。
雲が月を隠し、一瞬の闇が庭園に広がる。その時、軋む扉を開け、小さな影が飛び込んできた。荒い呼吸を繰り返し、背後を振り返って確認しては、よろりと走り出す。たびたび、甲高い笑い声が遠くで響き、怯えるようにして闇の中に逃げ込むが、疲れているのか足が縺れてうまく動かない。
闇を縫うようにして走っていた小さな影は足を止めて、空を見上げた。雲は風に流されて、青い月が現れる。
月光に照らされたのは、金色の髪に榛の双眸の少年――レグルス自身だった。
「あら、いらっしゃい。ベル」
子供たちに囲まれていたマリアベルは、おっとりとした声に面を上げた。
「アンベール卿、こんにちは」
「いやだ、ベルにアンベール卿だなんて呼ばれると、なんだかこそばゆいじゃない! 公の場じゃないんだし、前みたいに、親しみを込めてソフィ先生でいいのよ? あの規律にうるさいヘンリーだってここではわたしのこと、ソフィ先生って呼ぶんだから」
ソフィはマリアベルが小さな頃から、ちっとも変わらない。マリアベルはソフィの優しい笑みに心から安堵した。
肩の力を抜いて、視線を巡らす。
ここに来ると、灰色の世界に色が戻るのだ。丘に吹く風は冷たいけれど、懐かしい香りを運んでくれる。子ども達が大事に育てた竜胆の花や、丹精込めて育てた色とりどりの野菜。海上は陽の光を反射して輝いている。冬の蒼穹は清々しく、鳥たちが甲高く囀りながら旋回していた。
子ども達はマリアベルの前で無邪気に笑い、めいめいが話を聞かせてくれる。ここでのマリアベルは、ただの『ベル』であり、ウィスト公国の大公『マリアベル』ではない。それが、どうしようもなく尊いことに思えるのだ。
だが、マリアベルはどんなに子ども達に慕われても、笑うことはできなかった。子ども達の境遇を想う度に、自分の不甲斐なさを噛みしめ、苦渋の思いがこみ上げる。ただ、ぎこちない笑みで応じることしかできない。
ソフィは優しい眼差しでマリアベルを見つめ、湯気の立つティーカップを差し出して、にこりと微笑んだ。突然マリアベルが訪れたことに驚きもしなければ、むしろ来ることを予期していたかのような素振りで隣に腰掛ける。マリアベルは有り難く紅茶を受け取った。はちみつとブランデー入りの紅茶は、深く甘美な口当たりだ。
ほっと一息つくマリアベルに、ソフィは笑みを深めた。
「このあたりも随分物騒になったし、一人じゃお城を抜けてくるのも大変だったでしょう? 金獅子殿は何もおっしゃらなかった?」
「あの方でしたら、ずっと部屋にお籠りです。四六時中、配下の者に守られて、わたくしの監視どころではないでしょう。おかげで、自由に動き回れます」
あのレグルスが引きこもるなど笑い話にしかならない。
最も、精神面の脆弱さは既に明るみになっているわけだが、それでも数々の戦場の最前線で剣を振るったあの男が、たった一度薬を盛られたからといって、易々と折れるはずもない。
かといって、巷を騒がせる金獅子の部隊を名乗るもの達は、あまりにも下劣で到底レグルスの配下のものとは思えないのだ。
一体、何をしているというのか。彼の腹心であるルトも、このところ姿を見ない。レグルスに付きっきりになっていると理解できるが、以前はあれほど紅茶談義に花を咲かせていたのに、こうも姿を見ないと心配である。――体調を崩していないといいが。
互いに過干渉しないことが暗黙の了解、いわば、仮面夫婦の掟である。どんなにレグルスのことを気にかけても、マリアベルが表立って動くことは難しい。
「あら。そうなの? てっきり、もう一生離さないっていう勢いで、側室なんてそっちのけで貴女を侍らせているのかと思ったわ」
「面白い冗談ですね」
軽く流すマリアベルに、ソフィは苦笑を浮かべる。
「でも真面目な話、監視するっていう意味で、閣下はあなたを野放しにしないと思っていたけど。そうでもないみたいね」
「どうでしょうか。相変わらず、殿下の配下はわたくしの周りに張り付いておりますけれど」
「見張りの目を掻い潜ることなんて、ベルにとっては容易いでしょ? 閣下だってそれはご承知のはずよ。だからこそ、直接ご自身の傍に置くかと思ったわ。あの方、結構切れ者だと踏んでいたから、あまりにベルのこと放任している現状を見ると、なんだか逆に怖くてね。それに今、巷で金獅子の紋を背負った兵士達が女子供を狙っているじゃない。それを放置しているのも、おかしな話じゃない? このままじゃ、心配で子ども達を外で遊ばせてあげることもできないわ」
それはマリアベルも感じていたことだ。
レグルスの様子は遠目で確認している。
特に変わった様子もなく、側室達に不満を抱かせる様子もなく、うまく渡り合っているところを見るに、身体はもうすっかり元気なのだろう。
それでは以前のように、警戒心を露わにして自らマリアベルの機嫌を伺いに来るのかと思えば、そうでもない。
依然として直接の接触はなく、特別、外部への用事がない限りは部屋で大人しくしている。
何よりも気がかりなのは、レグルスがこの現状を表向きでは静観していること。民衆に与える印象が悪くなるような行動は、本来であれば忌避すべきだ。
あの金獅子の名を笠にして跳梁跋扈する者達の背後に何があるか、マリアベルは未だ掴みかねていた。ただ断言できるのは、レグルスはこの件に絡んでいないということ。
そういえば、金獅子を騙るもの達を調べている時に、必ずと言っていいほどさる男が現れるが、あれは一体何なのだろうか。マリアベルの幻術も利かず、ただ一人立ち向かってきた無謀なあの人は。
マリアベルはふと思い出したかのように呟いた。
「そういえば、この間子ども達と一緒にいたあの男性は、結局何なのですか?」
「子ども達と一緒――ああ、サードさんのことね。気になるの? ベルが男性のこと聞いてくるなんて、何だか新鮮ねえ。シリウス様以来じゃない? 大体最近のベルったら、全く浮ついた話もなくて、閣下との甘いあれこれもないんだもの。あの大陸中の女性を虜にしたっていう帝国第三皇子を捕まえておいて、よ。例え元は帝国の出でも、今はこの国に身も心も魂も埋める勢いでいるであろう人と、何もないなんて本当に大丈夫かしらと心配してたのよ。ああでも、ベルはサードさんのような、どこか影のある男性っていうの? なんかよく分からないけど、不器用で優しい人が好きなのね! 器用な殿下とはなんていうか、正反対な? そういうこと?」
ソフィはやけに弾んだ声で捲し立てた。
激流の如く発せられるソフィの言葉に口を挟む間もなく、マリアベルは困惑して返す。
「意地悪しないで、教えてください」
「ふふ、ごめんね、揶揄いすぎちゃったかしら。――サードさんは、今うちで預かってる自称傭兵さんなんだけど、これがなかなか面白い人なのよ。なんだかんだ言いながら、面倒見がよくてね。子ども達の相手をしてくれてるの。アルの紹介でね、ネロにも会わせたわ」
孤児院預かり――中立筆頭でありながら、反帝国組織との繋がりも浅からぬソフィア・アンベールの監視下にあり、更にはあの人が直に会ったというのか。
マリアベルは内心驚きつつも、平坦に返す。
「……そうですか。そこまで、信用できる方だと」
「うーん、どうかしらねえ。そこは判断に困るのよね。身元だって不確かだし、自称傭兵さんだけど、どこまでが本当なのか怪しいものね。奥さんいるみたいだし、ただの流浪人っていう風でもないし、いまいち掴めないのよね。でも、わたしは嫌いじゃないわ。だって、子ども達があんなに懐いているんですもの。子どもほど、人を映す純粋な鏡はないじゃない? だから、ここに置いてあげてるの」
子ども達が懐いているという言葉が全てを物語っているようである。
おまけに余計な世話好きで、妙なところで心配性。優しさなのかなんなのか、お節介が過ぎるほど。余裕で場を収められるマリアベルに、予想だにしないところから介入してくる人。
マリアベルは思わずため息を漏らした。
「確かに、悪い人ではないのでしょうね」
そう言い置いて優雅に紅茶を飲むマリアベルに、ソフィはところで、と切り出した。
「最近、エリカは元気にやってるかしら? 今は離宮の方で働いてるって聞いたんだけど……なんだか、ひどく落ち込んでいるみたいだったから」
「エリカは、こちらに帰ってきましたか?」
「いいえ、帰ってきてないの。でも……アレンとは時々、偶然町中で会うみたいでね。その時に、いつも元気がないみたいだって聞いて」
マリアベルは僅かに眉根を寄せ、再度確認するように問いかけた。
「アレン……。アレン・ハーデンスですか?」
「そう。貴女もよく知る、連隊長のアレン・ハーデンス」
元々、マナとソフィとアレンは、同期で長らくの友人だった。
おっとりしているソフィと、高飛車なマナは正反対に見えるが、本質は似ているのだろう。腐れ縁とも言うべきか、二人は幼い頃からの親友なのだ。
一方のアレンは、マリアベルが幼かった頃から、セドリックに連れられてこの孤児院をよく訪れていたし、ソフィの方もそんなアレンを快く迎えていた。
マナが孤児院で子供たちへ講義をするというときには、マリアベルも必ずついていった。
マナとアレンが一緒になると、毎回決まって諍いが起こり、それをやんわりと制裁するのがソフィの役目だった。
アレンがこの孤児院を定期的に訪れているのは知っていたし、エリカもこの孤児院の出身だ。
二人の接点が全くないわけではない。
かといって、そこまで親しくしている様子もなかった。むしろ、小さな頃のエリカは、アレンを怖がっている節さえあったのだ。
エリカは、何か変わったことがあれば、いつも真っ先にマリアベルに泣きついてきた。泣き虫のエリカは、嬉しいこと、悲しいこと、驚き、恐れ、何を経験するにしても涙ながらに語る。
アレンとエリカが会ったというのは、マリアベルからしてみれば、十分に変わった出来事と言える。
だが、その二人が偶然なりとも町中で遭遇したという話は、マリアベルも知らないことだった。
マナから一度、城でアレンとエリカが会っていたらしいという話は聞いたが、エリカ本人からは何も知らされていない。
思えば、エリカがオリヴィア付きになってからというもの、定期的な連絡を取るだけで、エリカからは一切、マリアベルへ近づくことはなかった。
「そういえば、アレンったら、最近洒落っ気づいてきたのか、刺青なんてしてるのよ」
「刺青?」
マリアベルの反芻に、ソフィは面白そうに返す。
「青い薔薇の刺青よ。流行っているのかしら? でも流行を追うアレンを想像すると、なんだかおかしくって」
気にかかることは他にもある。
エリカ、アレン、そして、巷の金獅子を名乗る連中に共通する青薔薇の刺青。
エリカと金獅子の連中に接点はない。コレットやソフィが言うように、ただ流行っているだけではない。
そもそも、あの堅物のアレンが、流行を追い求めるなど到底考えられないのだ。エリカだって、周りに流されるような子ではない。
「エリカ……」
「エリ姉がどうかしたの?」
ひとりごちたマリアベルに、いつの間にか傍にきていたアルが訊ねる。
エリカはよく、当時まだ幼かったアルと遊んでやっていたのだ。二人は本当に仲が良かった。
「エリ姉、この間この近くまで来てたんだ。でもさ、先生に挨拶もせずに、俺の顔見るなり急いで帰っちゃったんだよ。職場でなんか嫌なことでもあったのかな……。なんか、思いつめた顔してたんだ」
「そう、ですか……」
「ベル姉、エリ姉に会ったら、話聞いてあげてよ。エリ姉はベル姉のこと大好きだから、ベル姉の前では素直になると思うんだ」
曇りない純粋な瞳が、マリアベルを射抜く。マリアベルは硬く頷き、唇を引き結んだ。
そんなことよりも、とアルがソフィへ向き直る。
「大変なんだよ先生」
「何かあったの? また喧嘩?」
「違うよ。おにーさんが、突然いなくなっちゃったんだ」
「何だ、そんなこと。大丈夫よ、きっとお花摘みよ」
「そうじゃなくて、隣にいたはずなのに、一瞬でどっか消えちゃったんだよ! それこそ、召喚術みたいにさ!」
アルの言葉に、マリアベルは瞠目した。
◆
幼い頃、魔女の塔に閉じ込められた日々の事は、レグルスにとっては忌むべき過去だ。
魔女はレグルスを散々惑わせた。中には、小さなレグルスを自らの子どものように扱う変わった魔女もいたが、それは極稀な例だ。レグルスを弄ばなかったのは、レグルスの記憶におぼろげにいる少女だけだった。
風に靡く豊かな赤金色の髪、そして紅玉のような神秘的な双眸。
人形のように美しく整った顔立ちで、薔薇の花が誰よりも似合う少女。いつも自信に満ち溢れ、他の魔女に何を言われようとも毅然とした態度で寄せ付けなかった。
同じだと信じていた。
彼女も、レグルスと同じように魔女達の狂宴の場に売りに出されたのだと。
レグルスの瞳に似た紅い瞳が、まだ純粋な少年だったレグルスに親近感を抱かせた。
彼女は塔の中の誰よりも、レグルスの気持ちを理解してくれた。
泣きじゃくる少年の話を、微笑みを浮かべながら聞き入って、最後には必ず『大丈夫』と言ってレグルスを抱きしめてくれるのだ。
あの人は優しかった。
魔女達の退屈凌ぎの玩具だったレグルスをたびたび救い出しては、『大好きだよ、王子さま』と必ず囁いた。
少女だけが、傷ついたレグルスを理解して、守ろうとしてくれた。
レグルスにとっての光――
(待て)
ざあざあと、不快な音が耳元で鳴る。包み込むような優しい音色ではなくて、強引に飲み込んでしまうような、気持ちの悪い音だ。
(では、顔のないあの人は誰だ)
一体、誰のことを差して、光だと思ったのだろう。おぼろげで、顔も覚えていないというのに。
(あの人は、本当にあの塔にいたのだろうか)
思い出そうとすると、不快な音は大きくなり、激しい痛みが頭を締め付ける。
胸は早鐘を打ったように高鳴り、目の前が真っ白になる。
視界がぐらついて気持ち悪い。
額にはびっしりと珠のような汗が浮かび、身体はやけに熱かった。レグルスはたまらずその場にしゃがみ込んだ。
(あの人は、都合のいい幻か?)
記憶はひどく不確かで、様々な場面が閃いては、幻のように消えていく。
そんな中でも、レグルスの心に鮮明に刻まれているのは、ひどく裏切られ、傷ついたという記憶だ。
魔女が憎い、その思いが刻まれたのは、この魔女の塔の記憶に拠るものなのは確かなこと。人として扱われず、散々弄ばれたあの時が、レグルスを魔女不信にさせたことには変わりない。
『幻なんかじゃない』
さらりと、白銀の髪がレグルスにかかり、甘い花の香りが鼻腔を擽る。レグルスは瞠目し、鼓動が跳ね上がった。
はっとして面を上げれば、白い仮面を付けた白銀の髪の少女が、レグルスをのぞき込んでいた。
仮面の少女と視線が合うと、少女は口の端を釣り上げて微笑んだ。
『都合のいい幻なんかじゃないわ。それを思い出させてあげる』
少女は、呼吸の乱れるレグルスを後ろから包み込むように抱きしめた。温かな感触と、甘い匂いがレグルスを満たす。先ほどは触れたくとも触れられなかったものが、今はレグルスの背にある。
突如、レグルスの瞼に少女の手が置かれ、暗闇がレグルスの視界を覆った。少女は、静かにレグルスへ告げる。
『目を閉じて、光を見て』
「光……?」
優しい陽だまりのような音がレグルスの耳を擽る。その刹那、暗闇に覆われていた視界に、星のような光が灯る。光に吸い寄せられるように凝視すれば、流れた星が落ちてくるかのように、次第に光はレグルスへと近づき大きくなっていく。
その光の中には、一人の少女がうずくまっていた。
レグルスは戸惑いながら少女を見つめる。声をかけようにも、喉に何か閊えているようで息が漏れるだけだ。
これも幻なのかとぼんやりと考えれば、白い仮面の少女の声が囁いた。
『忘れてしまったの? ねえ王子さま。あなたはよくご存知ではなくて?』
光は次第に収まり、景色は暗転する。埃まみれの暗がりの中、その少女は咽び泣いているようだった。
その足元には、少女を捕らえる魔法の楔が打ち込まれ、彼女を囲うように魔法陣が描かれていた。
レグルスはその魔法陣が何であるか、一目で理解した。一度、魔女の迷宮に落ちた時に、同じ魔法陣を見たのだ。即ち、召喚のためのそれ。
それにしても、見覚えのある部屋だ。レグルスは、得体の知れない既視感に寒気を覚える。
特にこれと言って目印となるようなものが配置されているわけでもない。冷たい石壁に、灰色の天井。鉄格子から差し込む細い光だけが頼りの部屋。陰湿な闇に覆われた灰色の部屋。記憶を探っていくと、思い当たる場所が一つだけある。
レグルスは頭を振った。
まさか、そんなはずがあるものか。
目の前で行われているのは召喚魔法だ。召喚を使えるものなど、青い目を持つ者以外あり得ない。レグルスは無意識に、竜の目が埋め込まれている片目を抑えた。
魔法陣の外に目を向ければ、生々しく血痕が辺りに飛び散っている。その跡を辿れば、無数の人々が地面に転がっていた。なんと、その大半の目が抉り出され、そこに眼球があるはずの場所は空洞になっている。既に多くの者が虫の息で、動ける者は皆無のようだ。時折、ようやく指先を動かす程度で、地面に這いつくばったままだ。
その中でも一際異彩だったのが、頭が吹き飛んでいる女の死体だ。術者のローブをまとい、魔法陣の最も近くで斃れているところを見るに、恐らくその頭のない女が魔法陣の少女を召喚したのだろう。
刳り抜かれた眼がどこにあるのかは、探さずともすぐに分かった。魔法陣を組成している一部に、眼球が配置されていたのだ。どの眼球の色も総じて青く、全て召喚士の目だということは、知識の乏しいレグルスにも判別できた。
眼は魔力の塊とも言える。それが召喚士の目だとなれば、並みの人間では到底補えないような魔力が手に入る。原則として、己の魔力に見合わぬものの召喚は成功しない。だから、こうして魔力を補強することによって、より強力なものを召喚できる――そういう原理だったのだろう。
しかし、召喚が成功したとしても、召喚士の手に余る力の場合、術者はその命を持って贖うより他ないのだ。事実、召喚した少女の力を御しきれず、術者は死んだ。
不完全な形で召喚されなかっただけましだが、もし失敗していたら、異形のものが現れていただろう。
突如として見えた光景は、レグルスを不快にさせ、吐き気を催させた。自らの意思とは関係なくその映像は否応なしにレグルスの視界を侵した。――こんなものを見たいと望んだわけではない。
第一、この少女のことを知らない。レグルスがはっきりと覚えているのは、薔薇の似合うあの少女。憎くて愛しい、あの人だけだ。あの人は、愚かしくも来るはずのない父親の影を求めて泣くレグルスに、いつだって優しく微笑んでくれた。この少女が一体、レグルスの光だったあの顔のない少女となんの関係があるという。
暗い疑念を抱くレグルスの思考を割くように、細い光が入り込む。軋む音を立てて扉が開かれ、人影が滑り込んできた。
思わずその影を凝視する。
あまりにも、見知った姿だった。
底知れぬ笑みを浮かべる紅い髪の男――フェリックスその人に他ならなかった。こればかりは、間違うはずもない。
フェリックスは咽ぶ少女の前にしゃがみ込み、そっと肩に手を置いた。
『涙を拭いて、姫。これはやむなき犠牲。この者たちは、きっと一生、貴女をあの国から出すことを良しとしなかった』
フェリックスの声に面を上げた少女の姿に、レグルスの鼓動は逸る。
あどけなさが残るが、その姿はレグルスの知るあの人の姿と重なる。美しい青い双眸は涙に濡れて、虚空を映していた。その姿に、レグルスの胸は締め付けられる。
幼い頃、不遇の環境に置かれたのは己だけだと思っていた。これ以下の環境はないだろうというほど、人としての尊厳すら与えられなかった過去は、誰にも理解されるはずがないと。結局、己とは対極にいるマリアベルは優しい両親や兄に愛され、真綿に包まれるように大切にされて、何の障害も受けずに生きてきたのだと、そう思っていた。
本当にこれは幻ではないのか?
見ただけでも気分が悪くなるようなこの光景が、現実に起こったことだというのか?
そもそも、これはレグルスの知るあのマリアベルの在りし日の姿だというのだろうか。
レグルスの自問に答えるように、白い仮面の少女が寄り添った。
『そうよ、これはわたしの記憶。マリアベルが捨てたもの。そしてあなたがきっと無意識のうちに探していたもの』
(探していたもの……?)
『ずっと、外の世界に憧れていたわ。シリウス様やフェリックスから聞く話は、とても面白かった。いつか、わたしも海の向こう側に行かれると思っていた。フェリックスは小さなわたしに約束したんだもの。わたしをいつか必ず呼び寄せてくれるって』
レグルスの耳元で、白い仮面の少女が囁く。
レグルスは不審げに眉を顰める。フェリックスといえば、マリアベルの周りをうろついているあのアルストリアの食客だ。気が付けば城内にあの男の姿を見ても、なんの違和感もなくなりつつあるのだから恐ろしい。人心掌握の術に長けた男だと感じていたが、その口のうまさといったら、あのマナですら裸足で逃げ出すことだろう。
そんなフェリックスが、まだあどけない少女の心を掴めないはずもない。
『わたしはその言葉を信じた。黒竜シリウス様と同じ、気高い一族が出でる門から現れた彼が、嘘を言うはずがないと思って。だって、わたしは竜の門を守るためにいるんだもの』
その言葉に、レグルスは瞠目した。
天へと至る唯一の道――竜の門は、ウィスト公国が代々守ってきたものだ。フェリックスはその門から現れたという。つまり、彼は竜か、または天へと逃れていった召喚士の末裔ということになる。
ウィスト公国の者達は、竜を敬愛し、それを守るためにこの島全土を世界から秘匿した。その門から出てきたものの言うことを、信じないというのはあり得ないのだ。
『だから、フェリックスの言う通りにした』
「あいつの言う通り?」
『そう。フェリックスは島の召喚士の名を所望したわ。わたしを呼び寄せるためには、それが必要だと言ってね。だからわたしは、数ある名を渡したの』
召喚士のみならず、魔法の力を持つ全ての種族にとって、名というのは重要な意味を持つ。
名を掴まれるということは、魂を掴まれるのと同じことだ。隷属か服従か。いずれにせよ、常に背後で刃物を突き付けられている感覚に近い。
帝国においても、名を渡すことによって貴族は皇帝へ忠誠を誓う。恐らくウィストでも同様で、大公への忠義の証として、名を渡していたのだろう。
白い仮面の少女は、虚ろに視線をさ迷わせる小さなマリアベルを見下ろして呟いた。
『わたしは幼すぎて、気づかなかった。周囲の大人たちも、大体、フェリックスには心酔していたわ。誰も、彼の行いに異を唱えようとしない。名を所望するあの男の異様さに気づきながら、見て見ぬふりをした。けれどその後、行方不明になる召喚士は後を絶たなかった――その大半は、フェリックスの信奉者と、わたしが名を渡した者』
レグルスはそこらに転がる肉塊を視界の端に置き、全てを察した。
彼らは皆、フェリックスによって喚び出され、更にマリアベルを召喚するための礎にされたのだ。
『わたしは誰かを踏み台にしてまで、国外に出たかったわけじゃない。国の支柱になりつつあった白の魔女が島から出られないのは当然のこと。そのことに不満なんてなかった。皆わたしを大事にしてくれたし、愛してくれたわ。確かに外に憬れていたけれど、それでも祖国が大好きだった。それなのに、外に出たと分かった瞬間、期待するのを辞められなかった。信じられないでしょう? こんな残酷な現実を突き付けられても、わたしは外の世界に出たという事実に、刹那の喜びを感じたの。ただフェリックスに利用されただけだというのに。わたしは、そんな自分が許せなかったわ』
仮面の少女はレグルスの耳元で自嘲気味に囁いた。
レグルスの脳裏に、ふとマリアベルの後ろ姿が浮かび上がる。
籠の中の鳥のように飼い殺されて、監視されるように城の中で過ごすあの人は、いつだって静かだった。そこに何の感情も浮かべずに、ただありのまま与えられた現実を見据えるだけ。その胸中に秘められたものは誰にも計り知れない。
時折、海の向こうを眺めていたあの人は、一体どんな気持ちでいたのだろうか。
マリアベルはフェリックスの姿を認めると、その腕を鷲掴み、ぞっとするほど冷たい視線を投げつけた。
フェリックスはそんな少女の刺し殺すような視線を正面から受けながら微笑み、その右手をとって恭しく唇を寄せる。
『さあ、約束は果たしました。ねえ、姫。初めての外の世界はいかがですか? 貴女を連れ出すのは大変でした。竜の因子を継ぐ姫よ。足りない魔力を補っても、結局貴女を御することは誰にもできない。けれどね、あの子は別です。あの子は、あなたの魔力を抑え込むことができる。姫も驚いたでしょう? 抵抗することもままならずに……』
マリアベルは言葉を呑んで、ただ虚ろにフェリックスを見下ろす。何故このようなことを、などという愚かな問いは決してしない。一言も言葉を発さずに、黙して唇を噛みしめる。さぞや、悔しかったことだろう。フェリックスの甘言に耳を傾け、名を渡したという愚行を、あのマリアベルが許せるはずもない。それも、己が望んだ結果だと知れば、なおのこと言葉もないだろう。
フェリックスは少女を見上げ、唇の端を釣り上げた。
魔力を抑え込まれては、得意の召喚術はおろか、どんな魔術も使えない。逃げる術などないのだと、はっきりと宣言されたようなものだ。
甘い顔で微笑んで、フェリックスは続ける。
『この塔の住人は、貴女を歓迎するでしょう。貴女と同様、魔女に生まれた者達がここにはたくさんいるのです。その中でも貴女は特別な人。最も気高く美しい魔力を持つ姫。さあ、いつものように笑ってください。このフェリックスめを呼んだあの優しい声で』
マリアベルがフェリックスの手を払いのけるのと同時に、空間にひびが入る。そして再び景色は暗転し、今度は無数の星が、闇の中で輝いていた。それまでの狭い部屋から、広い空間に変わったのだ。
そこは、硝子張りの薔薇の庭園で、色とりどりの薔薇がそれぞれ植えられている。硝子の向こうには白い尖塔が聳え、その塔の陰から満月がのぞいていた。月光が庭園を淡く照らす。そこに咲く深紅の薔薇。
あまりにも見覚えのある景色に、レグルスの鼓動が一気に高鳴る。
そして、次の瞬間疑念は確信へと変わる。
どこからか、必死で駆けてくる足音がする。次第に近づく音とともに、レグルスの心臓の音も大きくなった。
レグルスの背中に寄りかかるようにして、仮面の少女が『来るわ』と囁く。レグルスは思わず力み、刹那、息を止める。
雲が月を隠し、一瞬の闇が庭園に広がる。その時、軋む扉を開け、小さな影が飛び込んできた。荒い呼吸を繰り返し、背後を振り返って確認しては、よろりと走り出す。たびたび、甲高い笑い声が遠くで響き、怯えるようにして闇の中に逃げ込むが、疲れているのか足が縺れてうまく動かない。
闇を縫うようにして走っていた小さな影は足を止めて、空を見上げた。雲は風に流されて、青い月が現れる。
月光に照らされたのは、金色の髪に榛の双眸の少年――レグルス自身だった。
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