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第5夜 叛逆

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「また、ご贔屓にー! いらっしゃいませー!」

 城下町、大通りに面した喫茶店は随分と客の出入りが激しかった。
 一人の客が帰れば、入れ替わるように入店を告げるベルが鳴る。
 店の一番奥の一角を陣取ったネロは、頬杖をつきながら机の上に置かれた銀貨を指でひっくり返し、つい先ほどまで目の前にいた人物のことを考えていた。
 いつも肌身離さず嵌めている銀の指輪。あれと同じものを、ネロはつい最近見たばかりだった。

(結局、彼は一体何者なのだろう)

 くすり、と口角を上げる。
 この国に留まる傭兵は、ウィスト侵攻の際に雇われて来たはいいが、終戦後に大陸へ戻る手段を失ったもの達だ。ここに留まる間に金は使い果たし、どこぞで傭兵を集う知らせを聞いては、そこへ向かう。
 彼がその傭兵連中と同じだとは到底思えない。身のこなしや立ち振る舞いから、よく律せられた軍人の気配がする。
 青い瞳に黒い髪。それだけ聞けば、この国では珍しくない。だが、どうにも彼がこの国の生まれとは思えぬのだ。あの目は、普通の人間が持って生まれる色ではない。――そう、かつて見た竜の目に酷似しすぎている。
 右目の眼帯だけは頑なに外そうとはしないところを見ると、何かあると睨んではいるが、容易く口を割ってくれるほど単純な男でもあるまい。

(レグルスを殺るのか……ね)

 初めて会ったときに、レグルスに勝てるわけがないと言い切ったのは、他でもない彼自身だ。
 互いに腹の探り合いの状態であったことは確かだ。

 ネロは、そこかしこに張り付けてある、手配書を一枚剥ぎ取った。
 その手配書に描かれている姿絵をじっと見つめ、ふと笑みを漏らした。

「一体誰に描かせたんだか」

 整いすぎた目鼻立ちは精巧な人形のよう。青白い頬や瞳には生気がない。輪郭を縁取る黒髪は、緩く束ねられている。あまりに中性的な顔立ちは、世の男女を知らずのうちに魅了していたのだろうか。かつての輝きはなく、断罪を待つ罪人のようにも見える。
 セドリック・ジェンシアナ=ウィスト。本名はもっと長いのだが、手配書に書いてある名はそれだけだ。
 こんな、絵に描いたような美麗な男がいるものか。
 探す気があるのかないのか、いまいちよく分からない。

 窓から透ける外を省みれば、彼が言っていたように、珍しくもない大陸の行商人が行き来している。
 それから、商船から下りてきた、鋼や銅、銀やミスリルといった、この国の鉱山では取れないもの、それから大量の魔石加工品、大陸から輸入した穀物を城へと運ぶ馬車が通る。
 ウィストの食糧の殆どは、西領の農耕地帯で賄われている。
 ここからの食糧供給が絶たれれば、どうしたって輸入に頼るしかない。
 だが、今は食糧供給を完全に絶っているわけではないし、公正な配当とは言えないが分配だってしっかり行っている。
 貴族の多くは東領に本邸を持ち、西領に別荘を持っている。
 大公の招致や議会の召集や緊急事態が起こらない限りは、別荘や所領で農耕や魔石の加工などをして過ごす。
 ただし、騎士上がりで爵位を得た貴族は例外である。常に城や駐屯地にて過ごすのだ。
 それなりに食糧の備蓄はあるはず、臨時でかき集めねばならないような状況などそうそうない。

 どうやら、ようやく重い腰を上げて、動きを見せてくれたらしい。

「城下町まで来た甲斐があったな」
 


 ◇



「おにーさん、いつまで寝てるんだい?」

 勢いよくカーテンが開けられ、朝日が部屋を満たす。眩しさに呻くレグルスを見下ろして、アルはにっこりと笑った。

「おはよ。また寝坊だね」
「勝手に入ってくるなと何度言ったら……」

 既視感に重い頭を上げると、アルはレグルスが思いもよらないことを言う。

「ベル姉が来てるよ」
「ベル……」

 呂律の回らない調子で呟いて、レグルスは毛布を跳ね除けて飛び起きた。

「ベル!?」
「うん、そうだよ」
「ベルって、この間の女のことか?」

 レグルスは、声を平坦にして、用心深く訊ねた。

「そうそう。俺、ベル姉におにーさん紹介するって約束したんだ」
「待て。俺にも心の準備が……」
「そんなもの、いらないってばー!」

 渋るレグルスを追い立てるようにして支度を済ませ、アルは満足げに頷いた。

「おにーさんは、俺の自慢の剣の師匠なんだから」
「師匠じゃなくて、子守係の間違いだろう。ていよく押し付けやがって……」
「まー、細かいことはいいじゃないか!」

 子守係りを押し付けていることを否定しないところを見れば、図星なのだろう。アルはにやにやしながらレグルスの背中を押して、そのまま中庭へ出た。

 そこここで咲く竜胆と、丹精込めて作られた野菜や果物が植えられた庭には、孤児院の子ども達が集まっていた。
 恐らく、この孤児院にいる子たち全員だろう。その中心にいる人は、確かについ先日、レグルスが城下町の小路で会った女だ。
 レグルスの位置からでは、顔を確認することはできないが、艶やかで美しい黒髪に、華奢でいてたおやかな身体。柔らかそうな白肌と、折れそうなほど細い腰周りはひどく頼りない。
 そんな女が、己を餌にして帝国兵を釣って歩いているのだ。
 考えるだけでも無謀だと分かる。何より、捕まってその後何をされるのか想像するだけで腹が立つ。
 今日だって、子ども達の目がなかったら、何故こんな遠くまで来たのかと説教を垂れたい気分だ。
 そんなレグルスの苛立ちなどお構いなしに、子ども達はベルの膝元に集まって瞳をきらきらと輝かている。

「大陸のお話聞かせてー!」
「ベル姉、今度ね、わたし魔術学院に入れることになったんだ! 試験で一番だったのは、ベル姉と、ソフィ先生とマナ女史のおかげなんだよ!」
「ベル姉、またあの魔法みせて!」
「みせてー!」

 子ども達はその女の一体何がいいと言うのか、嬉しそうに話しかけては、弾ける様に笑った。
 いつもならば、レグルスが出てきただけで群がってくる子ども達も、今はベルに夢中で誰もレグルスのことなど振り返ろうともしない。
 いつも鬱陶しいほどに遊んでとせがんでくる割には、なんとも薄情な子ども達だ。

 その子ども達の輪から外れたところに、ひとりぽつんと佇む子どもの姿に、レグルスはすぐに気づいた。
 いつもならば、そういう子はソフィが声をかけるのだが、今はその姿が見えない。
 何より、その子は他の子とは纏う雰囲気が異なっていた。レグルスがこの孤児院に厄介になり始めてから一度も見たことがない少女だった。
 どこか儚く、そして寂しそうにしているのだ。
 孤児院の子ども達は皆、兄弟姉妹のように仲が良い。中には確かに大人しくてなかなか輪に溶け込めない子もいるが、そういう子は大体、年上が気を利かせて輪の中にいれるのが普通だった。
 それなのに、誰もその子を気にも留めない。その違和感に、レグルスはその少女を見ずにいられなかった。
 レグルスの視線に気づいたのか、少女が顔を上げる。その顔を認めた刹那。レグルスは息を呑んだ。
 アルが隣で何かを言っていたが、レグルスには意味のない言葉として耳を通り抜けていくだけだ。 
 抜けるような白い肌に、薔薇色の頬。ゆらめく海底のような美しい瞳。背中にかかる髪は眩い流星。二つとないその姿。
 その形の良い目がレグルスを捉えた瞬間、それまで肌に感じていた生ぬるい熱は失せて、全身粟立った。
 全てがゆっくりと動きを鈍らせ、鼓動すら止まってしまいそうになる。隣に居たはずのアルも、庭の子ども達の姿も砂のように崩れて、ただレグルスと少女だけがその場に存在した。それなのに、子ども達の明るい笑い声だけが、いつまでも反響している。
 レグルスは無意識のうちに、少女に手を伸ばしていた。少女もまた鏡に映したように、レグルスと同じ動作をする。

『あなたは、誰?』

 答えたくとも声が出ない。喉に強力な何かが張り付いたように、ただ、吐息が漏れるだけだ。
 レグルスもまた、心の中で少女へ問う――あなたは誰だ――。

『どうして、わたしが見えるの?』

 不思議そうに首をかしげ、硝子のように透き通った瞳が、レグルスを射る。

『あなたが、わたしの王子さまなのかしら……』

 何を、訳のわからないことを。そう口にしたくとも、できない。
 曇りない、澄んだ青い瞳は海の底のように美しいが、何を考えているのかさっぱり読めない。
 レグルスの手を取って、じっと見上げてくる顔がいかに可愛かろうが、言葉の出ないレグルスを困ったように見つめていようが、知ったことではない。
 これは彼女ではないのだ。彼女がどうせまた、レグルスの心を覗き込んで、マリアベルの姿を模しているだけに過ぎないのだろう。
 思いが掠めた刹那、レグルスは思いっきり舌打ちした。
 それでは、レグルスがマリアベルのことをいつも意識していると認めたようなものだ。
 それとも、もう認めざるを得ないのか。
 先の経験で分かっている。こいつらはそうやってレグルスの深層心理を自覚させて、目を背けてきたことを見せ付けて、揺さぶりをかけてくるのだ。
 これは幻だ、惑わされるな。
 どんなに言い聞かせてみても、幼いけれど確かにマリアベルの面影がある少女を目の前にして、平常でいられるほど今のレグルスの精神は安定していない。
 あの時の、【マリアベル】の言葉がふと浮かぶ。

 ――探して欲しいの。わたしを

 あの時、レグルスは断るつもりだった。
 正直、もうこれ以上わけの分からないことに付き合うのは真っ平だったのだ。人智を超えた何かが起こっているのだとしても、それが何だ。大体、彼女の言うことは意味が分からなかった。結局、たった一言が出てこなくて、彼女はどこか確信めいた笑みを浮かべたまま、消えてしまった。
 
 それまでの中庭の喧騒はかき消され、レグルスの耳には水晶がぶつかりあうような、涼しげな音が鳴り響く。一度聴いたら耳から離れないような、優しく儚い至上の音色は、先の見えない暗闇に包まれた空間すら光明で照らし出すような響きだった。
 音が止んだ後、少女の姿がぼんやりと霞む。空間が水面のように揺らめいて、眩い光が辺りを包み込んだ。
 目が眩みそうになるのを、腕で遮ったその刹那。レグルスの身体は浮遊感に包まれた。
 ぐん、と視界が反転し、光の渦にそのまま身体が引きずり込まれる。

 一瞬のことだった。目を開ければ、目前に広がるのは夕暮れの静かな海だった。小高い丘の上に聳える白亜の城壁は、金色に染まって荘厳とした雰囲気を漂わせる。
 バルコニーには、ちいさな少女が立っている。銀糸のように艶やかな髪が印象的だ。
 もしかして、とレグルスは少女に近づく。けれど、レグルスの姿は透けて、影の一つすら残らない。そこここにあるものに触れようとしても届かずに、すり抜けていく。

 少女はひとり、海を眺めていた。
 行き交う船もなく、静寂に包まれた海原。湿った風が磯の香りを運んできて、少女の頬を撫でる。
 空と水平線が混ざり合い、果てなく続く海の先にあるのは、大陸だ。太陽の光を乱反射する水面に、幾つもの潮の花が浮かぶ。
 少女は思慕と憧憬を抱いて、その海の向こうを見つめていた。 
 どこか寂しそうに見える小さな背中と、足元でうずくまる影を見つめて、レグルスは声をかけることもできない。レグルスは、ただの傍観者にすぎなかった。
 美しい白銀の髪がふわりと風に揺れたその時。レグルスをすり抜けて、ひとりの少年が現れる。

『マリア、司祭様から聞いたよ。また、途中で逃げ出してきたんだって?』
『セディ兄さま!』

 ばつの悪そうな顔を浮かべ、マリアは振り向いた。レグルスは声が上がりそうになるのを必死で堪える。
 柔らかな輪郭、肌は真珠、頬は薔薇色。遠目からでも分かる愛らしい姿。
 花びらのような唇を尖らせ、マリアは言い訳がましく弁明する。

『逃げてなんてないもの。お休みしましょうって司祭さまが言ったから、ちょっとお休みをいただいただけですわ』
『おかげで、城中大騒ぎだったみたいだよ。マーサもライアンも、真っ青な顔だったんだからね、このお転婆め。あまり、心配をかけると、皆倒れてしまうよ? 大体、外に行ったら司祭さまの雷が落ちるって分かってるだろう?』

 肩を竦めるセディに手招きをして、マリアは夕陽に染まって金色の道が浮かぶ海を眩しそうに眺めた。

『そんなことよりも見てください、兄さま。とってもきれいな夕焼けよ。わたし、こんなにきれいな夕焼け見たの、初めてです』
『そうかな?』
『ねえセディ兄さま。どうしてマリアは、お外に出てはいけないの? 今日はどうしても、教会に行かないとだめなのに』
『もしかして、またシリウスさまのところ?』

 マリアの顔を覗き込んだセディは、子どもながらに見目がよく、優美な顔立ちをしている。そう、マリアの顔とそっくりだった。ただ違うのは、漆黒の髪、その一点のみだ。二人が兄妹であることは、一目で分かった。
 問われてマリアは気まずげに、手にしていた一輪の竜胆を背に隠す。

『ち、ちがいます』
『外に行っちゃいけないとは言わないけれど、外は危ないってこと、マリアはちゃんと分かってる?』

 諭すようなセディの言葉に、マリアは不満げに鼻をならした。

『兄さんだって、マリアにこんなこと言いたくないけれど、司祭さまの言うことだって間違ってないんだ。たまたま、シリウスさまのような方に出会えただけで、マリアが思ってるよりもずーっと、外の世界は危ないことだらけなんだ』
 
 マリアはしゅんと俯いて、頭を振った。

『だから、ちがうと言っていますのに。お言いつけどおり、外になんて行きません』
『ふーん? じゃあ、そんなにめかしこんで、一体どこの誰と会うっていうの? どこかのお姫さまは、大好きな王子さまに会いに行く以外は、全然身なりなんて構いやしないじゃないか。この間なんて、寝起きのぼけた顔のまま、お祈りに参加したんだって?』
『その話、もしかしてマーサから聞いたのね! 大体、あれは、セディ兄さまがおそくまでこわいお話を読み聞かせてくるから!』

 にやにやとするセディの背中をぽかぽかと叩いて、マリアは頬を膨らませてむくれてみせる。セディは全く動じることもなく、肩を竦めた。

『悪かったよ。マリアが眠れないって言うから、とっておきの話を聞かせてあげたんじゃないか』
『夢喰いアリーのお話なんて、よけいに眠れませんでしたもの。セディ兄さまはいじわるです』
『大丈夫だって。マリアは寝起きでもとびっきり可愛いじゃないか』
『そんな、おだてたってもうセディ兄さまの言うことなんて、信じませんもの』

 つんとそっぽを向いた先に、粛々と回廊を渡る貴婦人の姿がある。上品な卯の花色のドレスに良く映える黒髪。瑠璃色の眼差しは優しく、二人の子どもを映し出す。

『ふふ。わたくしの可愛いお姫さまは、どこかにお散歩かしら?』
『おかあさま!』

 しまった、と言う風に首をすくめて、マリアはこっそりとセディの背後に隠れる。 

『こっちへいらっしゃい。一緒にお茶を飲みましょう?』

 くんくん、と匂いをかいで、マリアは途端に満面の笑みを浮かべて頷いた。
 蜂蜜の香りと、甘い焼き菓子の香り。それから、紅茶の芳しい香りがする。
 マリアは嬉しそうに母親と手を繋いで、景色の良いテラスへと向かう。用意された机の上には、ティーカップと銀のポット、それからバスケットには焼きたての菓子が置かれている。マリアは目を輝かせ、母親を見上げた。

『今日はね、おかあさまが焼いたのよ』
『ほんと? マリアね、おかあさまのお菓子と、リコのお茶が大好き!』

 素直で、純粋で、時に強情。くるくると表情を変える姿は愛らしい。
 椅子にちょこんと座って、足をぶらぶらとさせるマリアに、母親は微笑みを浮かべたまま訊ねる。

『黒竜の君が、発つそうですね』
『おかあさま、知っていたのですか?』
『もちろんですとも』

 しゃがみ込み、マリアと同じ目線で優しく微笑んで、彼女は頷いた。

『シリウスさまと、離れたくありません』

 柔らかく、優しい手が、泣くのを堪えるマリアの銀の髪を梳く。

『おかあさま。シリウスさまは、海のむこうに行ってしまうのです。お城の外よりもずっとずっととおくの海です。マリアは、どうすればついて行けますか? 司祭さまはぜったいに、国の外に出てはいけないというけれど、海のむこうは、どうなっているのですか? お空と海がくっついて、シリウスさまの瞳のように、きらきらした青がたくさんあるのでしょうか?』

 マリアは、純粋な好奇心を母親にぶつけた。マリアの世界はとても狭く、手の届くところしか世界を知らないのだ。

『マリアも、あの海のむこう側に行けるでしょうか?』 
『あら、マリアはこの国から出て行きたいの?』

 少し俯いて考えて、マリアは首を振った。

『よく、わかりません……。司祭さまは、わたしが国を出る必要なんてないって言うし、わたしがおいのりをしないと、国の守護がくずれるって……マリアがたくさんの人とふれあうのは、よくないとおっしゃるのです。悪いことが起こるからって。いちにんまえにならないうちから、外に出るのはいけないことですか? シリウスさまと離れたくないと思うのは、いけないのでしょうか?』

 不安そうに見上げるマリアを、母親は優しく抱き締めた。

『国の外には、あなたを惑わす悪い人たちがたくさんいるのは、曲げようのない事実です。司祭がそのように言うのも、間違いではないわ。けれどマリアベル。あなたの世界はとっても小さいわ。いつかあなたは、この国を出て、自由におなりなさい』
『けれど、わたしはおかあさまと離れるのはいやだと思うのです。でも、海の外に何があるのか、それも気になってしまうのです。おかあさまは、わたしが国を出る時には、ついてきてくださいますか?』
『まあ。マリアはおかあさまも連れていってくれるの?』

 マリアの頭を優しくなでて、母親は微笑んだ。セディは欲張りなことばかり言うマリアに苦笑を浮かべる。

『この間は、僕を連れて行くって言ってなかった?』
『セディ兄さまは、何も言わなくたって、どちらにしてもマリアの後を追ってくるに決まっていますもの』

 レグルスを見上げ、マリアはふわりと花咲くように笑った。
 あどけないけれど、きっと誰もが振り返るほど、愛らしい笑顔を向けられて鼓動が跳ねる。
 この少女は、マリアベルの幻影なのだ。
 あの魔女が、この先レグルスをこんな風に見つめることなど、天地がひっくり返ったって有り得ない。
 だからこそ、少女の笑顔をしかと目に焼き付けようと、レグルスはじっと少女の顔を眺めた。 

 その時、また、レグルスの耳元で、水晶が砕けるような、涼しげで優しい音色が響く。空間は水面のように揺らめいて、マリアベルの笑顔がぐにゃりと崩れた。

 現れたのは、ぼさぼさの黒髪と、青い目をしたどこか荒んだ男。しかしその面は、この世のものとは思えないほどに整っている。
 レグルスは確かに彼に見覚えがあった。
 以前一度、夢か幻の中で見た姿だが、あの時とは違い、男はどこか虚ろな顔をしていた。
 その顔を見上げて、マリアは足元に縋った。
 吐息は白く、空へと上って消えていく。

『姫君は、また城を抜け出してきたのですか? 俺のような無骨者が、貴女のような可愛らしい方に一途に慕っていただけるとは、俺は本当に幸せものだ』

 擽ったそうに笑って、マリアはシリウスを真っ直ぐに見上げる。

『シリウスさまは、わたしを置いて、とおいところに行ってしまうのですか? もうお会いできないのですか?』

 男は、マリアの視線にあわせてしゃがみ、節くれた大きな手で不安げな顔をする少女の頭を優しく撫でた。

『そんなことはありません。いつかきっと、お会いできるでしょう』
『いつかって? マリア、シリウスさまと離れたくありません……』

 マリアの瞳は、深海の底に差す光のように、揺らめいていた。
 澄んだ瞳に浮かぶ純粋な思慕を真っ直ぐに受けているのが己ではないと分かっているのに、レグルスの胸はざわめいた。
 マリアベルが、この男のことを慕っているのは一目瞭然だった。上気した頬、ちょっとしたことで弾んでは沈む声。傍にいるだけで、ただただ、嬉しい。そんな真っ直ぐな思いがレグルスの中に流れ込んでくる。
 けれど、男はこれから旅立つのだ。男を心から慕う少女を置いて。
 きっと、もう二度と会うことはない。
 胸が張り裂けそうなほどに悲しげな瞳が、ただシリウスを見上げる。
 その愛らしい目は潤み、今にも美しい雫が零れ落ちそうになる。
 レグルスは、そんなマリアの表情に動揺した。まるで、あの時のようだ――マリアベルと初めて対面したあの時の。
 
『ああ、姫君……。俺を許してください。どうか、そのように悲しまないで……』

 シリウスは青玉の瞳を伏せた。それまで無機質だった男の瞳に、哀愁の陰が差す。

『マリアベル。あなたが俺のようなものを慕ってくれるのは、本当に嬉しい。けれど、あなたに近づくたびに、俺は己の業の深さを思い知らされる。あなたとこうして過ごしても、結局あなたをひとりにしている……』 
『そんなことない! わたし、シリウスさまがいればそれでいいの!』

 マリアは首を振って、ぽろぽろと涙を流した。

『シリウスさまのルナリアになれるのなら、マリアベルなんていなくていい!』
『どうか、そのようなことを言わないで。その言葉を聴いたら、あなたの大切な人たちが、きっと悲しみます』

 優しく諭すような口調に、マリアははっとしてぴたりと泣き止む。

『あなたは、あなただ。ウィスト公国に輝く、海の星マリアベル。天の星を映した水面よりも、海底のそこから辺りを照らす美しい白星。マリアベル、あなたは彼の竜ルナリアではないけれど、それでいいのです。俺は、マリアベルに出会えて本当に幸せだ』

 心からの言葉に違いない。シリウスの笑みを見て、レグルスは確信した。
 マリアはきゅっと唇を引き結んで、シリウスを見上げた。 

『あなたの世界はとても小さい。もっとたくさんの人にふれあいなさい。もっとたくさんの人の心を知りなさい。そうすれば、あなたの世界は、もっと広がる』

 マリアは頷いて、きゅっと唇を引き結んだ。

『……シリウスさまの幸せを、ここからお祈りしています。どうか、お元気で』

 そう言って、少女は手にしていた一輪の竜胆を静かに手渡した。

 風に揺れる青紫の花はどこか優美で涼やかだ。

 ――あなたの悲しみに寄り添います

 散々、孤児院の子ども達から教えられた花言葉を思い出し、レグルスは今にも泣き出しそうな顔で笑う少女の顔を見つめた。

『さようなら、わたしの王子さま』

 頬に伝う涙が、自分のものなのか、それとも男のものなのか、レグルスには分からなかった。
 少女の言葉はただ、レグルスの心を刺すのだ。
 心臓がいつも以上にうるさい。
 全身が脈打って、血潮が沸騰しているようだった。

 刹那、脳裏に過ぎるのは、茨に絡まれた白い塔。

 塔の頂上まで延々と続く階段は、見上げるほどに暗闇に包まれ、仄かな灯りが闇の中をぼうっと照らす。
 そこここで魔女達の嗤い声が反響し、レグルスを追い立てる。
 魔女達は、レグルスを逃がして、捕まえるのを何よりの娯楽にしていた。
 どうせすぐに捉えられると分かっているが、頑丈な鉄の檻から逃げ出して、美しい深紅の薔薇が咲く庭を駆け抜ける。
 その先には、顔のない少女がいた。
 どこか鬱屈とした塔の中で、その少女だけは、レグルスにとっての光だった。
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