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第4夜 竜の教団、白の聖女

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 薔薇色に染まる空の下、人通りが殆どない裏路地に、ひっそりと青い魔方陣が現れた。
 次の瞬間現れたのは、フード付きの藍色のローブを目深に被った魔術師だ。やぼったいローブからは伸びやかな四肢が覗き、抜けるような白い肌が薄暗い中で一際目立った。はらりと落ちる黒髪は、鴉の濡れ羽のようで、すらりとした首からは、乳白色の魔石が嵌められたペンダントが下がっている。華奢な体格の、至って地味な雰囲気の魔術師である。
 彼女は、ずり落ちてきた銀縁フレームの眼鏡を人差し指で押し上げて、まばらに帰途につく人々とすれ違いながら、黄昏に佇む教会の門へと辿りついた。倉庫街を通り抜けた先にあるその古い教会は、聖母を象った美しいステンドグラスがあることで有名である。
 軋む音を立てて教会内の回廊を進むが、黄昏時に礼拝に訪れる信者はいない。木造の礼拝堂に足を踏み入れるのは、彼女一人だった。礼拝堂内で祈りをささげる人影をじっと見つめ、彼女は真ん中の列の椅子に腰かけた。
 長い祈りが終わり、人影が振り返る。夕陽が落ち始め、相手の顔はよく見えない。

「待っていたよ」

 焦がれたような男の声が、静寂の礼拝堂に響く。そして静かに、彼女に近づいた。その手には、瑞々しい、一輪の竜胆が握られている。
 彼女は僅かに息を飲み、面を上げる。浮き上がる白い頬に慈しむように触れ、彼は優しく微笑んだ。

「セドリック兄様……」

 そう呟いた彼女のフードが落ちる。澄みきる青い瞳は、男のそれと同じ色をしている。
 中性的な顔立ちの、彼女とよく似た面影の青年の顔は、蒼白としている。儚げで、今にも消えてしまいそうだ。
 マリアベルは、ローブの裾をつまみ、淑女の礼をとった。

「お変わりないご様子で、何よりです。兄様」
「ようやく会えたね。マリア。さあ、顔をよく見せて。辛い目にあってはいないか?」
「兄様が心配されるようなことは、何も」
「相変わらず気丈だな。だが、私の前でそのように振舞う必要なんてない。お前は、私の大事な、たった一人の妹なのだから」

 眉ひとつ動かさないマリアベルの頭を撫で、セディは、マリアベルの髪に竜胆の花を挿した。
 竜胆の花言葉を知るマリアベルは、兄のさりげないその行為に目を瞠る。

「私にさえ、胸のうちは見せられない?」
「そのようなことは……」
 
 視線を逸らすマリアベルに、セディは苦笑を浮かべる。長椅子に腰掛けるセディの隣に腰掛けて、細々と落ちていく夕陽を眺めた。

 暗くなる教会内で、燭台の明かりが自然と灯る。暖かな橙色の光を受け、セディの白い横顔が浮かび上がった。古い長椅子を指の腹でなぞり、セディは囁いた。

「覚えているかい? この教会――」
「もちろん、忘れるはずもありません。シリウス様と初めてお会いした場所ですもの」

 マリアベルは僅かに口元を綻ばせた。セディは、ほんのりと頬を染めるマリアベルに瞠目する。

「そうそう。ここに偶然、門が開かれて、竜が現れた。マリアは、いつも楽しそうにシリウス様の話を聞かせてくれたよね。突然現れた、マリアの理想の王子様」
「茶化さないでください。今でもシリウス様は、わたくしにとっては理想の王子様です」

 マリアベルが幼い頃。親にも内緒で城を抜け出し、この教会のステンドグラスを見に来ていたあの日。
 この教会に、天へと至る門が開かれた。
 ウィストが建国以来、長期に渡って守り続けてきたそれとは違い、偶発的に開かれた門だった。
 そこでマリアベルは、シリウスと名乗る黒竜に出会ったのだ。
――刹那、体中に衝撃が走った。
 生まれて初めて見る、宝玉よりも美しい、鮮やかな青い瞳。しかし、氷のような冷たさを孕んだその目。闇に溶けるような漆黒の鱗は傷だらけ。力なく広げられた翼はところどころ破れ、鋭い牙が剥き出ていた。裂けた口から洩れる吐息は熱く、鋭い鉤爪は教会の床を抉った。
 親や祖父母からは、竜の存在について散々聞かされ、ウィスト公国が存在する意味を延々と説かれていたが、初めて見るその姿は、あまりにも美しく、気高かった。
 恐怖よりも、畏怖と敬愛の念がマリアベルの胸に溢れた。どこか懐かしささえ感じる、美しい青玉の瞳に、吸い込まれてしまいそうで。マリアベルのマリンブルーとは違う、それよりも深い青に、幼い姫は瞳を輝かせた。
 怯えなどあるはずもない。ただ、突如開かれた門から現れた黒竜の、ほんのりと温かい鱗に小さな手で触れ、額を寄せる。

――はじめまして。わたしの竜さま。

 無邪気に微笑み囁けば、突然、黒竜は光の渦に飲み込まれ、光が収まる頃には、マリアベルの前に見知らぬひとりの青年が立ち尽くしていた。
 病的に青白い肌に、擦り切れたローブを身に纏い、端正な顔は歓喜と憎悪に歪んでいるようにも思えた。 
 マリアベルの白銀の髪を梳いてから、彼はその場に泣き崩れた。 
 あの時は、マリアベルも幼くて何故黒竜が涙したのか分からなかった。
 しかし、今ならば分かる。
 シリウスが求めた彼の方と見間違えるほどに、マリアベルの白銀は異質だったのだ。
 大陸では一部のものから白の聖女と囁かれ、ベリアードを崩壊へと導いたあの、白竜スピカと――。

「皆、妄言だと取り合ってくれませんでしたけれど、兄様はいつも、わたくしの話を聞いてくださいましたね」
「マリアは嘘をつくような子じゃないだろう? 妄言にしては、あまりにも具体的だったし」
「兄様の助け舟がなければ、わたくしは頭のおかしな、嘘つき娘の汚名を着せられていたでしょう。ただでさえ外出を制限されていたのに、その上妄想壁のある娘だと決めつけられれば、今でも自由はなかったのでしょうね。国から出ることもなく、この国を覆う幻術を維持するために、一生拘束する理由にでもされていたかもしれません」

 気まぐれのように、自由を与えてくれたあの男には、ある意味感謝している。
 今はアルストリアに籍を置いているが、かつてはウィストの研究機関に在籍していた彼の男。ウィストの絶対防衛の象徴である魔封壁を開発したのも、幻術を維持する方法を考案したのも彼なのだ。
 彼はあらゆる実験を好み、多様な魔術を生みだした。その探究心は尽きることがなく、貪るようにあらゆる分野の知識を吸収していった。
 ある時ふらりと現れて、そして突然いなくなった彼の者の名は、フェリックス。
 ウィストの多くの人々を――いや、マリアベルの想いを裏切り、沢山の召喚士を道連れに国を出ていった彼は、何を思ってか、再びこの地を訪れた。
 ウィストの存在を、あの狂皇子ルークにもたらしたのは、フェリックスとみて間違いないだろう。
 元々、行動の読めない男であったが、魔女の潜むアルストリアに在籍する辺り、どうもきな臭い。
 
 逡巡するマリアベルに、セディは肩を落とし、呟いた。
 
「すまない。マリアにばかり、いつも嫌な思いをさせている。私は安全な場所で、後見人に――バーベリド卿に守られて。無力で、不甲斐ない兄だな。こんなにも、冷たい顔をする妹の傍にさえいられない。情けないよ」

 無意識にローブの裾を握り締め、セディのまっすぐな視線から顔を逸らす。

「そんなことはありません。兄様はいつでも、わたくしを守って下さっていた。大陸にいたときもそう。わたくしはいつも、兄様に守られてばかりです……。あの手紙を受け取った時から、悪い予感はしておりました。兄様は、いつも無茶をなさるから。わたくしの髪の毛の色を変えたときもそう」
「覚えてるよ。肖像画完成のお披露目の時、私は父上に頭を引っ叩かれたんだ。忘れもしないさ」
「兄様が生きていると分かった時、どれ程嬉しかったことか」

 あの結婚式の夜。ウィルとのダンスの最中、兄存命の話を聞き、マリアベルの世界にはほんのりと色が戻った。
 灰色に染まりつつあった自分の世界に、一筋の光が見えたのだ。
 浮き立つ心を押さえきれず、氷の仮面がはがれてしまうほど、あの時ほど、マリアベルの表情が崩れたことはないだろう。
 揺らぐ蝋燭の火を眺め、セディはぽつりと語りだした。

「帝国が攻めてきたあの時、私は丁度、父上のご命令で、西領の視察に赴いていて城を離れていた。新しくできた研究施設の視察だった。まさか、国が暴かれるなんて誰も想像していなかった。ウィストを知る人間は限られているしね」

 異変に気付いた時には、もう幻術は破られていた。それからはあっと言う間だったという。
 ルーク皇子が率いる軍団が、首都を目指して一気に侵攻し、沢山の同胞が散っていったという話は、西領にもすぐに伝わったそうだ。
 セディは淡々と続ける。

「奴らは女性を手当たり次第捕まえて、魔女を炙り出そうとしたみたいだ。目的がお前だとすぐに分かったよ。……私も剣を取って戦いたかったけれど、一緒にいたバーベリド卿に必死で止められてね」

 後にも先にも、あんなに必死なバーベリド卿は見たことがなかった――セディは苦笑を浮かべる。
 代わりに、セディの剣術の師範でもあるアレン・ハーデンスが、激戦区と化したブルーム郊外で善戦したが侵攻を食い止めることはできなかった。

「力及ばず、悔しかったよ。戦場にいながら、自分の無力さに苛立ってね。――私に出来ることは、お前に帰ってくるなと伝えることくらいで……。そう、お前に手紙を出して一月も経たないうちに、帝国の軍勢がジェンシアナ城の城門を破ったという話を聞いて。公国屈指の魔封壁をどうやって突破したのか、今でも我々の間では議論されているけれど、恐らく内部に、術方程式を解ける奴がいたのだろう。あんなに複雑な方程式を解ける者がいるなんて……」
「……そうだったのですね」

 あの時の苦い思いが込み上げてきて、マリアベルはたまらず、俯いた。
 遠い地で、何もできずに歯噛みした。
 ただ、耳に入る報せを頼りに、皆の無事を祈るばかりの状況は、苦しかった。
 魔封壁に用いられた術式は、実に複雑だ。それを解けるものは、生まれついての天才か、もしくは術式を生みだした本人であるかのどちらかだろう。
 恐らく後者――即ち、フェリックス・アルストロメリア=フィンメル。
 マリアベルは擦り切れたローブの裾を握りしめた。
 
「だが結局、マリアは自分から飛び込んでしまったね。お前を助ける為なら、私は何だってできるのに……」
「兄様……」 
「お前は、帝国の人形などではないのだ。思うがまま生きて、幸せになるべきだ。マリアがそんなに、心を閉ざす姿を、私は見たくない。マリアには、心から笑って欲しいんだ……」
「わたくしは、人形でも構わないと思っております」

 むしろ、人形に成り下がれたら。
 悲しみを捨て、憎しみを捨て。何も感じなくなれたなら。
 今のマリアベルにできるのは、これ以上傷口を広げないように、心を厚い氷で被うことだけだ。
 しかし、マリアベルが人形に成り下がろうとするたびに、レグルスの影がそれを阻む。
 何故?
 己は飾りだ。この国の象徴で、彼の妻。内側から扉を閉ざした、籠の鳥。鳴けと命じられればいくらでも美しく囀ってみせよう。
 しかしそれだけでは、彼は満足しない――。

 今でも、幼い頃の夢を見る。
 母はマリアベルの髪を梳かしながら優しく唄を歌い、父はかつての武勇を聞かせてくれた。兄は幼いマリアベルを膝に乗せ、本を読んでくれる。穏やかな日々が、いつまでも続くと信じて疑わなかったあの時。
 他愛もない喧嘩をして、母を困らせた。
 せっかくの肖像画を台無しにして、兄がこっ酷く叱られた。
 返しきれないものを、毎日、毎日。沢山与えられた。母は、もらって当たり前のそれを、返さなくてもいいと言ったが、心を暖かくするそれを、マリアベルも沢山返していきたかった。
 しかし、それはもう返すことができない。 
 どれほど望んでも、一度壊れたものは、元に戻らない。

 愛しい日々の記憶を捨て去って、何もなかったことにして。
 そうしたら、楽になれるのに。
 幸せな在りし日を思い返すたびに、冷たい水底に突き落とされるような感覚が、マリアベルを襲う。
 もう、取り戻せないと分かっている。己を守る為に、死んでいったものたちのためにも、生き続けなければならないと分かっている。
 魔女と謗られ、忌み嫌われた娘でも。国を出てはならないと言われた身でありながら、海を超えて、受け入れてくれた人達の為にも、安易に命を絶つことはできない。
 それでも、この先の危険に身を投じようとするのは、消えてしまいたいと強く願うからだろう。
 心置きなくかの皇子を葬り去ることもできただろうに。レグルスが思うような、復讐に燃える冷酷無慈悲の魔女になれただろうに。なまじ、慈悲の心があるばかりに、己が成し遂げようとすることの非道さに、時々慄くのだ。
 いっそのこと、本当にレグルスの道具になれたら。或いは無慈悲に彼の国を傾けることができるのだろうか。
 その後、両国がどうなるのか想像さえしなければ、容易いこと。

「……兄様。わたくしはウィストが好き。この国を守るためなら、わたくし、喜んで帝国の人形にでも、籠の中の鳥にでも、悪の魔女にでもなってみせます。わたくしにはもう、この国と、セディ兄様しか残されていないのですもの」

 マリアベルは、セディの手に自らの青白い手を重ねて囁いた。
 もし、この国も、兄も残っていなかったら――この先、兄を失うことがあれば、正気ではいられぬ。
 己を唯人として愛してくれるのは、兄と、一握りの人達だけだ。
 人として扱われる限り、最後の箍は外れない。ただゆっくりと、心が死んでいくだけ。
 そう考えると、腹が底冷えするようだった。己を最後まで信じ、慕ってくれた者たちの思いも裏切って。心を殺すことで、己を守ろうとしている浅ましさに、嫌気が差す。   

「……だから兄様。わたくしが暴挙に及んだ際には、迷わず討ち取ってくださって構わないのです。反旗を翻し、悪い魔女を殺しにきていらしてください。民を苦しめる圧政を敷いていれば、正してください」 
「何てことを言うんだ! 私がマリアを討つなんて……! 冗談でも止めてくれ!」
「冗談ではありません。本気です。今すぐにとは申しません、いずれ。その時がきたら。わたくしの存在は、兄様とこの国にとって、障害になるでしょうから」

 現状、帝国と縁を結ぶ以外に疲弊したこの国を守る方法はない。帝国がいればこそ、他国との距離をある程度保っていられるのだ。今この状態で、帝国の庇護を失うのは困る。
 しかし、ある程度国力が回復すれば、帝国に隷属する必要もあるまい。互いを縛り合う婚姻関係を続ける必要もなくなる。レグルスも、忌避する魔女を傍に置くことを良しとしないであろうし。
 レグルス個人はマリアベルと離縁するつもりがあっても、帝国側はどうであろうか。
 竜の存在はないとはいえ、ウィストは資源と人材の宝庫。安易に手放すとも思えない。

「馬鹿なことを……。そんなことをしなくともマリアが奴と別れればすむことだ。早く、その指輪を外せば……」
 
 マリアベルは、自身の薬指に嵌められた、銀細工の美しい指輪をじっと眺めた。
 その指輪は、レグルスと縁を結んだ際に、マリアベルに嵌められたものだ。同じものが、レグルスの指にも嵌っている。
 指輪は、外そうとしても決して抜けなかった。結婚式を取り持った司祭は、指輪には魔法が掛かっていると言っていたが、何の魔法かマリアベルは知らない。
 セディが、唸るように言う。
 
「肌身離さず付けているなんて。人目もないのに。この辺りで聞くレグルスの噂は、随分爛れたものだぞ。胸糞が悪くなる」
「噂……ですか?」
「そうだ」

 初めて耳にする噂に、マリアベルは顔を上げ、瞠目する。
 
「それは、本当にレグルス殿なのでしょうか? あの方が本当に……?」
「バーベリド卿からも、レグルスは女狂いだと聞いている。自国から側室を招きいれ、それだけでは飽き足らず、花街に繰り出しては夜毎饗宴に耽っているとか。よもや、マリアも無体を働かれたなどということは……! もしそうならば、やはり早々にあの男を排除せねば!」
「……誤解がすぎるようです。殿下はわたくしを肉欲の対象外として扱っておられますし――」

 マリアベルはあまりの誤った情報に、一瞬言葉を失う。
 どこをどう間違えば、そういうことになるのだろう。
 寝る間も惜しんで、国家復旧のための草案に取り組む影を思い、マリアベルは首を傾げた。
 
「兄様は、殿下を抹消したいとお考えですか」
「まあ、そうだな。状況さえ整えば、今すぐにでも消し去りたい。大事なお前を、愛情の欠片も持たずに、自国の野望の為に攫って行ったような奴だぞ。できることなら、今すぐにでも抹殺したいね。絶対に許さん。奴はこの手で葬り去る。可愛いマリアを誑かす害悪め」

 マリアベルは、深く翳る兄の瞳を覗き込んだ。
 ついこの間、レグルスを狙った組織の発言としては、少し不自然なような気がする。
 あれは、抹殺ではない、むしろ、誘拐を企んでいた。

「……既に聞き及んでいらっしゃるかと思いますが、レグルス殿下は今、体調不良で療養中なのです」
「ハーデンスから聞いている。倒れたらしいな」

 セディは人ごとのように呟いた。
 人づてにレグルスの件を知ったあたり、兄はあの件にかかわっていないのだろう。

「しばらく、休暇を差し上げました。あのお方は寝る間も惜しんで、働きすぎなのです」
「国家解体と再編成にお忙しいのだろうな」

 皮肉気に口角を釣り上げるセディに、マリアベルは苦笑する。

「それもありますが、あの方はただ真面目に、与えられた役割を全うされていらっしゃるだけなのですよ。わたくしのことを捕える時であっても、レグルス殿下だけは傷つけないで差し上げてください。あのお方は真に有能です。もし、わたくしがいなくなっても殿下とは手を取り合って――」
「何を馬鹿なことを! マリアは、帝国の皇子を許すのか!?」

 怒りに震える兄の手に、そっと手を重ね、マリアベルは諭すように囁いた。

「悪いのは、レグルス殿下ではありませんから」
「そうだとしても、お前が帝国の人間の隣にいる必要なんてない。近いうちに、必ず……マリアをそこから連れ出すよ。そう、もうすぐだ。待っていておくれ、私の可愛いお姫様」 

 セディは、マリアベルの頬に手を滑らせ、優しく撫でて返した。





 黄昏の教会から歩いて半時。
 その距離に、孤児院がある。
 ここまできたのだ。孤児院に立寄るのも悪くない。折角、マリアベルを見舞う手紙までいただいたのに返事を出す暇もなかった。
 子どもたちは元気にしているだろうか。
 日は遠く、水平線の向こう側へ落ち、なだらかな高台から見下ろす海には、夕陽にむかって真っ直ぐに光の道が通っていた。
 マリアベルのフードと艶やかな黒髪を風が攫う。兄からもらった竜胆も、緩やかな風の流れにのって、手を伸ばしてももう届かぬ距離へと飛翔していった。
 
 孤児院の門をくぐれば、懐かしい子供たちの声が聞こえてきた。
 中庭の菜園を通り抜ければ、その先には、マリアベルが孤児院に植えた、竜胆の園がある。
 孤児院に来る子供は、様々だ。
 親に捨てられた子、親を失った子。海を渡って、この島に偶然流れ着いた子。カイムも、この島に流れ着いた子のひとりだった。
 そんな子供たちのために、マリアベルは竜胆を植えたのだ。
 群れることはないけれど、凛として咲く花。
 青い花弁が風に舞い上がる。 
 揺れる竜胆は、マリアベルがしばらく訪れていなかった間にも、美しく咲いていた。子供たちが、しっかり手入れをしているのだろう。雑草ひとつ生えていない。

「おねーちゃんどうしたのー? まいご?」

 初めて見る子供たちだった。戦火に巻き込まれ、身寄りをなくした子だろうか。そう考えると、胸が痛む。マリアベルは無意識にローブを手繰り寄せた。
 子供たちがマリアベルのところに集まってきて、曇りない目で見上げてくる。そして、そこに咲く竜胆を一輪摘み取り、マリアベルへと差し出した。

「おねーちゃん、このお花あげる」
「……何故、この花をわたくしに?」
「きれいでしょー?」

 無邪気に微笑む、愛らしい子ども達の頭を撫で、マリアベルはしゃがみ込んで目線を合わせた。

「ありがとう」
「うーんとね、悲しい時はね、このお花を見て頑張るの。アル兄が言ってた」
「……そうですね、竜胆は、悲しみに寄り添ってくれる花なのですよ」
「そうなの? じゃあ、へいかにもあげないといけないね。この国で一番悲しい人は、へいかなんだって。先生が言ってた。へいかのおとうさまも、おかあさまも、殺されちゃったって。おそう式もできなくて、帝国のおうじさまと結婚したんだって。本当は、他のひとと結婚するはずだったって!」

 幼子の言うことは、間違っていない。しかし、国で一番悲しいのが自分であるはずがない。  
 ふと、指に光る精巧な細工の指輪を見下ろす。
 偽りの愛を誓ったはずなのに、指輪は今も抜けず、マリアベルの指にとどまっている。
  
「ベル姉?」

 聞き覚えのある声に、マリアベルは振り返った。

「アルクトゥルス?」

 眩しいほどに青い瞳を輝かせて、少年は息をのんだ。
 朧に浮かぶ月影の下、マリアベルの漆黒の髪が風に靡く。
 
「久しぶりだね!」
「……しばらく見ない間に大きくなりましたね、アル」
「へへ、まあね。俺、成長期だから。ベル姉なんてあっという間に追い越して、俺の背中に隠して、帝国の奴らから守ってやるんだもんね!」
「頼もしいですね。本当に」

 子どもたちに手を引かれるがまま、長椅子に腰かけたマリアベルに、アルは嬉々として話を続ける。

「今だって、すげー強いおにーさんから剣術教わってるんだぜ。ありゃあ、カイムにーさん以来の剣豪だね、きっと。ハーデンス隊長とはまた違った強さっていうか、早くて、しなやかで、強くて。颯爽と金獅子の配下を下してさ。かっこいいんだ。多くは語らないけど、背中で語るっていうの? ベル姉が好きそうな、理想の王子様ってやつ? 黒髪で、竜と同じ目の色で――」

 理想の王子様の話は、かつて子どもたちにせがまれて、散々聞かせていたのだ。アルは事あるごとに、理想の王子を引き合いに出す。
 シリウスが如何に素晴らしかったか、竜が如何に情に厚く、優しかったか。知っていてもらいたかったのだ。ただの絵空事ではなく、竜と召喚士はかつてともに暮らした。一部は天へと居所を移し、そして残された我々は、彼らの為にこの国を守っている――。
 
――まさか、シリウス様がこの孤児院に……?

「ベル姉? 聞いてる? 顔色……悪いよ?」

 アルの声で現実に引き戻されたマリアベルは、はっと息を呑んだ。

「大丈夫です。ありがとうアル」
「今度、ベル姉にも会わせてあげるね」

 そう言って、アルは屈託なく笑った。
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