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第4夜 竜の教団、白の聖女

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 大公がレグルスの側室を招いて、茶会を開いていたことをルトが知ったのは、その日の夜のことであった。
 何も知らずに、与えられた職務を全うしていたルトは、雷に打たれたような衝撃を受けた。レグルスから、大公と側室の接触には十分留意するようにと、申し送られていたのだ。
 丁度、仕事がひと段落して、ようやく休憩していたところにその報告である。表情を凍りつかせたルトを気遣うように、声を掛けてくる部下を一瞥すると、彼は竦みあがってその場で動かなくなった。
 もっと早期に報告することもできただろうに、何故一日の最後になってそれを言うのか、正直理解できないところである。しかし過ぎしことを引き摺って、部下を責めても仕方ない。ルトは深いため息をつき、のこのこと報告にやってきた部下を下がらせた。
 扉の閉まる音を聞いたルトは、魂の抜けたような目で、そのまま棒の如くベッド上へ倒れこんだ。先の報告は、昼はマナに捕まり夕はレグルスの執務代行をし、もうこれ以上動けないというルトに追い打ちを掛けた。最早指先を動かす気力すら絞り出せぬ。
 レグルスの匂いの染みついた、自室のそれよりも格段と大きくて柔らかなベッドは、待遇の違いを認識させる。ルトは重い瞼を持ち上げて、無駄に豪奢な細工の天井を見上げた。

(よりによって殿下がご不在の時に……。うん? 奥方様は殿下が城を空けていること、知らないはずじゃあ……?)

 根本的な疑問に、ルトは首を傾げた。
 レグルスが城を出ていった日のことを思い返す。

 マリアベルへ休暇の挨拶に伺うと言うレグルスの背中を送り出した後、暫くして。
 捨てられた子犬のような目をして戻ってきた主は、供も連れずにそのまま城を出ると言いだした。それは、マリアベルの元へ行く前から聞いていたことであったため、ルトもそこまで驚きはしなかった。問題はその後の発言である。
 レグルスが城を空けることは、ルト以外の誰も知らず、マリアベルにも伝えてきていないという。さすがにそれはまずかろうと切り返したルトに、レグルスはあっけらかんと言ったのである。

 ――お前が俺の代わりをすればいいだろうが。こんな時のための影武者だろう。従弟殿。

 それは違うだろうと声を大にして言いたかったのだが、反対しても無意味なのは分かっているため、ルトは渋々承諾した。背格好も、色合いも良く似ているためか、背後からレグルスと間違われて話しかけられることも、ままあることである。

 ルト自身、レグルスが己を傍に置くのは、影武者としていざという時に使えるからだと心得ていた。そうでなければ、矮小なこの命は――一応血縁であっても――あの時尽きていたはずだ。
 レグルス不在がルト以外の誰かに露見すれば、騒ぎになることは明白だ。
 事件直後、レグルスの身辺の緊張は異様に高まっていた。それまでは驚くほど緩い警備態勢で、レグルスがどこで何をしていようが自由――あの剣聖レグルスに敵う者などそういないので――という風だったが、一転し、怪しければ即斬る勢いで周辺警護は強化された。始終誰かが部屋の前に立ち、命を捨てる覚悟で警護しているのだから恐ろしい。――影武者であるルトを。
 正直眩暈がする。その事実が明るみになればどうなることか。せめてレグルスの護衛担当には包み隠さず話すべきだったのだ。
 しかし、疲労蓄積による低血圧で倒れたなど、あの侍医も笑わせてくれる。幾多もの戦場を駆けた万勝の将とも謳われたレグルスが、よりにもよって斯様な原因で倒れることなどあろうか。ルトを含めた配下達はその診断に懐疑的である。
 
 それから、側室達。彼女達に知られようものなら、末恐ろしいことである。髪を逆立てて、ルトに食ってかかってくるだろう。

 休養中のレグルスの代行を務めるだけ――部屋で安穏と執務を片付けるだけの楽な仕事だ、ルトは無理矢理自分を納得させた。……そうでなければやっていられない。
 何しろ表向きレグルスは体調が優れない故部屋で休息している――部屋から一歩も出られないどころか外出すらままならず、その上大公が仕向けた黒騎士殿が律儀に偵察に来るとなれば、最早軟禁状態と変わらぬとルトは悟った――ていである。
 側室と直接接する機会はなく、彼女達がレグルス不在の真実に辿りつくことはなかろうが、万が一知られようものなら末恐ろしい。きっとルトは無事では済まない。
 大公はそれを知った上で側室に接近した。夫が動けぬ間に行動に移すとは――どうせならば、レグルスを見舞ってくれれば良いのにとルトは思う――本当に賢しいお方である。
 多分、レグルスもそれを見越して『彼女からは絶対に目を離すな』と念を押したのだろう。それにも拘わらず、この事態。

(ああ、何故よりによって今……殿下に殺される!)

 しかし、今回の件を報告しないわけにもいくまい。ルトは震える唇をかみしめて、レグルスと自身を繋ぐ、乳白色の石をとりだした。通信用の魔石である。
 呼びかけても、魔石は何の反応も示さない。砂嵐のような耳触りな音が、延々と聞こえるのみだ。
 ルトは、片眉を跳ねあげた。

「壊れているのか?」

 もしくは、レグルスがルトの魔力圏外にいるかである。使用者の魔力によって、通信可能な範囲は決まる。
 いつまでたっても繋がらないところを見ると、どうやら圏外にいるようだ。――魔女のように、生まれながらにして桁外れな魔力を持つものならば、その範囲は大陸外どころか、異界まで及ぶのだが。 

「一体、どこで何をされているのか……。連絡くらいしてくださいよ、もう」
 
 あの目立つ容姿のまま、出かけていったことを考えるだけで胃が痛くなってくる。

 レグルスを狙ってのあの事件の後。城内で囁かれたのは、大公兄存命の噂であった。反帝国派を率いて、国と妹の奪還を狙って、公子がついに行動を始めたのではないかと。レグルスも、公子が生きていればそれを放っておくことはできないと言っていた。
 
(無茶なことをされていないと良いが……)

 死に急いでいるのか、見守っているこちらの寿命が縮まりそうなことばかりする。
 ルトはため息をつき、沈むベッドの上でその身を反転させた。
 その時だ。レグルスの部屋の扉を、控え目にノックする音が響いた。次いで聞こえたのは、ロランの遠慮がちな声だった。

「兄様、まだ起きていらっしゃいますか?」

(まずいまずい。この状況はまずいですよ!)

 レグルスの身を案じる一方、自分の置かれた状況にきりきりと痛む腹を押さえた。
 返事も待たずにロランが扉を開け、部屋の中へするりと体を滑らせた。青緑の瞳は不安げに揺れ、ルトを見た後、すぐに視線は外される。
 相変わらず天使かと見紛うほどに愛らしい少年であるが、一言目にはルトを揶揄い、無理難題を押し付けてくる、悪戯好きの第四皇子である。どこか憎めない皇子ではあるが、レグルスの目がない所ではあまりに態度が違い、最早語る言葉もない。
 ただ、今のルトは外見だけはレグルスそのものだ。変化の魔石で姿を変えているが、声まで変えられぬため、迂闊な発言はできない。特にレグルスを良く知るロラン相手では、到底、誤魔化しなど利くはずもない。しかし、レグルスからは誰にも知られてはならないと重々注意されている。
 ルトは、危機的状況に生唾を飲み込んだ。話しかけられても無言を貫く以外、逃げ道は思い浮かばなかった。

「あの……夜遅くに、ごめんなさい。兄様に、どうしてもご挨拶しておきたくて」
「……?」

 ルトは首を傾げた。しおらしく俯くロランは、どうもレグルスの姿をしたルトと、まともに向き合うことすらままならないようだ。
 常は、仲の良い兄弟の間に一体何があったのか、ルトは知らない。しかし、最近はロランがレグルスへ、距離を取ることもあったように記憶している。

(ロラン様が挨拶? 何の?)

 沈黙を守っていれば、是の意と受け取ったのか、ロランは続けた。

「父様から、国に戻れとのお達しがありました。実は前から何度も、戻るようにと言われていたのだけど……痺れを切らしたのかな。勅命が下りた。さすがに逆らえないよね」

(ちょっと待ってください。そんな大切な話を俺にしないでください!)

 切実に訴えたいのは山々であるが、どうすべきか迷う。ルトは、俯き裾を握りしめるロランへ背を向けた。
 もしもの時はこれを使えと言われていた魔石を取りだす。レグルスの声が記憶されている魔石である。種類は三つ。『下がれ』『我が君』『分かった』。
 何故この三つを選んだのか不明である。未だに『下がれ』しか使っていない。特に二つ目の『我が君』は汎用性に欠ける。使いどころがなさすぎて、もはや飾りと化している。恐らく、奥方が見舞う時のことを考えて、『我が君』を選んだのだろうが、残念ながら、彼女が訪れることは今のところない。そのことに安堵していいのか、それとも顧みてもらえない主を哀れに思うべきなのか、ルトは複雑な気分になる。
 この場合、『分かった』か『下がれ』が適当と考えられるのだが、ロラン相手に『下がれ』はさすがに気が引ける。魔石に魔力を注ぎ、声を再生させる。

『我が君』
「え?」

 ロランが不審そうに首を傾げる。

(さっそく、間違えた。何やってるんだ俺は)

 冷や汗が背筋を伝う。何故よりによって今、『我が君』が出てくるのだろうか。自分の間抜けさに、最早笑いがこみ上げてくる。
 
「ああ、義姉様にもいずれお話するつもりでした。でもその前に、兄様に伝えておきたくて。何だか、最近変な宗教が広まっているみたいです。……また、ルーク兄様が変なことに首を突っ込んでいるのではないかと思うと、気が気ではないよ。大体、国で何か起こるときには、ルーク兄様が関わっているんだよね。本国で噂になっている白の聖女のことも気に掛かる。だから、僕は一度国に戻ってみることにしました」
『分かった』

 ロランは、何か言いたげに面を上げたが、言葉を飲み込むように、息を吸った。
 
「うん。それだけ。……思ったより、普通に話せてよかった」
『下がれ』
「はい。仕事の邪魔して、ごめんなさい。お休みなさい、兄様」

 無機質な魔石から発せられた、レグルスの言葉に、ロランは素直に従った。
 嵐のように現れて、そして去っていったロランを見送った後、再びルトはきりきりと痛み始めた腹を抑えた。
 切実に、レグルスの早期帰還を願うばかりである。


 ◇

 
 ブルームの中心地から少し外れた酒場に、少々くたびれたフード付きの外套を羽織った男が一人、琥珀色の酒を煽っていた。
 酒場の入口の木戸を激しく叩きつける雨と、店内の喧騒の音が混じり合って賑やかであるが、彼だけは、淡々と杯に口をつけていた。
 橙色の明かりに照らされた店内で、じっと考え込むように俯いては、思い出したかのように、酒を注文する。羽振りの良い客のため、酒場の主人も、数時間と居座る男を咎めることはしない。
 酒場には、様々な人間がいた。
 戦争が終わったにも拘わらず、国に帰らずにそのまま島に残った傭兵。または、帰還の船に乗れなかった帝国の残党。安穏としていた島国にはそぐわぬ、鋭い空気を纏った兵達がブルームの場末の酒場に、たむろしているのだ。
 ゆえに、怪しい男が一人増えようが誰も気に留めることはない。

「そう言えば聞いたか? 西領で傭兵を募ってるって話」

 その言葉に、男は反応し顔を上げた。真っ直ぐな黒髪が流れ、白い額に掛かる。俯きがちで不明瞭だった輪郭が露わになり、隣で寂しく酒を飲んでいた女が、思わずため息をついた。
 甘く、それでいてどこか凛々しい横顔。右目には眼帯がはめられ、左目は暗がりの中でも分かるほどに鮮やかな青だった。それは、夏の青空を彷彿とさせる、爽やかさがある。
 男は薄い唇を引き結び、眉間に皺を寄せた。
 視線の先には剣を腰に下げた傭兵風情の男が二人。上機嫌に杯を酌み交わしている。なみなみと注がれた葡萄酒を喉を鳴らして飲み干した後、無精髭のはえた顎を撫でつけて、とろんとした目で話を続ける。
  
「あのお姫様の犠牲の上に、戦争は終わったじゃねえか。今更、兵を募ってどうする。まさか、帝国に真っ向から勝負を仕掛けるつもりでもあるまい。まずレグルスの野郎が黙っちゃいないだろう。お前、その話どっから仕入れてきたんだ?」
「どこって、裏路地だよ。傭兵を欲しがってる奴が西領にいるから、どうかって声かけられてさ。雇い主の名はどうあっても割り出せなかったが、報酬はたんまりもらえるらしい」

 下品な笑みを浮かべ、男は再び、葡萄酒に口を付けた。

「西領か、きな臭いな。あの噂のこともある」
「金がもらえるなら何だっていいさ。雇い主が誰だろうと関係ないね」
「まあ、戦争が終わっちまって、俺みたいに帰る故郷もねえ無職同然の傭兵にとっちゃあ、ありがてえ話だけどな。城下町の辺をふらふらしてると、レグルスが組織した憲兵団にすぐにしょっ引かれるし。活動できる範囲なんて、限られてる」
「言えてらあ!」

 話に耳を傾けていた男は、静かに席を立つと、カウンターに金貨を置いて、酔って上機嫌な男達に近づいた。

「楽しそうな話をしているな。俺にも聞かせてくれないか」
「お、見ねえ顔だな。あんたも、どこにも所属してねえ傭兵か?」

 酔っ払いは、男の腰に下がる剣に目を止めて、それからまじまじと顔を見上げた。目の前に立つ男は、まったく隙がなかった。優男風情であるが、見かけによらず、漂う気は、鋭い。

「俺の顔に何か付いているか?」
「いや……」
「おい、店主。こいつらに葡萄酒を追加だ。その金貨で足りるだろうか」
「はいよ」

 金さえ受け取れば何でもいい、そんな主義の主人は、言われた通りにする。
 二人へ酒をふるまえば、酔っ払いは胡乱げな目をしながらも、美味そうに喉を鳴らして、新たに運ばれてきたそれを飲みほした。

「ところで、さっきの続きだ。西領で傭兵を募っているというのは、本当なのか?」
「本当さ。旦那はこの国の出身かい? その目の色、大陸にはねえ色だ」
「だったらどうした」

 不機嫌さを露わにして、顔を顰めた男を宥めるように、酔っ払いは続けた。

「この話は、帝国側の奴らには絶対できない話なんでね。一応、確認させてもらわないと。俺としても、依頼人の信用を失いたくない」
「そういう貴様は、この国の人間ではなかろう。くだらぬことを問いかけるな」

 冷たく一瞥され、酔っ払いは口をつぐんだ。

「まあ、そう怒りなさんな。帝国の、特にレグルスの息のかかった奴がここらをうろついてるって話も聞く。顔を知らない奴は、全員怪しむのが基本なんだ。ここ数日、この酒場に通い詰めてるよな?」

 眼帯の男は、すらりとした長い足を組んだ。むっつりと黙り、宥めに入った方の酔っ払いを睨めつける。その眼光の鋭さは、血を啜ってきた、歴戦の兵士のものと同じだ。泥酔していても、一瞬で醒めてしまうほど、強い眼光だった。

「帝国の話はするな、酒がまずくなる。あんなクソ共の集団と一緒にされたくない」

 吐き捨てるように返した彼は、とても帝国の犬とは思えず、むしろ帝国を酷く憎んでいるかのようにも思えた。
 男達は顔を見合わせ、乾いた笑いを洩らす。

「なら、知ってるよな。大公兄の話さ。帝国の皇子に殺されたってことになってるが、誰も奴の首を見てない。実は生きてるんじゃねえかって、巷じゃ囁かれていたらしい」

 杯はすぐに空になり、底に残った雫まで舐め取って、物足りなさそうにする酔っ払いへ、眼帯の男は更に酒の追加をする。出された酒を更に煽り、酔っ払いは周りの騒音さえも掻き消しそうな大声で、話しを続けた。

「その公子が、妹を帝国から取り戻そうと、兵を西に集めてるんじゃねえかって噂してたところさ。そうでもなけりゃあ、あんな何もない農耕地帯で、傭兵を募る意味が分からねえ。一発大逆転を狙って帝国の奴らに支配されたこの国を、覆す腹積もりの奴が潜伏してるっていうのは確かだろうな。本当か嘘か知らねえ。詳しいことを知りたければ、そうだな……裏路地に行くといい」
「裏路地とはどこのことだ」
「何も知らねえのかい、旦那。いいかい、裏路地ってのは、この店の裏にある、倉庫街に通じる通路のことさあ。そこにはなあ、色んな商売してる奴がたむろしているぜ。西領のことも、そこで仕入れたのさ」

 酔っ払いが、汚い噯気おくびをし、酒臭い息を男に吹き掛けた。彼は顔をしかめ、酔った男から顔を背け、店を出た。

 激しい雨が、彼の白い頬を打ち付ける。フードをしっかりと被り直し、ポケットから乳白色の魔石を取りだした。
 連絡は今のところない。あちらは特に問題ないのだろう。
 安堵して、彼は腰に下げた剣にそっと手を掛ける。
 数日の間、酒場に通って手に入れた情報は、西領からの食糧の流出が激減したこと、物流が滞っていること、傭兵を集める動きがあること。兵糧の備蓄、物資の確保、それから、軍隊編成。どう見ても、戦争の為の準備である。
 国属の軍隊は、レグルスがその動きを完封している。となれば、頼りは傭兵なのだ。
 話を聞く限りでは、その西領での募兵は、随分前から裏路地で行われていたらしい。西領の事情に疎いレグルスは、気付くのが一歩遅かったようである。
 
(舐めた真似をしてくれるな、亡霊め)

 舌打ちをし、片手で壁を強く叩きつける。ひどく蒸れるため、眼帯を剥ぎ取れば、そこには鮮やかなヘーゼルが現れる。オッドアイの双眸が、闇の中でもくっきり浮かび上がっていた。 
 
(真っ向から勝負を仕掛けるつもりなのか。愚かもの)

 雨は、次第に激しさを増していった。容赦なく体を打つそれは、鋭い刃のようであった。雷鳴が闇を裂き、轟音の後に、地面を這う稲妻がくっきりと浮かぶ。ひとまず、どこかの宿に入ろうと辺りを見回すが、倉庫街の扉は全て締め切られており入れない。
 暫く雨の中、休める場所を探して走り回るが、数少ない宿屋も明かりは消え、休める場所を見つけられなかった。
 仕方なく、偶然見つけた堂の中へ飛び込んだ。濡れ犬のように全身を震わせ、暗闇の中を手探りで歩く。短い回廊を歩いた先には、木製の古い扉があった。軋む音をたててそれを押しあければ、そこはがらんどうとした広間だった。
 中には、長椅子が数列にわたって並べられ、広間の奥には四角い祭壇が構えられている。大きなステンドグラスには、竜胆と、優しい表情で幼子を抱く女性の絵が色鮮やかに描かれていた。どうやら祈りの間のようだ。
 女性の髪はプラチナ、肌は象牙のような美しい色。全てを許すような慈愛に満ちた表情に、救われるような気持ちになる。 

「マリアベル……」

 違うとは分かっている。彼女は確かに美しいが、これほどに優しい表情を見せたことは一度もなかった。その仮面は決して剥がれず、己の前では常に無を貫き通す。
 しかし、彼の口からは、無意識にその名が零れたのだ。
 彼女のことを思う。
 拒絶することもなく、かといって、受け入れるわけでもない。
 自然に、そこにあるだけ。大人しく、されるがままになる。笑えと言えばきっと笑い、泣けと言えば泣く。無機質で……まるで人形だ。自発的に感情を露わにすることは、ない。
 けれど、泣いていた。
 悲しむ心があることを知り、動揺した。
 散々見たくないものを見せつけられた。思い返すだけで忌々しい気持ちになる。
 それなのに、何故。こんなにも手放したくないのか。
 厄介ならば、公子に引き渡してしまえばよいのだ。元の婚約者に返せばよいのだ。
 しかし、他の男に渡すことを考えると、それこそ腹が立つ。
 
 祭壇に掛けてあったビロードに包まって、最前列の椅子に横たわり、そのまま目を閉じた。
 今はとにかく休息すべきだ。裏路地の場所は明るいうちに探せばいい。

 朝早く、ここを出ていこう――

 そう決意した彼を待っていたのは、日が昇るのと同時に木の棒でつつかれる感覚と、子どもの密やかな笑い声だった。 
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