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幕間 白兎と魔女

魔女

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 ◇

 一羽の白い鳥が甲高く鳴きながら、晴天を舞う。その影を見上げたマリアベルは、熱気の籠る室内に、一風入れようと僅かに窓を開けた。吹き込む風に、レースのカーテンが微かに揺れる。涼風に肌を擽られ、身震いしたマリアベルはショールを掻き寄せた。一年を通して温暖な気候であるウィストとはいえ、小高い丘の上に構えられた城では、露出した姿で佇むには少し肌寒い。
 髪飾りで纏め上げていた長髪を振り解くと、艶やかで豊かな漆黒が背に流れた。生来の白銀は否が応でも目立つ。そのため、普段は黒に変えているのだ。
 それに、帝国の人間の目もある。目立つ白銀より、親兄弟と揃いの色は、何かと都合がよかった。

「セディ」

 呼ぶ声が届いたのか、翼を広げた白い鳥は、そのままマリアベルが佇む窓辺へと下降する。
 丁度、片手に乗る程度の大きさの鳥は、青々と生い茂る木の枝で羽を休め、小首を傾げた。
 マリアベルは窓を全開にし、片手を差し伸べる。小鳥は短く囀ると、迷わずその手に止まった。その眦は優しく、青く澄んでいる。可愛らしく小首を傾げる仕草に微笑みを零し、マリアベルは柔らかな彼の胸を撫でた。

「お変わりありませんか? 時間は足りましたか?」

 擽ったそうに首を傾げた小鳥は、マリアベルに応えるように、短く鳴いて卓上へと飛び移った。

 監視の目のない今、ようやく訪れた休息の刻限にマリアベルは図書館へと足を運んでいた。
 首都、ブルームの丘陵に聳えるジェンシアナ城の敷地内には、国立図書館が併設されているのだ。国立図書館の扉をくぐれば、溢れんばかりの本がずらりと立ち並び、すかさず古書独特の埃っぽい匂いが鼻腔を擽る。
 多種多様な本が整然と並ぶ様は壮観だ。
 飴色の木面の本棚には、上から下まで隙間なく、書籍の背表紙が並べられている。国内はもちろん、大陸でも名を馳せる有名な魔術士が著した文献が、多く寄贈されているのだ。
 ウィスト公国は、幻の中に潜んでいたものの、細く長く、影ながら国同士の交流を続けてきた。
 中でも特に繋がり深い国が、大陸でも永世中立を誓う、ファーレンだ。その交流の歴史は古い。かの国を通じてウィストは様々な脈を持った。
 ファーレンには多くの情報が寄せられ、発信される。故にウィストは世情に敏感であり、大陸の事情もある程度把握していた。

 図書館の最上階――三階は、静かに読書を楽しみたいものや、研究、課題に没頭したいもの達のために、個室が用意されていた。
 マリアベルはその一室で、マナと諸侯から受けた戦後の公国魔術士団員行方不明の件の報告書と、最後に彼らが消息を絶った場所の地図を広げていたのだ。 
 行方不明の八人のうち、うち女性が五人だった。その中で召喚士は三人。いずれも、マナの教え子である。
 召喚士であれば、魔物や妖魔を喚び、如何様にでも切り抜けられよう。
 しかし、戻らないところを見ると、それができない状況、もしくはそのような気を挫かれ、国を捨てたか。真偽は知れない。
 ただ、マナが言うには、彼らの召喚を試みたが出来なかったとのことだ。マナは国でも五本指に入るほどの魔力を誇る召喚士である。魔力が低いものであれば、真名さえ掴んでいれば強制召喚を行えるはずなのに、国へ戻すことは叶わなかった。
 『破魔』の一族ならいざ知らず、召喚無効の術など未だかつて聞いたことがない。召喚を阻害する因子が不明のままでは、手の打ちようがなかった。
 マリアベルは、卓上に広げた報告書と、地図を照らし合わせた。
 消息が絶たれた地点を赤い丸で囲み、戦時中から戦争直後に各州で発行された紙面から、その場所でおこった事件や出来事を拾い上げ、細々と書き込んでいく。
 マリアベルもマナも、団員達は抵抗する間もなく、何者かに誘拐されたと考えていた。それも、皇帝の命とは恐らく別に。
 あの冷徹で賢しい皇帝が、大陸において禁忌とされる捕虜の隷属化を容認しているのも考えにくい。捕虜を奴隷として扱っているのが露見した場合、如何にセラフィト皇帝とはいえど、その立場は危うくなる。
 吐き気を催すような陰惨な戦時の事件に、途中で手が止まり、奇妙にインクが滲んだ。
 帝国兵の侵した罪を綴る度、マリアベルは己の不在ゆえの罪なのだと胸に刻む。
 彼らの侵した罪は、我が身への罰なのだ。
 彼らを恨むのは間違っている――そう言い聞かせ、マリアベルは最後まで筆を走らせた。
 全て記入し終えた地図を眺め、共通の話題を更に青いペンで印した。
 戦後行方不明の団員は、いずれも帝国制圧後に拠点を置かれた都市で、所在不明となっている。
 帝国は、青眼の女を探していた。ウィストの民の瞳は、その多くが瑠璃色である。天空の破片と謳われるその色を、民は誇りに思っている。
 帝国はさぞや戸惑い、歓喜したことだろう。武力介入の経験のない、非力で魔力の高い者達は恰好の獲物だったに違いない。
 召喚士の瞳は青い。それは、実物を見たことのない大陸の者でも、常識として知っている。青眼の者は、召喚士以外あり得ない。
 竜の召喚士ではなくとも、利用価値を見込んで連れ去られたとしても、何の不思議もなかった。
 それまで静かに羽を休めていた鳥が、黄色い嘴である人物の名前をつついた。
 第二皇子ルーク・フォン・アデレイド。
 その拠点は全て、第二皇子直属の部隊が腰を据えた場所なのである。

「……また第二皇子」

 第二皇子ルーク。誰彼かまわず噛みつく癖のある狂人と名高い彼の者は、夫レグルスの異母兄だ。大公の処刑を行った男を、マリアベルは永遠に忘れないだろう。
 その男が、今度は国の宝たる召喚士を……?
 しかし、分からないことがある。ルークがウィストから撤退した後の行方不明者も二人いるのだ。
 まだ点を線で結ぶには早かろうと、マリアベルは一旦、報告書を揃え、びっしりと文字の刻まれた地図を折りたたんだ。

「どのみち、貴方だけは許しません。そうでしょう……?」

 マリアベルの声に反応するように、小鳥が囀った。
 今のマリアベルに託されたのは、帝国や他国の脅威に怯える小さな島国だ。
 何としても、この場所は守り通さなければならなかった。ウィストは、決して他国に漏洩させられない秘密を持ち続けている。それを保守するため、ここは長年幻であり続ける必要があった。
 それは、建国当初からの唯一の約束で、ジェンシアナ家はそれを守るために存在した。
 マリアベルは恐れていた。
 竜の力を未だ欲する国の多いこと。
 ただ穏やかに暮らすことを望んでいただけなのに、平穏が徐々に崩れていくことが。
 ウィストに竜はいない。それを召喚するものも。
 しかし――。
 レグルスの呼応に応えた夜のことを思い返す。
 彼は、ウィストが幻であり続けたことに鋭い疑問を抱いていた。彼の言葉に、一瞬肝が冷えたのも確かだ。
 その疑念はもっともだ。
 ならば、勘の鋭い彼の皇帝も、ウィストのこれまでの立ち振る舞いについて疑いを持ったとしても不思議ではない。
 これまでの島の平穏が崩れ去っていく音が、すぐそこまで忍び寄っている。しかし、マリアベルは国を守るものとして、崩壊の音にただ黙して耳を傾けているわけにもいかない。

「わたくしに何かあったら……その時は頼みます――セディ兄様」
 
 細い指で小鳥をそっと撫で、マリアベルはひとりごちた。 


 


 課題をこなすために国立図書館を利用する学生は後を絶たない。学生たちが本を探す中、颯爽と通路を抜け、マリアベルはわき目もふらずに目的の場所へと進んだ。
 生まれながらに魔力の高いウィストの民は、その身に余る魔力を制御する術を幼いころより学ぶ。子どもの不安定な魔力は、時に魔物を呼びよせ、異界へと連れ去ってしまう。その身を守る意味を込めて、力の扱いを知ることは最も重要視されていた。
 ウィストは建国当初より魔術の研究に力を注いできた。国立の研究所や、魔術士を育成する学院が各所に創設されているのだ。
 生まれ落ちた瞬間に授かる先天的な魔法に対し、魔術は術式さえ学べば誰もが使用できる、後天的なものである。
 有り余る魔力を活用するため、ウィストの民の多くは、魔術学院に進路をとる。その後、魔術の徒を極めるか国防の為に尽くすかは別れるところである。
 魔術は自国防衛の為用いられる。国を守っていた魔封壁やその他の術式は全て研究の賜物でもあった。その研究に欠かせなかったのが、図書館に内蔵された、膨大な数の魔術書である。
 
 国を覆う幻術はそれまでどんな魔女や魔術士にも打ち破られることはなかったが、その幻を打ち破り、一躍世界に名をとどろかせたのがセラフィト帝国の少年、宮廷魔術師だ。一体どうやって術を破ったのか、世間は一時その話題で持ちきりになっていた。
 彼は質問に対しこう答えている――ある男に教えてもらった、と。
 その男は、幻術を世に送り出したものであり、魔封壁の術式の基礎を組み立てた、いわば魔術の発明家であった。
 彼の著書には一般閲覧禁止文献も多い。
 一般閲覧禁止は、他の書籍とは区分されており、国の監視下に常にあるよう、全てが保管庫に内蔵されている。
 マリアベルは、一般閲覧禁止図書の区域へ足を踏み入れた。そこで、聞きなれた声に振り返る。
 
「あら、姫様?」
「マナがこの時間にいるのは、珍しいですね」
「ええ。情けないことに、午前中で訓練生が疲れたと訴えるものですから、午後からは自習にしたのですわ。全く、近頃の若者ときたら。軟弱で困りますわね」
「心が疲れていれば、身体にも疲労は残ります」
「お優しいこと。あの愚鈍共が聞けば涙を流すことでしょう」

 一般閲覧禁止図書の保管庫への入り口には、立ち入り禁止の結界が張られている。
 結界の中に入れるのは、ジェンシアナ家の人間と、術士が認めたもののみだ。
 それを管轄するのは、大公直属の護衛術士であるマナだ。過去最年少、十七歳で魔術士団団長まで上り詰めた才女である。
 涼しげな切れ長の目と、小柄な体躯に似合わぬ尊大な態度、それを許容せしめる実力から、畏怖と敬意を込めて人々は彼女を『マナ女史』と呼ぶ。
 肩で切りそろえられた髪を振り払い、マナは微苦笑を浮かべた。

「姫様の方は、調べ物ですか?」

 マリアベルの視線を辿り、切れ長の目が、閲覧禁止図書の棚で留まる。そこには呪術に関する文献が並べられていた。魔法無効化について、禁術とその解き方について。

「はい。少し……気になることがあるので」

 幻術が専門分野のマリアベルは、呪術に関しては詳しくない。

「呪い……ですか」
「……あの方は、竜の眼を植え付けられた」
「分かったのですか?」
「白い塔と茨の茂み……山岳の閉鎖国アルストリアにあの方は幽閉されていました」

 マリアベルは、迷宮の中でレグルスの記憶の一部を垣間見た。望まぬ状況下で、幼子は青い目を植えられたのだ。
 レグルスは、親に売られたと考えているようであったが、あれは彼の思想を反映する場であるため、真相は分からない。

「しかし彼の一族の生来の魔法は恐らく破魔。その瞳は魔除けの赤。強力な魔をも退けるはずです。けれど、魔力の凝縮物とも言える竜の眼を移植された。相反するはずの竜の眼は、レグルス殿の身体に不思議と適応しています。そんな技術を持ち合せるのは、アルストリア以外考えられません」

 精神的にも、肉体的にも追い詰められたものに、逃れる術などあるはずもない。抵抗する気力もないまま、彼は受け入れたのだろう。
 彼を捕えていた魔女は竜の眼を移植するため、彼に対価を払わせた。
 ここで重要なのは、対価を払ったのはレグルスであること。
 対価を払う――つまりレグルスが望んで竜の眼を得たことになる。
 確かに皇族としてあるまじき瞳の色をしていて、そのことに劣等感を抱いている。しかし、彼の一族の魔法を思えば、レグルスの存在は皇帝にとって決して不利益ではないのだ。『破魔』の魔法は、世界でも珍しい。破魔は、赤に近い色を持った種のみが扱える。
 実力主義者の皇帝が、そんな稀有な力を持つ利用価値の高い息子を、みすみす魔女に売り渡したとはにわかに信じ難い。
 一体何のために、魔女は竜の眼を彼に与えたのか。マリアベルは彼のオッドアイを脳裏に浮かべ、首を傾げる。
 破魔を無効にする呪い、もしくは禁術――。マリアベルはそれを調べに来たのである。
 マナは、切れ長の目を眇めた。

「全く、アルストリアの馬鹿どもは、閉鎖の意味を知らないようですわね。相手は曲りなりにも他国の皇子ですわよ。それに手を出してはなりませんでしたわね」
「……そこが、分からないことろです。アルストリアは決して外部の事情に干渉、介入しません。……あり得るとしたら、本当に親に売られたか、帝国内部でレグルス殿を邪魔に思う誰かが、彼を売ったか……でしょうね」

 恐らく、レグルスは本来ならば永遠にその塔に幽閉されるはずであった。みすみす逃し、内部の情報を国に持ちかえられても厄介である。 
 レグルスは事故でも起きない限り、そこで一生を終える予定であった。
 しかし幸運にも、レグルスは逃れられたのだ。
 十幾つの子がそう易々と抜けられるほど、国境の警備は甘くない。誰かが逃亡の手引きをしたのだろう。

「アルストリアのあの男、いつまで捨て置くおつもりです?」
「フェリックスは……」
「姫様が黙認していることをいいことに、色々嗅ぎまわっております。ゲートの在り処が知れるのも、時間の問題ですわ」
「……」
 マナは無言を貫くマリアベルに苦笑し、声をひそめた。
「何か、お考えがあって彼の者の存在を許しているのは、あたくしも承知しておりますわ。ただ……姫様が危険を侵さなければ、あたくしは何も申しません。ただ、無理はなさらないで欲しいのです。例え、姫様から笑みが消えようとも、心が死んでいこうとも、あたくしは常に姫様にお味方いたします」

 マナの心遣いの言葉は、凍てついたままのマリアベルの心にも響いた。
 これから行おうとしていることが、マナに知られたらきっと彼女は怒り、悲しんで……引き止めるだろうか。
 マリアベルは頭を振った。決意を覆すつもりはないのだ。
 
「しかし姫様、時間稼ぎであれば、いくらでもあたくしが引き受けましたのに……」
「いえ、おかげで多くの情報を得ることができました」
 
 第二皇子は、愚かだがその背後には切れ者の弟がいる――その情報は、ファーレンにいた頃から得ていたことだ。その弟というのが、レグルス。
 彼の精神に揺さぶりをかけることは、マリアベルの狙いの一つでもあった。
 マリアベルは瞼を閉じた。

(貴方を映した鏡は、貴方を苦しめましたか……)

 楔の役目を負わされた、名ばかりの夫――レグルス。彼は、出会って以降、常に微笑みを絶やさず、人当たりも悪くない様子で、部下にも相当慕われているように一見思えた。そして彼は、側室ひとりひとりに愛の言葉を囁き肌を重ね、なおかつ正妻のマリアベルにも、日常心配りしようと努力しているようだった。もっとも、そんなレグルスと距離をとりたかったマリアベルは、面会を求められても話をする機会どころか、接触する隙すら彼に与えなかったわけだが。
 隙のない優美な笑みは、どんな感情も読ませたくないと、他人から一線を引いている男の思惑が現れているようであった。誰にも踏み込んできて欲しくないと、言外に強く訴えていたのだ。
 そんな者の心は脆弱であろう。
 魅惑の笑みを遠目に眺めるほど、彼の人はよほど臆病なのかと、マリアベルはぼんやりと思考した。
 人は、時に身体の傷よりも心の傷を負う方が、致命的となることがある。
 簡単に触れて良いはずのない、レグルスの中に沈む感情を垣間見たマリアベルは、そこに顕れた敵国の皇子の姿をひどく痛ましく思った。
 己の醜態を突きつけられれば、誰もが眼を背けたくなるのは当然だ。それを否定したくなるのも。しかし、それは誰しも一度は通る道だとマリアベルは考えている。自己の存在を問いかけて、自己の内面に眼を向ける時が、十代を過ぎた頃から二十代前半辺りまでに訪れる。そして、何かをきっかけとして、自己の負の一面を知るのだ。
 しかし、彼の人はずっとそこから眼を背け続けたのか、思えば否定ばかりを口にして、時に攻撃的に、マリアベルの姿をしたものへ当たり散らした。
 その様は、嫌なものを無理やり押し付けられて、首を振り続ける幼子のようであった。自己から目を背け続けた結果なのか……。
 それまで誰も、彼に自己を映す鏡を見せてくれなかったのか。彼への周囲の風当たりは、幼少の頃からお世辞にも良かったとはいえない。
 あまりに子どもらしい彼の態度は、自分を知らぬが故のものだろうか?
 違う。レグルスは、皇子としての自己を認められていない、マリアベルは直感的に確信する。 
 その眼の色は皇族でありながらあまりにも奇特である。そして幼い頃に魔女に囚われ、誰も頼るものもいない中、彼は唯一親の助けを待つしかなかった。その親も、遂に皇子を助けに来ることはなかったのだが……。それが、レグルスが親から憎まれている証になるのか、疑問である。
 しかしそれをおいても、自力でようやく戻った皇子を快く迎え入れたのはほんの一握りの者だったであろうことは、あの心像風景からも想像に難くない。
 敬遠され続けた皇子は、誰からも真摯に向き合われることなく、子どものままに成人してしまったのか……。
 ただ、他人へへつらうことだけを覚えて。 

「かわいそうなひと……」

 無意識に、彼へ向けた言葉が零れ、マリアベルは眉根を寄せた。

「ところで姫様。カイムをどこへ置き去りになさってきたのですか?」
「ああ、自由になさいと言い置いてきました」
「あらまあ。それであの木偶の坊は、図書館の入り口に突っ立ってるわけですか。まあ、威圧感だけが無駄にありますから、学生が青い顔で図書館の前で立ち往生しておりましてね」

 マナはくすりと笑った。 
 マリアベルがひとりになれる時間は、この一時だけである。マリアベルの騎士であるカイムも、それを知っているためにわざわざ邪魔をするような真似はしない。ただ主人の言葉に従順に、自由にしているだけなのだ。

 その時、外が騒然となった。
 何事かと窓辺より眼下を望めば、癖のある密色の髪の少年が、カイムに睨みつけられて立ちすくんでいる姿があった。その脇には濃紺の革表紙の分厚い本が抱えられている。

(ロラン殿下……それを返しにきたのですか) 
 
「ここは他国の方が立ち入って良い場所ではありません」
「でも、一般も本を借りられるって……」

 困惑と怯えのないまざった少年の声に、マリアベルの身体は自然と動いていた。
 まさか、ここを訪れるとは思わなかったが、好奇心と探求心を持った少年の、輝く瞳には好感が持てる。
 何より、自己の醜態を突きつけられてなお、マリアベルへ向かおうとする彼の者へ、称賛を送りたい。
 ロランを迎えるため、マリアベルは威嚇を続けるカイムの元へと急いだ。
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