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第3夜 迷宮の魔女

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 魔女は呪いにも似た台詞を吐いて、その嗤いを途端に潜めた。それでもなおこびり付いて離れない嘲りを含んだ忍び笑いは、いくら両耳を塞ごうにも頭の奥から湧き上がってくる。
 これが魔女の復讐か。
 この城内のどこかで馬鹿馬鹿しい舞台を用意してくれたあの女が、遠くからレグルスの困惑と不安を見て楽しんでいるに違いない。
 ふざけているのか。
 もっと生死を賭けた苛烈な復讐を予想していたレグルスは、理解できない魔女の手法に苦笑が零れる。
 
「俺の苦しむ姿を見て楽しむか……。随分と趣味が良い」 

 硬質な足音だけが、延々と反響する回廊。そこにレグルス以外の者の気配は感じられない。あるのは異様なまでの静寂だ。前後はただ暗闇に包まれ、一歩一歩と進むたびにぽっと明りが灯っていく。振り返るとがらんどうとした空間が延々と伸びているだけだった。
 自室は消えた。戻るのは不可能だろう。となると、前進以外の選択肢はない。
 最も、レグルスはその歩みを止めることはできなかった。理解不能なこの状況下で無闇に動き回ることは得策とは言えなかったが、歩き続けなければ背後から忍び寄る闇に呑まれてしまいそうな予感がしたのだ。膨れる不安を抑える術を知らず、レグルスは薄暗い回廊を進んだ。
 魔術に関しては専門外だが、死線をくぐってきた己の勘が告げていた。
 立ち止まればそこで命運尽きる、と。
 これは、幻なのか。間近で感じられる炎の熱は確かで、試しに爪半月に爪を立ててみると激痛が走った。
 それでは現実なのかと問われると首肯しかねる。重く閉ざされたカーテンの隙間から覗けるのは、暗闇に溶けた景色。そこに光はない。
 似ているが些細な違和感を拭えない――レグルスはこの城内にそんな印象を抱いた。
 目の前の景色はレグルスの記憶する祖国の城内と遜色ないほど酷似していたが、明りの色だけはそれとは異なっている。淡く灯る青い炎は帝国の硬質な壁を全くの別物に映していた。
 視界に広がる青白い炎がぼんやり灯る薄暗い回廊は、この世のものとは思えないほどの美しさがある。延々と続く通路を照らした灯は陽炎のように揺れて、空間を青く染め上げていた。まるで妖魔の通り道だ。
 今のレグルスにその美しさを堪能する余裕などない。ただ心中は、苦渋の思いで満たされていたのだ。 
 映し出されるた城内の景色に懐古の情を抱くことはなかった。むしろレグルスにとってその場所は、決して安らぎや寛ぎを与えてはくれなかったのだ。常に息苦しくて窮屈で、まるで牢獄――そんな場所。
 それでも、寸分違わず細部まで再現されているこの空間に立つ今、あの城こそ己の場所であったのだと嫌でも突きつけられる。
――違う。
 ただ他に行き場もなかったから、己の場所とせざるを得なかったと述べる方が正しい。
 手にした人形の腕をきつく握りしめ、レグルスは先の見えない闇の向こう側まで、まっすぐ伸びた柔らかな深紅の絨毯を睨みつけた。
 成人となったその時にここから離れようと思えばできたはずなのに、わざわざその場に留まることを選んだのは他でもないレグルスだ。
 何度思い返しても実に馬鹿らしい選択に、苦笑しか浮かばない。

 暫く歩くと、大理石の支柱に刻まれた子どもの落書きのような線が目に飛び込んでくる。皇族の居住区たる北館へと通じる渡り廊下まで辿りついたのだ。レグルスの歩みは途端に鈍った。
 帰るべき場所、しかし、何処にも居場所のない己が根城。そんな帝国の城塞を復讐の舞台に選んだ魔女は、致命的となる一撃を確実にレグルスへと与えていた。
 この先は、皇族と一部の者のみ入ることを許された場所だ。レグルスもかつてはそこで眠っていたが、ここ数年は愛妾か見知らぬ女の元で夜を明かすことが殆どであった。
 一歩を踏み出したその時。背筋に走る悪寒に、レグルスはその身を固く構えた。

『貴様……っ王子様ではありませんか!』
 
 それまでの静寂を切り裂くように甲高い声が響く。それまで人の気配のなかった空間に突如として現れた存在にレグルスの身体は強張った。腰に下げた剣の柄を探ろうと手をかざすが、そこにいつもあるはずのものは無い。今手にあるものといえば何故か手放せなかった白いビスクドールのみだ。
 刹那、声を失った。
 己の背丈ほどある巨大な犬が、帝国の皇子直属の仕官であることを示した深緑のネクタイを結んで二本の足で立っていた。犬は鼻をしきりにひくつかせ、大きな口から妙に厚い舌を垂らし、浅い呼吸を繰り返していた。ぎょろっとした大きな茶色の目が、血の気の引いたレグルスの表情を映し出す。
 不気味すぎる従者を前に何も答えられぬままの己が真っ直ぐな金髪を、犬は前足を使い器用に撫でつけてきた。

『王子様、一体いつ帰って来られたのですか! でも、どうやって?』

 気持ちの悪いほど柔らかな声音で犬は訊ねた。状況の把握できないレグルスは、ただ困惑し何も返せない。

『お、お怪我はありませぬか? 魔女の鎖によって、もうご帰還されないのではと、皆心配しておりましたよ!』
「心配……? 皆が、俺を心配していたのか……? あり得ない……」

 やっと返せたその呟きに、犬は過剰に反応する。

『もちろんでございます! 王子様は、王様の御子。あなた様は宝物にございます』
「宝……? 俺が?」
『はい。如何なる宝珠も、王子様の命には叶いますまい!』

 やけに熱を込めた目で説く犬と、意味もなく熱いものがこみあげてくるレグルスの周りを、いつの間にか人の背丈ほどある赤い目をした羊の従者が取り囲んでいた。彼らは皆一様に歯を見せて笑い不気味なくらい喜んでいる。  

『よかった、本当に良かった。きっと王様もお喜びですよ!』
『さあ、参りましょう!』
『さあ、さあ!』
 
 巨大な羊達と犬に背を押され、訳の分からないまま流されるように足を進めた。三つ目の曲がり角を入って、奥に見えてきた巧妙な金細工に縁取られた巨大な扉は、皇帝の私室へと続くたった一つの道を示している。
 居るはずもない。魔女の作りだす幻の中に、あの男が居るはずは――。
 そう思っても、足取りは次第に足枷を嵌められた囚人の如く重くなってゆく。

 先にあるものが、現実のものではないと本能的に悟りながらも、レグルスは不安と恐怖から逃れる術を未だ知らない。鳩尾に広がる冷たい感覚は、奥へ奥へと染み入ってくる。
 しかし、歩みを止めたくとも流れに逆らうことできず、次第に扉はその存在感を増してゆくばかりだ。思い通りにならない身体。冷たくなっていく手足。 
 
「やめろ。進みたくない」

 低く唸っても、誰の耳に届くわけでもない。今の、剣も持たぬレグルスは無力だった。意外にも力強い従者たちに、いくら抗おうにも抗えない。
 この先にあるものは、誰にも触れられたくないものだ。レグルスは直感した。
 このまま行けば、傍観者に覗かれる。思考が脳裏を駆け抜けた瞬間、レグルスの背筋は凍りついた。
 そこにあるものを彼女には――魔女には絶対に知られたくない。 
 
 レグルスはその場に踏みとどまった。腕に抱えた人形を放り投げ、壁に掛けられた見事な細工の槍を手にとり、そのまま動物達を薙ぎ払う。
 ひゅんっ、と音速で流れた鋭い刃は、間違いなく気味の悪いこの従者たちを捕えた。

 それまで流れるように動いていた動物の従者達は、けたたましくカクカクと揺れた後、遂にその動きを止めた。切り口から飛び出すのは鮮やかな血ではないし、はみ出したのは臓物ではなく白い綿のようなもの。
 そう彼らは皆、人形だったのだ。
 それまで生き生きと動いていたそれらは、操りの糸がぷつんと切れるかのように、その場に崩れおちた。
  
『往生際の悪いお方。お伝えしたように、ここからは逃れられません。王子様。虚像であるお父上さえも、あなたは恐れるのでしょうか? 何て可愛らしい獅子なのかしら……』

 どこからともなく降り注がれる声は、明らかに狼狽するレグルスの様子を見て楽しんでいるようだった。
 レグルスは、青白い炎に揺れる天井を睨みあげた。もちろん、そこには何の影も見えない。レグルスには魔女の居所など知る術がないのだ。

「馬鹿らしい。幻と分かっているものを、何故恐れねばならぬ」
『では、何故そんなに震えているのでしょう?』
 
 きつく握りしめた拳は、魔女の言うように確かに震えていた。それは、久方ぶりに得物を敵へと振るった高揚感からか、それとも湧き上がるような不安からくるものか、レグルスには判別がつかない。

『存外、臆病なのでしょうか……? 獅子というよりはそう、子猫のようですね』

 背後より耳元に掛かる吐息。湿った甘やかな香りが、レグルスの鼻腔を擽る。白く、細い女の指が、レグルスの脈打つ首筋に触れ、大切なものでも扱うかのように優しく撫でまわす。
 敵に、それも女に後ろを完全に取られたのは、母親以来だ。いつ何を仕掛けてくるかと、自然と身を固くする。

『貴方を憎く思っている女に背を預けて、こんなにも無防備な姿で……。今の貴方の首を絞めるのは、赤子の手を捻るよりも簡単かもしれません』
「俺を、殺したいか」
『ええ、さっさと死んではくれませんか』

 甘やかな冷気を孕んだ声が、耳元で囁く。レグルスは何故か指ひとつ動かすこともままならず、その場に凍りついていた。己が魔女の束縛に囚われたのだと気付いたのはその時だ。
 魔女は広い背にふくよかな胸をぴたりと預け、細い腕をレグルスの身体へと絡ませた。鼓動の高鳴りを感じ取ったのか、魔女は忍び笑いを洩らす。

『それとも、命乞いをなさいます?』
「戯言を……!」
『ねえ、王子様。わたくしに尻尾は振らぬのですか?』

 するり、と胸元に手を忍び込ませてきた魔女の冷たい手の感触。宥めるように肌を重ねて、つつっと指を添わせてくる。その妖艶な指使いでレグルスを誘い、魔女は静かに求めた。

『ほら。跪いて』

 できるはずもない。己が自尊心はそれを激しく拒んでいる。
 偽りとはいえ、公然と魔女に忠義を誓い跪いてきた。その警戒心と敵意を解こうという思惑があったからだ。魔女は偽りのそれらに見向きもせず、ろくに心を開こうともしなかったが。
 魔女に命じられて跪くのと己が意思で跪くのでは意味合いが異なる。レグルスは決して魔女に屈していない。確かに、女にしておくには勿体ないほどに聡明な君主だ。
 だが所詮魔女。
 あの魔女と同じ存在――侮蔑するに値する生き物だ。その魔女の命で膝をつくなど、例え針の筵に落とされたとしてもお断りだ。
 しかし強い魔力の秘められた魔女の言霊はレグルスの意思を挫いた。否応なくその場に膝をつかせられたレグルスは、苦悶に表情を歪めその白く柔らかな手に額を擦りつけた。
 言いようのない屈辱にレグルスは唇を噛み、眉間の皺をより一層深く刻んだ。
 その時初めて魔女の姿を正面より捕える。
 スリットの深く入った黒いドレスは床を引きずるほどの裾の広がりで、垣間見える大腿を艶めかしく映し出す。高いヒールの靴のせいなのか、強調されたその脚線美。背に下りた豊穣な黒髪は艶やかで、白雪の如き肌はほんのりと薔薇色に色づいている。煽情的なまでに艶めくふっくらとした桃色の唇を釣り上げ、魔女は透き通る氷のように美しく微笑んでいた。
 マリアベルと全く同じ容貌だ。あの静かに穏やかに世を映していた瞳は、今は挑発的な光を灯して、憎い相手が己に跪く様を心底楽しんでいるかのようであった。

(これが魔女の本当の姿なのか?)

 普段の魔女とはあまりにも異質だ。正直驚きを隠せないが、このような生き生きとした表情を垣間見れようとは――レグルスの心は不思議と浮き立った。
 見たことか、やはりマリアベルは心を隠していた。死人が仇敵にこれほど生き生き対峙するものか。
 レグルスの予想通り、静かに淡々と復讐の機会を伺っていたのだ。
 己の推察が証明されたようで胸がすく思いがしたが、その言動の端々はあまりにも不快だ。
 ――本当に、これはマリアベルなのか?
 疑問が再び沸く。
 レグルスの疑念を払うように、魔女はその水底の輝きを持つ青の瞳を眇め、声高らかに笑いだした。

『いけませんね。王子様。全く、客を楽しませるという意思が感じられません。いつもならば早々に媚びてくださるというのに……ここに来てのあなたときたら。やけに反抗的ではありませんか。永遠の忠義と愛を誓うと、神聖なる場でお約束したのは嘘だったのですか? 嘘ではないと言うのなら、さっさと潔く惨たらしく散って、わたくしを喜ばせてください』

 そうだ。マリアベルは大切な道具。
 マリアベルを喜ばせることは、後に己がこの国の主導権を握る時に必ず優位に作用する。
 怒らせるのは得策ではない。そうと分かっていながらも。
 レグルスの胸中には嫌悪感が渦巻いていた。マリアベルには今まで散々謙っていたというのに、心が屈するのを拒絶する。この魔女の前で猫を被るのは無理だと魂が叫んでいた。
 普段は押し殺している自尊心が優位に立っているようだった。心に従順に言葉が溢れる。

「誰が、魔女などに媚びるものか……!」
『ああ。そう。頑ななお方。這いつくばって、くたばって、在りもしない愛を囁いてこその貴方だというのに。貴方ときたら、魔女相手だと全くまったく媚びないのですから。王子様は王子様らしく、お姫様に向けて愛しているだの、美しいだの、そんなことを言っていれば良いのに……』
「ふざけるな……!」
『わたくしは至って真面目ですよ。簡単でしょう? あなた、他者に媚びへつらう才覚に長けておりますもの。それ以外に、他人の中に入り込む術を知らぬのですから、当然でしょうけれど。その上王子様は本当に変わったお方。尻尾を振っておきながら、内心相手を蔑んでばかり。ほんの一欠けらの信頼も敬いもない他人の顔色を伺うのは、実に馬鹿らしいとは思いながらね。では今ここで魔女に尻尾を振っても構わぬでしょうに。屈辱に濡れる貴方の心からの表情を見せて欲しい』

 魔女は冷笑を浮かべたまま腰に手を当て、コツン、と軽快な足音を立てて一歩前に進む。
 それが魔女の本心であり隠された本性なのだ。あの静かな青い瞳はいつもレグルスをそんな風に映していたのだろうか。
 マリアベルの目は終始レグルスを素通りしていた。レグルスを気まぐれに映すことはあれど、その澄んだ瞳は常に遠くを映していた。今そこにいるレグルスを見て欲しいのにそうしてくれない。マリアベルの気を引こうと趣向を凝らしているというのに、あまりに無反応。清々しいほどの黙殺加減に、虚しさに襲われる。
 しかし、今の魔女の口ぶりからは、彼女がレグルスをよく観察していることが伺える。
 興味がないふりをして、憎々しく想われていた……?
 常に意識して帝国の皇子レグルスを見ていた?
 そう考えた時、魔女は途端に振り返った。レグルスの柳眉を凝視すると、ふっと息を吐き出して笑った。

『興味がないわけではないと分かり、喜びますか。気持ちの悪いお方ですね』

 魔女は、心を読めないはず。
 しかし、レグルスは動揺に胸を突き動かされる。

「笑わせる! 誰が、一体いつ喜んだのだ。お前は俺をそういう趣味の変態だと思っているのか」
『違うのですか?』
「違う!」

 驚いた、と呟く魔女。驚いたのはこちらの方だ、と狼狽するレグルス。
 魔女はどうやら、レグルスにとって見たくないものや暴かれたくないものを、強制的に突きつけてきているようだ。
 魔女は、また一歩、皇帝の私室の扉へ近づく。

「ここは一体何だ……答えろ」
『王子様の祖国でしょう? お忘れですか?』
「残念ながら、俺の祖国にあのような愉快な従者共はいない」
『そうですか』

 置かれた理解不能な状況に、レグルスの混乱と苛立ちは、徐々に高まっていくばかりだ。怒りに震えるレグルスの周りをゆっくりと巡り、魔女はただ鈴を転がすかのように笑って返す。

『――迷宮とでも申しましょうか』
「魔女の作りだした幻か」
『その通りです。話しの通じる賢い王子様』
「しかしこれが復讐とは、随分手ぬるいではないか。出口のない迷宮を彷徨わせるのが復讐だというのか?」
『そうでしょうか? ここから出る方法も知らぬ王子様にとっては、十二分な苦痛を与えていると自負しておりましたが……』

 読み間違いでしたか、と艶やかに微笑む魔女から視線を逸らし、レグルスは唇をかみしめた。
 そのような含みを持たせずとも、魔女の読みは当たっている。
 そうだ、苦痛なのだ。まずもって復讐にこの舞台を選んだところで、魔女はレグルスの過去の記憶を呼び醒ました。そして肉体に与えられる傷よりも深く、確実にレグルスの古傷を抉っていた。
 忌まわしい過去のことを思い返すたび、泥沼に沈んでいくような感覚に陥る。精神は否応なく汚染され、疲労も濃くなる。
 レグルスはやや草臥れた声を出し魔女に問う。

「どうしたら出られる……」
『さあ。答えはご自分で見つけるのが常でございましょう……ただ、ここから出ていきたいのであれば、迷宮の魔女の怒りを買わぬことです』

 つまり、この女の怒りを買わねばよいのだ。
 ――既に魔女に憎まれ、怒りを買っている場合はどうすればいい。

(ここから、出さぬつもりか……)

『何故、わたくしが魔女であると決めつけるのでしょう?』
「お前以外の誰がいるというのだ……」

 そう何人も魔女がいて堪るか。そもそも、魔女の領域に手出しできぬ。それは禁忌だ。
 この迷宮は、白の魔女が作り上げた領域。それを侵せば、魔物に喰い殺されることだろう。

『……そうですね』
 
 歯切れ悪く答えると、魔女は長い睫毛を伏せ、視線を落とした。
 その先にあるものを辿り、レグルスはようやく、先ほど放り投げたビスクドールの存在を思いだした。埃を被るその人形を拾い上げ、解れた糸を取り除く。レグルスの疲れた腕の中に収まるその人形に視線を向けた魔女は、ふと呟く。

『赦すのですか……』

(何のことだ……?)

 訝しげなレグルスの視線を受けても、マリアベルは曖昧に微笑みを浮かべるのみだ。

 マリアベルは、皇帝の扉の前で立ち止まると、重厚なその扉を軽々と開け放った。
 思わず身構えたレグルスだったが、その先に見えたのは、ひとつの扉だ。今は弟の部屋となった、かつて幼少期己が過ごした部屋に通じるそれ。 

「どういうことだ」
『ここはわたくしの迷宮。貴方の知る、帝国の城とは少々異なるということです』

 魔女は最後にそう言い残し、抵抗するレグルスの背を強く押し込んで扉を閉めた。
 垣間見えたマリアベルの顔には、信じられないほど綺麗な笑みが浮かんでいた。
 今来た通路を振り返っても、そこにもう扉は存在しない。あるのは、磨き抜かれた白い大理石の壁のみだ。叩けば固く、冷たい。

「……マリアベルの迷宮、か」

 レグルスは、込み上げてくる笑みを抑えきれず、誰もいないその場で声を上げて笑いだした。
 マリアベルに憎まれていると知った今、レグルスの中には不可思議な安心感が漂っていた。
 魔女は、強烈に自己を憎んでいる。
 どんな形であれ、レグルスの存在を認めている。
 心は己に向いていたし、レグルスがひた隠していた本性を見抜いている――そう思うと、レグルスはかつてないほど満たされた。
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