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第2夜 婚姻
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自制できないほどの殺気を纏ったまま、レグルスはその場に佇んでいた。抜かれた剣は所在なく、黒刃を鈍く光らせたままマリアベルの前に晒される。
冷たい夜風が、艶やかな漆黒の髪に挿された青い竜胆の花を揺らす。そのたびに芳しい香りが鼻腔に満ちてレグルスの心に小さなさざ波が立った。その不思議な感覚をまるで他人ごとのように受け止めている己がいる。
何故、彼女は未だこの場にとどまるのだろう。
フェリックスは去った。
彼女がここに来たのは、決して己に用があったからではない。あの男の姿を認めたからだ。
冷徹な感情をむき出しにする魔女を目の当たりにし、レグルスはそう確信していた。
(フェリックス……一体、何者だ? いつも荒波立たぬ魔女の感情をそこまで昂ぶらせた。何故、マリアベルはあそこまで奴を嫌悪する)
大陸中央に位置するアルストリア。
閉鎖されたかの山岳地帯に一体何を隠しているのだろう。マリアベルの逆鱗に触れる何かだろうか。
「綺麗な星空ですね」
魔女が空を見上げてそう呟いた。
心が離れかけていたレグルスも釣られて空を仰ぐ。幾千もの白い粒子が濃紺の天にばら撒かれていた。月は真珠のように輝いている。遙か上空に薄ら浮かぶ影は、蔦と木の根が張り巡らされた空中都市だと言われている。今宵のような晴れた夜、その冷厳とした都市は月影の下で垣間見れるのだ。
マリアベルはどこか浮足立った様子で、口元に微かに笑みを浮かべて視線を山の向こうへと移す。レグルスは剣の柄をきつく握り直した。
(それほどまでに、かの王子との逢瀬は幸せだったか)
二人の仲を引き裂く己はさしずめ魔物といったところだろうか。そこまで考えて、自嘲の笑みが浮かぶ。
彼女の言葉に何かを返さなければならない。常ならば「あなたの方が、綺麗だ」くらいの睦言は出てくるはずだが何も思い浮かばぬ。甘言を吐こうとしても喉の奥が閊え、ただ吐息が漏れた。それからようやく出た言葉は甘ったるさの欠片もなかった。
「かつての恋人との逢瀬は終わりですか? さぞや楽しまれたのでしょうね。さすがは美しい我が花嫁殿だ!」
「……恋人。そう見えましたか」
レグルスの皮肉めいた言葉にも、マリアベルは否定も肯定もせず淡々と返した。レグルスは硬質な足音を響かせ、落ち着きなくその場を何度も往復した。
白々しい女だ。あそこまで身体を密着させていたではないか――無意味な苛立ちに、レグルスは内心舌打ちする。
「ええ。嫉妬で周りのものが見えなくなるほどに。何故、あなたの隣に立つのが私ではないのかと、焦がれて焦がれて、焼けただれそうでした」
「そうですか。炭とならずに安心いたしました」
「いいえ我が君。あなたの心の中に、私の入り込める場所が見つからない。その事実が、私の心を灰にしてゆくのです」
何を言っているのだ。マリアベルが心の中で誰を愛そうが自由ではないか。レグルスには関係ないし干渉する権利もない。こんなものは茶番だ。
剣を鞘におさめて深く息をすると、いつものように甘い微笑を纏った。そしてマリアベルの前に跪くと、恭しくその手を取る。左の薬指へ己が嵌めた銀の指輪は、今なおそこで輝いていた。
魔女はレグルスのものになったというその証。
あとはただゆっくりと彼女を懐柔し、籠の中へと閉じ込めるだけ。
手袋ごしの彼女の手はとても冷たい。澄んだ瞳は硝子のよう、微動だにせずレグルスを見下ろす。その均整のとれた美しさはまるで人形だ。
「ウィリアム王子だけではなく、星空にまであなたの心を奪われたら……一体どこに、私の入る余地があるのでしょう?」
「どうぞお好きに。入りたければ何処へなりと」
「……拒まぬとおっしゃられますか?」
レグルスは瞠目し、探るようにマリアベルを伺った。仮面の下でどんな表情をしているか想像もつかないが、その凪いだ気だけは変わらない。
親を殺した一族の者を受け入れるなどあり得ない。どんなに穏やかな気質の人間も、恋人や夫婦であろうと親の敵となれば一矢報いるために命を張るものだ。親殺しへの憎悪は生涯消えることはない。
マリアベルは疑念の籠るレグルスの眼差しを受け止めて、凪いだ瞳で見つめ返した。何の感情も浮かばぬただ静かな湖面のような瞳には、欺瞞に満ちた男の笑みが映り込む。
「……あなたに、他者の内側に入るだけの覚悟があるのなら」
見透かすような瞳にレグルスは後退った。
絡めとられるのが恐ろしく、囚われるのを厭うあまり心に踏み入れない癖に――そう突きつけられた気がした。
(――違う。俺は……)
誰にも入ってきて欲しくない。だからこそ他者の内側になど入りたくもない。己の虚像など増やしたくもない。変化など望んでいないのだ。
他人には期待しないし興味も持たない。血のつながりがあっても所詮他人だし、側室は政局を動かす駒だ。彼らが何を感じようがどうでもよく、己の思うように事が運べばよかった。
深い関係など望んでいない。
マリアベルがレグルスの深層を見抜いたのかは分からない。しかし――。足元から冷たいものが這い上がってくる。
辺りを煌々と照らしていた月が厚い雲に隠れた。魔女との間に一瞬の暗闇が横たわる。細く揺らめく灯りが、足元に影を作った。
「あなたは恐ろしい方だ……」
「今頃気付いたのですか?」
「耳に痛い言葉です」
「冗談です。本気になさいませんよう」
マリアベルはふと口元を緩めた。
その時、月光が雲の間隙から漏れ出して真っ直ぐにマリアベルへと降り注いだ。透明感のある肌は桃色に色づき、誰かに触れられるのを期待しているようだった。
少なくともレグルスではない。それだけは確かなことだ。
気安く触れるなと言ったその唇は、別の誰かの口づけを待っているのだろう。
「マリア! 突然どうしたんだ?」
魔女を愛称で呼ぶ男の声に、レグルスは無意識に鼻に皺を寄せた。
フェリックスの一件ですっかり忘れていたが、この間男、性懲りもなく人の妻を追いかけてきたのか。
レグルスは不機嫌さを露わに腕を組んだ。
ウィリアムは威圧的なレグルスなど気にも留めず、マリアベルの細い手首を取った。
「話の途中で離れていくから、心配したよ」
「ごめんなさい。どうしても放っておけませんでした」
「……何のことだ?」
「……わたくし達の客人のことです」
「わたくし達……?」
そこで初めてレグルスの存在に気付いたようで、王子はマリアベルの手首を離すどころかそのまま引き寄せた。
「なるほど。殿下と共通の御友人か。相変わらず視野が広い。私は全然気付かなかったよ。君でもいない限り、こんな隅に逃げ込んでおられたレグルス殿下にも目がいかなかっただろう。君はどこにいても必ず私の目を惹くんだ……昔からね」
どれだけマリアベルのことを見ているのか彼はさりげなく主張した。
マリアベルはそれに気付いているのか分からないが、そっとウィリアムの手を引き離して返す。
「殿下はどこにいらしても目立つお方ですが、わたくしが目立つとは思えません。それは少々あり得ないことですから」
「そう思っているのは君だけだ。帝国の皇子に奪われるなど、勿体ないにもほどがある」
「そうでしょうか。このような無名に等しい島国の発展にかの帝国が力を貸すというのですから、勿体ないと思うべきはむしろわたくしの方なのでしょう」
迷いないマリアベルの言葉に流石のウィリアムも閉口した。
どこまでも国を思っての言動だ。そこに私情の入り込む余地など寸分たりとてない。
おかしな女だ。こんな女に今まで出会ったことがあろうか。
何処までも冷静で感情を露わにしない。一心不乱に取り乱すことなどこの先あるのだろうか。レグルスが知る限り、彼女の心が揺り動いたのはたった数回だ。そこまで感情を押し殺すのは、その胸の内で淡々と刃を研ぎ、復讐の機会を伺っているからだろうか。それとも本当に憎しみなど棄て、帝国の皇子を受け入れたのか。
その不透明さにレグルスの疑心はますます深まってゆくばかりだ。
(これが本当に生きた人間なのか?)
ウィリアムは苦しげに息を吐きだした。懲りることなくマリアベルの手を取り、左手の薬指に嵌る銀の指輪をそっとなぞる。
「……許して欲しい。こんな得体の知れぬ男に、君を渡さねばならない」
一番得体のしれないのは、思考さえ周囲に漏らさぬ魔女だ。己など可愛いものではないか。そう声高に言いたいのをぐっと堪えレグルスは笑みを保った。
(そも、人の花嫁にいちいち触るな)
当のマリアベルは不思議そうに小首を傾げて問い返した。
「何故わたくしへ許しを乞うのですか?」
「力及ばず……最後まで君を守れなかった」
その場に居なかった者がよく言えたものだ。ウィリアムは婚約者の祖国の窮状に手も差し伸べず、他国への視察にいそしんでいたと聞き及ぶ。
守れなかったのではない。
レグルスは口の端を釣り上げ、マリアベルの前で項垂れるウィリアムを見下ろした。
「守らなかった、の間違いでは?」
「何だと、貴様っ!」
「殿下は自国を危機に晒してまで、我が君を守るつもりなど爪の先ほども思っておられなかったでしょう。ああ、私は貴殿に感謝しなければなりませんね。我が君との縁を結べたのは、恐らく貴殿が我が君を守らなかったから――」
「そもそも、セラフィトがウィストを侵攻しなければ済む話だったのではないか! 竜の力に魅せられて馬鹿げた幻想を抱き、この国を暴いたのは他でもない。貴様らではないのか!」
「なるほど正論だ。だからと言ってそう大声で喚かぬよう。男の怒声など祝いの席にそぐわぬ、耳障りなだけでしょう。それにつきましては、私も貴殿に同意せざるをえません。幻の国を探す、などという馬鹿げたことを考えついた我が国の重鎮や、それに賛同し便乗した愚かな者達をお許しください」
「許せるわけがなかろう! ――貴様達は、マリアベルの、親を殺したのだぞ……! その敵とマリアは結婚せねばならぬ。そんな屈辱を貴様達は彼女に与えたのだ!」
大声は酔った頭に響いて苦痛だ。何より鬱陶しい。
(言われるまでもなく承知していることを喚くんじゃねえ。結婚を阻止できもしなかった負け犬が)
レグルスは暴言を押し殺すように甘ったるく微笑み、ウィリアムへ返した。
「では、私と我が君が結婚する前にあなたが攫って裸足で逃げ出したらよろしかったのではありませんか? その御位を棄てて我が君を救い出せば、万事解決ではありませんか。……まあ、無理でしょうね。貴殿は諸外交を任されているのでしょう? セラフィトとの国交に亀裂を生じさせるようなことがあれば、国の存亡に関わる……」
一度漏れ出した皮肉は歯止めが利かなかった。
いつもならば、このような挑発的な言動は国交相手には決して向けない。
関係を拗らせたところで利益など何一つなく、ひたすら耐え、下手に出て扱いやすくさせてからこちらの要求を通すのが交渉の手法であった。
それが分かっていながら何故か出来ない。
マリアベルを救いだせもせぬ男に、寸分だが噛みつかれるのは不愉快だった。
しかし、神経を逆なでされたウィリアムは激昂し、鋭い言霊の刃でレグルスを貫いた。
「馬鹿か貴様は。皇位継承権も認められぬ、己の親である皇帝にさえ捨て駒扱いされる貴様如き切り捨てたところで帝国には何の損害もないわ! 所詮その程度の存在だ!」
言葉の数々はレグルスを容赦なく刺し、塞がることのない傷口を抉った。
改めて言われるまでも無い。全て自覚していることだ。
皇帝にとって己はただの捨て駒。この世から抹消したくてやまぬ、そんな存在だ。
「己の立ち位置も知らぬ痴れ者が、国の代表たるこの私と対等に渡り合おうとするなど、百年早いわ! 皇子? 笑わせる。貴様はただの――」
パンッ、という乾いた音がその場に響いた。一瞬何が起こったのか分からずに僅かに赤らむ左の頬を茫然と押さえて立ち竦むウィリアムと、何の感情も露わにしないまま彼の頬を張った魔女を交互に見つめてレグルスは唖然とした。マリアベルは宙に浮いた右手を納め、小さく溜息をついた。
「無礼な物言いはおやめください。彼は、ウィスト大公――わたくしの伴侶です。もはやそれ以外の何ものでもない。これ以上殿下を侮辱せぬよう」
「マ、マリア……」
「それに、周囲が何と言おうと立ち位置を決めるのは己でしょう。役割を果たせるかどうかは、己次第――違いますか、レグルス殿」
いきなり振られたが、レグルスは答えることができなかった。
全ての調子がマリアベルの前では狂わされる。心は自制できぬほど騒めき、レグルスは苦虫を噛み潰したような気分に陥るのだった。
◇
宴の後、城の中は静寂に包まれていた。月は厚い雲に隠れ、常ならば僅かな月光を取り入れる窓からも、光は差し込まない。
全てが寝静まったその中で、動くのはたった一つの影のみだ。
天の竜落っこちて 翼も折れて真っ赤に染まる
地の竜哀れに思って 海の底から押し上げる
童謡だろうか、音痴な歌声が、密やかに広い回廊に響く。赤銅色の髪を揺らし、軽やかな足音を立てて、彼の人は暗闇の向こうへと進む。
曲がり角に差し掛かり、彼の人はそこで立ち止まった。目の前にあるのは、両脇に立ち並ぶ二本の柱と、なんの変哲もない白い壁。
その行く手を阻む華奢な体躯の女が、暗闇の中で猫のようにじっと彼の人を見据えている。暗がりの回廊に浮かび上がる青い瞳はまるで宝玉のように輝いて美しい。
「へったくそですわね」
吐き捨てるように呟いたのはマナだった。彼は微笑みを浮かべ、恭しく礼をする。
「これはこれは。高名なる魔術師、マナ女史ではありませんか。あなたにまでお目見え出来るとは。私はまさに、名前負けせぬほどに幸運な男です」
「……誰が話しかけても良いと言いまして? 本当に口の減らぬ男ですこと。幸運だなんて、名前負けもいいところです。愚者とでも改名なさったほうがよろしくてよ」
「手厳しい。ひとりごとにて、聞き流していただきたいものです」
「姫様の領域に招かれたわけでもないというのに。こそこそと何を嗅ぎまわっていますの? 返答次第では容赦なくぶちのめしますわよ。また姫様に害を加えるつもりならばもう一生羽ばたくことなどできなくさせて差し上げますわ」
「嗅ぎまわっていたなど……懐かしんでいただけです」
「あら。あなたに何かを懐かしむ心などあったのですか。それは初耳です。簡単に友も、国も、故郷も売り払うような愚の象徴のようなものの口から、懐かしいという言葉を聞けるとは……感涙ものですわね」
マナはにっこりと微笑んで、自分の倍はある男を見上げた。
「あなたが何を考えているのか、あたくしには皆目見当もつきません。もし、あなたの考えが露見したところでぶち壊すだけですが……これだけは確かですわ。フェリックス。あなたが天空都市へ帰れる日など、永遠に来ないでしょう」
マナは、唄の続きを口ずさむと鈴を転がしたような笑い声を立てて、囁いた。
「誰も、あなたを招き入れるものなどいませんもの。フェリックス」
冷たい夜風が、艶やかな漆黒の髪に挿された青い竜胆の花を揺らす。そのたびに芳しい香りが鼻腔に満ちてレグルスの心に小さなさざ波が立った。その不思議な感覚をまるで他人ごとのように受け止めている己がいる。
何故、彼女は未だこの場にとどまるのだろう。
フェリックスは去った。
彼女がここに来たのは、決して己に用があったからではない。あの男の姿を認めたからだ。
冷徹な感情をむき出しにする魔女を目の当たりにし、レグルスはそう確信していた。
(フェリックス……一体、何者だ? いつも荒波立たぬ魔女の感情をそこまで昂ぶらせた。何故、マリアベルはあそこまで奴を嫌悪する)
大陸中央に位置するアルストリア。
閉鎖されたかの山岳地帯に一体何を隠しているのだろう。マリアベルの逆鱗に触れる何かだろうか。
「綺麗な星空ですね」
魔女が空を見上げてそう呟いた。
心が離れかけていたレグルスも釣られて空を仰ぐ。幾千もの白い粒子が濃紺の天にばら撒かれていた。月は真珠のように輝いている。遙か上空に薄ら浮かぶ影は、蔦と木の根が張り巡らされた空中都市だと言われている。今宵のような晴れた夜、その冷厳とした都市は月影の下で垣間見れるのだ。
マリアベルはどこか浮足立った様子で、口元に微かに笑みを浮かべて視線を山の向こうへと移す。レグルスは剣の柄をきつく握り直した。
(それほどまでに、かの王子との逢瀬は幸せだったか)
二人の仲を引き裂く己はさしずめ魔物といったところだろうか。そこまで考えて、自嘲の笑みが浮かぶ。
彼女の言葉に何かを返さなければならない。常ならば「あなたの方が、綺麗だ」くらいの睦言は出てくるはずだが何も思い浮かばぬ。甘言を吐こうとしても喉の奥が閊え、ただ吐息が漏れた。それからようやく出た言葉は甘ったるさの欠片もなかった。
「かつての恋人との逢瀬は終わりですか? さぞや楽しまれたのでしょうね。さすがは美しい我が花嫁殿だ!」
「……恋人。そう見えましたか」
レグルスの皮肉めいた言葉にも、マリアベルは否定も肯定もせず淡々と返した。レグルスは硬質な足音を響かせ、落ち着きなくその場を何度も往復した。
白々しい女だ。あそこまで身体を密着させていたではないか――無意味な苛立ちに、レグルスは内心舌打ちする。
「ええ。嫉妬で周りのものが見えなくなるほどに。何故、あなたの隣に立つのが私ではないのかと、焦がれて焦がれて、焼けただれそうでした」
「そうですか。炭とならずに安心いたしました」
「いいえ我が君。あなたの心の中に、私の入り込める場所が見つからない。その事実が、私の心を灰にしてゆくのです」
何を言っているのだ。マリアベルが心の中で誰を愛そうが自由ではないか。レグルスには関係ないし干渉する権利もない。こんなものは茶番だ。
剣を鞘におさめて深く息をすると、いつものように甘い微笑を纏った。そしてマリアベルの前に跪くと、恭しくその手を取る。左の薬指へ己が嵌めた銀の指輪は、今なおそこで輝いていた。
魔女はレグルスのものになったというその証。
あとはただゆっくりと彼女を懐柔し、籠の中へと閉じ込めるだけ。
手袋ごしの彼女の手はとても冷たい。澄んだ瞳は硝子のよう、微動だにせずレグルスを見下ろす。その均整のとれた美しさはまるで人形だ。
「ウィリアム王子だけではなく、星空にまであなたの心を奪われたら……一体どこに、私の入る余地があるのでしょう?」
「どうぞお好きに。入りたければ何処へなりと」
「……拒まぬとおっしゃられますか?」
レグルスは瞠目し、探るようにマリアベルを伺った。仮面の下でどんな表情をしているか想像もつかないが、その凪いだ気だけは変わらない。
親を殺した一族の者を受け入れるなどあり得ない。どんなに穏やかな気質の人間も、恋人や夫婦であろうと親の敵となれば一矢報いるために命を張るものだ。親殺しへの憎悪は生涯消えることはない。
マリアベルは疑念の籠るレグルスの眼差しを受け止めて、凪いだ瞳で見つめ返した。何の感情も浮かばぬただ静かな湖面のような瞳には、欺瞞に満ちた男の笑みが映り込む。
「……あなたに、他者の内側に入るだけの覚悟があるのなら」
見透かすような瞳にレグルスは後退った。
絡めとられるのが恐ろしく、囚われるのを厭うあまり心に踏み入れない癖に――そう突きつけられた気がした。
(――違う。俺は……)
誰にも入ってきて欲しくない。だからこそ他者の内側になど入りたくもない。己の虚像など増やしたくもない。変化など望んでいないのだ。
他人には期待しないし興味も持たない。血のつながりがあっても所詮他人だし、側室は政局を動かす駒だ。彼らが何を感じようがどうでもよく、己の思うように事が運べばよかった。
深い関係など望んでいない。
マリアベルがレグルスの深層を見抜いたのかは分からない。しかし――。足元から冷たいものが這い上がってくる。
辺りを煌々と照らしていた月が厚い雲に隠れた。魔女との間に一瞬の暗闇が横たわる。細く揺らめく灯りが、足元に影を作った。
「あなたは恐ろしい方だ……」
「今頃気付いたのですか?」
「耳に痛い言葉です」
「冗談です。本気になさいませんよう」
マリアベルはふと口元を緩めた。
その時、月光が雲の間隙から漏れ出して真っ直ぐにマリアベルへと降り注いだ。透明感のある肌は桃色に色づき、誰かに触れられるのを期待しているようだった。
少なくともレグルスではない。それだけは確かなことだ。
気安く触れるなと言ったその唇は、別の誰かの口づけを待っているのだろう。
「マリア! 突然どうしたんだ?」
魔女を愛称で呼ぶ男の声に、レグルスは無意識に鼻に皺を寄せた。
フェリックスの一件ですっかり忘れていたが、この間男、性懲りもなく人の妻を追いかけてきたのか。
レグルスは不機嫌さを露わに腕を組んだ。
ウィリアムは威圧的なレグルスなど気にも留めず、マリアベルの細い手首を取った。
「話の途中で離れていくから、心配したよ」
「ごめんなさい。どうしても放っておけませんでした」
「……何のことだ?」
「……わたくし達の客人のことです」
「わたくし達……?」
そこで初めてレグルスの存在に気付いたようで、王子はマリアベルの手首を離すどころかそのまま引き寄せた。
「なるほど。殿下と共通の御友人か。相変わらず視野が広い。私は全然気付かなかったよ。君でもいない限り、こんな隅に逃げ込んでおられたレグルス殿下にも目がいかなかっただろう。君はどこにいても必ず私の目を惹くんだ……昔からね」
どれだけマリアベルのことを見ているのか彼はさりげなく主張した。
マリアベルはそれに気付いているのか分からないが、そっとウィリアムの手を引き離して返す。
「殿下はどこにいらしても目立つお方ですが、わたくしが目立つとは思えません。それは少々あり得ないことですから」
「そう思っているのは君だけだ。帝国の皇子に奪われるなど、勿体ないにもほどがある」
「そうでしょうか。このような無名に等しい島国の発展にかの帝国が力を貸すというのですから、勿体ないと思うべきはむしろわたくしの方なのでしょう」
迷いないマリアベルの言葉に流石のウィリアムも閉口した。
どこまでも国を思っての言動だ。そこに私情の入り込む余地など寸分たりとてない。
おかしな女だ。こんな女に今まで出会ったことがあろうか。
何処までも冷静で感情を露わにしない。一心不乱に取り乱すことなどこの先あるのだろうか。レグルスが知る限り、彼女の心が揺り動いたのはたった数回だ。そこまで感情を押し殺すのは、その胸の内で淡々と刃を研ぎ、復讐の機会を伺っているからだろうか。それとも本当に憎しみなど棄て、帝国の皇子を受け入れたのか。
その不透明さにレグルスの疑心はますます深まってゆくばかりだ。
(これが本当に生きた人間なのか?)
ウィリアムは苦しげに息を吐きだした。懲りることなくマリアベルの手を取り、左手の薬指に嵌る銀の指輪をそっとなぞる。
「……許して欲しい。こんな得体の知れぬ男に、君を渡さねばならない」
一番得体のしれないのは、思考さえ周囲に漏らさぬ魔女だ。己など可愛いものではないか。そう声高に言いたいのをぐっと堪えレグルスは笑みを保った。
(そも、人の花嫁にいちいち触るな)
当のマリアベルは不思議そうに小首を傾げて問い返した。
「何故わたくしへ許しを乞うのですか?」
「力及ばず……最後まで君を守れなかった」
その場に居なかった者がよく言えたものだ。ウィリアムは婚約者の祖国の窮状に手も差し伸べず、他国への視察にいそしんでいたと聞き及ぶ。
守れなかったのではない。
レグルスは口の端を釣り上げ、マリアベルの前で項垂れるウィリアムを見下ろした。
「守らなかった、の間違いでは?」
「何だと、貴様っ!」
「殿下は自国を危機に晒してまで、我が君を守るつもりなど爪の先ほども思っておられなかったでしょう。ああ、私は貴殿に感謝しなければなりませんね。我が君との縁を結べたのは、恐らく貴殿が我が君を守らなかったから――」
「そもそも、セラフィトがウィストを侵攻しなければ済む話だったのではないか! 竜の力に魅せられて馬鹿げた幻想を抱き、この国を暴いたのは他でもない。貴様らではないのか!」
「なるほど正論だ。だからと言ってそう大声で喚かぬよう。男の怒声など祝いの席にそぐわぬ、耳障りなだけでしょう。それにつきましては、私も貴殿に同意せざるをえません。幻の国を探す、などという馬鹿げたことを考えついた我が国の重鎮や、それに賛同し便乗した愚かな者達をお許しください」
「許せるわけがなかろう! ――貴様達は、マリアベルの、親を殺したのだぞ……! その敵とマリアは結婚せねばならぬ。そんな屈辱を貴様達は彼女に与えたのだ!」
大声は酔った頭に響いて苦痛だ。何より鬱陶しい。
(言われるまでもなく承知していることを喚くんじゃねえ。結婚を阻止できもしなかった負け犬が)
レグルスは暴言を押し殺すように甘ったるく微笑み、ウィリアムへ返した。
「では、私と我が君が結婚する前にあなたが攫って裸足で逃げ出したらよろしかったのではありませんか? その御位を棄てて我が君を救い出せば、万事解決ではありませんか。……まあ、無理でしょうね。貴殿は諸外交を任されているのでしょう? セラフィトとの国交に亀裂を生じさせるようなことがあれば、国の存亡に関わる……」
一度漏れ出した皮肉は歯止めが利かなかった。
いつもならば、このような挑発的な言動は国交相手には決して向けない。
関係を拗らせたところで利益など何一つなく、ひたすら耐え、下手に出て扱いやすくさせてからこちらの要求を通すのが交渉の手法であった。
それが分かっていながら何故か出来ない。
マリアベルを救いだせもせぬ男に、寸分だが噛みつかれるのは不愉快だった。
しかし、神経を逆なでされたウィリアムは激昂し、鋭い言霊の刃でレグルスを貫いた。
「馬鹿か貴様は。皇位継承権も認められぬ、己の親である皇帝にさえ捨て駒扱いされる貴様如き切り捨てたところで帝国には何の損害もないわ! 所詮その程度の存在だ!」
言葉の数々はレグルスを容赦なく刺し、塞がることのない傷口を抉った。
改めて言われるまでも無い。全て自覚していることだ。
皇帝にとって己はただの捨て駒。この世から抹消したくてやまぬ、そんな存在だ。
「己の立ち位置も知らぬ痴れ者が、国の代表たるこの私と対等に渡り合おうとするなど、百年早いわ! 皇子? 笑わせる。貴様はただの――」
パンッ、という乾いた音がその場に響いた。一瞬何が起こったのか分からずに僅かに赤らむ左の頬を茫然と押さえて立ち竦むウィリアムと、何の感情も露わにしないまま彼の頬を張った魔女を交互に見つめてレグルスは唖然とした。マリアベルは宙に浮いた右手を納め、小さく溜息をついた。
「無礼な物言いはおやめください。彼は、ウィスト大公――わたくしの伴侶です。もはやそれ以外の何ものでもない。これ以上殿下を侮辱せぬよう」
「マ、マリア……」
「それに、周囲が何と言おうと立ち位置を決めるのは己でしょう。役割を果たせるかどうかは、己次第――違いますか、レグルス殿」
いきなり振られたが、レグルスは答えることができなかった。
全ての調子がマリアベルの前では狂わされる。心は自制できぬほど騒めき、レグルスは苦虫を噛み潰したような気分に陥るのだった。
◇
宴の後、城の中は静寂に包まれていた。月は厚い雲に隠れ、常ならば僅かな月光を取り入れる窓からも、光は差し込まない。
全てが寝静まったその中で、動くのはたった一つの影のみだ。
天の竜落っこちて 翼も折れて真っ赤に染まる
地の竜哀れに思って 海の底から押し上げる
童謡だろうか、音痴な歌声が、密やかに広い回廊に響く。赤銅色の髪を揺らし、軽やかな足音を立てて、彼の人は暗闇の向こうへと進む。
曲がり角に差し掛かり、彼の人はそこで立ち止まった。目の前にあるのは、両脇に立ち並ぶ二本の柱と、なんの変哲もない白い壁。
その行く手を阻む華奢な体躯の女が、暗闇の中で猫のようにじっと彼の人を見据えている。暗がりの回廊に浮かび上がる青い瞳はまるで宝玉のように輝いて美しい。
「へったくそですわね」
吐き捨てるように呟いたのはマナだった。彼は微笑みを浮かべ、恭しく礼をする。
「これはこれは。高名なる魔術師、マナ女史ではありませんか。あなたにまでお目見え出来るとは。私はまさに、名前負けせぬほどに幸運な男です」
「……誰が話しかけても良いと言いまして? 本当に口の減らぬ男ですこと。幸運だなんて、名前負けもいいところです。愚者とでも改名なさったほうがよろしくてよ」
「手厳しい。ひとりごとにて、聞き流していただきたいものです」
「姫様の領域に招かれたわけでもないというのに。こそこそと何を嗅ぎまわっていますの? 返答次第では容赦なくぶちのめしますわよ。また姫様に害を加えるつもりならばもう一生羽ばたくことなどできなくさせて差し上げますわ」
「嗅ぎまわっていたなど……懐かしんでいただけです」
「あら。あなたに何かを懐かしむ心などあったのですか。それは初耳です。簡単に友も、国も、故郷も売り払うような愚の象徴のようなものの口から、懐かしいという言葉を聞けるとは……感涙ものですわね」
マナはにっこりと微笑んで、自分の倍はある男を見上げた。
「あなたが何を考えているのか、あたくしには皆目見当もつきません。もし、あなたの考えが露見したところでぶち壊すだけですが……これだけは確かですわ。フェリックス。あなたが天空都市へ帰れる日など、永遠に来ないでしょう」
マナは、唄の続きを口ずさむと鈴を転がしたような笑い声を立てて、囁いた。
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確信したと同時に再びあの酷い日々を過ごす事になる事に絶望した、そんなデイジーを変えたのは他でもなく、前世での彼女自身の願いであった。
––次の人生は後悔もない、幸福な日々を––
他でもない、自分自身の願いを叶えるために彼女は二度目の人生を立ち上がる。
前のような弱気な生き方を捨てて、怒りに滾って奮い立つ彼女はこのくそったれな人生を生きていく事を決めた。
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