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第2夜 婚姻

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 ◇
 
 汗ばむ首筋に張り付く髪を鬱陶しげに振り払い、レグルスは花婿の控室から瓦礫の撤去された白い街並みを見下ろした。前大公崩御よりもうすぐひと月。破壊された街道や建造物の再建のための準備が進み、首都は元の様相を取り戻そうとしている。
 戦後はしばらくの間、各所で小競合いが続いていたが、その規模も次第に縮小しつつある。マリアベル帰還により国内は落ち着きを取り戻し始めているようだ。
 ここまで迅速に復興作業が行えるのも、ひとえにマリアベルが大公として戻る決意をしたからこそ。国が纏まるのは彼女のおかげなのは間違いない。
 そしてレグルスとマリアベルの婚姻の準備も順調に進んでいた。大陸の諸国からは帝国宛てに祝いの書簡が届き、新たな大公の元へ多くの貢物が捧げられる。帝国がウィストを手に入れたことにより、戦況は帝国優勢に傾きつつある。同盟諸国はウィストに竜の召喚士がいると考えているのか、迂闊に攻勢に転じられぬようだった。それどころか、竜の再来を恐れて帝国へ下る国もあり、同盟体制は崩れつつあった。
 これを機に、幻の国であったウィスト公国と縁を結ぼうと近寄る国もあろう。ウィストと強い結びつきを持てば、まだ見ぬ竜の脅威に怯える必要はないのだ。
 その一方で、ウィストの情勢は激変した。
 まず、勢力図が大きく変動したのだ。前大公に仕えていた者の中には、帝国に隷属するのを厭い、叛意を表明するものも存在した。彼らはたとえマリアベルが大公として起ってもその伴侶が帝国の皇子であることに難色を示した。帝国の傀儡を戴くくらいならば帝国と再選することも辞さぬと豪語したのだ。
 そのような輩に囲まれては命が幾つあっても足りぬ。過激な連中はマリアベルを迎える以前に中枢から追い出し、地方の州に据えてやった。
 もし兄皇子ルークがウィストに残留していたのであれば、過激派は容赦なく処されていただろうから感謝されてもいいくらいである。
 そして残ったのは穏健派だ。国力を大きく削がれた今は仇国の力を借りてでも、復興するのが先と考える者達だ。彼らは敵意を剥き出しにすることこそないが、その目は常に暗澹とした恨みと憎しみが渦巻いていた。
 穏健派でさえそんな有様で、レグルスは日々顔を引き攣らせていた。この針の筵状態は帝国にいた頃と何ら変わりなく、心労は溜まる一方である。元より易々と手中に収められる国ではない思っていたが、あまりにも思い通りにいかず、苛立ちは増すばかりである。
 マリアベルは相変わらず何を考えているのか、重鎮達の非難の嵐を浴びても涼しい顔で婚姻の為の準備を進め、本日遂に婚儀を迎えることとなる。
 抜けた過激派に代わり国の中枢に据え置かれているのは、若手の貴族である。彼らは古参の臣ほど叛意を抱いておらず、むしろマリアベルを女神と崇めていた。扱いづらさはなく、今のところレグルスの思うように復興に向けて動いている――とりあえず表向きは。

「殿下、時間です」

 正装に身を固めたルトが入室してくる。いつも以上に嬉しそうな面持ちなのは何故なのか、敬愛に満ちた眼差しがレグルスへと向けられた。
 黒の礼服に包まれた細身の体躯。その下には、一切の無駄のない、美しい筋肉が隠されている。前髪をきっちりと纏めて後ろに流すと、流麗な顔が露わになる。レグルスは、その秀麗な顔に満足げな笑みを浮かべる。
 遂に、マリアベルに永遠に外れぬ鎖をかける時間がやってきたのだ。

「ああ」

 レグルスは頷き、壁に立てかけてあった己の剣に手をかける。よほどのことがない限り、その身より離したことのない半身同然の剣だ。年少の時分に魔女より奪い取った破魔の剣である。刀身は漆黒。柄には紅玉が嵌められている。ルトは驚きに目を開いた。

「それを会場に持ち込まれるのですか?」
「当然だ」
「はあ。今日のような祝いの席にもですか?」
「閨にもこの剣を持っていくつもりだが」
「殿下がそれを抜かぬよう、俺がしっかりお守りいたしますから」

 何の決意表明なのか、やけに真剣な顔つきで呟いたルトを不思議な心境で一瞥し、扉をくぐる。
 ルトの先導で、婚儀の会場である大広間へと向かう。大理石の床に刻まれた幾何学模様を眺めながら、レグルスはこれから行われる婚儀の手順の復習をした。賓客の中には、今後国交を結びたいと考える国もいる。特に、帝国以北の閉鎖国ドールと、山岳国家のアルストリアとは何とか国交を持ち、内情を探るとともに貿易と技術の交渉をしたいもの。
 レグルスの思案を遮るように、ルトが明るく言った。

「御衣裳、どんなのでしょう。楽しみですね」
「何を着ようが、あの方が美しいことにかわりはないさ」

 皮肉めいた口調で返すと、ルトから呆れたような笑みが返ってくる。
 きっと何を着ても素晴らしく美しいだろう。レグルスにとっては、マリアベルはマリアベルでしかないのだから。
 とはいえ、マリアベルが最も似合う色は白であろうと一瞬脳裏に浮かぶ。白いドレスとベールに身を包んだマリアベルは如何程に美しいだろうか。
 そこまで考えが行き着いたことに思わず苦笑する。お飾りの花嫁の衣装など、何故考える必要があろうか。ただ見えた瞬間に称賛の美辞麗句を並べたてるのみだ。
 薄く笑い、レグルスは大広間へと続く巨大な扉を見上げた。その両脇に控えていた衛兵が厳かに扉を押し開ける。

「ともあれ、我が麗しの花嫁の登場が楽しみだな」
「本当に。では殿下。俺は少し離れたところで控えておりますから。大丈夫です、絶対にお守りします」
「大げさだな。俺も一応、軍人の端くれなのだがな……」
「そうでしたね」

 ルトは、苦笑を浮かべた。近頃平穏な時を過ごしているからか。時折、血なまぐさい戦場にいたことを忘れる。本来であれば、未だ勝機も見えぬ戦いを強いられていたことだろう。 
 とは言え、生死を別つ戦場ではないにせよ、新たな戦地へと送り出されたことに変わりはない。このウィストとて地盤を築ききれぬレグルスにとっては戦地に等しいのだ。祝いの場であっても、命が狙われることもあり得る。
 そのための帯刀でもあった。
 ルトが控えているとはいえ、自衛の意識は常に持つべきだ。
 ウィスト公国の婚礼の儀は、花婿が先に会場入りし、後から花嫁が登場する。花嫁は付き添い人――多くの場合は花嫁の父兄であるが、既に亡い為今回は護衛が付き添う――に伴われ、花婿のいる祭壇へと向かうのである。そして、どのような花嫁衣装であるかは当日にしか知り得ない。花嫁の晴れ姿は婚儀の当日まで見てはならないのだ。
 ウィストの習慣に則り、レグルスもまた、マリアベルの花嫁衣装は知らない。婚儀に先だって、何か贈り物の一つでもして機嫌を伺おうかとも思ったが、装いが分からぬ以上事前にできることは何もなかった。

 レグルスが大広間に入ると、既に集まっていた各国の賓客からの視線が集中した。
 煌びやかに着飾った若い淑女からはため息が漏れ、ウィストの関係者からは一様に冷たい眼差しを、あるいは畏怖の視線を向けられる。
 しかし、そのようなねっとりとした視線には慣れたものだ。意に介することもなく、レグルスは正面を見据える。
 まず、視界に飛び込んできたのは煌々と輝く頭上のシャンデリアである。あまりの眩しさに目を眇めつつ、レグルスは深紅の絨毯へ足を踏み入れた。爽やかなクリーム色のタイルは、隅々まで磨き抜かれており、歩くたびに小気味良く鳴る。
 正面には、青地に黒の十字、中央に竜胆と竜の爪が描かれた公国の国旗と、白地に赤線が入った、冠と獅子が描かれた帝国の国旗が交差するように掲げられている。
 その下に立つのは司祭だ。
 裾の長い黒衣の上に銀色の首飾りを下げ、先の尖った小さな帽子を被った初老の紳士がレグルスを待っている。
 見事な深紅の道は、今はレグルスの為だけに開かれていた。元は大公が在るべき場所なのか、末広がりの階段まで続く赤い道の先には、冷厳とした雰囲気が漂っている。
 そこにある、二つの椅子。
 金の美しい細工の施された、ふんわりとした赤い生地を張ったそれが、大公の玉座なのだとレグルスは理解する。
 真っ直ぐ優雅に歩むレグルスを、周囲は小さな声で包んだ。

「まあ。あれが噂の皇子……?」
「本当に左右の眼が違う。それも、榛と青……何とも不吉だ」
「ベリアードで猛威をふるった金獅子が、今度は帝国の駒として結婚か……」

 様々な囁きが交わされ、途端にざわめく会場の空気。とてもではないが、これから婚姻を上げる会場とは思えぬほどに思惑と疑心と、誹り、それから燻ぶるような憎しみに満ちている。
 このどうあっても祝福などされないような雰囲気の中、レグルスはただ口元に甘ったるい微笑みを湛えて前を向き、その時を待つ。
 祝福などされないのは承知の上。
 己は帝国の駒にすぎないのだから。今更如何に蔑みの視線を向けられようと、すべて笑みで躱すくらいの気構えでいた。
 彼らの視線は専ら、全身からその左目に移行する。
 会場の誰もが、お前などには過ぎたる青目であると腹の中では思っていることだろう。
 元より、己が青目を持つに相応しくないことなど熟知している。
 魔力を持たぬ咎人の証とされた右目、それとは正反対の色の左目。
 兄弟のうち、レグルスのみが青緑の眼ではなかった。皇家の証を持たぬゆえに、様々な苦労を強いらされてきた。それでも有能さを買われ、兄達の肩代わりをしてきたのだ。それらの実績は、決して表だって認められることはなかった。
 ――何もかもこの目のせいだ。それを隠さずに晒してきたのは、都合よく扱ってきた者達への意趣返しである。
 己を売り飛ばし、戻ってきたその暁には何事もなかったかのように迎え入れた彼の者へのささやかな反抗だ。
 まともな魔力も使えぬと知るや、再び己を廃しようとしたあの者への当てつけなのだ。
 レグルスは滲みでる苛立ちを内側へと抑え込み、なるべく柔らかく、甘い雰囲気を繕った。周囲は再び騒めいた。

(今のうちに、せいぜい侮っておけばよい。そうして油断している間にその喉元へと喰らいついてみせよう)

 口元には柔和な笑み、そして目は冷徹そのものの光を残し、レグルスはその場の者を一瞥する。
 賓客の中には、帝国とのつながりが希薄な国家もあり、正直婚儀どころではない。
 常は閉鎖的な彼らが公式の場に出てくることはごく限られているのだ。この機を逃す手はなかろう。
 思考が完全に列国の使者へと向けられていた時であった。それまでざわめき立ち蠢いていた周囲が、突如水を打ったように静まり返る。レグルスは、遂にこの婚儀の主役が来ることを悟った。
 冷厳な雰囲気に包まれる中、扉が開かれる。

(さあ、来い)

 レグルスはそっと扉へ視線を移した。
 その刹那、完璧なまでの微笑みがいとも簡単に崩れ去った。静かに密やかに、大広間へと入場した己が花嫁の姿にただ目を見開くことしかできない。

「……っ!」 

 目を疑った。周囲は声を失い、口を半開きにして花嫁が通過してゆくのを見送る。しかしそれも無理はない。レグルスも、動揺を抑えようとするが、それでも一度加速した鼓動はなかなか元に戻らない。
 マリアベルは、誰もの予想を遥かに裏切った花嫁衣装で登場したのだ。
 花嫁と言えば婚儀の主役。華やかな衣装や純白のドレスに身を包み、穢れを知らぬ乙女よろしく、慎ましやかにそこにあるはずのもの。しかし祭壇へと一歩ずつ近づく己が花嫁と言えば、それとはまったくかけ離れたものであった。
 純然たる黒。
 それが、今の彼女を表す最も的確な言葉である。結婚するというより、これから葬儀を上げると言われた方が納得できるかもしれない。
 身に纏う全ては黒で統一されている。そのドレス、ベール、肘まであるレースのロンググローブも。目元は黒鉄の仮面で隠している。垣間見えるのは、薄く紅を引いた艶やかな桃色の唇のみ。結いあげられた黒髪にはティアラではなく、一輪の竜胆の生花が飾られて、白いうなじが一際強調されている。首元には黒真珠のネックレス、耳を飾るのはそれと揃いのイヤリングだ。
 決して華美な様相ではない。だが目を引く。胸元の細やかな刺繍と裾の繊細なレース、後ろ姿は洗礼された長いトレーンが美しい。その仮面で素顔は隠されているとはいえ、内面より溢れ出る気品と美しさを抑えることはできなかったようだ。

(一々面白いことをやってくれるな、我が花嫁殿は)

 彼女が控えめに付き添う男の腕に手を乗せ、深紅の道を通って一歩一歩祭壇へと近づくたび、衣擦れの音と涼しげな鈴の音が耳に心地よく響いた。
 純潔の乙女が婚儀に着るには忌諱されるような黒い衣装であっても、不思議とマリアベルが纏うと忌まわしく思えぬ。
 あの、憎々しい魔女と同種であるはずなのに。
 レグルスは、華奢な黒い花嫁の姿を壇上より見下ろして、動揺を何とか鎮めようとした。だが、鼓動は逸るばかりだ。身体の底から熱が湧き上がり、中心から溶けそうだ。
 とうとうマリアベルが隣に立った。ただ静かに前を向く。刹那、ふわりと花の香りが漂った。
 嫌いではない。その佇まいも雰囲気も。
 微塵も動揺を感じさせない所作でレグルスの隣に立つ彼女に感化され、レグルスも次第に落ち着きを取り戻していった。
 花嫁と花婿が揃ったところで、司祭が朗々と祝福の辞を述べ始めた。
 ただ淡々と儀式は進む。祝福の意思の感じられない人の群れの中で祝詞が捧げられ、互いに誓いの言葉を口にする。レグルスは甘く、しかし心は嘲りにまみれて。そしてマリアベルは静かに、それでいて厳かに。誓います――その一言を。
 互いの左手薬指へ指輪を嵌めあうと、司祭が朗々と告げる。

「それでは、誓いのキスを――」

 司祭の言葉で、レグルスはマリアベルと向き合った。
 レグルスは一瞬、その仮面を外すことに躊躇した。キスをするのは分かっていたが仮面は想定外だし、戸惑いを隠せない。仮面の向こうには揺らめく海底のような美しい瞳があった。マリアベルはこちらを静かに見上げている。

「我が君……」

 マリアベルは黙したまま左手をすっと差し出した。ますます困惑していると、司祭が小声で助言する。

「左手の薬指へ口づけするのです」

 言われるがままその場に跪き、マリアベルの左手を取ってその薬指へ恭しく口づけをする。
 偽りであっても、さも愛おしげに、大切に。
 その瞬間に一斉に会場は湧き上がり、怒涛の如く拍手が巻き起こる。
 その様子は、まるでお伽話に出てくる王子と姫さながらであった、皇子はあの時、心底姫を愛していたと後々まで参列者達は語る。

「あなたへ、永遠の忠誠と愛をお誓い申し上げます」

 マリアベルにしか聞こえないほどの声量でレグルスは囁いた。それが届いたのか定かではないが、マリアベルは僅かにベールを揺らした。
 愛の言葉を口に出した瞬間、腹の底が搾り取られるような感覚に襲われた。今まで経験したことのない、不思議な感覚である。このような神聖な場で嘘をつくことが多少なりともはばかられる気持ちがあったからかもしれない。
 司祭は二人に真っ白な本を提示し、己の真名を記せと告げた。
 それにより婚姻は成立する。
 差し出された羽ペンを手に、マリアベルが几帳面な字で名を書いたあと、レグルスも同様に書き込む。
 レグルスの記載を見届けると、マリアベルは静かにレグルスを見上げ、妖艶に囁いた。

「――もう逃れることなど、できませんよ。殿下」

 そう言われた気がした。
 意味を理解する間もなく、二人は国を統べる夫婦となった。
 


 変事の際に鳴る鐘の音が厳かに響き渡る。大公の結婚と即位は国を挙げての慶事だ。三日三晩、夜通し祝いの宴が催されるのが習わしだが、国にはそれだけの余力はない。
 しかも、先代が死んで間もないというのに婚礼を挙げたマリアベルは配慮が足りぬと非難する者も出てくる始末で祝いの宴は簡略化されていた。
 ひっきりなしにやってくる来賓への挨拶の合間に、妻となった女の横顔を盗み見る。その表情は窺い知れないが、纏う雰囲気に変化はない。
 誰もがその仮面の下を知りたがり、伴侶に選ばれたレグルスの顔――両目を無遠慮に眺める。特に左眼、いっそ抉りだして押し付けてやりたいと何度思ったことだろう。
 世間では理不尽なほど魔力の高い人間が優遇されている。力の証は瞳に宿る。皇家の証なきものは恥なのだ。
 甘い笑みの裏で、奇怪な視線にいい加減うんざりし始めたところでマリアベルが囁いた。

「お疲れでございましょう。皆さまの相手はわたくしがいたしますので、殿下はどうぞ、奥でお休みください」
「……もしや、気を遣わせてしまいましたか?」
「視線を浴びるのは気疲れしましょう」
「……我が君からの視線であればいくらでも受け止めますが、今日ばかりは仕方がない」

 レグルスは苦笑した。大して気にも留めていない癖に心配するような口ぶりは止めろと心中毒づく。

「それに、見られることには慣れておりますゆえ」
「そうですか。殿下があまりにも、苦しみにもがいているように見えたものですから」

 投げられた言葉に息が止まりそうになる。何故分かったのだろう。それほど顔に出ていたのかと。
 そのまま口を噤んだマリアベルにレグルスは繕うように言った。

「私の心を苦しめるものがあるとすれば、それは我が君をおいて他にありません。あなたの愛らしいお顔が見られない――それが私の心を曇らせるとはお思いになりませんか? それとも、顔を見せたくないほど私のことを厭うていらっしゃるのでしょうか」

 口に出してからレグルスは傷ついた。彼女は余程帝国の皇子が嫌いなのだろう、そう自覚させられる。

「……本来であれば、喪に服さねばならぬため。ご容赦ください」

 静かに答えるマリアベルに、レグルスは言葉を詰まらせた。家族を亡くしてからまだひと月と経っていないのだ。亡きものを悼む心があるのなら、結婚どころではない。

「……そうでした。私が無理を申したばかりに」
「お気になさらずに。喪に服す中の婚儀の前例もございます。わたくしはその慣例に則ったまでのこと」
「では、その仮面に感謝せねばなりません。あなたの愛らしい素顔を見られるのは私だけの特権でしょうから」

 仮面をつけていても滲む気品と美しさ。暴いてみたいと考えるものは一人や二人ではない。レグルスは、口惜しそうに去っていく使者の背中を見送るたびに、優越感の波にのまれていた。
 本当の姿を知るのは己だけ――そう浸っていると深緑色の髪の美丈夫が、マリアベルの前へと進み出た。
 レグルスは彼がファーレンの関係者であることに気付く。また挨拶だろうと静観していると、彼は苦しげに柳眉を寄せて、熱のこもった瞳でマリアベルを射た。
 マリアベルの表情は相変わらず読めないが、その静かな空気は一瞬乱れる。
 ドレスをきつく握りしめる様子から、動揺しているのが見て取れる。
 珍しいこともあるものだと目を瞠っていると、美丈夫が口を開いた。

「マリア」
「……ウィル」

 どこかで聞いた名だ。
 己でさえも未だ呼べぬ愛称で、人の妻を甘く呼ぶなどこの上なく腹立たしかった。
 どこで聞いたのだったか。
 思考の引き出しをひとつずつ開き、答えに辿りつく。
――ファーレンのウィリアム第二王子。
 マリアベルの元婚約者である。互いを愛称で呼びあうほどの親しさの。
 なかなか落ちてこない魔女の心を、彼はいともたやすく手に入れたというのか。そう思うと、どうしようもない敗北感と虚無感に襲われる。
 レグルスは無意識に奥歯をかみしめた。
 ウィルはそれまでの苦しげな表情を打ち消し、王子然としてマリアベルへ手を差し出す。

「……私と踊っていただけますか?」

 断れ、というレグルスの願いもむなしく、マリアベルはその手を取って立ち上がり、ダンスホールへと連れ出された。
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