昏い日

Minoru.S

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昏い日

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 いい子になりたいと思った。
 だれからも愛され好かれ、思わず笑顔を向けてしまうようないい子に。
 母が誇りに思ういい子に。


 母子家庭だったが、物心つくころにはすでに母とふたりだけの生活が当たり前だった。
 だから、寂しいと思ったことはなかった。

 父について母に尋ねたことはない。
 聞いていはいけないのだと幼い頃からなんとなく察していた。
 一度だけ、雑談でクラスメートの父を話題にしたことがあった。
 そのときの母の形相は忘れられないものだった。
 それからわたしは友人の父の話も避けるようになった。

 母は母子家庭であっても恥じることのないようわたしを立派に育てようと厳しくしつけた。
 その期待に応えようとわたしも必死で勉強をしたり、家の手伝いをした。

 うまくいかないことも、もちろんあった。
 友だちと遊びたくてさぼってしまうこともあった。
 そういうとき母はわたしを激しく叱った。
 手を上げることもあった。
 だけど母はわたしが女の子だからと目立つ場所には傷を作らないよう注意してくれた。
 わたしが悪いのだ。
 だからこれは罰だった。
 ごめんなさいを繰り返しながらわたしは罰が終わることを待った。

 おかげでわたしの成績はよかった。
 小学生の頃、母はわたしが百点と書かれたテストを見せるたびに満足そうに笑った。
 さすがあたしの娘と頭を撫でながら褒めた。


 中学生の頃から母はわたしの交友関係にやかましく口を挟むようになった。
 同級生であっても男の子と話してはだめだときつく諭された。
 女の子にも序列をつけ、成績や素行の悪い子とはつき合ってはいけないと言われた。
 口をきいてもいいと認められたのは、ほんの一握りの生徒に限られた。
 だからわたしはほとんど一日だれとも話をせず、友人もできることなく、気づくとクラスで孤立するようになっていた。

 だけどそのおかげで学校からまっすぐ家に帰れたので、家の手伝いをし、余った時間は勉強にあてることができた。
 成績はずいぶんとよかった。

 中学二年生の頃から母のようすが少しずつ荒れ始めた。
 最初はただ単純に忙しいのだろうと思っていた。
 そういうことは以前もあったからだ。
 夜はいつも遅くてくたくたに疲れて帰ってきた。
 そのうちいままでは一度も聞いたことのない仕事の愚痴をこぼすようになった。
 仕事はうまくいっていないようだった。
 到底無理なノルマを押しつけられ、できないとひどく罵られるのだと、酒に酔った勢いでこぼしていた。
 女だからとかこれだからおばさんはとか上司は傷つく言葉を選んでほかの社員もいる場所で怒鳴り散らすのだという。
 朝起きるとお酒を飲んだまま潰れてテーブルに突っ伏して寝ている母をよく見つけるようになった。
 いつもアイロンがピシッとかかっていたスーツにしわが寄るようになった。
 いつもきれいにまとめていた髪型もてきとうになった。
 だけど化粧だけは厚くなっていった。
 肌の調子が悪いため、それを隠そうとしていた。

 次第に母はアルコールに溺れるようになった。
 同時にわたしに与える罰の回数も多くなった。
 料理が口に合わなかったとか、成績が一番じゃなかったとか、些細な欠点を見つけ罰を与えるようになっていった。
 母の前では決して失敗してはいけないとびくびくと緊張するあまり、わたしは余計に失敗を重ねるようになった。
 いつの間にか香水の匂いを漂わせていた母は、アルコールの臭いのほうが勝るようになっていた。
 母の会社に持っていくバッグのなかにもアルコールが忍ばせてあることにわたしは気づいていた。

 ある日、酩酊した母が家に帰ってくると久しぶりにひどく上機嫌だった。
 母は楽しそうに笑いながら言った。
 会社をクビになったのだと。

 そのときわたしは高校に入学したばかりだった。


 高校に行けなくなったわたしはコンビニでアルバイトを始めた。
 少しでも生活の足しになればと思ってのことだ。
 コンビニのバイトは正直楽しかった。
 店長は人のいいおじさんだったし、一緒のシフトに入ることの多かった女の子とは話していると楽しかった。
 大学生やバンドマンなど高校に通っているだけでは接点のないひととも知り合えた。

 会社を辞めた母はよりいっそうアルコールに溺れるようになっていた。
 次の仕事を見つけようとするようすもなかった。
 布団は万年床と化し、母は寝るか飲むかに一日のほとんどを費やしていた。
 時々出かけることもあったけど、帰ってくるときには必ずたくさんのアルコールが入ったビニール袋を持っていた。
 なんどかたしなめたけど、母はそのたびに酒瓶で殴りかかってきた。
 不摂生な生活を続けているため、腕力がなくなり、物を使って罰を与えるようになっていた。
 茶色の液体の入った頑丈なガラスの瓶がわき腹にあたり鈍い音を立てた。

 そんな生活が数ヶ月続いた。
 もう夏だった。
 電気は止められていたからエアコンはつけられるわけもなく、部屋はむしむしと暑くてじっとしていても汗が流れた。
 今日も変化のない一日が始まるのだとため息をついたとき、乱暴に玄関のドアを叩く音が聞こえた。
 ドアをあけると、そこには見知らぬおじさんが三人いた。
 みんないかつい顔をして、派手な柄や色のシャツを着ていた。

 おじさんたちが言うには、母は借金をしていて、一円たりともお金を返していないのだという。
 借用書というものを目の前につきつけられ、わたしはその金額に呆然とした。
 それは時給八百円程度のコンビニのアルバイトでは到底返せるような金額ではなかった。
 おじさんたちはわたしの顔を見て肩を叩いた。
 わたしなら借金を返すことも可能だという。
 ひとりのおじさんからは顔をしかめたくなるようなひどい腋臭の臭いがした。

 とりあえず事務所に行こうとわたしは外に連れ出された。
 振り向くと母は新しい酒瓶を取り出しぶつぶつとなにか言いながらお酒を飲もうとしていた。

 アパートから出ると、太陽の光が射るように差していた。
 空は雲一つなく澄んで真っ青だ。
 蝉の鳴き声が響き渡り、影が濃い。
 透明なビニールのバッグにプールの道具を入れた親子連れが目についた。
 キャッキャッ、キャッキャと子どもが楽しそうに騒いでいる。

 鉄錆の浮いた狭いアパートの階段を一列になっておりる。
 おじさんたちはわたしが逃げないように上と下を固めている。
 一段おりるごとにめまいがするようだ。
 磨き上げられた黒い車が階段の下に停めてあった。

 そのときわたしは道の向こうからタクシーがこっちへ来るのを知った。
 タクシーは乗客を乗せていない。

 階段を下りきって地面に足をつけた瞬間、わたしは躍動するように走りだした。
 おじさんたちはそれまでおとなしかったわたしに油断していたのか、とっさの判断が遅れ思わず見送る。

 わたしはタクシーの前に飛び出した。
 タクシーの運転手はあわててブレーキを踏む。
 住宅街のせまい道を走っていたのでそれほどスピードは出ていない。
 寸前のところでタクシーは止まる。
 勢いそのままにボンネットに両手をつきわたしは必死で叫んだ。
 すがりついた。

「助けて!!」

 眼鏡をかけた中年の運転手は目を白黒させていた。
 だが、後ろからくる厳ついおじさんたちに気づくと、タクシーの運転手はわたしからあからさまに目を逸らした。
 クラクションが鳴り響く。

 耳をつんざくような音は邪魔だからどけろという合図だ。

 わたしは呆然と道路に立ちつくす。

 光はいやというほど差していて今日はひどく眩しい日だった。
 だが世界は色がぬけおちるようにくらくなった。
 このままなにも感じられなくなればいいのにと願った。
 暑さも寒さも痛みも悲しみも苦しみもなにも感じられなくなればいい。

 不意に手首を強い力で引かれた。
 腋臭のひどいおじさんだった。
 鼻をつく臭いに思わず顔をしかめる。

 タクシーはわたしの体がよけたのをいいことに、すかさず出発した。
 濃い排ガスがマフラーから勢いよく吐きだされた。
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