真夜中に触れる手

Minoru.S

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二.放課後、化学室

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 今日も朝から速川は学校にきていた。見たところとりわけ変わったようすはないが、ひとりでいることが多く表情の薄い生徒だから、その変化に気づきにくいのかもしれない。

 気安さのない椎葉のクラスのHRは割合静かだ。早く終わることを望む生徒たちは退屈や気怠さを隠さない。そんな生徒たちの顔を見渡しながら椎葉は淡々と必要事項だけを述べる。冗談を口にし下手に馴れ合うつもりはなかった。椎葉と生徒たちの距離が縮まるということは、つけいる隙を与えるということだ。そうなっては無遠慮な質問に答える義務が生じ、暴かれたくないものを暴かれる危険性が伴う。いま椎葉の心は硬く、だれかに踏み荒らされることを受けつけない。

 帰りのHRが終わり、早々に生徒たちが教室を出て行くなか、椎葉は速川を呼び止めた。速川の表情がこわばることには構わず、明日の化学の授業で使う実験道具の準備を手伝うよう命じる。困ってだれかに助けを求めるように速川は周りを見渡したが、飛び火を避けるように横を素早くすり抜けていく級友たちに、声をかけられるわけもなく、力なく承諾の返事をした。友人のいない速川が結局ひとりで椎葉を手伝うことになるだろうことは、椎葉も想定していたことだった。

 校舎四階の北側に位置する化学室は日があたらず薄暗く湿っぽい。特別教室が並ぶこの区域は放課後ともなれば人通りもほとんどなく、隣接する生物室にはホルマリン漬けや骸骨の標本が並んでいるため不気味な印象があるのか、当たり前のように怪談話の舞台になっていた。だが、椎葉はそんなことを気にしたこともない。

 鍵のかかった棚を開け、必要数のアルコールランプを取り出す。速川にはアルコールの減っているものに燃料を足すよう依頼した。

 いつもなら生徒の手など借りず、椎葉はひとりで準備をする。化学室には壊れやすいガラス製品や取り扱いを注意しなければならない薬品もあり、手間よりも生徒の監督のほうが面倒だと考えていた。

 注意深く黙々と作業している速川を横目で見ながら、椎葉は金網やフラスコ、温度計に沸騰石など必要なものが必要な数だけ揃っているか帳簿と照らし合わせながら確認を進める。几帳面にまとめられた帳簿には化学室にある薬品や実験道具の数が事細かに記載されており、数が合わなかったことはないが、実験前と実験後には毎回欠かさず確認することにしていた。

「椎葉先生、終わりましたが、次はどうしたら?」

 こわごわと速川が声をかける。椎葉は振り返り帳簿を閉じた。

「いや、いいよ。今日はありがとう」

 それを聞いて安堵の表情を浮かべた速川を引き留めるのは少し申し訳ない気がしたが、椎葉は本来の目的を告げるべく言葉を継いだ。

「昨日のことだけど、大人げなく怒ってしまって、すまなかったな」

 速川の頬がさっと朱に染まる。頭を勢いよく振り、うつむくと振り絞るように言った。

「いいえ、わたしが無神経だったんです。先生の気持ちを少しも考えないで、あんなこと聞いて……。怒って当然だったんです」

「速川は自分のことで一杯一杯だったんだろう。仕方ないよ。片親しかいないのに、その片親が病気じゃあひとのこと考える余裕もなくなる。言い訳みたいだけど、俺もあまり自分に余裕がないんだ。指摘されたくないことを言われて、頭にきてしまった。速川の気持ちも考えず怒って、悪かった」

「いえ、本当に、わたしのほうこそ、すみません」

 速川は小さかった。顔つきも表情も髪型も低い身長もまだまだ幼い印象を椎葉に与える。親の庇護が必要なそんな子どもが親を亡くしてしまったならどうなるのだろうと思う。もし、椎葉の親が片親で、その頼りの親が高校在学中に重い病気にかかったら椎葉はどうするだろう。実際に死んでしまったらどうなるのだろう。親を喪う悲しみはさることながら、その恐怖は計り知れない。学校に通うことも、いまの生活も、親がいなくては保てないものだ。未成年が親を喪うということは、親だけではなく、いまあるすべてを失ってしまうということと同義なのではないか。

「親御さんは悪いのか?」

 椎葉の問いかけに、速川はなにかを堪えるようにスカートの裾を握りしめた。いびつなしわがそこに寄る。

「よくは、ないです。癌の発見が遅かったらしくて、転移とかしていて。これからやる治療も効果があるのかどうかわからなくて。それに副作用もあるみたいで」

 肩が小刻みに震えていた。速川はそれを止めようと一層こぶしに力をこめる。そのせいでスカートに寄ったしわはよりいびつになる。

「だけど、お母さんは大丈夫だって笑うんです。きっとよくなるって。病気に負けたりしないって。だからわたしも信じてるんです。大丈夫だって。治るって」

 速川は顔を上げ、笑った。それはスカートに寄ったしわのようにいびつだ。顔は真っ赤で震えは隠せておらず、いまにも泣きそうなのにそれでも笑っている。

 情けない顔だと椎葉は思う。ため息をつき、クリーム色の正方形の付箋に携帯の電話番号を書き、速川に差しだした。

「なにか困ったことがあったら連絡しなさい」

 震える両手で慎重にそれを受け取った速川は、大事そうに眺めながら言った。

「先生は思ったよりずっといいひとです。冷たいとか厳しいとか言われているけど、そんなことないんですね」
「きみに無駄に同情したんだ。冷たくて厳しいというのは間違っていない」
「正直ですね」
「いいから早く行きなさい。今日も病院に行くんだろう。引き留めて悪かったな」

 速川は微笑むと一礼をして教室をあとにした。廊下を走る軽い靴音が遠のいていく。

 テーブルに腰掛け椎葉はぼんやりと窓の外を眺めた。正面にはグラウンドが見え、向かって右側には体育館とプールがある。力や熱のこもった運動部の声がここまで届くが、それはまるで隣町の祭囃子のようにひどく他人事だ。

 ――肇は、本当に思いもよらないところで優しいのよね。

 耳をくすぐるように過去の声が囁いた。そんな驚きが嬉しいと朗らかに微笑む弥生を椎葉は思いだす。
 ため息をつき頭をぐしゃぐしゃと掻く。脚に力を入れ意識して立ち上がった。弥生はもういないのだ。幾度思いだしたところで、戻ってくるわけではない。

 椎葉は帳簿を開き、明日の授業の準備を再開した。
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