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ドクターストップに茂美がいない日

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「いっけな~い! 遅刻遅刻~!☆」
 オレ、藤岡彰人!
 元売れないホストのグッドルッキングガイ♪
 でもあれあれ? 最近女装とメイクに目覚めていったら、彰人ってばドンドン可愛くなってっちゃうよぉ~!?
 女装の先輩、カワイイ年下男の娘のナルに、残念なイケメンで彰人を触ってくる古賀。それにゴリラが二匹に増殖しちゃって、女装バーは今日も大混乱!?
 彰人、これからどうなっちゃうのぉ~!?
 ううん、気にしちゃダメ彰人★
 今はメイクが長引いて遅刻寸前だゾ!
 こわ~いゴリラに捕まる前に、お店の中でキラメキ・トキメキ・メイクアップ!
 さあ、今日も一日キュンカワモード!
 いってきまー……

「ぐっほぉ!?」
「言い訳が長いのよ!」
「ず、ずいまぜん……」
 茂美の右フックをボディに喰らい、オレはソファーに沈んだ。
 今日はどうにもメイクのノリが悪く、ナルと一緒にああでもないこうでもないとやり直しているうち、に開店準備時間に遅れてしまったのだ。
『言い訳がダメなら、ひと笑い取ってごまかせばいいじゃない!』
 というのが一緒にメイクしていた非番のナルのアドバイス。
 その結果は肋骨はみしりと悲鳴をあげる重く強烈な一撃であった。
「いっでぇ。オレが悪かったけど、もうちょいパワーを調整してくれ」
「あまったれんじゃないわよ、これでも手加減したほうよ」
「人間とゴリラじゃそもそもの規格が違うんだから」
 茂美に聞こえないように小声で呟くと、突然茂美が鳴き声をあげた。
「ウホッ! ウホウホッ! ウッホ!」
「し、茂美!?」
 愚痴が聞こえたのかと身構えたが、茂美の拳は一向に飛んでこない。
 そのくせ、茂美はカウンターの奥で一人で延々とウホウホ言い続けている。
 ああ、ついに理性を捨て野生に還ったのか。
「ウッホ! ウオホホ! ウゥ……ホウ! ウォウア!」
 今度は腕で自分の胸をドンドンと叩き始める茂美。
 数日ぶりのドラミングである。というかどうしよう、この状況。
 店には麻酔銃もなければ、大型動物を捕まえるような罠もない。
 このままでは野生に還った茂美に殺されてしまう可能性もある。
 今の状況を例えるならば、サファリパークを素手で歩いているようなもんだ。部屋という限定空間であるだけ、それ以上にヤバイ状態かもしれない。
 まだ、死にたくない。
「ウッホィ! ゴッホ! ウッホウホゥ!」
 オレが生きるか死ぬかの危機的状況で葛藤している間、茂美は絶賛ドラミング中。
 イチかバチか、店の消火器と包丁に手を伸ばそうかと思案を始めたところで、突然茂美の原始のリズムはなり止んだ。
 こちらの殺気に反応したか……?
 さすがに野生の勘は違う。
 そっとカウンターの奥をのぞき込むと、茂美がぐったりと横たわっていた。

 なんだ、冬眠か。
 ……。

 違う、そうじゃない。これは何かがおかしい。
オレは床掃除用のモップの先端で茂美を突いてみることにした。
「茂美? おい、茂美? ……ゴリラ~?」
 反応無し、いびきのような呼吸音が聞こえるだけ。
 近づいてみるか、いやしかし……。
「おはよー。……あれ?」
 開店準備担当ではない古賀が、少し遅れて出勤してきた。
 よし、茂美の検死はこいつに任せよう。
「古賀、茂美の様子がおかしいんだ」
「おかしい? おい茂美、どうした?」
 倒れている茂美に、古賀がゆっくりと近づいていく。その手にはスプレー缶とライター。なるほど、そういう戦い方もあったか。
 古賀が茂美の額に手をあて、そのまま首筋や脈を測るように指を当てていく。
 体温計を取り出して、茂美の脇に差し込もうとするが、重くてなかなか入らない。
「彰人、茂美の左腕持ち上げて」
「了解。ぐっ、おっもい……」
「どうも熱が高そうだ。とりあえず体温を測って」
 古賀がなんとか出来た脇の隙間に体温計を入れる。
 オレがゆっくりと腕を下ろして、体温計を挟みこむ。その瞬間……
「あっ」
「あっ」
 バキリと乾いた音をたて、脇に挟まれた体温計はゴリラの腕の中で安らかにその役目を終えた。なんという脇力。
 古賀は大きくため息をつくと、今まで見たことのないような真剣な眼差しでオレを見つめて言った。
「覚悟はいいか? オレは出来てる」
「覚悟とは……!?」
 古賀が指さした先には、一台のリヤカーが置かれていた。

 古賀と二人で苦心して茂美をリヤカーに乗せると、オレ達は前後に分かれそのリヤカーを押して引いて病院へ向かった。
 夜のネオン街を駆け抜ける一陣の風、リヤカー。その背には捕獲したゴリラ。どこのB級映画であろうか。今の自分の姿は決して想像したくない。
 救急車を呼ぶのが一番良いが、古賀が言うにはこういう夜の店の前に緊急車両を呼ぶのは営業的にも望ましくないらしい。確かに、ホスト時代も潰れた奴は救急車なんて呼んでもらえず、奥で寝かされていたもんだ。
 それがいいか悪いかは置いておくとして、酒を扱う夜の店の苦しいところである。
 不意に、前でリヤカーを引いていた古賀の足が止まった。
「着いたのか、古賀?」
「……ここじゃダメかなぁ?」
 見上げる古賀の視線の先は、夜空に輝く動物病院の看板。
 古賀、気持ちはわかる。でも多分、ダメだろう。
「いやダメだろ、さすがに」
「そうか、そうだな」
 面倒くさそうな古賀とオレが動かすリヤカーが、遠くに見える総合病院目指してゆっくりと前進を開始した。

 総合病院に到着して驚かされたのは、古賀のリヤカーさばきである。
 病院のスタッフに許可を得ると、緊急搬送口にリヤカーをつけバックで見事にゴリラを搬入していった。オレと看護師がリヤカーとゴリラを消毒し、古賀がゴリラを運び込む。
 完璧なまでの緊急リヤカーゴリラアクション。
 病院の強力な消毒で、すっかりGウイルス(ゴリラウイルス)も駆除されたことだろう。唸る肉塊と化した茂美は空いていた個室に緊急入院ということになった。
「これは過労ですねぇ、一週間の絶対安静かな」
 茂美を診察した老医師は、簡単な検査を済ませたあとオレと古賀を診察室に呼び出して言った。
「過労で一週間!? その間、ドクターストップはどうしたら……」
「とりあえず、茂美に会ってきます」
 医者に頭を下げ退出してゆく古賀。
 あとを追うように診察室を出て、二人で茂美の病室に向かう。
 そこにはベッドの上でバナナの束を貪るゴリラの姿があった。
 どこが過労で一週間だ、通常運転じゃねーか。
「いやー、すまないねー、あんたたち。ちょっと咳がね。茂美うっかり。メンゴメンゴ! で、先生の診察はなんだって?」
「過労で一週間、絶対安静だってよ」
「はぁ~、有り得なーい。誤診誤診。無視~、そんなのぜったい無視~。ドクターストップの茂美様が緊急搬送先でドクターストップなんて洒落にもなんないし~」
 茂美が診察結果を笑い飛ばし、立ち上がった。
 軽く背筋を伸ばしストレッチをして体の状態をチェックしている。
「よっ、ほっ、んぅ~ぐぅ! 問題ナッシングよぉ!」
 個室をチェックしていた古賀が戻り、茂美に笑顔で語りかけた。
「個室、シャワーもトイレもキレイだったぞ。一週間快適に過ごせるな」
「史明、アンタ、人の話聞いてた? あたしは入院なんてしない、の……?」
 ふんぞり返る茂美の両足に、古賀が取り出した分厚い鉄製の足かせがはめられてゆく。
「ちょっとコラ! 何してるのよ、史明!」
「長さは調整しておいた。風呂トイレは問題なくいけるから安心しろ」
 いやどっから取り出したんだよ、その足かせ。
「ゴルァ史明! これ外しなさい!」
「だーっめ」
 足かせの先を手すりに固定して、茂美に向けてにやりと笑った。
「この手すり、結構高そうだぜ。壊すなよ茂美」
「お、おのれ! あたしには店があるのよ!?」
「少しの間くらいオレ達に任せておけ。カワイイ新人もいることだし。なっ?」
 そういって古賀が笑い、オレの肩を叩いた。
「あ、ああ! そうだよ、オレだって、オレたちだってちょっとくらいやれる!」
 古賀は緊張して答えるオレに頷くと、支払いをしてくるといって病室を出た。
 茂美は足かせを壊そうともせずに難しい顔をしている。
「まさかアタシが店に出れないなんて……彰人……。ごめんなさいね」
 今までに聞いたことがないような、弱々しい茂美の声。
 豪快な茂美らしからぬ声と言葉に、オレは急に不安に襲われる。
「おいおい! らしくないって茂美! 誰だって疲れるときとかあって当然だろ。きついときは無理しないでくれよ。茂美がいないと、店が……」
 店が回らない。そう言い掛けて口をつぐんだ。
 そうじゃない。そうじゃあないんだ。
 オレは、茂美に拾われて今ここに立っている。その恩返しをまだ何ひとつ出来ていない。
 店の事は確かに心配だ。茂美がいないでどうしていいか、考えるだけで不安に襲われる、だけどそれでも――。
 茂美にこれ以上、倒れるほどの無理をさせるようなことはあってはいけないんだ。
 オレだって、ドクターストップの一員なんだから。
「本当に、きちんと休んでくれ茂美。オレ、うまく言えないけど、無理して強がる茂美の様子は心配だよ」
「なんでアンタが辛そうな顔すんのよ、ばーか」
 茂美がにっと笑ってオレの頭を小突く。
 顔をあげると、いつもの野生の目をした茂美が笑っていた。
「ありがとね、彰人。その気持ち、ありがたく受け取っておくわ。ま、一週間は無理だけど、三日くらいはゆっくりしようかな」
「茂美……。そうだな、茂美だったら、一週間もいらない、三日で余裕だな!」
「そうね」
 頷いた茂美の顔から微笑みが消える。
 ごつい腕が、そっとオレの手に重なった。
「彰人。三日間、ドクターストップを頼んだわよ」
「……っ! わかった! 任せてくれ、オレはまだまだ未熟者で、なんにもできないやつかもしれないけど、それでも! 三日間、全力でドクターストップを守ってみせるよ!」
「ありがとね、彰人。店を、ドクターストップを、よろしくお願いします」
 そう言って、茂美が静かに頭を下げた。
「茂美っ!」
 顔をあげてくれ、そう言いたかった。
 でもこれが、この姿こそが茂美の大切なドクターストップへの正直な気持ちのあらわれなんだ。その思いを、オレは正面から受け止めなくっちゃいけない。
「茂美が戻るまで、オレが全力でドクターストップを支えさせて頂きます」
 茂美に一礼して病室を出ると、ドアの横に古賀がいた。目が合う。
「さて、行くか彰人」
「ああ。急げばまだ開店時間に間に合う。走ろう」
 今夜、茂美のいないドクターストップがはじめて開店する。

 古賀とともに走ってドクターストップに戻ると、急いで開店準備に取り掛かった。
「よぅし! やるぞ!」
 茂美にドクターストップを三日間任されたオレは、店内で俄然張り切っていた。あの茂美に頭まで下げられてしまったのである。いやがうえにも気合いが入る。
「茂美がいないのはやっぱり不安だけど……古賀、気合い入れていこう」
「任されたのはお前だ、彰人。三日間、店長代理のつもりで頑張れよ」
 相変わらずクールな古賀に、オレは口をとがらせる。
「おいおい他人事かよ。でもさ、茂美はああ言ったけど古賀の方がずっとドクターストップに長い間勤めているし、オレは新入りだぞ? お前が仕切ってくれていいんだぜ」
「いや、これでいいのさ。ナルは店長代理なんてやりたがらないだろうし、フランソワは掛け持ちだ。それにオレはずっと茂美のサポートをしてきたからな」
「店長代理って、いくらなんでも荷が重いんだけど……」
 それでも、茂美に託されたのだから。
「やるしか、ないか!」
「ふっ、その意気だ。勿論オレもできる限り手伝う。もともとオレはサポートが性に合う。好きにやれ彰人。出来る限りの手助けはしよう」
「ああ、ありがとな古賀」
 大きくうなずいたオレを見て、古賀が安心したように微笑んだ。そしていつも茂美が立っている場所に顔を向けて、ふうっ、と息をはいた。
「どうした? 古賀」
「今回のことで、少しだけ安心してな」
「安心? こんな時になんで?」
「茂美は前々からずっと休みなしだったからな。今日は急に倒れてしまったとはいえ、身体になにも異常はなかった。つまり今はあいつにとって良い休暇だ」
「確かに茂美はオレたちに休憩時間をくれている間も、店頭に出ずっぱりだったからな」
「今日は彰人と胸襟を開いて話も出来て、安心して休んでいるだろう。少しはあいつも、休まなきゃな」
 古賀が目を細めて、しみじみと言った。
 茂美がいくらゴリラ並みのパワーと体力を持っていると言っても、やっぱり限界は誰にだってあるのだ。退院してきても、これからは茂美にもきちんと休んで貰わなくてはならないなと思った。
 そのためにも、この三日間しっかりドクターストップを守り、任せておける人間がいるのだということを茂美にアピールできるようにしなくては。
「茂美にもきちんと休んで欲しいよな。よし、この三日間毎日売上げ取りまくって、これからは茂美が疲れたときは安心して休憩できるようにしよう!」
「その意気だ。けどな、じきにナルや手伝いのフランソワも来る。あまりひとりで気負い過ぎるなよ、彰人。飛ばし過ぎると三日間もたないぞ」
 古賀にそういわれても、どうしたってオレは俄然意気込んでしまう。
 とはいえ、実のところドクターストップは基本的に客が来るのを待つ店だ。店頭や街角に呼び込みに行ったりもしない、マイペースな営業である。
 連日にぎわうというよりは、馴染みのお客さんが来てゆっくり話して、たまに新規のお客さんもやってきて気に入ればまた来るようになって、というタイプ。
 開店時間がおとずれたが、スタッフが気合いを入れたところで出来ることは案外と少なかった。いつもより掃除を頑張ってみたり、窓から通りを眺めてみたり……。これでいいのだろうか。
「いつも通りの店の雰囲気とはいえ、なんか焦れるな」
「落ち着けよ彰人。まだ開店して十五分もたっちゃいないぞ。そんなにウロウロしていたら、お客さんが来る前に無駄に疲れるだけだ」
「そうだけどさぁ、頭ではわかるんだけど、気持ちのほうがさー」
「ふふっ、とりあえずそこのカウンターにでも座っとけ。茂美の定位置だ」
 古賀に促され、オレはいつも茂美がお客さんがいないときに座っている席に腰かけた。
 今の自分に出来ること――。そうだ、呼び込みはできなくても、連絡は取れる。
 伴子にもらった名刺を思い出し、オレはスマートフォンを取り出した。
 しかし、せっかくもらったプライベートの名刺に今までロクに連絡を入れていなかった手前、こんなときだけメールするのも少し気が引けてしまう。どうしたものか――。
「いや、今はドクターストップのことを優先せねば」
 申し訳ない気持ちを抑えて、オレはスマートフォンに指を走らせた。
『伴子、久しぶり。最近元気にしてる? 実はさ、うちの店、茂美が倒れちゃって。幸い大したことはないんだけど、三日ほど店には出れなくてさ。その間、オレが店長代理になっちゃって(汗) めっちゃ緊張でさ。で、もしさ、良かったら、遊びに来て欲しいなって。ホント、良かったらでいいから。……最初の連絡がこんなんでごめん。それじゃ!』
 数度文面を読み返し、送信ボタンをクリックする。
 メールを送信し終えたとき、店の裏口が開く音がした。奥からナルとフランソワが連れたってやってくる。
「アキ! 話は聞いたよ、ママ大変だったんだね。三日間、ボクたちで頑張ろうね!」
「はぁ~い、彰人坊や。アンタが茂美の代理なんだってぇ。たよりなーい★ここはフランソワが張り切っちゃうしかないって感じ!」
 チャイナ風ロリータドレスに身を包んだナルは、今日も一段と可愛らしい。ピチピチサロペットの筋肉珍獣フランソワも、今となってはもっとも生態が茂美に近い存在である。ある意味で、とても頼りになりそうだ。
 オレもナルが持ってきた色違いのお揃いチャンス風ロリータドレスに着替えると、皆を見回した。
「皆、聞いてくれ。茂美に頼まれて、オレが分不相応にも店長代理ってことになった。至らないことばかりの代理店長だけど、三日間よろしく!」
 古賀とナルがうなずくが、フランソワはどうにも納得がいかないように首を傾げている。
「フランソワ? 何か気になることあるのか?」
「彰人坊や、アンタ仮にも三日間はこの女装バーの店長になるわけでしょ。自分のことを『オレ』呼びってちょっとおかしくな~い?」
「うっ、言われてみれば……」
 そう、ここは茂美がいなかろうが開店している限りドクターストップなのである。
 三日間とは言え店長となるオレが女装をしているくせに一人称が『オレ』では――。
「やっぱり、変かな?」
「フランソワの言うことも一理あるな。彰人、この三日間くらい『私』呼びで仕事をしてみるのもいいんじゃないか」
「そうだね! アキは断然可愛いから『私』でもぜんぜんおかしくないよ!」
「皆……。そうだな、オレ、じゃなかった。今日から三日間、自分のことを私って言うから、それも含めて改めてよろしくな」
 ナルが嬉しそうに歓声をあげ、フランソワが腕を組み大きく頷いている。
 スタッフも揃って『私』の準備もオーケー。あとはお客さんが来るのを待つのみだ。
 ドアベルが鳴った。
 私が視線を向けた先には、見たことのない中年の紳士が立っている。新顔さんだろうか。
「野木さん、どうも。今回はお声がけしてしまって申し訳ありません」
「の、野木さんっ!?」
 古賀が涼しい顔で紳士をご案内する。こ、このダンディなオジサマがあのいつも疲れ切っていてすっかり猫背の野木さんだと!?
 今日の野木さんは普段のくたびれたスーツ姿ではない。薄墨色のシワひとつないスーツにロマンスグレーの髪をオールバックでまとめている。黒光りする革靴に、嫌味になりすぎない落ち着いたドレスタイ。
 さらに目元は鋭い印象を与える細いフレームの銀縁眼鏡ときている。なんだこのナイスミドル。
「野木さん、めちゃくちゃカッコいいですね!」
「あはは、照れるな。史明くんからママが倒れたって聞いてね。この時間だからお見舞いにもいけないだろう。だから、せめてお店に顔を出そうと思って」
「野木さんすごーい! 大人のオジサマ! ねぇねぇ、野木さんの今日のスタイル写真に撮って、ママに送っていい?」
 はしゃいだナルが向けたスマートフォンに、落ち着いた笑みを向ける野木さん。
 普段だったら照れていやがりそうなものだが、ひとはこんなに変わるものか。いやはや中年男性向けファッション誌の表紙から抜け出してきたような決まり具合である。
 茂美もきっと、喜ぶだろう。
 それからも、ボチボチと常連客がドクターストップをおとずれ、店はにぎやかな時間を過ごしていった。そして始発が動き出そうかというころ、店に伴子が現れた。
「ハァイ、彰人。ようやく私に連絡くれたと思ったらお店の営業なんて、相変わらず女心がわかっていないのね」
「伴子、ごめんって! 今度私も何か埋め合わせするから、ね」
「うふふ、彰人ってば今自分のこと私って言った? いつの間にか心まで女の子になっちゃったのかしら、彰人ちゃん?」
「あ、彰人ちゃんって! もしかして、流星さんからなんか聞いたりしてる?」
「それは秘密。そうそう流星くんにも連絡入れておいたから、明日辺りくるかもよ」
 入ってきた伴子が、私に腕を絡めて笑った。奥でナルがちょっと不満そうな顔をしていた。伴子の香水の良い香りを吸い込むと、緊張していた気持ちもほぐれてくる。
 私は伴子をソファー席へと案内した。
「私呼びには訳があってさ。あ、何飲む?」
「ふぅん、それなら訳有りってやつをじっくり聞こうじゃない。いつものでいいわ」
 伴子が慣れた雰囲気でオーダーを終えると、私は自分を私と呼ぶことになった経緯を話し始める。伴子はおかしそうに笑っていたが、忙しくなったらいつでも移動していいからね、と気遣ってくれた。
 それくらい、茂美のいないドクターストップの一日目は盛況で終えることが出来た。
 野木さんと伴子、ほかのお客様を送り出したのち、スタッフで軽く乾杯をする。
「一日目は大成功だね! かんぱーい!」
 ナルの声に皆でグラスを打ち鳴らす。とはいえまだまだ三分の一が終わったに過ぎない。
 祝杯はそこそこにして、オレたちは後片付けをして翌日に備えた。

 翌日、二日目のドクターストップも開店とともに常連さんがやってきた。
「こんばんは……」
 静かに虚空に腕を差し出しながらやってきたのは不死身の富士見さんだ。
 私は富士見さんはいつものカウンター席に案内し、隅に翔さんのスペースも用意した。
 グラスをカウンターにふたつ並べると、富士見さんはにっこりと嬉しそうにほほ笑んだ。
「こんばんはー! ママがいないって聞いたけど、ここの美味しい料理は大丈夫!?」
 元気に入店してきたのは、絶賛婚活中の山森さん。古賀が高々と肉を掲げると、山森さんは吸い寄せられるように古賀の前のカウンターに腰かけた。
「どうも、山森さん。最近婚活のほうはどうです?」
「がんばってるけどー! バーテンさんみたいなカッコいいひとはなかなか見つからなくって。あっ、お腹すいちゃった! いつものメニューはママがいなくても出来る?」
「厨房を預かっているのは、基本オレですから。安心してください」
「わーい! いっただっきまーす!」
 古賀が素早く調理を開始すると、箸を構えて臨戦態勢の山森さん。
 続けて、ドアベルの音とともに涼し気な目をしたイケメンが花束を持って入店してきた。
「よう、彰人ちゃん。いきなり店長に出世したんだって? やるじゃない」
 流星さんがさっそく私に絡みつくように身体を寄せる。古賀とナルの不満そうな表情をすばやく察したフランソワが、ズシンズシンと足音を立ててやってきた。
「いや~ん良い男見っけー! フランソワ、完璧好みって感じー! お兄さんこっちで飲みましょう、フランソワ大サービスしちゃうから~」
「おおっと、茂美ママさんがいないって聞いたけど、ほかにもパワフルなスタッフさんがいるじゃない。イイネイイネ、オレも元気な子大好き。フランソワちゃんと飲んじゃおっかなー」
「あはーん大好きとかいきなりズッキュンワード! フランソワめっちゃト・キ・メ・キ! さあさあこっちよお兄さん! フランソワスペシャルドリンク作っちゃう!」
 奥のテーブル席で楽し気に話す流星さんとフランソワ。
 古賀と言い流星さんと言い、ああいう押しの強いモンスターの扱いが非常にうまい。イケメンは魔獣使いでもあるのだろうか。そして、ナルと古賀の一瞬の表情の変化を見逃さなかったフランソワもさすがである。
 その後も自称世界救世主などもやってきて、ドクターストップは朝まで元気に営業していた。始発が動き出し帰る人々を見送り私たちが一息ついていると、店に元気な声が飛び込んできた。
「彰人おねにいちゃん! おはよー!」
「どうも、今日も訳あり丼、作れるかな?」
 島本さんと、娘の遥香ちゃんだ。
「島本さん、遥香ちゃんも!」
「わぁぁ、可愛い子ー! アキってばこんな子にまでモテモテなんだね」
「すごーい! きれいなスタッフのお姉ちゃんがいるー」
「ふふーん。私はねぇ、男の子なんだよー。名前はナル。よろしくね、遥香ちゃん」
「じゃあ、ナルおねにいちゃんなんだね! うん、よろしくー!」
 和気あいあいとした雰囲気のなか、朝ごはんを終えてたっぷり私やナルと遊んでから、遥香ちゃんたちは帰っていった。ドクターストップも閉店の時間である。
「アキ、二日目も売り上げも確保しつつにぎやかに乗り切れたね」
「ああ。だけど、この二日間は常連さんにいっぱい助けてもらったからな。明日は気合い入れなおして頑張ろう」
「ああ。明日が本番だな。やろう」
「腕がなるじゃなーい。いっちょやったりましょ!」
 オレたちはうなずき合うと店の片付けをして、来るべき最終日に臨んだ。

 そして翌日。茂美のいないドクターストップ最終日。
 開店してから十数分後に、そのお客さんは現れた。
 首の真ん中辺りでそろえたショートヘアーの女性。凛とした印象の奥二重の大きな目の下には、メイクでも隠し切れないクマがある。年の頃は、二十代後半くらいに見えた。
 ちらりと古賀とナルとフランソワに目をやったが、三人ともこちらに視線を返すだけである。どうやら初めましてのお客様らしい。
「いらっしゃいませ、ドクターストップへようこそ。どうぞこちらに」
 私は女性をエスコートしながら、ソファー席を勧めた。彼女は少々戸惑い気味にあいまいな笑顔を浮かべ、腰を下ろす。
「あの、ここって、オネエさんのお店ですよね?」
「はい。私は店長代理の彰人と申します。よろしくお願いいたします」
「とっても可愛いんですね。どっちかというと、男の娘って感じ」
「ありがとうございます。何か、お飲み物でもいかがですか?」
 店長代理……と小さな声でつぶやいた女性が、メニューからアルコールを注文した。すぐに古賀が準備にとりかかる。ちょうどほかのお客さんたちもやってきて、ナルやフランソワは彼らの対応に追われていた。
 女性の横顔をじっと見て、声をかける。
「茂美に、店長に御用でしたか?」
「そういうわけでは。ただ、お話上手な方だと聞いたので」
 なるほど、茂美に話をしに来たひとであろうか。ということは、相談するようななにかを持っているということかもしれない。
「そうですね、茂美はいろいろと達者ですから。あの、私で良かったらお話お伺いしたいです。お客様、なんてお呼びすればよろしいですか?」
「綾峰美咲(あやみね みさき)と申します」
「綾峰さんですね。ちょっと、お疲れですか?」
 私が自分の目元を指さすようにして言うと、綾峰さんは弱々しく微笑んだ。古賀が、そっとテーブルにふたり分の飲み物を置いて去っていく。
「やだ、隠しきれてませんか? 恥ずかしいな」
 うつむいた綾峰さんが、数度深呼吸をする。活発そうだった瞳が、束の間悲しげな色を帯びた。ホストクラブのころから何度も見た、あの悲しい瞳。私は、彼女の心の荷物を少しでも下ろす手伝いが出来るだろうか。
「何か悲しいことが、あったんですね」
 私の言葉に、綾峰さんが驚いたように顔をあげた。
「びっくりしました。そんなことまで、わかっちゃうものですか?」
「一瞬だけ、おつらそうな目の色をしてらっしゃいましたから」
「そういうの、ひとに気づかれてしまうものなのですね。彰人さんがすごいだけかな」
「いや、私なんてぜんぜん! 恥ずかしくなるくらい、勉強ばっかりの毎日です」
 下を向きそうになる自分を苦笑でごまかして、背筋を伸ばした。これじゃあどっちが相談している側かわからない。しっかりしなくては。
「店長の茂美はいないですが、もし良かったら今日お話しようとしていたこと、聞かせていただけませんか。私も茂美に任されてここにいる人間ですから、ちょっとでもお力になれればいいなって思いますし」
「そうですね。彰人さんになら、聞いてもらいたいかも。でも、話すことがとてもつらい。苦しいことなんです」
 グラスに手を置いたまま、綾峰さんは呼吸を整えるように深く息を吐いた。
「ご無理は決してなさらないでください。ただ、ドクターストップにせっかくいらしてくださいましたので」
「はい。話したくて、私はここに来たんだと自分でも思います。だから、少しずつ……」
 ソファー席にわずかな沈黙がおとずれる。綾峰さんの肩が震えていた。私はそっと、自分の右手をその肩に乗せた。
「長くなっちゃうし、上手に話せる自信もぜんぜんなくって」
「うまく話す必要なんてまったくないんですよ。ゆっくりゆっくり、聞きますから」
「はい」
 大きく深呼吸をして、綾峰さんが視線を宙空にあげた。目は店内の薄暗いライトだけを照り返し、視線の先には何も映っていないように思える。小さな声で、綾峰さんが言葉を紡ぎだした。
「私、いわゆるシングルマザーなんですけど、今年で四歳になる息子がいるんです。啓介(けいすけ)っていう名前の」
「啓介くん。素敵なお名前ですね」
「啓介はとっても良い子で、いつも私のことを心配したりねぎらったりしてくれます。『お母さん、ありがとう』『お母さん、だいじょうぶ?』って」
「四歳でお母さんのことを気遣ってくれるなんて、とっても優しいお子さんじゃないですか」
「そうなんです。啓介は私によくなついてくれて、すごく優しい子なんです。今日はこうしてお店に来ているので、ちょっと実家の両親にあずかって貰っているんですけど、いつもは本当に私にべったりでーっふぇえす@p;;@p「p・
 言い終えた綾峰さんの目から、つっと一筋の雫が流れ落ちた。
「あの子はすごく良い子です。それなのに、私は啓介に『お母さん』って呼ばれるたびに、胸が張り裂けそうになるんです」
「お母さんと呼ばれるのが、つらいんですか?」
 口がかすかに動く。声にならない返事。私は時間をかけて、綾峰さんの心のなにかが動き出すのを待った。グラスのなかの氷がカラン、と冴えた音を立てたとき、彼女の唇が再び動き出した。
「啓介がまだ生まれたばかりのころです。ちょうど奥の部屋で啓介を寝かしつけたとき、インターフォンが鳴ったんです。郵便物が届く予定があったので、私は何も疑わずにドアを開いてしまいました」
 ぶるりと、綾峰さんの全身が大きく震えた。
「入ってきたのは、マスクで顔を隠した大柄な男でした。私を壁に押し付けてナイフを当てて『騒ぐな、声をあげれば殺す』と言いました。金目のものを出せと言われて、私は背中にナイフを突きつけられたまま現金や通帳、あるだけの貴金属なども出しました」
「そんな事件が……。それで、強盗は金品を受け取って出ていったんですか?」
「いいえ。お金になるものを出し終えたとき、啓介が泣き出してしまったんです。強盗は抵抗する私を無理やり引っ張るようにして、啓介の部屋まで連れて行きました。そして、楽しそうに啓介のおもちゃや飾られた写真を見回していました。啓介に何か危害を加えたりしないかって、とっても怖くって……」
 綾峰さんの右手の親指の爪が、左手の甲に強く押し当てられた。自分を苛むような行為に、私はそっと彼女の手に自分の手のひらを重ねた。
「強盗は楽しそうに言いました。『子供は大切か?』って。当たり前だと言いました、お願いだからその子に何も危害を加えないで欲しいと私は懇願したんです。すると、強盗がマスクを外していやらしい笑みを浮かべて言ったんです。『お前か子供のどちらかだけは助けてやる』と――」
「そんな!」
 綾峰さんの話を聞く限り、今も啓介くんは生きている様子である。強盗はいったい何をしたのか。何が、彼女をこんなにまで追い詰めてしまっているのか。
「子供を助けて欲しい、喉元までその言葉が出かかったとき、私思ったんです。この子は、私なしで生きていけるのだろうか。今私が死んだら、この子だって助かりっこない。どんなに泣いたって様子を見に来てくれるひともいない。犯人が約束を守るとも限らない。どっちにしろ、もうこの子に未来はないんじゃないか――」
 ふっ、ふっ、と何度も苦しそうに息を吸い込んで、綾峰さんが語り続ける。
「そう思ったとき、私の口をついて出た言葉は『私を助けてください』でした。本当に、母親として、ううん。ひととして最低ですよね。強盗は信じられないというような顔をしていました。驚きと呆れがない交ぜになったような表情をして『あんたはどうしようもないクズだ』そう言ってお金だけもって去っていきました」
 胸が痛む。
 今その瞬間に、突然やってきた理不尽な暴力を前にして。
 自分を殺せと。誰かを守るためにそう言える人間が、いったいどれほどいるだろう。
 茂美、お前だったら綾峰さんにどんな言葉をかける?
 考えるんだ、彰人。私は今、彼女の心の傷に確かに触れている。ドクターストップに入ってから今までずっと、すぐそばで茂美を見てきた。茂美なら、きっと――。
「綾峰さんは最低なんかじゃないですよ。最低なのは、そんなことをした強盗です」
 私の言葉に、綾峰さんは首を左右に振った。
「今でもありありと思い出せます。事件の時の強盗のあの目、あの言葉。私はどうしようもないクズで、母親失格で。だから、啓介にお母さんって呼ばれるたびに、私は……!」
 私は綾峰さんが手の甲に食い込ませていた指を、そっとずらした。このひとは四年間、ずっと心のなかで自分を罰し続けてきたのだろうか。
「彰人さん、こんな私に、母親としての資格なんてあるのでしょうか?」
「母親になることに、資格なんて必要なのでしょうか?」
 気付いた時には、口に出していた。綾峰さんに届けたい、この気持ちを。
「確かに、子供を産めば女性はどうしたって立場上は母親になりますよね。でも、それは肩書きじゃないですか。子供を産んだその瞬間、心まですべて母親になれるわけじゃない。子供と一緒に過ごす時間が、女性を母親にしていくんです」
「そんなこと言ったって! 啓介の笑顔さえ、私は真っ直ぐに受け止められない!」
「その啓介くんの笑顔は、あなた自身が育んだものじゃないですか。綾峰さん」
「えっ」
「この四年間、あなたがつらい思いを乗り越えて啓介くんを育てることが出来たからこそ、啓介くんは笑うことが出来るんです。『お母さん』って呼びかけることが出来るんです」
 綾峰さんは両手で顔を覆い、かぶりをふった。
「でも私は、自分の命を優先してしまったんです。あのとき、私は啓介の母親になる資格を失ったに違いないんです」
「そんなことない。もしもあなたがあのときの自分は母親じゃなかったって言うのなら、啓介くんを育てたこの四年の歳月が、あなたを啓介くんの母親にしたんです」
 大きな瞳が、涙で潤んでいる。私は彼女の目をのぞき込むようにして、静かに言った。
「綾峰さん、あなたはなにも恥じることはない。胸を張ってください。今、啓介くんの笑顔があるのはたったひとりのお母さんである、あなたの力です。啓介くんの笑顔を、どうかまっすぐ受け止めてあげて」
 綾峰さんが、じっと私の顔を見る。目を背けずに、私は微笑んだ。
 たくさんの涙を浮かべた綾峰さんが、私に抱き着いてくる。そっと受け止め、何度も頭を撫でた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶですよ。綾峰さんはちゃんとお母さんになれているんです。過去のことをつらく感じてしまうことだって、今、お母さんになれていることの証拠じゃないですか。なんとも思ってなかったら、こんなに苦しんだり胸を痛めたりしませんよ」
「彰人さん……ありがとう、ございます……」
 腕のなかで泣いている綾峰さんを、私はいつまでも抱きしめ続けた。

「本当に、ありがとうございました」
 ドクターストップを出た綾峰さんが、見送りに出た私と古賀に頭を下げた。
「そんな、大げさですよ。私は綾峰さんに当たり前のことに気付いてもらっただけです」
「私、頑張ります。これからも……啓介と一緒に」
 微笑んで、綾峰さんが背を向けて歩き出す。その背中が遠くなるまで見届けようと思っていると、数歩進んだところで彼女は足を止めてしまった。身体が、かすかに震えている。
「やっぱり、私、母親なんかじゃ……!」
「おバカー!!!」
 今にも膝を折りそうな綾峰さん。私は思い切り駆け出した、
 その身体にボディブロー……
 ではなく、彼女を思い切り抱きしめた。
「今日の私の言葉、思い出して。いやな思い出にくじけそうになっても、決して忘れないで。それでもダメなら、またここにいらっしゃい。私はいつでも、ここであなたを待っているから!」
「彰人さん、私、またここに来てもいいの?」
 身体を離すと、涙が綾峰さんのほほを伝った。
 私は思い切り自分の胸を叩いた。茂美顔負けのドラミングだ。
「だいじょうぶ、いつでも待ってるから! だからお母さん、啓介くんの笑顔をあなたも受け入れてあげて」
 頷くと、綾峰さんは涙をぬぐって駅へ歩き出した。
 離れていく背中を見守っていると、横に立った古賀が微笑んだ。
「なんとも感動的だな」
「からかうなよ、古賀」
「からかってなんかいないさ。……お前、超えたのかもな。茂美を」
 意外な言葉に、私はまっすぐに駅のほうを見つめている古賀の横顔を見た。
「なんだって? んなわけないだろ」
「もちろん、茂美の全部を超えたとは到底思えないけどな。どっか一か所くらい、超えたのかも知れないな。今日の彰人を見て、本当にそう思ったよ」
「よ、止せよ、そういうの。ホラ、まだ店が閉まったわけじゃないんだ。戻ろうぜ、ドクターストップに」
 ゆっくりと明けていく空。
 ほかのお店から出てくるひとびとを視界の片隅にとらえながら、私は足早にお店のなかに戻った。ナルが笑顔でピースサインを向けてくる。フランソワも口の端を吊り上げて親指を立てていた。
「さあ、最後まできちんと営業していこう。気合いいれていきましょ、皆」
 私の言葉にスタッフ一同がうなずいた。

 そして、茂美のいないドクターストップは無事に三日目を終えた。
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