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 決勝前夜。大森は夜中に目を覚ました。緊張ではない、夢精だった。容子と別れてからセックスはしていなかった。
 無理に抑えていたわけではないのだが、容子の他に相手はいなかったし、沢田のように、手当たり次第に声をかける意欲もなかった。 久しぶりの感触だった。股間に熱い鼓動を感じ、目を覚ました。
 夢を見た覚えはあるのだが、何を見たのかは覚えてはいなかった。菜月の姿があったような気もするし、容子だったようにも思える。
 いや、思いたくはないのだが、苦痛に歪む小野木の顔だったかもしれない。

 百メートル決勝。大森は第3コース、沢田は七コースだった。
 パリの時間は午後三時。アメリカ、NYは午前九時、日本は午後十時だった。
 容子はアパートに一人でいた。テレビはつけていなかった。決勝の放送があるのは知っていたが、見る気にはなれなかった。大森との別れは、理性では整理をつけたつもりだったが、心の傷はまだ癒えてはいない。
「嫌いになったから、別れる」とでも言ってもらったほうが、区切りがついてよかったのに。一度だけ、電話が掛かってきた。容子は出なかった。留守電には、「あ、あの」だけが残されていた。
 菜月は、の町を一人で歩いていた。陸上関係者は皆、競技場に行っているのだが、菜月は一人でテームズ川に沿って歩いていた。
 何かが吹っ切れたような気分だった。胸の中にため込んでいたものが消えていた。
 あの時、 一度死んだような気がした。最後の二百メートル。意識が無く、光だけを感じていた。
 家族もコーチも、お金もCMも、些細なことに思えてくる。今はただ、風と音と、目に映る風景と聞こえる音、五感に響いてくる何もかもが新鮮で神聖なものに感じられる。
 一人の人間の悩みなど小さなことだ。
 もちろん、あと二日もすれば、日常の些事に心はかき乱されるようになるのだろう。実際、今でも、行き交う女性の服装やブランドもののバックに目がいってしまう。
 それでも、もう、以前の自分には永遠に戻らない確信があった。それは、澄み渡った青空のような清々しい確信だった。
 
 スタジアムは静まりかえっていた。
 決勝に残った八人はスターティング・ブロックに足をかけていた。
 選手も観客も、全員が息を止めていた。
「レディ」
 八人が前に体重をかける。
 大森の耳には自分の心臓の鼓動だけが聞こえていた。
 白いラインが真っ直ぐにゴールに向かって伸びている。
 とうとう、ここまで来た。あと少しだ。あそこまで走れば、自分が世界一だ。完璧なランナーになれる。パーフェクトなランナーに。
 高尾は鳥肌が立った。
 石嶺はつばを飲み込んだ。
 号砲。
 力を一気に解放する。スターティングブロックを蹴る。選手がはじかれたように飛び出した。
 静寂が破れ、一転、「ウオー」と地鳴りのような歓声がスタジアムを包んだ。
 選手たちは、世界一速い男の称号を求めてゴールに疾走していく。
 沢田が一歩前にでる。
 スタジアムにいる全員の視線が、選手を追ってスタートラインから、ゴールに向かって流れていった。
 しかし、高尾だけは、スタートラインを見つめたまま、凍り付いていた。
 大森の体がスタートラインに残っていた。走っていったのは、大森の魂だけだった。
 ピストルが鳴った瞬間、大森の心臓は止まっていた。小野木が死ぬ前に言ったとおり、二度目の接種は心臓の筋肉に過重な負担を与え、心臓は極度の緊張に耐えられなかった。
 七人がゴールに向かっていた。七十メートルを過ぎてもほとんど差がつかない。
 八十メートル、九十、栄光のゴールへ。
 大歓声がスタジアムを包んでいたが、一人、高尾の耳には何も聞こえていなかった。
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