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 週末、東和大学のグラウンドで記録会が開かれた。東和大学だけでなく、近隣の大学からも選手が集まり、短距離や長距離といったトラック競技から、走り高跳、砲丸投げなどのフィールド競技まで幅広く行われた。一大学の記録会としては盛況だった。
 百メートル競走のアナウンスがされ、選手がスタートラインに並ぶと、フィールドで競技をしていた選手も、競技を中断し、レースに注目した。
 どんな小さな競技会でも百メートルは、特別だった。一番速いというのは、小学校の「かけっこ」の時からヒーローだ。勝者は無条件で賞賛される。
 太古の昔より、土の上に立っているときは、足の速い人間が一番偉い。百メートルは一番偉い人間を決める競技なのだ。
 大森は四コースだった。スタートラインには八人が並んでいたが、注目は大森一人に集まっていた。大森だけ名前と顔があり、後の七人は大森の背景にすぎない。
 高尾はゴールライン近くで、大森を見つめていた。高尾の隣には陸上連盟で理事をしている佐々木がいた。
「彼かね」
「ええ、四コースです」
 高尾は前回の大会で大森が出した記録がフロックでないことを示すために、佐々木を呼んでいた。
「位置について」の声で、大森はスターティング・ブロックに足をかけた。
 落ち着いていた。小野木と話したことで、ドーピングの不安は消えていた。
 記録が自信を与えていた。八人の中では、自分の記録がずば抜けている。
 隣のコースの選手が窺うような目で大森を見ていた。大森が顔を向けると、目をそむけ、うつむく。かつての自分と同じだった。沢田に対して感じた恐れを隣の選手は自分に感じている。
 大森は自分が日に日に完全な走者になっていくのを実感していた。
 下半身の力に上半身が振り回されている状態だったのが、しだいにバランスがよくなり、走りが滑らかになってきた。
 精神的にも、あわてなくなった。スタートの集中力もあがっている。
「よーい」
 周りの音が消える。神経が研ぎ澄まされる。時間が遅くなる感覚だ。
 スタート!。
 ピストルの音に体が反応する。筋肉が一瞬で躍動を始める。
 一歩、二歩、三歩。スパイクがトラックを捕まえ、筋肉が体を前に押し出す。
 四歩目。もう、前には誰もいなかった。
「先輩。僕じゃ、三歩でもうだめですよ」
 練習パートナーの寺田が言った通り、大森のスタートは格段に上達した。
 沢田は獲物に向かって飛びかかっていく野獣のようなスタートだとすると、大森のそれは、無駄のない氷の上を滑るようなスタートだった。
 七人が後ろでもがいていた。大森だけが前に進んでいくように見える。
 十メートル。さらに加速がつく。
 五十メートル。トップスピードに乗る。時速は四十五キロに迫る。一秒間に五歩、まるで空を飛ぶような軽やかさで疾走していく。
 観客の目は大森だけを追っている。
 八十メートル。大森が走り抜けていく。他の七人とは十メートル近い差になっていた。
 ゴールが近づき、大森は胸を出して、透明なゴールテープを切った。
 大森は、二十メートルほど走ってから、止まり、高尾に振り返った。
 高尾は電光掲示板を見て、隣の佐々木とうなずいていた。
 グラウンドがざわついていた。
 大森が高尾に近づいていった。
「どうだ。どのくらいの記録だと思う」
 高尾が聞いた。
「そうですね。後半は、ちょっとバランスが悪かったです。腕の振りが足の動きについていかなくて、無理に振ろうとして体に力が入ってしまいました。それと、最後の十メートルでスパイクが脱げそうになって、紐がゆるかったのかもしれません。ですから、記録は、それほど……この前と同じくらいか、少し悪いぐらいで……」
 佐々木は大森の言葉を聞いて、思わず「ほお」と、声を出した。
 高尾は「どうです」という顔で佐々木を見た。
「スパイクを見せてもらえるかね」
 佐々木が大森に言った。
「どうぞ」
 大森は、右足のスパイクを脱いで佐々木に渡した。
「これは、市販のスパイクかね」
「そうですよ」
 高尾が答えた。
「これで九秒八七はすごいな」
「でしょ」
 九秒八七? 何の話だ?。
 大森は記録板を見た。
 九秒八七。赤い数字が点滅していた。
 間違いじゃないのか?。
「大森君。日本新記録だよ」
 高尾が口を開けて驚いている大森に言った。
「日本新記録?」
「公認はできないよ」
 佐々木が言った。
「たいじょうぶですよ。日本選手権で、また作りますから。な、大森君」
「あっ、はい」
 大森は瞬きを忘れていた。
 時計は確かに九秒八七で止まっていた。
 グラウンドがざわついていた。
「すげえな」
「九秒だって」
「日本新記録じゃないの?」
 呟きが聞こえてくる。
 十秒を切った。他の誰でもない。自分が、十秒を切った。
 十秒を切る。半年前、それは大森にとって夢でさえなかった。夢とはわずかでも実現の可能性があることだ。可能性がないことは、夢とは呼ばない、ただの妄想だ。
 わずか半年前、陸上を止めようかと考えていた学生が世界のトップランナーの仲間入りをしようとしていた。
 寒気がした。鳥肌が立っている。叫びながら走り回りたいほどうれしいかった。しかし、飛び上がりたいような喜びは一瞬で、心はしだいに平静に戻っていった。
 こんなものか。
 やけにあっさり九秒台が出た。汗もかいていない。全力で勝ち取った実感がなかった。
 記録はまだ縮まる。走りはまだ完璧じゃない。自分の力はこんなものじゃない。
(世界記録は、確か……アメリカの……九秒五……)
 高尾と佐々木が、小声で何か話している隣で、大森は見知らぬライバルの姿を雲の中に思い浮かべていた。

 百メートルの世界記録保持者は、大森が夢想したようなアメリカ人ではなかった。
 トーマス・グレイ。世界で一番速い男は、カモメの鳴き声が聞こえる、小さな港町に住むジャマイカ人だった。
 家の前の小石混じりの坂道で、二人の兄と見えない白いゴールテープを目指して走っていた少年は、十八歳で十秒を切り、二十三歳で世界記録を破った。
 世界一になった後も、彼は、故郷の草だらけのグラウンドに残って練習を重ねていた。
 アメリカのスポーツクラブからの誘いを彼は断った。有名なスポーツ用品メーカーがスポンサーになっているクラブは、トーマスに、一生かかっても使い切れない額の小切手を示して誘ったが、彼は断った。
 家族と一緒に夕飯を食べ、休みには、黒い瞳の恋人と海に行って、夕陽を眺めていられれば、それで十分幸せだった。
 オリンピックが近づき、彼は国の英雄になっていた。ラジオからは、彼を応援する歌が流れ、土煙があがる道路沿いには、彼の走る姿が至る所に掲げられていた。
 貧しい国にとって、自国の人間が世界一だと言うことは、限りない誇りだった。
 周囲の喧噪とは逆に、彼はしだいに元気を無くしていった。
「トーマス」
 練習を中断し、虚ろな表情で遙かかなたを見ているトーマスにコーチが声をかけた。
「おい、どうしたんだ」
 毎晩飲むビールのせいで、足下が見えないほどせりだした腹をゆすりながら、彼はトーマスに近づいていった。
「元気をだせ。どこか体の具合がわるいのか」
 トーマスはコーチを見て、力無く首を振った。
「僕は、オリンピックへは、行きたくないんだ……」
「また、それか。自信を持て、お前は世界一の男じゃないか」
「違うんだよ。別にレースが怖い分けじゃないんだ……」
「トーマス」
「分かってるよ。ホセ。オリンピックに行かなくちゃだめだってことは。明日から、また練習する。ただ……せめて、あの歌だけは、止めてくれないかな」

 トーマスは世界一。
 トーマスは世界一。
 ジャマイカの誇り。
 我らの誇り。
 英雄、トーマス。
 君を讃える歌を歌おう。
 ゴー、トーマス、ゴー。
 光のように、走れ。
 栄光のゴールに向かって走れ。

 グラウンドには、トーマスをたたえる歌が流れていた。
「僕は、普通に、静かに暮らしたいだけなんだ」
 トーマスは百九十五センチの長身を折り、膝を抱えた。
「分かった。オレが止めてくるよ」
 コーチは、頷きながら、トーマスの肩に手を置いた。
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