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第三章 騒乱
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気がつくと、隆夫と奈保子は小学校の校舎にいた。どこをどう歩いてきたのか、全く覚えていなかった。
建物の陰で死人の腕に食らいついていた透を見た後は、何も考えられなかった。ただ、足が動く方向にまかせて、さまよっていただけだった。
小学校の校舎に入り、廊下を歩き、ドアを開けたのは保健室だった。隆夫が卒業した浦積第三小学校。かつての記憶が隆夫を保健室まで運んでいた。
朝礼で倒れ、休んだ保健室。熱が出て、寝ていた簡易ベッド。保健室は、繰り返し繰り返し、訪れた場所だった。
保健室はかすかに消毒の匂いがした。窓から差し込む月の光で白いベッドが青白く見えた。
隆夫は床に座りこんだ。体の震えが止まらなかった。耳の奥に叫び声やうなり声が籠もっていた。腕に食らいついていた透の姿が網膜に消えずに残っていた。
奈保子は保健室に入ると、崩れるように床に座りこみ、動かなくなった。
地震でガラスは割れていた。風に乗って家が焼ける焦げ臭い匂いが漂ってきた。人々の叫び声やうなり声が聞こえていた。それが、現実の音なのか、自分の耳に残る幻聴なのか、隆夫には区別がつかなかった。
余震で建物が揺れた。
ガラガラと戸棚が音をたて、窓枠に残っていたガラスが乾いた音をたてて床に落ちた。
「ウオー」と咆吼が外から聞こえてきた。
奈保子がビクッとして顔を上げ、そして、隆夫に抱きついた。息が止まりそうになるくらい強い力だった。
奈保子は震える声で、
「……もし、誰か来たら、私を食べて……誰かに食べられるぐらいなら、友野君に食べて貰ったほうがいいから」と言った。
隆夫は奈保子を抱きしめた。
「だいじょうぶだよ。そんなこと……だいじょうぶだから」
だいじょうぶ。その言葉に何の根拠もなかった。
冷静に考えれば、保健室よりも、もっと奥の教室に隠れたほうが良いのだろうが、もう二人とも疲れ切って、立ち上がることもできなかった。
隆夫と奈保子は、保健室の床の上で、抱き合ったまま、気を失うように眠った。
保健室の匂いが二人を包んだ。消毒の匂いを嗅ぐと、隆夫は心が落ち着くような気がした。
夢を見た。病気の夢だった。体がだるく、右腕の赤い発疹が体中に広がっていた。
母親が用意した朝食を一口食べたが、すぐに吐いてしまった。
ベッドに戻り、お気に入りの音楽を聴きながら、漫画を読む。
叔父が部屋に入って来た。
「病気?」と聞く。
「ええ」
隆夫がこたえる。
「おかしいな。病気になんてなるはずないのに」
叔父がいぶかる。
「だって、雪を見たんだろ」
「雪……」
「雪だよ」
叔父の顔が目の前に迫り、歯をむき出した野獣の顔に変わった。
「わっ!」
隆夫は、自分の声で目を覚ました。
夢か……。
奈保子は、まだ眠っていた。
外を見ると、空はすでに明るくなっていた。
隆夫は奈保子を起こさないように静かに起きあがった。
東の空が赤くなり、太陽が姿を現すところだった。今日も朝日は昇る。何事もなかったように日は昇り、また沈んでいく。自然にとって人間が殺し合おうか、食い合おうか、そんなことはどうでも良いことなのだろう。
奈保子が目を覚まし、体を起こした。
「お早う」
隆夫が言った。
「お早う」
奈保子は、隆夫を見ると、ホッとしたような笑みを浮かべた。
奈保子の顔は埃と涙と煤と汚れていた。Tシャツに付いた血の跡は焦げ茶色に変色していた。
隆夫と奈保子は顔を洗った。奇跡的に水道の蛇口から水が出た。
奈保子は汚れたTシャツを脱ぎ、保健室に残されていた白衣を着た。
隆夫はリュックに残った食料を取り出して並べ、奈保子と食べた。
気のせいか胃の動きが穏やかになっているように思えた。
奈保子がパンを口に運ぶ姿も心なし落ち着いているように見えた。
異常な食欲が少しでも治まればうれしい。生きていく希望がかすかに見えてくる。
その日、二人は一日中小学校にいた。隆夫と奈保子は保健室から出て、教室を見て回った。
もし誰かいたら……。小学校は町の中心ではないが、町の外れというわけでもなかった。誰かが隠れていても不思議ではないのだが、二人の他に人の気配は感じられなかった。みんな食料を求めている。きっと、小学校は食料とは無縁だと思われたのだろう。
三年二組、四年一組、理科室、音楽室、職員室、どの教室も地震によって、窓ガラスは割れ、棚や机や椅子が倒れ、物が散乱していた。
余震のたびに建物が揺れた。窓の外から、時折、人の叫び声が聞こえてきた。奈保子はそのたびに両手で耳をふさいだ。
一階の倉庫に防災用の品物が備蓄されていた。食料はカンパンと水だけだったが、それでも、あるだけで気持ちが楽になった。
隆夫は体育館からマットを運び、保健室の床にひいた。しばらくは、学校にいるつもりだった。学校の保健室が一番安全に思えた。
少なくとも、気分が落ち着き、食欲が治まるような気がした。
夜、マットの上で寝ていると、悪夢をみているのか、奈保子がうなされていた。隆夫は奈保子の髪を優しく撫でた。
奈保子は何を覚えているのだろう、と隆夫は思った。血の匂い、肉の味、川田の首に噛みつき、頸動脈を噛み切ったこと。何をどこまで覚えているのだろう。もし、全てを覚えていたら、自分だったら、それに耐えられるだろうか。抑えられない食欲が理性を消し、本能だけの獣に変えた。その時の行動は、自分の意思ではないにしても、自分がやったことには違いない。脳は何を覚えているのか。何が記憶されているのか。人を食おうとした記憶とはどのような物なのか……。
隆夫が奈保子を抱きかかえると、奈保子は安心したように穏やかな寝息をたてだした。
二日後。窓から聞こえる町の音はだいぶ小さくなっていた。まるで、人が死に絶えたように、何も聞こえてこない時間帯さえもあった。
自分の飢餓もだいぶ治まっていた。いつでも何か食べてはいるが、それでも人を食いたくなる衝動は、全くとは言わないが、だいぶ消えていた。
自分の食欲が治まってきているのなら、他の人も同じだろう。これなら、もしかしたら町は平静になっているのではないか、と淡い期待が芽生えていた。
地震と火災で町は悲惨な状況になっているだろうが、人々の精神が元に戻っていれば、復興のために動き出しているはずだ。
保健室は安全だったが、情報が全く入ってこなかった。永遠に保健室にいるわけにもいかない。
「明日は、駅の方へ行ってみるよ」
隆夫は奈保子に言った。奈保子は不安そうな顔で首を振った。襲われて食われそうになった記憶がまだ強く残っているようだった。
「君はここで待っていればいいから」
隆夫が言うと、奈保子はまた首を振った。
結局、隆夫は奈保子と二人で校門を出て行った。
二人はおびえた猫のように、周りに注意しながら歩いていった。
静かだった。数日前の混乱が嘘のような静けさだった。
道に人影はなく、車も一台も走っていなかった。
「ひっ」と奈保子が息をのんだ。奈保子の視線の方角に目をやると、歩道の植え込みに頭を突っ込むようにして人が倒れていた。ブンブンと羽音をさせ、大きな蝿が何匹もたかっていた。
顔を上げ、周りを見回すと、道端、車の陰、家の玄関の前と、いたるところに死体が放置されていた。
駅に近づくにつれて、死体の数は、さらに増えていった。路上にも公園にも、折り重なるように人が死んでいた。
夏の暑さで、既に腐敗が始まっていた。血と腐臭と海の潮の臭いが混ざり合い、隆夫は思わず口を手でおさえた。
まだ、駅までは百メートル以上あったが、道は骸で埋まり、歩けなくなってしまった。
隆夫は顔を上げて前を見た。見えるのはただ、おびただしい数の死体だけだった。
「お互いに殺し合う遺伝子を持った人類は地球に隔離され、永遠に殺し合う運命にある」
いつか読んだSF小説の一文が頭に浮かんだ。
隆夫と奈保子は小学校に戻った。東の空から、まがまがしいほどに赤く巨大な月が空にゆっくりと昇っていった。
次の日は朝から雨だった。大粒の雨が、町を洗い流すような勢いで降り続いた。
夕方、隆夫と奈保子が保健室で、残った乾パンを食べていると、ペシャペシャと廊下を歩く足音が聞こえてきた。
足音がドアの前で停まった。
「トントン」とドアを叩く音が不思議なほど明るく響いた。
奈保子が息を止めた。隆夫の体が緊張で硬くなった。
もう一度、ノックの音がした。そして、
「友野……いるんだろ」と声がした。
「神谷……」
透の声だった。
「開けてくれないか」
落ち着いた声だった。
「だいじょうぶだよ。誰もいないし、僕も……もう、だいじょうぶだから」
隆夫は、ドアに近づき、そっとドアノブを回した。
「久しぶり」
廊下に透が立っていた。
「そうだね……」
数日しか経っていないのに、一年ぐらい会っていないような気がした。
透の目は正気に戻っていた。
「入っていいかな」
透は保健室の中をのぞきながら言った。
「あっ、いいよ」
透が中に入った。奈保子が透に軽く会釈した。
「生きていてよかったね」
透が言った。
「そうだね……」
隆夫は透の言葉にうなずいた。うなずきははしたが、良かったかどうか今は考えられなかった。叔父も叔母も死んでいた。火災と騒乱で父も母も死んでしまっただろう。これから何をどうしたら良いのか全く見当がつかなかった。
「ニュースでは、東京の事ばかりで浦積の話はでてこないけど」
透は携帯電話を取り出し、テレビの映像を隆夫に見せた。どこかの避難所の様子が映し出されていた。テントが張られ、炊き出しが行われていた。
「これから、どうする……」
隆夫は透に聞いた。透のほうが、隆夫よりもはるかに冷静になっているようだった。
「隣の市にキャンプが作られているらしいから、僕はそこに行ってみるよ。水と食料はあるらしいし」
透がこたえた。
「どうやって?」
「小さなボートが川岸にあるから、それで行く。友野は?」
隆夫は奈保子の顔を見た。奈保子がうなずいた。
完全に日が落ちてから浦積をでよう、と透が言い、三人は保健室で暗くなるのを待った。
透は、地震の規模や、関東地方の被害の様子などを話したが、透自身が、どうやって生き延びたのかは話さなかった。
「そろそろ、行こうか」
暗くなり、透が言った。
「ああ」
隆夫と奈保子は立ち上がった。
外に出ると、雨は上がっていた。透は、ポケットからペンライトを取り出し、前を照らした。
透が言ったように、川岸にボートが放置されていた。小さな手こぎボートだった。
透はボートを選び、
「行くよ」と言って、一人で対岸に向かってこぎ出した。
隆夫と奈保子は二人でボートに乗り、隆夫がこいだ。
雨は止んでいた。月が出ていた。火事は消えていた。奈保子は月明かりに浮かび上がる浦積の町をぼんやりと見ていた。
建物の陰で死人の腕に食らいついていた透を見た後は、何も考えられなかった。ただ、足が動く方向にまかせて、さまよっていただけだった。
小学校の校舎に入り、廊下を歩き、ドアを開けたのは保健室だった。隆夫が卒業した浦積第三小学校。かつての記憶が隆夫を保健室まで運んでいた。
朝礼で倒れ、休んだ保健室。熱が出て、寝ていた簡易ベッド。保健室は、繰り返し繰り返し、訪れた場所だった。
保健室はかすかに消毒の匂いがした。窓から差し込む月の光で白いベッドが青白く見えた。
隆夫は床に座りこんだ。体の震えが止まらなかった。耳の奥に叫び声やうなり声が籠もっていた。腕に食らいついていた透の姿が網膜に消えずに残っていた。
奈保子は保健室に入ると、崩れるように床に座りこみ、動かなくなった。
地震でガラスは割れていた。風に乗って家が焼ける焦げ臭い匂いが漂ってきた。人々の叫び声やうなり声が聞こえていた。それが、現実の音なのか、自分の耳に残る幻聴なのか、隆夫には区別がつかなかった。
余震で建物が揺れた。
ガラガラと戸棚が音をたて、窓枠に残っていたガラスが乾いた音をたてて床に落ちた。
「ウオー」と咆吼が外から聞こえてきた。
奈保子がビクッとして顔を上げ、そして、隆夫に抱きついた。息が止まりそうになるくらい強い力だった。
奈保子は震える声で、
「……もし、誰か来たら、私を食べて……誰かに食べられるぐらいなら、友野君に食べて貰ったほうがいいから」と言った。
隆夫は奈保子を抱きしめた。
「だいじょうぶだよ。そんなこと……だいじょうぶだから」
だいじょうぶ。その言葉に何の根拠もなかった。
冷静に考えれば、保健室よりも、もっと奥の教室に隠れたほうが良いのだろうが、もう二人とも疲れ切って、立ち上がることもできなかった。
隆夫と奈保子は、保健室の床の上で、抱き合ったまま、気を失うように眠った。
保健室の匂いが二人を包んだ。消毒の匂いを嗅ぐと、隆夫は心が落ち着くような気がした。
夢を見た。病気の夢だった。体がだるく、右腕の赤い発疹が体中に広がっていた。
母親が用意した朝食を一口食べたが、すぐに吐いてしまった。
ベッドに戻り、お気に入りの音楽を聴きながら、漫画を読む。
叔父が部屋に入って来た。
「病気?」と聞く。
「ええ」
隆夫がこたえる。
「おかしいな。病気になんてなるはずないのに」
叔父がいぶかる。
「だって、雪を見たんだろ」
「雪……」
「雪だよ」
叔父の顔が目の前に迫り、歯をむき出した野獣の顔に変わった。
「わっ!」
隆夫は、自分の声で目を覚ました。
夢か……。
奈保子は、まだ眠っていた。
外を見ると、空はすでに明るくなっていた。
隆夫は奈保子を起こさないように静かに起きあがった。
東の空が赤くなり、太陽が姿を現すところだった。今日も朝日は昇る。何事もなかったように日は昇り、また沈んでいく。自然にとって人間が殺し合おうか、食い合おうか、そんなことはどうでも良いことなのだろう。
奈保子が目を覚まし、体を起こした。
「お早う」
隆夫が言った。
「お早う」
奈保子は、隆夫を見ると、ホッとしたような笑みを浮かべた。
奈保子の顔は埃と涙と煤と汚れていた。Tシャツに付いた血の跡は焦げ茶色に変色していた。
隆夫と奈保子は顔を洗った。奇跡的に水道の蛇口から水が出た。
奈保子は汚れたTシャツを脱ぎ、保健室に残されていた白衣を着た。
隆夫はリュックに残った食料を取り出して並べ、奈保子と食べた。
気のせいか胃の動きが穏やかになっているように思えた。
奈保子がパンを口に運ぶ姿も心なし落ち着いているように見えた。
異常な食欲が少しでも治まればうれしい。生きていく希望がかすかに見えてくる。
その日、二人は一日中小学校にいた。隆夫と奈保子は保健室から出て、教室を見て回った。
もし誰かいたら……。小学校は町の中心ではないが、町の外れというわけでもなかった。誰かが隠れていても不思議ではないのだが、二人の他に人の気配は感じられなかった。みんな食料を求めている。きっと、小学校は食料とは無縁だと思われたのだろう。
三年二組、四年一組、理科室、音楽室、職員室、どの教室も地震によって、窓ガラスは割れ、棚や机や椅子が倒れ、物が散乱していた。
余震のたびに建物が揺れた。窓の外から、時折、人の叫び声が聞こえてきた。奈保子はそのたびに両手で耳をふさいだ。
一階の倉庫に防災用の品物が備蓄されていた。食料はカンパンと水だけだったが、それでも、あるだけで気持ちが楽になった。
隆夫は体育館からマットを運び、保健室の床にひいた。しばらくは、学校にいるつもりだった。学校の保健室が一番安全に思えた。
少なくとも、気分が落ち着き、食欲が治まるような気がした。
夜、マットの上で寝ていると、悪夢をみているのか、奈保子がうなされていた。隆夫は奈保子の髪を優しく撫でた。
奈保子は何を覚えているのだろう、と隆夫は思った。血の匂い、肉の味、川田の首に噛みつき、頸動脈を噛み切ったこと。何をどこまで覚えているのだろう。もし、全てを覚えていたら、自分だったら、それに耐えられるだろうか。抑えられない食欲が理性を消し、本能だけの獣に変えた。その時の行動は、自分の意思ではないにしても、自分がやったことには違いない。脳は何を覚えているのか。何が記憶されているのか。人を食おうとした記憶とはどのような物なのか……。
隆夫が奈保子を抱きかかえると、奈保子は安心したように穏やかな寝息をたてだした。
二日後。窓から聞こえる町の音はだいぶ小さくなっていた。まるで、人が死に絶えたように、何も聞こえてこない時間帯さえもあった。
自分の飢餓もだいぶ治まっていた。いつでも何か食べてはいるが、それでも人を食いたくなる衝動は、全くとは言わないが、だいぶ消えていた。
自分の食欲が治まってきているのなら、他の人も同じだろう。これなら、もしかしたら町は平静になっているのではないか、と淡い期待が芽生えていた。
地震と火災で町は悲惨な状況になっているだろうが、人々の精神が元に戻っていれば、復興のために動き出しているはずだ。
保健室は安全だったが、情報が全く入ってこなかった。永遠に保健室にいるわけにもいかない。
「明日は、駅の方へ行ってみるよ」
隆夫は奈保子に言った。奈保子は不安そうな顔で首を振った。襲われて食われそうになった記憶がまだ強く残っているようだった。
「君はここで待っていればいいから」
隆夫が言うと、奈保子はまた首を振った。
結局、隆夫は奈保子と二人で校門を出て行った。
二人はおびえた猫のように、周りに注意しながら歩いていった。
静かだった。数日前の混乱が嘘のような静けさだった。
道に人影はなく、車も一台も走っていなかった。
「ひっ」と奈保子が息をのんだ。奈保子の視線の方角に目をやると、歩道の植え込みに頭を突っ込むようにして人が倒れていた。ブンブンと羽音をさせ、大きな蝿が何匹もたかっていた。
顔を上げ、周りを見回すと、道端、車の陰、家の玄関の前と、いたるところに死体が放置されていた。
駅に近づくにつれて、死体の数は、さらに増えていった。路上にも公園にも、折り重なるように人が死んでいた。
夏の暑さで、既に腐敗が始まっていた。血と腐臭と海の潮の臭いが混ざり合い、隆夫は思わず口を手でおさえた。
まだ、駅までは百メートル以上あったが、道は骸で埋まり、歩けなくなってしまった。
隆夫は顔を上げて前を見た。見えるのはただ、おびただしい数の死体だけだった。
「お互いに殺し合う遺伝子を持った人類は地球に隔離され、永遠に殺し合う運命にある」
いつか読んだSF小説の一文が頭に浮かんだ。
隆夫と奈保子は小学校に戻った。東の空から、まがまがしいほどに赤く巨大な月が空にゆっくりと昇っていった。
次の日は朝から雨だった。大粒の雨が、町を洗い流すような勢いで降り続いた。
夕方、隆夫と奈保子が保健室で、残った乾パンを食べていると、ペシャペシャと廊下を歩く足音が聞こえてきた。
足音がドアの前で停まった。
「トントン」とドアを叩く音が不思議なほど明るく響いた。
奈保子が息を止めた。隆夫の体が緊張で硬くなった。
もう一度、ノックの音がした。そして、
「友野……いるんだろ」と声がした。
「神谷……」
透の声だった。
「開けてくれないか」
落ち着いた声だった。
「だいじょうぶだよ。誰もいないし、僕も……もう、だいじょうぶだから」
隆夫は、ドアに近づき、そっとドアノブを回した。
「久しぶり」
廊下に透が立っていた。
「そうだね……」
数日しか経っていないのに、一年ぐらい会っていないような気がした。
透の目は正気に戻っていた。
「入っていいかな」
透は保健室の中をのぞきながら言った。
「あっ、いいよ」
透が中に入った。奈保子が透に軽く会釈した。
「生きていてよかったね」
透が言った。
「そうだね……」
隆夫は透の言葉にうなずいた。うなずきははしたが、良かったかどうか今は考えられなかった。叔父も叔母も死んでいた。火災と騒乱で父も母も死んでしまっただろう。これから何をどうしたら良いのか全く見当がつかなかった。
「ニュースでは、東京の事ばかりで浦積の話はでてこないけど」
透は携帯電話を取り出し、テレビの映像を隆夫に見せた。どこかの避難所の様子が映し出されていた。テントが張られ、炊き出しが行われていた。
「これから、どうする……」
隆夫は透に聞いた。透のほうが、隆夫よりもはるかに冷静になっているようだった。
「隣の市にキャンプが作られているらしいから、僕はそこに行ってみるよ。水と食料はあるらしいし」
透がこたえた。
「どうやって?」
「小さなボートが川岸にあるから、それで行く。友野は?」
隆夫は奈保子の顔を見た。奈保子がうなずいた。
完全に日が落ちてから浦積をでよう、と透が言い、三人は保健室で暗くなるのを待った。
透は、地震の規模や、関東地方の被害の様子などを話したが、透自身が、どうやって生き延びたのかは話さなかった。
「そろそろ、行こうか」
暗くなり、透が言った。
「ああ」
隆夫と奈保子は立ち上がった。
外に出ると、雨は上がっていた。透は、ポケットからペンライトを取り出し、前を照らした。
透が言ったように、川岸にボートが放置されていた。小さな手こぎボートだった。
透はボートを選び、
「行くよ」と言って、一人で対岸に向かってこぎ出した。
隆夫と奈保子は二人でボートに乗り、隆夫がこいだ。
雨は止んでいた。月が出ていた。火事は消えていた。奈保子は月明かりに浮かび上がる浦積の町をぼんやりと見ていた。
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