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第三章 騒乱

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 夏休みが三日終わった。楽しみだったはずの夏休みだったが、隆夫には、もう休みの予定を考える余裕は無かった。
「僕は、逃げる」と透は言っていた。どこへ逃げるのか、どうやって逃げるのか、隆夫には逃げる場所も方法も浮かんではこなかった。
 眠りが浅かった。数時間眠ると空腹で目が覚めてしまう。
 ベッドの脇に食料が積まれていた。目が覚めたらとりあえず食べる。
 お握りと弁当、パン、肉。何でも良い。ともかく胃に入るだけ食べる。どれだけ食べようが、何か満足できなかった。
 胃は満ちている。しかし、食欲が抑えられない。
「人の肉を食いたい」
 時折、強烈な思いがわき上がってくる。
 隆夫は感情を拒否した。言葉にするな。感情を意識したとたん、食欲に全てを支配されてしまいそうだった。
 夜中の三時。ベッドの脇に積んでおいた食料がなくなった。
 隆夫は階段を下り、台所に向かった。
 冷蔵庫を開け、隆夫の腕ほどあるハムを取り出し、さらに冷凍庫から凍ったピザと冷凍の鳥の唐揚げを選んだ。
 両親の部屋から物音が聞こえていた。低いうなり声だった。食事かセックスか、判断はつかなかったが、のぞく気にはならなかった。
 隆夫は部屋に戻り、ハムを頬張った。
 隆夫は腕時計を見た。今は飢餓は襲ってこない。心は平静を保っている。
 音楽をかけ、本を取った。どのくらいで、肉を食いたくなるだろう。理性は、保っていられるのだろうか。
 三十分たった。もう胃には何も残っていない。食いたい。目の前にはピザと唐揚げと食いかけのハムがある。
 隆夫は大きく息を吸い、そして吐いた。
 我慢しろ。
 四十五分。音楽が耳から入らなくなった。
 食いたい。何でもいいから食いたい。強烈な飢餓が突き上げてくる。
 食いたい。肉を。
「友野。お前は人を食いたいと思ったことはないか?」
 神谷の声が頭の中で響いていた。
 我慢しろ。本に、音に、意識を集中しろ。
「食べてしまえ」
 心の奥の奥、生物が初めて生まれた太古からの掟が隆夫に囁く。昔から生物はお互いにお互いの体を食いあってきた。強い者が弱い者の体を食い、自分の血と肉に変えるのは当たり前のことだ。
 最も効率の良い食物は同類の体。カマキリのメスはセックスの後、オスの体を食う。
「食うんだよ」
 思うだけで、快感が体を貫いていく。
「食べたい」
 苦しみを我慢するより、快楽を我慢するほうが難しい。
 きっと、経験したことのない快感が体を駆けめぐっていくことだろう。
 人類が食人を最も忌むべき習慣としたのは、逆に、許せば抑えの効かないほどの快楽を与えることを知っていたのではないか。
 隆夫は腕時計を見た。一時間たった。
「食わせろ」
 今までで一番強い衝動だった。
 このままでは、意識が無くなる。
「わー」と大声を上げて、隆夫は目の前のハムにかぶりついた。
 体が震えていた。一時間。我慢できるのは、たった一時間だった。胃に入れないと一時間で、何でもいいから、それこそ人でも何でもいいから食いたくなる。
 理性がなくなってしまう。もう五分。いや一分、遅かったら、自分の精神は壊れてしまっていたかもしれない。
 昨日は? 昨日はどうだったろう。もう少し空腹までの時間が長かったような気がする。それと、これほど飢餓が強くなかったような気もする。しかし、自信はなかった。ともかく、昨日は食べ続けていたのだから、飢餓の強さを比べられはしなかった。

 浦積市は、町としての機能がマヒしつつあった。
 大量のゴミが発生し、収集と焼却が間に合わず、回収されずに放置された生ゴミが路上にうず高く積まれていた。
 一応、収集車が回ってはいるのだが、ゴミの量が収集能力の限界を超えているのと、作業員が仕事よりも食事に忙しいのとで、ゴミは溜まる一方だった。
 真夏の暑さに生ゴミが腐り、腐臭と海の潮と野獣の汗のような臭いが混ざり合い、町は東南アジアのスラムを思わせる臭いに満ちていた。
 個人差はあった。飢餓の状態も、セックスへの欲望の度合いにも、怒りや興奮の状態にも、人によって異なっていた。
 空腹に成ると怒りが強くなる者。暴力に性的な欲望が伴っている者。空腹を満たした後、なお怒りが収まらない者。無性にセックスをしたくなる者。
 ここでは性善説など吹き飛んでしまう。人間は、あたりまえだが、動物である。それも、激烈な生存競争を勝ち抜いた動物である。我々の遺伝子には生存競争を生き抜くための特徴が強く刻み込まれている。
 餌を獲得するときに、優しくなっていたら、何も手に入らない。そこでは競争相手を殺してでも餌を確保しなければ自分が死んでしまう。空腹になれば、暴力的になることは、理にかなっている。
 精神はしだいに体の変化を受け入れていく。浦積ではまず食うことが何よりも優先されていた。
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