真夏に降る雪・真夏の雪はあなたを狂わせる

グタネコ

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第二章 悪夢

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 叔父の家からの帰り道、駅前の交差点、隆夫が信号を待っていると、奈保子に声をかけられた。
「今日は、友野君……友野君」
 隆夫はぼんやりしていて、二度名前を呼ばれてようやく奈保子に気付いた。
「あっ、今日は」
 隆夫は一瞬、声をかけてきた相手が奈保子とはわからなかった。
 キャミソールにミニスカート、髪は普段と違い上にまとめられ、化粧をした顔は、制服の奈保子よりもはるかに女性だった。
 体の線がはっきりわかる。キャミソールから下着がのぞいていて、隆夫は奈保子を真っ直ぐ見ていられなかった。
「買い物?」
 隆夫はとりあえず言った。
「ちょっと、外にでたくて」
 奈保子は答えた。
「友野君は?」
「叔父さんの家」
「叔父さん?」
「線路の向こう側なんだけど。マンガの本を貰いに……」
 隆夫は持っていた二冊の本を奈保子に見せた。
「そうなんだ」
 古い漫画月刊誌だった。奈保子は興味なさそうに、ちらっと見ただけで、すぐに目を戻した。
「何か、食べない?」
 奈保子が言った。
 胃が、「キュン」と、音を立てた。叔父の家で山ほどチキンを食べたばかりだったが、もう、腹が減っていた。唾がわいてきた。食べたい。奈保子と一緒に肉を食べられるだけ食べたい。
 フライドチキン、焼き肉、血の滴るステーキにかぶりつきたい。そして……。
 しかし、隆夫は我慢した。脳の底から暴れだそうとする食欲と性欲を押しとどめた。
「……ちょっと、ごめん……今日は、用事があるから……」
 欲望に身をゆだねてしまうと、さっき見た叔父のように以前の自分が完全に消えてしまいそうに思えた。気づかないうちに自分が変わり、違う自分になってしまう。
 それは良いことなのか悪いことなのか……。
 病弱で気弱で、女の子に声もかけられない自分。勉強もスポーツもできなくて、何の取り柄もない自分。時々、叔父の家に行き、湿り気を含んだかび臭い部屋でマンガを読むのが唯一の趣味の自分。毎日、自分の体調をチェックしながら、おどおどと生きている十五歳の高校一年生。
 奈保子と一緒に焼き肉を腹一杯食べて、大げさな身振りと大きな声で、意味もなく笑いあえば、新しい自分になる。古い自分から、
朗らかで活動的で、スポーツも勉強もできる高校生に変身できる。
 良いことだらけだ。理想的な変化だ。さあ、自転車から降りて、一緒に歩いて行けばいい。
すぐ目の前に焼き肉の看板がある、フライドチキンが誘っている。ドアを開けて入っていけばいい。そして、食欲を満たせ。
 しかし、隆夫は止めた。さっき見た叔父の変わり様が何よりも隆夫を不安にさせた。
 そして、自分も変わっているという思いが、隆夫を引き留めた。
「……そう、行かないの?」
 奈保子は、なおも隆夫を誘うように微笑えんだ。 
「ごめん、本当に、また今度。今日はちょっと用事があるんだ」
 隆夫は誘惑を振り切るように、無理に明るく言った。
 奈保子は一瞬、悲しそうな顔をしたが、すぐに満員のフライドチキンの店に目を向け、フワフワとした足取りで歩いていった。
 隆夫は自転車のペダルを踏み、奈保子から離れた。
 家に帰ろう。家に帰って自分の部屋で古い漫画を読みながら、落ち着いて考えよう。今の自分は前の自分とどこが同じなのか、そして、どこが違ってしまったのか。
 隆夫はペダルをこいだ。自転車の前かごの中で、二冊の漫画雑誌がカタカタと揺れていた。
 気が付くと田部井の家の前に来ていた。立入禁止のテープはもう外されていた。事件を知らなければ、他の家と変わらないたたずまいだった。
 郵便受けからダイレクトメールがはみ出していた。窓にはカーテンが引かれ、外からは、中の様子をうかがうことはできなかった。
 隆夫はスピードを落とし、横目で田部井の家を見た。表札の文字が見えた。以前なら眼鏡をかけていても決して見えなかった文字だが、今は二十メートル離れていても一センチの漢字を読むことができる。
 玄関のドアが動いた。隆夫は家の前で止まった。玄関の扉がゆっくり開く。
 隆夫は玄関を見つめた。ドアが開き、顔が現れ、辺りをうかがうように左右を見回した。
「神谷……」
 よく知った顔だった。神谷透。透は隆夫に気づき、「あっ」と小さく声を出した。
「友野……」
 透は紙袋を抱えて、家から出てきた。そして、もう一度、首を左右に振り、辺りに人がいないことを確認すると、家から逃げるように、早足で歩き出した。隆夫は自転車から降り、透と並んで歩いた。
「……叔父さんなんだ」
 透が言った。
「大変だったね」
「……それほど、親しくはなかったんだけど」
 透は、田部井は母方の叔父で、同じ町に住んでいても、会うのは年に一度ぐらいだと言うようなことを隆夫に話した。
「お葬式は?」
「……済んだ」
 途切れ途切れの会話だった。
「友野は?」
「僕も、叔父さんの家に」
「えっ、死んだの?」
「まさか、本を貰いに」
「そうだよね。叔父さんがみんな死ぬわけじゃないから」
「ほら、これ」
 隆夫は二冊の本を透に見せた。
「古いね。それ」
「昔のマンガ。叔父さんがもう要らないって言うから」
「へえ」
 透が紙袋を抱えていた。自分は本を見せた。透が何を持っているのか尋ねても悪くはない。しかし、隆夫は聞く気にはなれなかった。
 嬉しい話には思えない。老親と息子が自殺した家からこそこそと持ち出す物に楽しい話題があるわけもない。
 空気が重かった。
「友野の家って。この辺?」
「そう、ここから三分ぐらい」
「へえ。そうなんだ」
 事件の家が見えなくなり、透は歩を緩めた。
「今度、友野のとこへ遊びにいっていいかな」
「えっ、ああ、いいよ」
 隆夫の家には誰も遊びに来たことはなかった。思えば、学校には親しい友だちもいなかった。自分が今、生きるので精一杯で、友だちを考える余裕もなかった。それは透も同じだった。
 いいよ、と言われて透の顔が明るくなった。
「てめえ」
 突然、罵声が聞こえた。
「ばかやろう」
 ガッシャ。ガラガラガラ。ガラスの割れる音や、物が投げつけられる音がしばらく続いた。
 更に、激しい物音と怒声が続き、
「てめえなんか、出ていけ」と目の前の家の玄関が開いた。
「何するんだよ」
 夫婦喧嘩のようだった。男が女の髪の毛を掴み、玄関から外に放り出そうとしていた。
 女は男の足や体を叩いて抵抗していた。男が引き倒し、女が噛みついた。
 男が蹴る。女がわめく。
「うおー、うおー」と、二人の声が獣のうなり声に変わっていった。
 男に蹴り飛ばされた女が隆夫の自転車にぶつかった。
 喧嘩をしていた男女は唖然として立っている隆夫と透に、ようやく気づくと、我に返ったような顔をして、家の中に戻っていった。
 家に戻ったあとも、なお、怒鳴り合う声が外まで聞こえてきていた。
「友野……」
 透が深刻な表情で隆夫に言った。
「なに?」
「友野は……時々……って思うことはない?」
 小さな声で、一番肝心な言葉が聞き取れなかった。
「……って……いや、いいんだ。何でもない」
 透は無理に明るい表情を作り、
「それじゃ、明日、学校で」と言った。
「ああ、明日」
 透が背を向けた。隆夫は透が何を言いたかったのか気にはなったが、それよりも腹が減っていた。
 
 隆夫は家に帰ると、台所にあったパンとソーセージをほおばった。
 夕飯は焼き肉だった。先週から、家の食事は肉ばかりになっていた。
 隆夫も隆夫の父と母も、ただ黙々と箸を動かしていた。
 食事が終わり、隆夫は部屋に戻り、ベッドに寝転がった。
「友野は……時々……って思うことはない?」
 透の言葉が耳に蘇ってきた。
 時々……。時々何を思うのか?。
 透の深刻な顔を考えると、易しいことではなさそうだった。
 急に大声で叫びたい。走り出したい。物を壊したい。叩きつけたい。
 人を殴りたい。これかもしれない。透が言い出す前に喧嘩があった。
 何かを殴りたい。衝動は隆夫も感じていた。 町ですれ違いざま、肩を触れただけで暴力的な憎悪が湧き上がってくる。
 怒りや憎しみが以前よりも強くなっている。いや、強くなっているのは、それだけではない。食欲、性欲、暴力、原始的な感情が、日に日に増している。
「人を殴りたいと思うとき、か……」
 いつか感情が抑えきれなくなり、誰かを殴るだろう、と隆夫は思った。
 殴り合っても負ける気はしなかった。前は、右肘に赤い悪友が住み着いていた時には、たとえ殴ろうと思っても、相手の反撃を考えて思いとどまった。
 小学校の頃。子供の無邪気な悪意が隆夫に向けられたことがあった。
「バカ野郎」と叫びながら殴りかかりたかったことが何度もある。しかし、ただ何も言わずに背を丸め、嘲笑から逃げたのは、ひとえに、殴れば、その何倍もの報復を受けることが分かっていたからだ。
 今なら、と隆夫は思う。今なら勝てるだろう。殴り倒し、這いつくばっている敗者を上から睨みつける。
 そう考えると、セックスと同じ快感が背中を突き抜けていった。
 隆夫は興奮のままに身を任せた。同じクラスの堀尾が隆夫にうち倒されて足もとで無様に這っていた。裸の奈保子が隆夫を潤んだ目で見ている。
 原色の妄想が次々に現れ、際限なく拡大し、そして快感と共にはじけた。
 隆夫は、ひとしきり快感の余韻を楽しんだ。
 ベッドから起きあがると、空腹を感じた。
 隆夫は時計を見た。八時二十五分。夕飯を食べ終えたのは、七時半。たった一時間しか経っていない。
 隆夫は一階に下りていった。
 居間では、父と母がテレビを見ながら、串カツを食べていた。テーブルには大皿に串カツが山のように盛られていた。
「隆夫も食べたら」
 母の信子が居間を覗いた隆夫を誘った。
 
 その夜。隆夫は夢をみた。悪夢だった。
「友野は……時々……って思うことはない?」
 透が囁いていた。
 時々……。
 夢の中では、透の言葉が聞こえていた。
「僕は……」
「友野。正直に言ってくれ。……したくなることがあるだろう」
「僕は……ないよ」
 隆夫は透から逃げた。
「友野。友野……」
 透が追いかけてくる。
 隆夫は闇に向かって逃げた。何も見えない、
絶望の闇だった。
「友野……」
 死人の顔の透が闇の中、滑るように追いかけてきた。
「お前だって、お前だって、……したくなるだろう」
「僕はない」
「友野、誰にも言わないから、言ってくれよ。
友野……」
「僕は……」
 寝汗をかいていた。体を起こすと、あごの先から滴り落ちるほどの汗だった。
 パジャマが汗で湿っていた。目覚めのすがすがしさはなかった。右肘の発疹が消えてから、高原の初夏のように清々しく、明日を信じられる朝を迎えていたのに、今朝は不安が体を包んでいた。
 空腹。空腹で怒りを感じる。邪悪な怒り。抑えきれなくなりそうな怒りが腹の底でうごめいている。
 穏やかで争いを好まない。好きな音楽を聴きながら、本を読んでいる。それが自分だったはずなのに。
 下卑た会話や暴力を嫌い、静かに暮らしたいと願っていたはずなのに。今は、怒りを外にぶつけたくなる。
 分けもなく叫んで殴りつけたくなる。
「食い物をよこせ。何か食わせろ」
 感情を解き放て。思うままにすれば良い。
 本能のままに行動しろ。気持ちがいいぞ、と誰かが囁く。体の中に巣くった何者かが、隆夫に囁いてくる。
 隆夫は外に目をやった。体に入ったのは、何だ。
 雪……か……。
 あの日の雪に違いない。
 耳の奥で囁いているのは、真夏の空をゆらゆらと降り、隆夫の手の平から体に入り込んだ、あの雪以外考えられなかった。
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