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第一章 奇跡

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 隆夫は大きなアクビをした。四時間目の英語の授業だった。黒板の前では沢が教科書を淡々と読んでいた。朝の怒りは収まったのか、いつもの諦めの表情になっていた。
 クラスの三分の一は寝ていた。三分の一は漫画を読むか携帯電話をいじり、後は、ほとんど意識を消したようにただぼんやりと座っていた。
 隆夫は透の視線を感じて、後ろを振り向いた。三列後ろの席。振り返ると、透と目が合い、透は隆夫に向かって軽くうなずいた。
 透の顔がいつもより明るく見えた。土気色の、いかにも病的な顔が今日は肌色に輝いていた。そして、透もまた隆夫を同じように眼鏡を外していた。
「あとで」と透の唇が動いたように思えた。
 あとで、何を?。
 あとで、何をしたいのか分からなかったが、
ともかく、隆夫は小さくうなずいた。
 透はホッとしたように小さくうなずき、本に目を落とした。
 隆夫は、また前に向き直した。沢の独り言のような朗読が続いていた。隆夫は、アクビを一つして、目を窓の外に移した。
 校庭の先には住宅街が広がっていた。右に目をやると、三階建ての市営アパートが四棟並んでいるのが見えた。そのアパートのさらに奥に、隆夫の叔父、友野庄一が入院している柏井総合病院の屋上が霞んで見えていた。
 叔父はガンだった。
「隆夫は叔父さんによく遊んでもらったんだから、時々、お見舞いに行ってね」と母親は言った。
「学校の近くだし」
 あまり状態はよくないらしい。
「分かった」
 と隆夫は答えた。
 叔父は、体が弱いこともあり、勤めには出ず、家で技術英文の翻訳をしていた。
 叔父夫婦には子どもがなかった。隆夫が行くと、夫婦はいつでも歓迎してくれた。
 白ワイシャツに度の強い黒縁の眼鏡、足首のゴムが伸びた黒い靴下。色あせた畳に手回しの鉛筆削り。五十年前の風景に平気でとけ込めそうな叔父と叔父の部屋だった。
 叔父は自分の仕事部屋の隣に四畳半ほどの漫画部屋を持っていた。叔父の唯一の趣味だった。
 三面の壁には本棚が据えられていた。そこには、叔父が子どものころ読んだ漫画や古本屋を廻ってコツコツと集めた漫画が時代を追って几帳面に並べられていた。
 引き抜くと、端からボロボロこぼれ落ちてしまいそうな色あせた週刊誌や月刊誌。隆夫が全く知らない主人公の漫画や、聞いたこともない名前の漫画家たちが書いた本が並べられていた。
 本棚の上に置かれた段ボールの中には、世界一強い紙製のロボットやゴム動力で走る世界一早いスポーツカー、輪ゴムで飛ばす高性能飛行機など、様々な月刊誌の付録が、時をこえて眠っていた。
 色あせを防ぐために本棚にはカーテンが引かれていた。カーテンを開けると、かすかなカビくさい臭いとともに本が現れた。
 隆夫は部屋に入ると、気に入った本を本棚から優しく引き出し、窓際にすわり、背を丸めてページを開いた。
 湿り気を含んだ週刊誌の表紙では、テレビゲームも学習塾もない時代の少年が笑っていた。本を開くと、ヒーローは仮面をかぶり、悪人を投げ飛ばす。泥まみれのガキ大将が空き地を走り回り、焼きイモをほおばる。
 魔球がうなりをあげ、ブリキのロボットが空を飛び、少年剣士が忍者と戦っている。
 空き地が残る町。町工場の油の匂い。裸電球。つぎの当たったズボン。擦り傷。遊び方の分からないおもちゃ。
 パソコンもなく、高いビルも見えない。掘り炬燵の置かれた狭い部屋で、家族が集まって食事をとっている。今は消えてしまった昔の風景。隆夫には分からない過去が四角く区切られた紙面の上に記録されていた。
 それでも、どんなに時代が変わろうとも、ヒーローはヒーローで、主人公の悩みや喜びは今と変わりはしなかった。
 隆夫は窓際で漫画の世界に入る。隆夫のまわりだけ時間が止まった。
 そして、ちょうど一話読み終えた頃、顔を上げると目の前には叔父の笑顔があった。
「やあ」
 叔父は隆夫に笑いかけ、自分も本棚から一冊選んだ。
 叔父はしばらく漫画を読み、「ゆっくり」と言って、部屋から出ていった。
 隆夫はため息をつく。これ以上の幸せを隆夫は思い浮かべることができない。
 隆夫は深く息を吸うと、また、漫画に目を落とし、静かに至福の世界に入っていった。
 休みの日には、決まって叔父の家に行き、一日中漫画を読んだ。
「死んだら、これ、隆夫に全部あげるよ」
 ある時、叔父は隆夫に本棚の本を指さして言ったことがある。
 隆夫は父親よりも叔父と一緒にいる時間のほうが長かった。隆夫の父親は朝七時に家を出て、夜十時に家に帰る会社員だった。休日には疲れて眠っているか、接待ゴルフに出かけるだけで、隆夫の父親になる時間は、一年うち何時間もなかった。
 ただ一緒に漫画を読んでいるだけなのだが、叔父とは心が通い合っているように感じていた。
 きっと、自分の遺伝子は父親よりも叔父に近いのかもしれないと、隆夫は思った。
 人間は、友だちや結婚相手を無意識に遺伝子で選んでいるという説がある。
 遺伝子が相性の良い遺伝子を選び、引き合わせる。友だちは偶然ではなく必然だ。
 一目見ただけで相性の善し悪しはわかる。どんなに良い人であっても、一緒に居たくない人はいる。他の人には好かれていてもどうにも好きになれない人がいる。
 相性という曖昧な言葉で表されていることが、いつか科学的に―味気なくと言い換えてもいいが―証明される日が来てしまうのかもしれない。
 隆夫にとって叔父は最高に良い相性の相手だった。相性にホテルのような等級があれば、文句なしに五つ星の相手だった。
 隆夫の人生でかけがえのない人。その叔父がガンになった。胃ガンだった。それも、一番悪性で進行の早い腺ガンだった。
 五月の連休明け、隆夫の入学祝いを兼ねて、叔父は隆夫の家で酒を飲んだ。そして、帰リぎわ、玄関で血を吐いて倒れた。
「叔父さん」
 タンカに乗せられ、救急車に運び込まれる時、隆夫が呼びかけると、叔父は、
「……あの本、隆夫に……」と血と汚物の跡が残る唇から声を絞り出した。 
 叔父は救急車で運ばれ、そのまま入院した。
 隆夫の耳の奥には、今でも救急車のサイレンの音が残っている。
「叔父さんが隆夫に会いたがってるって、叔母さんが電話してきたから……」
 一度、お見舞いに行ってきたら。と母親が隆夫に言ったのは、入院してから十日後のことだった。
 これは後で知ったのだが、救急車で運び込まれた時、叔父のガンは既に手の付けられない状態で、手術をせずに、抗ガン剤と鎮痛剤だけで、後は死を待つだけになっていた。
 母親に言われてから、隆夫は時々、叔父の病室を訪ねた。
 病室に入り、小さな丸椅子に腰掛けると、ベッドで寝ている叔父が隆夫に振り向き、
「やあ」と弱々しく言う。
 隆夫は「今日は」とだけ言う。
 後は、無言で、しばらく時間だけが流れる。叔父と同じ部屋にいるだけで充分だった。お互いに、話したいとも話そうとも思っていなかった。同じDNAを持つ者同士、話さなくとも心は通い合うような気がした。
 叔父は、「これを読めよ」と、言うように、ベッドの脇に置いてあった本を隆夫に手渡した。
 行くたびに叔父が痩せていくのが隆夫にもわかった。頬がこけ、元々薄かった髪の毛がさらに抜け、手の平の血管が青く浮き出してくる。
(あと、何日だろう)
 痩せこけた頬で、ベッドで横になりながら、叔父も自分に残された日を数えているようだった。

 放課後。隆夫は病院に向かって歩いていた。見舞いに行くのは二週間ぶりだった。
 病院は高校から歩いて十分ほどの距離にあった。校門を出て、市営団地の敷地の中を抜け、海の方角に歩いていった。大通りに出るよりも、敷地を横切る方が近道だった。
 隆夫と並んで透が歩いていた。透の家は病院と反対方向なのに、「ちょっと、用事があるんだ」と、誰にでも分かるような嘘を言って、隆夫に付いてきていた。
 団地を抜け、大通りに出た。コンビニ、ラーメン屋、パン屋。学習塾のカバンを持った小学生が二人を追い越していった。
「叔父さん、病気なんだって」
 透が話しかけてきた。
「ずっと、入院してるんだ」
 隆夫が答えた。
「その先の柏井病院」
「そう……。僕も入院は……」
 救急車のサイレンが聞こえ、透の言葉が車の音で消された。
 建物の角を曲がると、病院が見えた。
 歩みが遅くなった。
 隆夫が透を見た。朝、透は何か意味ありげに、「あとで」と、隆夫に言ったのだが、放課後になるまで、透は何も言ってこなかった。
 話があるんじゃないの?
 隆夫は、「言いなよ」という目で透を見た。もうすぐに病院についてしまう。今、話さないと話す機会がなくなる。
 透が立ち止まった。
 隆夫もつられて立ち止まった。
「変……なんだよ」
 透が呟いた。
「変?」
「病気が治ったんだ」
 透が隆夫を真っ直ぐに見た。君なら分かるだろ。透の目は、そう言っていた。
「元気なんだ、元気なんだよ。むくみも出ないし、走っても苦しくない。何でも食べられるし、気持ち悪くもならない。こんなこと、こんなこと、生まれて初めてなんだ」
 透は溜まっていた思いを一気に吐きだすように言った。
「治ったなら、いいじゃない」
 隆夫は感情を表に出さないように、できるだけあっさりと答えた。透の話は予想していていたが、心臓の鼓動が大きくなるのは抑えられなかった。
 透は首を振った。
「嫌なんだよ。気持ちが悪いんだ。なんだか……」
 隆夫と同じように、透も健康になって不安を感じている。
 病気になっている自分。入院している自分。通院して薬を飲んでいるのが本当の自分で、健康な自分は自分じゃない。健康な体は何かがおかしくなっている。
 健康が透を不安にさせている。自分が不安を感じているように、透も同じ事を考えている。
「友野は?」
 透が隆夫の顔をのぞき込むように聞いた。「何?」
「変わったことはない?」
「僕?」
 変わったところ? 変わった所だらけだ。
 透と同じだ。発疹が消え、ジンマシンは出ない。目眩もない。食欲もある。健康だ。
「僕も」と言いかけて、隆夫は止めた。
 肘の赤い染み、古い友だちは、明日には復活しているかもしれない。
「別に」と隆夫は嘘をついた。
「そう」
 透は少しがっかりしたように俯いた。
 隆夫は歩き出した。少し遅れて透も歩き出した。言葉はなかった。
 交差点を渡り、焼肉屋を過ぎ、病院の前についた。
 隆夫は、右手を軽く上げ、
「それじゃ」と言った。
「うん」
 透はうなずいたが、なかなか立ち去ろうとはしなかった。
「気にしない方がいいよ」
 隆夫は透に声をかけた。
 透が隆夫の顔を見ていた。頼むから言ってくれよ、本当のことを、誰にも言わないから。懇願するような目だった。
 一秒、二秒、三秒。
「実は……」
 隆夫は黙っていられなくて、口を開いた。
「僕もなんだ」
「そう」
 透の顔がほっとしたように緩んだ。
「じゃあ、明日」
 透はポケットから手を出し、軽く振った。
「ああ」
 明日だ。不安は明日、二人でゆっくり話し合おう。
 透は、来た道をまた戻っていった。隆夫は透の背中が建物の角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。
 右肘を確かめる。赤い染みは完全に消えていた。拳を握りしめると、以前よりも力が入る気がする。きっと、握力を計れば数値が上がっているに違いない。透が言ったように、走っても息が切れないだろう。十メーターも走れなかった自分の体が嘘のようだ。
 二週間前と比べれば、通信販売の誇大広告を見るように、体が変わってしまっている。 消えた赤い染み、力強い心臓、机の引き出しに仕舞われた眼鏡。いったいどこまで、自分の体は健康になってしまうのだろう。考え出すと不安が顔をのぞかせる。自分の体が勝手に変わろうとしている。
 健康になるならいいじゃないか。強くなるならいいじゃないか。その通りだ。健康で悪いわけがない。しかし……そう簡単には割り切れない。
 健全な精神は健全な肉体に宿る。隆夫が一番嫌いな言葉だった。健全な肉体を持たない人間は不健全な精神しか持てないとでも言うのだろうか。逆に、健全な肉体を持てば、精神は健全になるのだろうか。健全な肉体を持った兵士は、健全な精神で躊躇なく引き金を引いているのか。
 とは言え、どちらにしても心が体の影響を受けないことはないのだろう。健康になると、心はどうなってしまうのだろう。決して嫌いじゃない自分の心は体と共に変わってしまうのか。変わるとしたら、どう変わってしまうのか。体は軽かったが、心は体ほど軽くなかった。
 しかし、ともかく、今は叔父だった。
 隆夫は病院のドアに向かって歩いて行った。自動ドアが開き、隆夫は病院の中に入っていった。
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