ガラス越しの淡いユキ

不来方しい

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第一章 彼と僕の距離

009 初デートに襲いかかるもの

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「っ…………」
 「ひ」だか「い」だか、日本語にしづらい音を放ち、講義中の視線を集めてしまった。こんな大人気にはなるつもりはなかった。篠田教授の笑顔が眩しい。どことなくユキさんに似た、有無を言わせない微笑である。
「な、なんでもないです……」
 たしなめるような笑顔に、ぺこぺこと頭を下げ、僕はノートに頭を寄せた。
 設定を昨日のままにしていた端末はポケットの中でブルブル震えた。こっそり画面を見ると、恐れ多い神様の名前が書かれている。むしろ叫ばなかっただけ、よくやったと思う。
 心の中を見透かしたような顔の篠田教授は、僕が講義室から出るときも頬が緩んだままだった。
 生徒もいるが、却って目立たないと思い、中庭に移動した。かけ直すまでの十分間、意味もなくうろうろしたり、ベンチに腰掛けてみたりしていると、見知らぬ教授と目が合った。不審者と思われる前に、ようやくかける決心がついた。
「も、もしもし……」
『晴弥君?元気してた?』
「とても元気です……」
『電話大丈夫? 今は大学休みだよね?』
「夏期講習に参加していて、大学にいます。終わったところなんです」
 電話越しでも良い声で滑舌が良い。当たり前なことでも、新種の生物を発見並に重大だ。
『え?』
 心底驚いた声だ。何に対してだろうか。
『身体の調子は? もう大丈夫なの?』
「首にはまだ包帯巻いてますが、ほとんど平気です。ご飯も食べてますし、ちゃんと紅茶以外も飲んでます」
『ほとんど、ねえ……』
 それっきり、ユキさんは黙ってしまった。何か話さなければならなくて、唸って嘆言葉を用いても、次に続く言葉が出てこない。沈黙が心地良いと思えるほど、彼との間にはゆったり流れる川がある。
『晴弥君って、ハーブティーは飲める?』
「あまり飲んだことはないです」
『体調がよければ、一緒に買いに行かない?』
 二度目の沈黙だ。さっきよりも重苦しくなくて、飛んでいってしまいそうなふわふわ感がある。すぐに返事をしたいのに、この幸福感をもう少し味わっていたい。
「…………ぜひ」
 ユキさんが主体となって日にちや時間帯を決めてくれ、電話を切った。うろうろしていた時間と同じ十分で、姉とすらこんなに長く電話したことはなかった。最高記録だ。
 足下がふらつき、倒れそうになり室内に移動した。太陽の命を削る痛々しい熱のせいか興奮しすぎたせいか、体力があきらかに低下している。中の自動販売機で飲み物を買おうとし、指先が紅茶に向かおうとし、スルーして隣のミネラルウォーターのボタンを押した。
「どうしよう……」
 考える人のポーズのように下を向き、ボタンを押したまま固まる。デートと呼んでもいいのだろうか。その場合、着ていく服は? 鞄は? どのくらいお金を持てばいい?
 困ったときは、頼れる姉貴だ。
──デートって、何を着ていけばいいの?
──いつものじゃダメなの? ってか相手誰よ。
 返信の早さに何か書こうとしたら、今日は休み、と続けて返信が来た。
──ちょっと気になっている人。
──暑いからジーンズにTシャツでいいと思うよ。背伸びはするな。
 背伸びはするな。ぐっさりと心に突き刺さった。今の僕、そのまんまだ。
 姉にお礼のスタンプを送信し、僕は家に戻った。
 タンスの中には、まだ一度しか着ていない空色のシャツがある。着てみると、買ったときより少し大きくなった気がする。僕が小さくなったんじゃない。シャツが伸びたんだ。
 デートとただの買い物の違いはなんだろうか。ユキさんは何を思い、連絡をくれたんだろうか。
 あり得るとすれば、僕は怪我をしてしまった立場の人間であって、彼は責任を感じている。もういいんじゃないかというほど、心配の言葉をたくさん頂いた。僕のできることは、ユキさんの背負っている荷物を下ろしてやることだけだ。さみしくても、しなけれはならない義務がある。
 明日に向けて、デートの三文字は消そうと、鏡の前で包帯と湿布を外した。痛みはほとんどない。あるとすれば、掴まれた胸倉に残る違和感が消えないことだ。残らないといい。祈るしかない。
 どれだけ祈ろうとも、ユキさんは僕の心中なんて簡単に吹っ飛ばす、意外と一徹な性格の持ち主だった。
「晴れて良かった。昨日洗車してきたばかりだからさ」
「き、綺麗です……」
「本当?」
「ユキさんの笑顔が……きれい。眩しくて見られない」
「あはは、ありがと」
 車の中は冷房が利いていて、一気に汗が引いていく。朝にシャワーをしたばかりだというのに、無駄になってしまった。ドリンクホルダーには、細かな水滴がつきかけのペットボトルがそれぞれある。紅茶ではなく、水。透明度の高い液体には、いろんな愛がつまっている気がした。
「向かう先は植物園なんだけどね、隣接しているハーブ園に用があって。そこのハーブ園にしか行けないんだ」
「どうしてですか?」
「猫ってハーブが苦手で、きつい匂いをまとわせて帰るわけにはいかないんだ。そこは全部袋に入った状態で販売しているから」
 助手席からのユキさんは、穏やかで隣からラジオが流れているんじゃないかと錯覚する。そして眠くなる。
 信号が変わり、動き出すと一定のリズムで揺れる。
「眠い? ちゃんと寝てる?」
「ユキさんこそ、いつも眠い中、はきはきとした声で色っぽくて明瞭で、……僕何言ってるんだろ」
「はいはい。着いたら起こしますよ」
「ユキさんの声聞いていたい」
「なら歌でも歌おうか?」
 流れるのはイギリスの有名なバントの曲だ。ラジオでは歌ったことがない歌声を、僕は今、独り占めしているんだ。独占禁止法で訴えられたりしないだろうか。
 ついにうとうとし、目を完全に閉じてしまった。起きたときは右腕を揺さぶられて、横にはにっこり笑うユキさんの顔。右手はもう洗えないかもしれない。
 車から出るとき、ちょうど太陽が波雲に隠れて、直射日光は避けられた。ユキさんも同じことを考えていて、僕も速歩に合わせた。チケットは当然のように彼が払ってくれ、新宿にいる鳩のように何度も頭を下げた。
「この中も暑いはずなのに、外の気温のせいか少し涼しく感じます」
「だね。蒸しパンみたいになるかと思ったのに」
「蒸しパン」
「蒸しパン」
「あんまんが好きです」
「あ、分かる」
 力強いお言葉だ。
「ちなみに、あんこはどっち派?」
「……その、非常に言いづらいんですが、どちら派でもないんです。むしろこしあんと粒あんに、なぜ白あんを入れてくれないのかが問題です。僕は、すべてを愛してます」
「……分かる」
 力強さがさらに増した。分かる。
「意地悪な質問だったけど、全部を愛してこそだと思うんだよ。白あん食べたくなってきた」
「なかなかないですよね。たい焼きにも入れてくれたらいいのに」
 本来日本にはない植物がここにはある。待ち一点で虫を待ち続ける植物たちは、子供だけでなく大人の視線も根こそぎ奪っている。
「違うものを持った生き物って、やっぱり視線を集めやすいんですね。それが良い意味でも、悪い意味でも」
 子供は食虫植物を見て、気持ち悪いと連呼している。自分が言われているわけじゃない、と思い込もうと深く息を吐いた。
「そうだね。大人になって、ある程度人との距離感が分かると、付き合い方も理解できるようになる。大人だから言葉を選べるようになるだけ。子供はそれが分からず、口にする」
「子供は残酷ですね……ほんとに」
「口にしないだけで、大人も残酷な一面を持っているよ」
 ユキさんもだいぶ目立っている。見た目のかっこよさで女性が一瞥するけれど、それよりも声だ。通る声は端にいても聞こえるし、小声で話しても明瞭で目立つ。隣に立つ僕は、なんと思われているだろうか。
「これ、虫が入っているね」
 僕の身長では届かない食虫植物を指さし、ユキさんは中を覗いた。
「見えない……」
「おいで」
 ユキさんは僕の手を取ってから数秒とかからなかった。ユキさんの香りが感じたと思ったら、重力に逆らい足が浮いた。顔がユキさんよりも上にある。髪の毛から良い匂いがする。
「見える?」
「見えない……むり」
「もっと上?」
「だ、大丈夫です……見ます」
 蓋の開いた口を一瞬覗き、黒い物体を確認した後、僕はユキさんの頭にしがみついた。高いところが怖いわけじゃない。
「満足した?」
「……ものすごく、しました」
「よしよし」
 食虫植物よりも、僕は見せ物のように注目を浴びてしまっている。子供は残酷だ。無遠慮に見つめる視線に、食虫植物はよくぞ今まで耐え続けてきたなと思う。いるべき場所は日本ではないのに、必要な日光と水を与えられ生かされ続ける存在。そしてここにいる僕も、同等の罪深さがあるのかもしれない。
 頭を撫でてくる手は、僕を生かしてくれる水のようなもの。この人がいない世界では、僕は生きていけない。
「暑いから隣に移動しない?お腹空いてきた」
「ハーブショップで?」
「カフェも隣接してるからね」
 植物園を出るとき、僕たち──正確にはユキさん──を見ていた女性二人は、遠慮がちに近寄ってきた。
「すみません、DJのユキさんですよね?」
「はい」
「渋谷の収録に観に行ったんです」
「どうもありがとうございます。ナオキ君目当て?」
「実は……はい。でもそれからユキさんのラジオを聴くようになりました」
 丁寧なお辞儀と握手。ユキさんの人柄がよく出る仕草だ。僕は失礼のないように、話が聞こえない場所まで移動すると、待っている間に鮮やかな蝶を眺めた。夏におびただしく動き回る黒光りは好きでなくても、美しい蝶は美しいと素直に思える。輝きを放つ宝石と常に人生を共にしている姉さんはが言うのには「虫は悪」らしい。それがどんなに美しい生き物であっても。黒光りする生き物や蝶であっても、虫は虫。あのときの姉さんの顔はアメリカンホラー映画の殺人鬼を見たときと同じ顔をしていた。
「何笑っているの?」
「もう大丈夫ですか?」
 ユキさんは、ちょっと複雑に、愛想を浮かべた。
「気を使われました」
「いえいえ……お気になさらず」
 日本人特有の遠慮の仕方でコミュニケーションを取った後は、ふたり並んで今度こそ外に出た。
 昼の混み合う時間帯が過ぎているせいか、それほど混み合ってはいない。ぽつぽつと家族連れと、男女のカップル。目を伏せたくなる光景でも、今はそれほど怖くない。
「さっきの女性二人だけど、」
「はい」
「晴弥君を見て、ご兄弟ですか、だってさ」
「ええ? それでユキさんは?」
「はいそうですって、堂々と答えた」
 運ばれたレモン水を吹き出しそうになった。ここのカフェでは水ではなく、氷の入ったレモン水を出してくれる。浮かぶレモンの切り身が涼しげで良い。冬は何を出すのだろう。柚子かもしれない。
「あ、やっぱり? 似てますね! だって」
 なんだそれは。どこをどう見ても似ていない。こんなきれいな顔立ちをした人はそれほど多く存在しているとは思えない。
「ですよね、よく言われますって返しておいたよ」
「なんてことを」
「案外、人って人を見ていないんだね」
 僕は顔を上げ、気遣い屋の彼を眺めた。のほほんとした顔で何を食べようかとメニュー表を覗き込む顔は車を運転するときと変わらない。
 こういう場合の対処法を、僕は知らない。狭い大学の中で決まった人と会話をしている僕と、幅広い世界で砂利道や窪んだ道を歩く彼とでは、うまく会話も渡り歩ける気がしない。
 きっと僕の次に発する言葉も、いとも簡単に拾ってくれる。
「僕と兄弟って、気持ち悪くないですか」
「どうして? 嬉しいよ。そしたら毎日だっこしてあげる」
 幸せの沸点を軽く超えてしまい、メニュー表を見せられても指をさした先もユキさんが注文する声も、何が何だかついていけない。覚えていない。テーブルに置かれたのは、ユキさんはトマトとハーブの冷製パスタ、僕はハーブのドリアだ。そういえば、注文するときに「暑くない?」と聞かれた気がする。さすがに口の中に入れたら、火傷するくらいに熱かった。
 帰りは土産コーナーに寄り、ユキさんはこれでもかというほどビニールの袋いっぱいにハーブティーやクッキーを買った。卑しい目をしていたのか、僕の分まである。
「本当にそれだけ? 足りなくない?」
「僕と母さんしか食べないんですよ。お菓子ダメっていう謎のルールがあるので」
「こっそり二人で食べるわけだ」
「勝手に決められたルールに従うつもりもないんですけど、ちょっとこう、痛くなるんです」
 僕は胸をさすった。これっぽっちも、罪悪感がないわけではない。
「なぜ駄目なのか、聞いた?」
「……それは、ないです。きっと理由なんてない。僕を苦しめたいだけです」
「聞いてごらんよ。もしかしたら、解決できる方法があるのかもしれないよ」
「お菓子が禁止なことがつらいわけじゃないんです。うまく言えないけど」
「身勝手な独自のルールを決めつけられて、意見を押しつけられてしまえば大人だって息苦しくなる。濁った空気の中は、誰だって生き辛い。晴弥君、勇気を出してごらん。大丈夫だから。もし、駄目だったら、いつでも連絡をどうぞ」
 ユキさんがスマホを振ると、一緒に猫のストラップも揺れる。ずっとつけているものらしく、ベンガル猫の身体は一部剥がれ、白猫と化している。
 帰りはしとしとした雨が降ってきた。夏から秋にかけてははっきりとしない天気が多い。気分もしっとりとしてきて、会話のない空気感を楽しんだ。
「また……僕と会ってくれる?」
 帰り際、玄関を目前に、ユキさんは袖を掴んできた。俺じゃない、僕。天気と同じような寂しさを僕に降らし、ユキさんがユキさんでないような気がして、僕は首を縦に振った。
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