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12-真夏の事件簿
063 豪華客船
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美術鑑定士である早見和成は、鑑定の仕事を終え一段落息をつき、顧客からの頂き物である菓子箱を開けた。餡のつまった最中は銀座の有名店のものだ。早見は有り難く頂戴する。
外でバイクが一台止まった。客かと腰を上げるが、郵便局員だった。早見を見つけると頭を下げ、サインがほしいと訴える。
男が去った後、早見は茶封筒の差出人を確認し、顔をしかめた。
「柴田朝次郎か……」
美術鑑定士の集まりで、何度か彼と会った経験があった。若い男子を好む柴田はゴールデンウィーク中も問題を起こしたと、風の噂で早見の耳にも入っていた。彼ほどの男ならば、マスコミに漏れてももみ消せるほど力がある。
「早見さん」
顔を上げると、珍しい人物がいた。絶世の美男子とでも言うべきか、イタリア出身の美術鑑定士である。名前と出身地以外は謎に包まれた男だが、早見は出身地すら偽りであると知らない。
「随分久しいですね」
「ええ。やはりあなたのところにも届いたのですね」
狙ったかのようなタイミングのようだ。
「お時間があるのなら上がりますか?最中を頂いたんです」
「お言葉に甘えます。早見さんに、お話があり参りました」
年齢は聞いたことはないが、十歳以上は離れているたろうと早見は予想する。日本語は日本人より堪能だ。
温めの緑茶と最中で一息つき、早見は本題を切り出した。
「先ほどの話ですが、ご用件を伺いましょう」
「確認ですが、茶封筒は柴田氏からでよろしいですね?」
「はい。柴田朝次郎からのものです」
「逃げ場のない旅になりますね」
何か含みのある言い方だった。
「まだ詳しく見ておりませんが、美術鑑定士同士が集まり、親睦を深める交流会と書かれていました。それと切符が一枚」
「私への封筒には、二枚です」
「二枚?」
訝しみながら師匠の分かと尋ねれば、イタリア人気取りの男は違うと切り替えした。
「早見さん、あなたに頼みがあるのです」
妖艶な笑みで艶やかな唇が開くと、早見は声が上擦った。
太陽がアスファルトに惜しげもなく熱を与えているが、今宵は雲に隠れ、豪雨になると携帯端末のニュースが伝えている。風で枝が揺れるたび、止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
信号が赤になり、車が止まった。悠はふとほとりにある池に目を向けた。池には蓮のように葉が水面を覆っている。浅沙は黄色の小さな花が咲き、天候が晴れだと意味していた。これらの花は雨の日は咲かない。
「どうしました?」
車体の揺れにおとなしくなっていたルカは、外を見つめる悠に声をかけた。少し声が掠れている。
「浅沙が咲いてるんです」
「あの黄色の花ですか?」
「はい」
ルカは悠に覆い被さり、顔を並べて池を眺めた。
「絶滅危惧種に指定されている花なんですよ」
「そうだったのですか。珍しいものを見ました」
やがて信号も青に変わり、ルカも元の位置に戻った。
「もう少しで着きますよ」
柴田朝次郎の従者が、のんびりと口を開いた。リムジンにはルカや悠のほか、美術鑑定士が数名乗っている。久しぶりの再会にワインを飲みながら談笑する者や、一人で雑誌を読む者、ルカのように距離を置く者など様々だ。
「可愛い坊やね」
宝石で散りばめた指は怪しく光り、本物の輝きを示していた。
「年はいくつ?」
「二十と……少し」
「それなら私と二十近く差がありそうね」
「そうですか」
「ワインは飲める?」
「お酒はあまり」
ルカと何度か酌み交わしているが、飲めるとは言わなかった。
「無理矢理飲ませるわけにはいかないものね」
「景森悠といいます」
「朝倉コウよ。主に装飾品の鑑定が得意なの。お兄さんは随分と花に詳しいようだけど」
「本で得た知識です」
「まあ、それはすごい。私はてんでダメよ。花だの木だの。花言葉は一つも知りやしないわ」
真っ赤なルージュを付けた唇がよく動く。悠には見覚えがあった。バラエティー番組で、たまに見かける美術鑑定士だ。間近で見ると妖艶な雰囲気があり、画面越しとはまるで異なる印象を受けた。
「あ」
「どうしました?」
「ルカさんってカサブランカみたいですね。花言葉は壮大な美しさって意味です。しっくりきた。納得」
「ちよっとルカ、何なのこの子」
噴火まではいかなくとも、眉間に皺を寄せた朝倉はヒステリックな声を上げた。テレビでよく見る姿だ。
「悪気はないのです」
ルカは喉の奥で笑っている。
「いつもこうなの?」
「たまに」
「何か、気に障りましたか?」
「別に。ああもう、なんでもないわ」
朝倉はもう一度なんでもないと言い、ワインボトルを傾けた。悠は目の前の女性ではなく、横で目を閉じるルカを眺めた。
交通量の多い都会から離れた楽園は趣がある。悠は田舎を思い出し、そわそわと落ち着かない気持ちになった。小千鳥が川の畔で何か口に加えていて、やがて嘴の奥に吸い込まれていった。
「本当に柴田も来るんだろうなあ」
村田茶一と妻の美代子は寄り添いながら、従者の春日に声を掛けた。
「ええ、朝次郎様はすでにスイートルームでお待ちしていますよ」
「けっ。自分だけかよ」
「皆様はスイートとまではいきませんが、充分すぎるほど広く、バスタブ付きでとても心地良い空間ですよ」
船は柴田が一からデザインしたもので、今回のクルーズツアーも柴田が企画を立てたものだ。仕事の繋がりがあり、ふたりだけではなく数人の美術鑑定士が招待された。
高級ホテルと勘違いするほど、世間から隔離された一室だった。ほのかに香る海特有の匂いは、ここは陸地ではないと認識させる。窓から見える景色は瞬きをするたびに景色が変わっていく。
「美術鑑定士に留まらず、いろんな仕事をしているんですね」
「悠は船旅は初めてでしたね」
「はい。おじいちゃんとおばあちゃんは海外で経験があって、よく話は聞いてました」
「不本意ですが、今日の夕食だけは柴田氏と取る手筈になっています。あとは自由です。無料チケットですから、楽しみましょう」
「楽しむって顔じゃないですよ」
「柴田氏の目的がはっきりするまでは油断できません。私の側から離れないように。決して離れないように」
「判りました。でも一緒に探検はしたいです」
「映画館やジムなども完備されています。ひと通り回るのも良い経験でしょう」
悠はバルコニーへ出て、海を眺めた。水面は見える範囲全てに広がっていて、水鳥が魚を求めて下降していく。見事に嘴で加え、魚の鱗はギラギラと照り輝いている。
「飛んでいるのはウミネコですね」
「カモメと違うのですか?」
「ウミネコは嘴が赤いんです。カモメは渡り鳥で、冬にやってくるんです」
飛び交うウミネコたちは魚の群れを発見したためか、一定の位置に集まっていた。
「本や映画でありましたよね?こういうの」
悠は手すりから手を離し、両手を広げた。ルカは後ろから悠のベルトを掴み、落ちないよう支えた。
「歌でも歌うべきですか?」
「それいいですね。ルカさんの歌声好きですし。やっぱりお母さんから学んだんですか?」
「ええ。母がピアノを弾き、私は横で歌を歌う。母はとても喜んでくれました。幸せだった」
「ルカさんのお母さんにぜひ会わせて下さいね」
「……近いうち、必ず」
口を開けた波が船を巻き込み、小さいながらも飲み込もうと攻撃的に襲ってくる。今回の船旅に不安を抱えるルカの顔は、歪んでいた。
「君も来てくれたんだね。嬉しいよ、悠」
「はあ、どうも」
「ゴールデンウィーク以来だね。この船は気に入ってくれたかな?本当は同じ部屋がいいかと思ったんだが、一緒では緊張してしまうだろう?けれど数日間は一緒なんだ。またこうして夕食を共にしようではないか」
「はあ」
適当にあしらえ、質問はするな、名前を呼ぶなと柴田対策を口酸っぱく教えられた悠は、はあ、と返すだけに留めた。柔らかなチキンステーキにナイフを入れると簡単に裂け、マッシュドポテトをチキンに乗せた。
「それで、今日私たちを集めたのには理由があるんでしょ?」
朝倉コウはすでに二杯目のワインに入っている。
「ああ、あるとも。スペインの蚤の市は知っているかね?」
その場にいた全員が頷いた。ただし悠を除いてだ。
「悠のためにも説明しよう。スペインはアンティークの宝庫で、一般人も購入出来るように蚤の市が開かれるほどだ。そこで、今年は大々的にオークションが開催される」
「ああ……そういやそうだったな」
村田茶一は興味なさげに呟いた。プライドの高そうな物言いは顔付きに表れていて、リムジンの中でも何かとルカに突っかかっていた。原因は妻の美代子である。ルカに好意を寄せる素振りを見せたために、茶一の態度は徐々に悪化していった。
「皆も欲しいものはあるだろう。そこで、共同戦線を張ろうかと考えている」
「この方々とですか?」
新井雄一はうんざりと、ワインを煽る。彼はこれで五杯目だ。
「共同戦線とは?」
早見和成は意見をまずは聞こうと、グラスを置いた。
「欲しい商品をそれぞれ言い合い、他の奴らに買い占めをさせないようにするんだ」
「つまり?」
「特殊なやり方で行うオークションでな、札を掲げるのは一人三回までと決められている」
「なるほど。限界まで出せる金額がお互いに分かれば、手に入る確率も高くなるってわけだ」
「やり方には賛成。けれどメンバーは納得できねえな。ろくに骨董品を判らんような子供は勘弁だ」
茶一は悠を見ては鼻で笑った。歓迎されていないと察し、恥ずかしくなった悠はそっとフォークを置く。
「同意見です。私もメンバーには賛成致しかねます。懐に入る人数は決まっておりますので、残念ながらその他を入れる余裕はございません。ほぼ初めてお会いする方と組むより、部下と組む方が兎の登り坂だと思いませんか?」
「ルカ、良いこと言うじゃない。私も慣れているメンバーの方がいいわ」
「君たちはどうかね?」
朝次郎は他の者に目を向けた。
「まあ……別に俺は組んでもいいぜ。欲しいブツもあるしよ」
茶一が肯定すると、妻の美代子も頷いた。
「自分は遠慮しておきます。店もほとんど一人で切り盛りしていますし、一人の方がやりやすい」
共同戦線を張るのは柴田朝次郎、村田夫妻、新井雄一だ。元々全員入ると予想していたわけではなく、朝次郎は妥当な人数だと満足げに頷いた。早見は丁重にお断りした。
デザートのティラミスは、瞬時に平らげたルカにお裾分けをする。
「ルカさんって甘味専用胃袋がありますよね」
「実は、私自身もそのように感じていました。ではそろそろ戻りましょうか」
「そちらのミスター・フロリーディアは寝るようだし、悠は我々とビリヤードでもどうかね?」
「遠慮します。ごちそうさまでした」
逃げるように立ち去り、ふたりは探索も兼ねて屋上へ上がった。悠は小声でありがとうと呟くが、波や風の音に消されてか、ルカは何の態度も示さなかった。期待に応えるためには、まずアンティークを学ばなければならない。頬を両手で揉み解すと、ルカは小さく笑った。
屋上はプールであり、回りは多数のベンチがある。クルーはトレーを持ち、飲み物を勧めながら動き回っていた。
ビリヤード場やスポーツジムなども完備されている。大きなホールでは、昼間はコンサート、夜はダンスパーティーが開かれる。
「ルカさん大変です」
「どうしました?」
「この船、図書館があるみたいです」
「ならば、行きましょうか?」
「はい」
デッキを降り、クルーに場所を聞いて図書館へ向かった。人はまばらで、部屋以外で落ち着ける場所だ。日本語の本だけではなく、洋書も多く並んでいる。
「何か借りていきますか?」
「ちょっと見たかっただけです。きっと全部読むまで止まらなくなります」
「私も少々見たいので、こちらで過ごしましょうか」
それなりの広さを誇る図書館内で一旦別れ、手一杯広げても掴めないほど大きな本棚を前に、悠は視線を巡らせた。すでに読破した本もある。
本棚の裏でことんと床に何かが落ちた音が鳴り、悠は顔を上げた。相手は気づいていない。しゃがんでも角にいる人は気にする素振りを見せず、本を手にしている。利き手で掴むと手を差し出した。
「これ、落としましたよ」
受け取るというより、その人物は素早く悠の手からむしり取った。顔は本棚の死角になっていて見えない。しかもフードを被っていた。身体のサイズに合っていないパーカーに、白い手袋をした手。男か女かも判らない風貌の人物は、足早に図書館から出ていってしまった。
ふたりは早々と客室に戻った。悠は探検がてらトイレや風呂のドアを開け、感嘆の息を漏らす。中でも目に付くのは骨董品の数々だ。柴田朝次郎が厳選したもので、趣味の良さと悪さを兼ね揃えた男である。
「このアンティークはいつのものですか?」
悠は横に広いチェストを指差した。
「一九三〇年代のものですね。材質はマホガニー。英国のアンティークになります」
「SHIRAYUKIでも扱っていますよね。気になってたんです。あんまり中に入らなそうだけど、部屋に置いたらレトロで映えそう。マホガニーってなんですか?」
「赤茶色が特徴の高級木材で、豪華客船や楽器などに使用されてきましたが、今は取引自体難航です。マホガニーを使用した家具は、アンティークでしかほぼ手に入りません。どうしました?」
アンティークを語るルカに、悠は見守るような視線を向けていた。
「何でもないです。ルカさんのアンティークを語るうんちくは素晴らしいと思ってただけです。僕はアンティークも好きですけど、うんちくを語るルカさんはもっと好きです」
ルカは沈黙という返事を残し、鞄を持ったままバスルームへ直行した。
外でバイクが一台止まった。客かと腰を上げるが、郵便局員だった。早見を見つけると頭を下げ、サインがほしいと訴える。
男が去った後、早見は茶封筒の差出人を確認し、顔をしかめた。
「柴田朝次郎か……」
美術鑑定士の集まりで、何度か彼と会った経験があった。若い男子を好む柴田はゴールデンウィーク中も問題を起こしたと、風の噂で早見の耳にも入っていた。彼ほどの男ならば、マスコミに漏れてももみ消せるほど力がある。
「早見さん」
顔を上げると、珍しい人物がいた。絶世の美男子とでも言うべきか、イタリア出身の美術鑑定士である。名前と出身地以外は謎に包まれた男だが、早見は出身地すら偽りであると知らない。
「随分久しいですね」
「ええ。やはりあなたのところにも届いたのですね」
狙ったかのようなタイミングのようだ。
「お時間があるのなら上がりますか?最中を頂いたんです」
「お言葉に甘えます。早見さんに、お話があり参りました」
年齢は聞いたことはないが、十歳以上は離れているたろうと早見は予想する。日本語は日本人より堪能だ。
温めの緑茶と最中で一息つき、早見は本題を切り出した。
「先ほどの話ですが、ご用件を伺いましょう」
「確認ですが、茶封筒は柴田氏からでよろしいですね?」
「はい。柴田朝次郎からのものです」
「逃げ場のない旅になりますね」
何か含みのある言い方だった。
「まだ詳しく見ておりませんが、美術鑑定士同士が集まり、親睦を深める交流会と書かれていました。それと切符が一枚」
「私への封筒には、二枚です」
「二枚?」
訝しみながら師匠の分かと尋ねれば、イタリア人気取りの男は違うと切り替えした。
「早見さん、あなたに頼みがあるのです」
妖艶な笑みで艶やかな唇が開くと、早見は声が上擦った。
太陽がアスファルトに惜しげもなく熱を与えているが、今宵は雲に隠れ、豪雨になると携帯端末のニュースが伝えている。風で枝が揺れるたび、止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
信号が赤になり、車が止まった。悠はふとほとりにある池に目を向けた。池には蓮のように葉が水面を覆っている。浅沙は黄色の小さな花が咲き、天候が晴れだと意味していた。これらの花は雨の日は咲かない。
「どうしました?」
車体の揺れにおとなしくなっていたルカは、外を見つめる悠に声をかけた。少し声が掠れている。
「浅沙が咲いてるんです」
「あの黄色の花ですか?」
「はい」
ルカは悠に覆い被さり、顔を並べて池を眺めた。
「絶滅危惧種に指定されている花なんですよ」
「そうだったのですか。珍しいものを見ました」
やがて信号も青に変わり、ルカも元の位置に戻った。
「もう少しで着きますよ」
柴田朝次郎の従者が、のんびりと口を開いた。リムジンにはルカや悠のほか、美術鑑定士が数名乗っている。久しぶりの再会にワインを飲みながら談笑する者や、一人で雑誌を読む者、ルカのように距離を置く者など様々だ。
「可愛い坊やね」
宝石で散りばめた指は怪しく光り、本物の輝きを示していた。
「年はいくつ?」
「二十と……少し」
「それなら私と二十近く差がありそうね」
「そうですか」
「ワインは飲める?」
「お酒はあまり」
ルカと何度か酌み交わしているが、飲めるとは言わなかった。
「無理矢理飲ませるわけにはいかないものね」
「景森悠といいます」
「朝倉コウよ。主に装飾品の鑑定が得意なの。お兄さんは随分と花に詳しいようだけど」
「本で得た知識です」
「まあ、それはすごい。私はてんでダメよ。花だの木だの。花言葉は一つも知りやしないわ」
真っ赤なルージュを付けた唇がよく動く。悠には見覚えがあった。バラエティー番組で、たまに見かける美術鑑定士だ。間近で見ると妖艶な雰囲気があり、画面越しとはまるで異なる印象を受けた。
「あ」
「どうしました?」
「ルカさんってカサブランカみたいですね。花言葉は壮大な美しさって意味です。しっくりきた。納得」
「ちよっとルカ、何なのこの子」
噴火まではいかなくとも、眉間に皺を寄せた朝倉はヒステリックな声を上げた。テレビでよく見る姿だ。
「悪気はないのです」
ルカは喉の奥で笑っている。
「いつもこうなの?」
「たまに」
「何か、気に障りましたか?」
「別に。ああもう、なんでもないわ」
朝倉はもう一度なんでもないと言い、ワインボトルを傾けた。悠は目の前の女性ではなく、横で目を閉じるルカを眺めた。
交通量の多い都会から離れた楽園は趣がある。悠は田舎を思い出し、そわそわと落ち着かない気持ちになった。小千鳥が川の畔で何か口に加えていて、やがて嘴の奥に吸い込まれていった。
「本当に柴田も来るんだろうなあ」
村田茶一と妻の美代子は寄り添いながら、従者の春日に声を掛けた。
「ええ、朝次郎様はすでにスイートルームでお待ちしていますよ」
「けっ。自分だけかよ」
「皆様はスイートとまではいきませんが、充分すぎるほど広く、バスタブ付きでとても心地良い空間ですよ」
船は柴田が一からデザインしたもので、今回のクルーズツアーも柴田が企画を立てたものだ。仕事の繋がりがあり、ふたりだけではなく数人の美術鑑定士が招待された。
高級ホテルと勘違いするほど、世間から隔離された一室だった。ほのかに香る海特有の匂いは、ここは陸地ではないと認識させる。窓から見える景色は瞬きをするたびに景色が変わっていく。
「美術鑑定士に留まらず、いろんな仕事をしているんですね」
「悠は船旅は初めてでしたね」
「はい。おじいちゃんとおばあちゃんは海外で経験があって、よく話は聞いてました」
「不本意ですが、今日の夕食だけは柴田氏と取る手筈になっています。あとは自由です。無料チケットですから、楽しみましょう」
「楽しむって顔じゃないですよ」
「柴田氏の目的がはっきりするまでは油断できません。私の側から離れないように。決して離れないように」
「判りました。でも一緒に探検はしたいです」
「映画館やジムなども完備されています。ひと通り回るのも良い経験でしょう」
悠はバルコニーへ出て、海を眺めた。水面は見える範囲全てに広がっていて、水鳥が魚を求めて下降していく。見事に嘴で加え、魚の鱗はギラギラと照り輝いている。
「飛んでいるのはウミネコですね」
「カモメと違うのですか?」
「ウミネコは嘴が赤いんです。カモメは渡り鳥で、冬にやってくるんです」
飛び交うウミネコたちは魚の群れを発見したためか、一定の位置に集まっていた。
「本や映画でありましたよね?こういうの」
悠は手すりから手を離し、両手を広げた。ルカは後ろから悠のベルトを掴み、落ちないよう支えた。
「歌でも歌うべきですか?」
「それいいですね。ルカさんの歌声好きですし。やっぱりお母さんから学んだんですか?」
「ええ。母がピアノを弾き、私は横で歌を歌う。母はとても喜んでくれました。幸せだった」
「ルカさんのお母さんにぜひ会わせて下さいね」
「……近いうち、必ず」
口を開けた波が船を巻き込み、小さいながらも飲み込もうと攻撃的に襲ってくる。今回の船旅に不安を抱えるルカの顔は、歪んでいた。
「君も来てくれたんだね。嬉しいよ、悠」
「はあ、どうも」
「ゴールデンウィーク以来だね。この船は気に入ってくれたかな?本当は同じ部屋がいいかと思ったんだが、一緒では緊張してしまうだろう?けれど数日間は一緒なんだ。またこうして夕食を共にしようではないか」
「はあ」
適当にあしらえ、質問はするな、名前を呼ぶなと柴田対策を口酸っぱく教えられた悠は、はあ、と返すだけに留めた。柔らかなチキンステーキにナイフを入れると簡単に裂け、マッシュドポテトをチキンに乗せた。
「それで、今日私たちを集めたのには理由があるんでしょ?」
朝倉コウはすでに二杯目のワインに入っている。
「ああ、あるとも。スペインの蚤の市は知っているかね?」
その場にいた全員が頷いた。ただし悠を除いてだ。
「悠のためにも説明しよう。スペインはアンティークの宝庫で、一般人も購入出来るように蚤の市が開かれるほどだ。そこで、今年は大々的にオークションが開催される」
「ああ……そういやそうだったな」
村田茶一は興味なさげに呟いた。プライドの高そうな物言いは顔付きに表れていて、リムジンの中でも何かとルカに突っかかっていた。原因は妻の美代子である。ルカに好意を寄せる素振りを見せたために、茶一の態度は徐々に悪化していった。
「皆も欲しいものはあるだろう。そこで、共同戦線を張ろうかと考えている」
「この方々とですか?」
新井雄一はうんざりと、ワインを煽る。彼はこれで五杯目だ。
「共同戦線とは?」
早見和成は意見をまずは聞こうと、グラスを置いた。
「欲しい商品をそれぞれ言い合い、他の奴らに買い占めをさせないようにするんだ」
「つまり?」
「特殊なやり方で行うオークションでな、札を掲げるのは一人三回までと決められている」
「なるほど。限界まで出せる金額がお互いに分かれば、手に入る確率も高くなるってわけだ」
「やり方には賛成。けれどメンバーは納得できねえな。ろくに骨董品を判らんような子供は勘弁だ」
茶一は悠を見ては鼻で笑った。歓迎されていないと察し、恥ずかしくなった悠はそっとフォークを置く。
「同意見です。私もメンバーには賛成致しかねます。懐に入る人数は決まっておりますので、残念ながらその他を入れる余裕はございません。ほぼ初めてお会いする方と組むより、部下と組む方が兎の登り坂だと思いませんか?」
「ルカ、良いこと言うじゃない。私も慣れているメンバーの方がいいわ」
「君たちはどうかね?」
朝次郎は他の者に目を向けた。
「まあ……別に俺は組んでもいいぜ。欲しいブツもあるしよ」
茶一が肯定すると、妻の美代子も頷いた。
「自分は遠慮しておきます。店もほとんど一人で切り盛りしていますし、一人の方がやりやすい」
共同戦線を張るのは柴田朝次郎、村田夫妻、新井雄一だ。元々全員入ると予想していたわけではなく、朝次郎は妥当な人数だと満足げに頷いた。早見は丁重にお断りした。
デザートのティラミスは、瞬時に平らげたルカにお裾分けをする。
「ルカさんって甘味専用胃袋がありますよね」
「実は、私自身もそのように感じていました。ではそろそろ戻りましょうか」
「そちらのミスター・フロリーディアは寝るようだし、悠は我々とビリヤードでもどうかね?」
「遠慮します。ごちそうさまでした」
逃げるように立ち去り、ふたりは探索も兼ねて屋上へ上がった。悠は小声でありがとうと呟くが、波や風の音に消されてか、ルカは何の態度も示さなかった。期待に応えるためには、まずアンティークを学ばなければならない。頬を両手で揉み解すと、ルカは小さく笑った。
屋上はプールであり、回りは多数のベンチがある。クルーはトレーを持ち、飲み物を勧めながら動き回っていた。
ビリヤード場やスポーツジムなども完備されている。大きなホールでは、昼間はコンサート、夜はダンスパーティーが開かれる。
「ルカさん大変です」
「どうしました?」
「この船、図書館があるみたいです」
「ならば、行きましょうか?」
「はい」
デッキを降り、クルーに場所を聞いて図書館へ向かった。人はまばらで、部屋以外で落ち着ける場所だ。日本語の本だけではなく、洋書も多く並んでいる。
「何か借りていきますか?」
「ちょっと見たかっただけです。きっと全部読むまで止まらなくなります」
「私も少々見たいので、こちらで過ごしましょうか」
それなりの広さを誇る図書館内で一旦別れ、手一杯広げても掴めないほど大きな本棚を前に、悠は視線を巡らせた。すでに読破した本もある。
本棚の裏でことんと床に何かが落ちた音が鳴り、悠は顔を上げた。相手は気づいていない。しゃがんでも角にいる人は気にする素振りを見せず、本を手にしている。利き手で掴むと手を差し出した。
「これ、落としましたよ」
受け取るというより、その人物は素早く悠の手からむしり取った。顔は本棚の死角になっていて見えない。しかもフードを被っていた。身体のサイズに合っていないパーカーに、白い手袋をした手。男か女かも判らない風貌の人物は、足早に図書館から出ていってしまった。
ふたりは早々と客室に戻った。悠は探検がてらトイレや風呂のドアを開け、感嘆の息を漏らす。中でも目に付くのは骨董品の数々だ。柴田朝次郎が厳選したもので、趣味の良さと悪さを兼ね揃えた男である。
「このアンティークはいつのものですか?」
悠は横に広いチェストを指差した。
「一九三〇年代のものですね。材質はマホガニー。英国のアンティークになります」
「SHIRAYUKIでも扱っていますよね。気になってたんです。あんまり中に入らなそうだけど、部屋に置いたらレトロで映えそう。マホガニーってなんですか?」
「赤茶色が特徴の高級木材で、豪華客船や楽器などに使用されてきましたが、今は取引自体難航です。マホガニーを使用した家具は、アンティークでしかほぼ手に入りません。どうしました?」
アンティークを語るルカに、悠は見守るような視線を向けていた。
「何でもないです。ルカさんのアンティークを語るうんちくは素晴らしいと思ってただけです。僕はアンティークも好きですけど、うんちくを語るルカさんはもっと好きです」
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
水曜の旅人。
太陽クレハ
キャラ文芸
とある高校に旅研究部という部活動が存在していて。
その旅研究部に在籍している花咲桜と大空侑李が旅を通して多くの人々や物事に触れていく物語。
ちなみに男女が同じ部屋で寝たりしますが、そう言うことはないです。
基本的にただ……ただひたすら旅に出かけるだけで、恋愛要素は少なめです。
ちなみにちなみに例ウイルスがない世界線でのお話です。
ちなみにちなみにちなみに表紙イラストはmeitu AIイラストメーカーにて作成。元イラストは私が書いた。
君に★首ったけ!
鯨井イルカ
キャラ文芸
冷蔵庫を開けると現れる「彼女」と、会社員である主人公ハヤカワのほのぼの日常怪奇コメディ
2018.7.6完結いたしました。
お忙しい中、拙作におつき合いいただき、誠にありがとうございました。
2018.10.16ジャンルをキャラ文芸に変更しました
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