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第一章 生徒と教師
03 薫子
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もやもやした目覚めだった。それもこれも担任のせいだと、何も悪くないのに誰かのせいにしなければ気が済まない。
昨日偶然にも会い、教えとなってから知らされた別の顔は、情報量が多すぎた。教師だからこうしなければならないという理想論を押しつけるつもりはない。とやかく言うつもりもない。だからと言って、身近な人が未知の領域から出てきた瞬間を見て、正直なところ冷静にパニックを起こしていた。人生は様々で、大人の世界は未知数すぎる。
着替えを済ませ下に降りて行くと、パンの焼ける良い匂いがする。
「二枚でいいか?」
「ああ」
さすがに朝は親父も静かだ。いつもはあんなに騒がしいのに。
湯気の立つ皿には黄身が二つの目玉焼きと、ソーセージが二本。パンにはバターをつけ、苛立ちを押しつけるかのように大口を開けてかぶりついた。
「今日の帰りも遅くなる」
「奇遇だな。俺も遅くなる。どこに行くんだ?」
「昨日買えなかった見舞いの品。いろいろ見て回って目処がついたから、買ってくる」
「いやあ、悪いなあ」
「思ってないくせに言うなよ。それ取って」
二枚目は蜂蜜をたっぷりかけて味わう。液体は無くなりそうだ。
「薫子さんの母さんが今日退院なんだよ。手伝いに行ってくる。夕飯はなくていい」
「分かった」
片付けを親父に任せ、今日はバスで学校に向かった。生憎の天気だ。雲に覆われ、雨は止む様子はない。
教室には、古賀と数人の男子が何か話をしている。あの顔は、良からぬことを考えている顔だ。
「おはようございます。席について下さい」
昨日の今日で、担任は今までと変わらない装いだ。アルコールは抜けたのか。あまり量は飲んでいなかったのかもしれない。それにしても二面性の変え方がすごいとしか言いようがない。
「今日も出席簿は見ないで言ってくれるんだろうなあ?」
「別に、構わないけど」
「フルネームで言ってみろや。あのときは名字だけだったろ? そんなんで教師とは呼べねえよ」
「分かりました。では、有川省吾さん」
「え? あっはい」
「一ノ瀬雅人さん」
「……はい」
「遠藤修さん」
記憶力が良すぎる。完全に、生徒を黙らす術を持っている。それと同じく、もしかしたら星宮先生は、過去にも似た経験があり、あしらう方法を身につけたのかもしれない。すらすら出る言葉に迷いがないのが不思議だ。
「以上です。本日も全員揃っていますね」
口調は嬉しそうだが、頬の位置はほとんど変わらない。表情筋があまり動かない。昨日の先生の方が感情豊かで、いろいろ話してくれた。俺は……皮肉にも、昨日の先生の方が好きだった。
午後の授業を終えて購買に行き、適当なパンを購入した。昼休みだと人気のパンは品切れになる。あんぱんと焼きそばパンにし、俺はクラブ活動を行ういつもの教室に向かった。合わせたわけじゃないのに、世良と水島が揃っている。
「うす」
「おー、久しぶり」
「後輩を誘ってくれたんだって?」
「感謝しろよ。二人入ってくれるってさ。しかも女子だ」
「入ってくれるんなら性別はどっちでも構わない」
「つれねー」
「あと今日、悪いけどクラブ休むわ」
「奇遇。私も無理」
「久しぶりに顔を出したら休みとか」
俺悲しい、と似合わない泣き真似を披露した。俺も世良も、淡々と昼食を口に運ぶ。いつものことだ。
水島は俺をスイーツというより借金取りが似合うなどと暴言を残してる。俺は忘れない。そういうこいつは茶髪にピアスなど、違法行為を繰り返している男だ。あえて言うが、風貌についてはこいつには一番言われたくない。
「せっかくだから、次に作るお菓子について話し合う?」
「いいな、それ」
「簡単なものにしてくれよ。お前らと違って、俺は全然作れねえんだから」
「簡単、ねえ……。簡単な和菓子でおすすめある?」
「あるっちゃ、ある」
薫子さんの店のショーケースを思い浮かべた。
「どら焼きとか、ようかんとかはなしな」
「経験のない高校生が簡単に作れねえよ。琥珀糖は作れるかも」
「琥珀糖……聞いたことはあるわ」
世良は携帯端末で検索をかけた。
「食べる宝石! これ知ってる。寒天のお菓子だよね? SNSで乗せてる人多いもん」
「寒天と砂糖と水。色をつけたい場合は着色料を入れればいい」
「材料費もかからなそうね。放課後、買い物ついでに私、買っておくよ」
「頼んだ」
放課後になっても雨は上がらない。むしろ灰の雲が黒に近くなった。別に深い意味はないが、少し遠回りして職員室の前を通った。
昨日の今日だが、何を話すかと言われても会話に困る。別に話したいわけじゃなく、なんとなく気になっただけだ。
タイミング良く、担任が職員室が出てきた。ただし余計なものを添えて、だ。
いつものジャージを着て、担任にまとわりつくガタいは星宮先生と比べてもひと回り以上大きい。五十嵐。生徒指導。そして、俺の天敵。
星宮先生はどこかに行こうと階段を上りかけたとき、俺は声をかけた。
「星宮先生」
「あれ……一ノ瀬君?」
なぜそんな驚いた声を出すんだ。
「クラブはないの?」
「今日は予定がある人が多くて、解散です。先生は?」
「ええと……なんでもないよ」
愛想を浮かべ、階段に伸ばした足を下ろした。
「何か用だった?」
「いや……特に何も」
「雷鳴るみたいだから、気をつけて帰ってね。あと宿題忘れないように」
「ああ……さようなら」
「はい、さようなら」
不服に睨む五十嵐に、奇遇だな俺もだと口に出さずに悪態をつく。結局、昨日のことは口に出せず終いだったが、他の教師がいる前で話すべきではないだろう。勘違いが生まれる。
デパートではめぼしいものがすぐに見つかった。数種類入ったお茶のセットだ。和菓子屋の人だし、イメージ的に日本茶がいい。紅茶やコーヒーよりも外れがないはず。
今日一日ほぼ見ていなかった携帯端末には、メールが一件届いている。
──薫子さんと待ってるぞ!
どこで、なぜ、とは書かない。既読がつけば伝わるし、そもそも理由を聞いたところで返事は来ない。
デパートを出る頃には本降りになっていて、傘のない人たちが出入り口でたむろしている。バスで家に帰ると、大きい靴と女性物のスニーカーが並べられていた。
「雅人、ようやく帰ってきたか!」
「今日いないんじゃなかったのかよ」
「入院が長引いてな、肺炎になったんだそうだ」
「……そうだったのか」
「こんにちは、雅人君」
「……どうも」
軽く頭を下げ、見舞い品を渡した。ちょうどいい。
「これ、俺と親父から」
「まあ、ありがとう」
「料理……すみません」
「食べてもらえるのは嬉しいもの。お腹空いてるでしょう? もうすぐできるからね」
よくできた人だ。俺の世話までしようとするのだから。
食卓には豚の生姜焼きが乗り、肉が好きな好みまで把握している。高校受験に合格したときは高い肉を買ってきてくれ、すき焼きをご馳走してくれた。
「美味しい? どうかな?」
「美味しいです」
「学校はどう? 楽しんでる?」
「…………まあ」
「息子よ、今の間はなんだ!」
騒がしい親父は無視し、昨日の夜からの流れを走馬灯が駆けていく。最後に現れたのは、五十嵐に肩を触れられる担任の困った顔。まだ四月中だというのに怒涛にいろいろなことが起こりすぎだ。
遮るように、今度はスイーツクラブの部長からメールが来た。
──琥珀糖の砂糖は何を使ったらいいのよ!
砂糖が並ぶ写真を見ると、今もスーパーにいるらしい。困ったときは、和菓子屋の次期店主に聞くのが一番だ。上手い具合に話題も変えられる。
「薫子さん、琥珀糖の砂糖って、何がいいんですか?」
「純度が高いグラニュー糖がいいと思うわ」
──グラニュー糖だって。
──さすが!
ネットの情報より、和菓子屋と関わりのある俺を信じたのだろう。悪い気はしない。
「スイーツクラブで琥珀糖を作るの?」
「はい。和菓子はあまり経験がなくて」
「頑張ってね」
うまく話は流れてくれたが、これでいいのかと、もうひとりの俺が自問自答を繰り返す。もやもやの正体はなんなのか、いまいち理解できないのだ。
薫子さんは俺の様子に気づくも、頭を振りなんでもない、とみそ汁を飲む。二人とも当たり障りのない話に切り替えてくれた。大人はずるいし、羨ましい。
春にちなんで桜の味がするようかんを出してくれた。
「どうかした? 嫌い?」
「や……、好きです」
タイムリーな話だ。ようかんを作る案が出た後で、プロのようかんをお披露目されると言葉が出ない。押し黙るしかない。
ようかんはコーヒーと良く合うんだと力説する薫子さんは、三人分のコーヒーも用意してくれた。俺はいつもブラックで、好みまで熟知している。
半透明の断面にフォークを通すと、皿の上で金粉が舞う。桜色の煉ようかんは甘すぎず、確かにコーヒーも引き立ててくれた。
琥珀糖について詳しい作り方をレクチャーしてもらい、俺はコーヒーを飲み干した後、自室に戻った。三人でいる時間が心地悪いわけじゃないが、できれば二人の時間を大切にしてほしい。そして宿題も済ませたい。
薫子さんは本当に良い人だ。俺が将来、誰かと出会い結婚して一つ屋根の下で暮らすことになったとき、ああいう人と結婚するのだろうか。なんか、違和感がちくちくと内蔵を刺してくる。違う、そうじゃないと。俺は、結婚に願望を抱いていないのかもしれない。自分自信が分からず、はっきり答えを出せない。
長年使い続けている椅子に座ると軋んだ音がなる。しばらく手を進めているがどうしても休みたくなるときに直面すると、ノートを閉じた。
本棚には絵本や漫画、料理本など、幼少期からの小さな歴史が詰まっている。今の愛読書はもちろん料理本だ。
料理本を手に取ろうとして、隣にある薄い図鑑が目についた。太陽系について書かれた本。小学生の頃からあるものだが、誰から買ってもらったものか覚えていない。
俺は……宇宙について勉強することが苦手だ。本当は本も処分したいのだけれど、なんとなく処分できないでいた。これを読んでいたとき、母親が「偉いね」と褒めてくれ、少しだけ鼻が高かったのだ。
想い出を差し引いても、苦手意識は変わらない。母との想い出は上書きできない。触れかけた手を引き、クッキーの作り方の本を取り出した。
昨日偶然にも会い、教えとなってから知らされた別の顔は、情報量が多すぎた。教師だからこうしなければならないという理想論を押しつけるつもりはない。とやかく言うつもりもない。だからと言って、身近な人が未知の領域から出てきた瞬間を見て、正直なところ冷静にパニックを起こしていた。人生は様々で、大人の世界は未知数すぎる。
着替えを済ませ下に降りて行くと、パンの焼ける良い匂いがする。
「二枚でいいか?」
「ああ」
さすがに朝は親父も静かだ。いつもはあんなに騒がしいのに。
湯気の立つ皿には黄身が二つの目玉焼きと、ソーセージが二本。パンにはバターをつけ、苛立ちを押しつけるかのように大口を開けてかぶりついた。
「今日の帰りも遅くなる」
「奇遇だな。俺も遅くなる。どこに行くんだ?」
「昨日買えなかった見舞いの品。いろいろ見て回って目処がついたから、買ってくる」
「いやあ、悪いなあ」
「思ってないくせに言うなよ。それ取って」
二枚目は蜂蜜をたっぷりかけて味わう。液体は無くなりそうだ。
「薫子さんの母さんが今日退院なんだよ。手伝いに行ってくる。夕飯はなくていい」
「分かった」
片付けを親父に任せ、今日はバスで学校に向かった。生憎の天気だ。雲に覆われ、雨は止む様子はない。
教室には、古賀と数人の男子が何か話をしている。あの顔は、良からぬことを考えている顔だ。
「おはようございます。席について下さい」
昨日の今日で、担任は今までと変わらない装いだ。アルコールは抜けたのか。あまり量は飲んでいなかったのかもしれない。それにしても二面性の変え方がすごいとしか言いようがない。
「今日も出席簿は見ないで言ってくれるんだろうなあ?」
「別に、構わないけど」
「フルネームで言ってみろや。あのときは名字だけだったろ? そんなんで教師とは呼べねえよ」
「分かりました。では、有川省吾さん」
「え? あっはい」
「一ノ瀬雅人さん」
「……はい」
「遠藤修さん」
記憶力が良すぎる。完全に、生徒を黙らす術を持っている。それと同じく、もしかしたら星宮先生は、過去にも似た経験があり、あしらう方法を身につけたのかもしれない。すらすら出る言葉に迷いがないのが不思議だ。
「以上です。本日も全員揃っていますね」
口調は嬉しそうだが、頬の位置はほとんど変わらない。表情筋があまり動かない。昨日の先生の方が感情豊かで、いろいろ話してくれた。俺は……皮肉にも、昨日の先生の方が好きだった。
午後の授業を終えて購買に行き、適当なパンを購入した。昼休みだと人気のパンは品切れになる。あんぱんと焼きそばパンにし、俺はクラブ活動を行ういつもの教室に向かった。合わせたわけじゃないのに、世良と水島が揃っている。
「うす」
「おー、久しぶり」
「後輩を誘ってくれたんだって?」
「感謝しろよ。二人入ってくれるってさ。しかも女子だ」
「入ってくれるんなら性別はどっちでも構わない」
「つれねー」
「あと今日、悪いけどクラブ休むわ」
「奇遇。私も無理」
「久しぶりに顔を出したら休みとか」
俺悲しい、と似合わない泣き真似を披露した。俺も世良も、淡々と昼食を口に運ぶ。いつものことだ。
水島は俺をスイーツというより借金取りが似合うなどと暴言を残してる。俺は忘れない。そういうこいつは茶髪にピアスなど、違法行為を繰り返している男だ。あえて言うが、風貌についてはこいつには一番言われたくない。
「せっかくだから、次に作るお菓子について話し合う?」
「いいな、それ」
「簡単なものにしてくれよ。お前らと違って、俺は全然作れねえんだから」
「簡単、ねえ……。簡単な和菓子でおすすめある?」
「あるっちゃ、ある」
薫子さんの店のショーケースを思い浮かべた。
「どら焼きとか、ようかんとかはなしな」
「経験のない高校生が簡単に作れねえよ。琥珀糖は作れるかも」
「琥珀糖……聞いたことはあるわ」
世良は携帯端末で検索をかけた。
「食べる宝石! これ知ってる。寒天のお菓子だよね? SNSで乗せてる人多いもん」
「寒天と砂糖と水。色をつけたい場合は着色料を入れればいい」
「材料費もかからなそうね。放課後、買い物ついでに私、買っておくよ」
「頼んだ」
放課後になっても雨は上がらない。むしろ灰の雲が黒に近くなった。別に深い意味はないが、少し遠回りして職員室の前を通った。
昨日の今日だが、何を話すかと言われても会話に困る。別に話したいわけじゃなく、なんとなく気になっただけだ。
タイミング良く、担任が職員室が出てきた。ただし余計なものを添えて、だ。
いつものジャージを着て、担任にまとわりつくガタいは星宮先生と比べてもひと回り以上大きい。五十嵐。生徒指導。そして、俺の天敵。
星宮先生はどこかに行こうと階段を上りかけたとき、俺は声をかけた。
「星宮先生」
「あれ……一ノ瀬君?」
なぜそんな驚いた声を出すんだ。
「クラブはないの?」
「今日は予定がある人が多くて、解散です。先生は?」
「ええと……なんでもないよ」
愛想を浮かべ、階段に伸ばした足を下ろした。
「何か用だった?」
「いや……特に何も」
「雷鳴るみたいだから、気をつけて帰ってね。あと宿題忘れないように」
「ああ……さようなら」
「はい、さようなら」
不服に睨む五十嵐に、奇遇だな俺もだと口に出さずに悪態をつく。結局、昨日のことは口に出せず終いだったが、他の教師がいる前で話すべきではないだろう。勘違いが生まれる。
デパートではめぼしいものがすぐに見つかった。数種類入ったお茶のセットだ。和菓子屋の人だし、イメージ的に日本茶がいい。紅茶やコーヒーよりも外れがないはず。
今日一日ほぼ見ていなかった携帯端末には、メールが一件届いている。
──薫子さんと待ってるぞ!
どこで、なぜ、とは書かない。既読がつけば伝わるし、そもそも理由を聞いたところで返事は来ない。
デパートを出る頃には本降りになっていて、傘のない人たちが出入り口でたむろしている。バスで家に帰ると、大きい靴と女性物のスニーカーが並べられていた。
「雅人、ようやく帰ってきたか!」
「今日いないんじゃなかったのかよ」
「入院が長引いてな、肺炎になったんだそうだ」
「……そうだったのか」
「こんにちは、雅人君」
「……どうも」
軽く頭を下げ、見舞い品を渡した。ちょうどいい。
「これ、俺と親父から」
「まあ、ありがとう」
「料理……すみません」
「食べてもらえるのは嬉しいもの。お腹空いてるでしょう? もうすぐできるからね」
よくできた人だ。俺の世話までしようとするのだから。
食卓には豚の生姜焼きが乗り、肉が好きな好みまで把握している。高校受験に合格したときは高い肉を買ってきてくれ、すき焼きをご馳走してくれた。
「美味しい? どうかな?」
「美味しいです」
「学校はどう? 楽しんでる?」
「…………まあ」
「息子よ、今の間はなんだ!」
騒がしい親父は無視し、昨日の夜からの流れを走馬灯が駆けていく。最後に現れたのは、五十嵐に肩を触れられる担任の困った顔。まだ四月中だというのに怒涛にいろいろなことが起こりすぎだ。
遮るように、今度はスイーツクラブの部長からメールが来た。
──琥珀糖の砂糖は何を使ったらいいのよ!
砂糖が並ぶ写真を見ると、今もスーパーにいるらしい。困ったときは、和菓子屋の次期店主に聞くのが一番だ。上手い具合に話題も変えられる。
「薫子さん、琥珀糖の砂糖って、何がいいんですか?」
「純度が高いグラニュー糖がいいと思うわ」
──グラニュー糖だって。
──さすが!
ネットの情報より、和菓子屋と関わりのある俺を信じたのだろう。悪い気はしない。
「スイーツクラブで琥珀糖を作るの?」
「はい。和菓子はあまり経験がなくて」
「頑張ってね」
うまく話は流れてくれたが、これでいいのかと、もうひとりの俺が自問自答を繰り返す。もやもやの正体はなんなのか、いまいち理解できないのだ。
薫子さんは俺の様子に気づくも、頭を振りなんでもない、とみそ汁を飲む。二人とも当たり障りのない話に切り替えてくれた。大人はずるいし、羨ましい。
春にちなんで桜の味がするようかんを出してくれた。
「どうかした? 嫌い?」
「や……、好きです」
タイムリーな話だ。ようかんを作る案が出た後で、プロのようかんをお披露目されると言葉が出ない。押し黙るしかない。
ようかんはコーヒーと良く合うんだと力説する薫子さんは、三人分のコーヒーも用意してくれた。俺はいつもブラックで、好みまで熟知している。
半透明の断面にフォークを通すと、皿の上で金粉が舞う。桜色の煉ようかんは甘すぎず、確かにコーヒーも引き立ててくれた。
琥珀糖について詳しい作り方をレクチャーしてもらい、俺はコーヒーを飲み干した後、自室に戻った。三人でいる時間が心地悪いわけじゃないが、できれば二人の時間を大切にしてほしい。そして宿題も済ませたい。
薫子さんは本当に良い人だ。俺が将来、誰かと出会い結婚して一つ屋根の下で暮らすことになったとき、ああいう人と結婚するのだろうか。なんか、違和感がちくちくと内蔵を刺してくる。違う、そうじゃないと。俺は、結婚に願望を抱いていないのかもしれない。自分自信が分からず、はっきり答えを出せない。
長年使い続けている椅子に座ると軋んだ音がなる。しばらく手を進めているがどうしても休みたくなるときに直面すると、ノートを閉じた。
本棚には絵本や漫画、料理本など、幼少期からの小さな歴史が詰まっている。今の愛読書はもちろん料理本だ。
料理本を手に取ろうとして、隣にある薄い図鑑が目についた。太陽系について書かれた本。小学生の頃からあるものだが、誰から買ってもらったものか覚えていない。
俺は……宇宙について勉強することが苦手だ。本当は本も処分したいのだけれど、なんとなく処分できないでいた。これを読んでいたとき、母親が「偉いね」と褒めてくれ、少しだけ鼻が高かったのだ。
想い出を差し引いても、苦手意識は変わらない。母との想い出は上書きできない。触れかけた手を引き、クッキーの作り方の本を取り出した。
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