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第一章 桜色の日から
025 窓夏と円
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すべてが変わったかといえば、三十度ほど傾いた世界線に立っている。
恋愛報道があってから半年が過ぎた。人の記憶からは決してなくならないが、端へと追いやったと言える。
街を歩いていても仕事をしていても妙な視線を感じることはなくなり、居心地の悪さは格段に少なくなっていた。
──どこか旅に出よう。
そう彼が笑いかけてから三か月だ。長かったし、あっという間だった。
お互いに仕事が多忙で、同じマンションにいるのに顔を合わせない毎日。けれど冷蔵庫にある二つ分のプリンや、風呂にためてくれていたお湯を見ると、恋人という肩書きは必要不可欠だと思い知らされた。
秋尋の母親はふたりのマンションの近くに住んでいて、いつでも行き来できる。一緒に住む提案は、彼の母親が断った。恋人同士の邪魔はできないと、首を縦に振らなかったのだ。
強風が身体を攫おうとするが、手すりに掴まりおぼつかない足下を確認しながら一歩一歩前へ進んでいく。
「いってらっしゃいませ」
笑顔でお辞儀をする女性に軽く頭を下げると、いよいよ旅だと実感した。
潮の香りは船の中に入っても鼻に届く。思っていたほど揺れず、地上にいるのと同じように船の中を歩けた。
バルコニー付きのスイートルームは、恋人が選んだ部屋だ。ドラマの撮影で使ってからお気に入りとなり、いつか泊まりにきたいと話していた。
最後は恋人に海へ身を投げられ……と後味悪い話だったが、ストーリーよりも恋人を見つめていた側からすればそれほど不快でもない。
荷物は置きっぱなしになっている。ひと足早く来ていたらしい。
食事は二十四時間、風呂は大浴場つきだがスイートルームにも湯船がある。映画館もバーもある。
どれもこれもしっくりこない。とりあえず風呂にでも……とドアノブに触れたとき、鍵が開いた。
「来てたのか」
変装のために、帽子を深く被った秋尋。表では顔を出すことはめったにない。
「あっくん! すごいよ、スイート! みかんがテーブルにある!」
「そこかよ。食べていいよ」
「うん!」
カゴには果物が山盛りだ。そのうちの一つを取り、皮を剥いていく。風呂に入りたかった気持ちがどこかに飛んだ。
雑に剥いたひと粒を口に入れようとすると、横から大きな口がやってきて奪いとられてしまう。
「こんな堂々とした盗人っているんだ……」
「なんで白い筋取らないんだ?」
「ここ栄養あるんだよ?」
「栄養より、食感を大事にしたいんだよ。ほら」
口を開ける窃盗犯に、筋を一つも取らないみかんを放り込んだ。
複雑そうな顔をしながら口を動かし、顔が迫ってきた。
「んうっ」
器用に実からそぎ落とされた白い筋は、口の中へ入れられた。
「………………不味い」
「だろ? ようやく分かったか」
「筋だけだからだよ! 実と食べたら味分かんないしっ。ってか器用なことするよね。あっくんってさくらんぼの茎を口の中で結べそう。口の中で結べる人ってキス上手いって言うし」
「今度チャレンジしてみるか。さくらんぼに頼らなくたって、上手いかどうかは分かるだろ」
覆い被さる影を受け止めながら、ベッドに倒れ込んだ。
オレンジ色の光が差し、窓夏は目を開けた。
秋尋はすでに起きていて、窓夏が目覚めたのを確認して隣に腰を下ろす。
「……電話してた?」
窓夏はテーブルにある携帯端末を見やる。
「マネージャーとな。俺が下坂家へ行くって言ってた件、雑誌に載らないことになった」
「なんで?」
「揉み消しがあったらしい」
「あっくんのおうちの人?」
「だろうな。雑誌が出て困る人と言えば、宗家しかいない。何枚の札束を積んだんだか」
「ってことは、下坂家へは行かなくていいってこと?」
「ああ。でもその他にもいろいろ手は打ってあったから、心配はいらなかった」
三か月前、秋尋はひとりで下坂家へと足を運んでいた。
宗家から秋尋を婿にやると話があったようで、ほとほと困っていたという。
結局は、宗家一人の暴走にすぎなかった。母親を追いやったのだけは恨みを募らせているが、母は家から出て違う世界を知るチャンスだから良かったと胸を撫で下ろしているので、呑み込むしかない。
「あっくんひとりに任せちゃったね」
「俺の家の問題だから、巻き込みたくなかった」
秋尋は小さな手をそっと握る。数々の小さな命を救ってきた手だ。
窓夏は今も動物園で働いていて、キリンだけではなく小動物の面倒も任されている。
よく見ると細かな傷があり、努力の結晶と言えば聞こえはいいが、心配も募る。
正義の味方で命を繋ぐ小さな戦士は、今日もコロコロとよく笑う。
安堵と同時に、絶対に宗家とは合わせられないと誓う。おそらく、葬式すら彼を呼ばない。
「これで今のところは恋路を邪魔する者はいなくなった。とりあえず、何か食いに行くか?」
「行く! チョコレートフォンデュが食べたい」
「あれは一階だったな。行こう」
いつも通り秋尋は帽子を深く被り、真似をして窓夏もお揃いの帽子を身につけた。
フロアはチョコレートの香りで満たされていて、子供がタワーを見て大喜びしている。
黒と白のタワーを前に、窓夏はマシュマロが刺さる串を手に取る。
斜め前にいる女性がこちらを見ては、窓夏に対しても無遠慮な視線を送る。
「窓夏」
「うん」
秋尋は何かあったときのために、それとすぐに動けるようにチョコレートフォンデュではなくクッキーに手を伸ばす。こちらの意図を悟られないために簡単なものを食べているふりをするためだ。溶けたチョコレートに触れてべたべたになった手では、一瞬の判断が鈍る可能性がある。
秋尋の視線は、彼女たちの後ろにあった。
どうして同じ世界線に立っているのだろうと、赤いふかふかのソファーに腰を下ろす。
どうして『世界線』なんていう難しい言葉を知っているのかというと、最近見たアニメの影響だ。テレビは禁止と言いつつ、タブレットを与えるのだから詰めが甘い。
与えられるすべてがつまらなくて、塾も習い事もなくなってしまえばいいと父と母に罵声を浴びせたのがついさっき。
残念ながら抱きしめて理由を聞く親ではなく、頬に往復ビンタをかますタイプの毒親だった。
親はふたりしか知らないので、これが毒性のある生き物なのかも分からない。ハブクラゲ、アカエイ、ヒョウモンダコ。海の生き物よりも毒が強いのかどうか。多分、戦えば親が勝つ。それくらいに毒まみれの人間。
ふたりは仕事の人と会うと言い、どこかへ行ってしまった。
一等スイートルームといえど部屋にずっといるのも飽きて、円はひとりで外の世界へ飛び出した。簡単な家出みたいなもので、わくわくもしたし反抗的な態度が胸を熱くさせる。自分がここまでできるんだぞ、と誇らしかった。
この船で一番良い部屋に泊まり、船の中で一番の金持ちだとふんぞり返っても、子供相手では誰も相手にしてくれない。
目の前を歩く女性に目が止まった。ポケットの膨らみから覗くのは、赤い財布だ。
金なら山ほどある。そうじゃない。満たされない何かが常にあって、つい円は手を伸ばしてしまった。
「あっ」
影が覆い被さり、手元の財布が奪われた。
恐る恐る後ろを振り返る。
男は財布を手に持っているが、こちらを見てはいなかった。
「すみません、財布を落としましたよ」
明瞭な声と男なのか女なのか分からない顔立ちの男。
目の大きさに吸い込まれそうになるが、あの目で見られると思うと恐ろしかった。
「あ、やだ、ほんと」
女性はポケットの中を確認し、申し訳なさそうに小走りでやってくる。
「一応、中身を確認何していただけますか? ついさっき落としたみたいですが、一応念のため」
そう言いつつ、女みたいな男はにっこりと笑い、背筋が凍った。
恋愛報道があってから半年が過ぎた。人の記憶からは決してなくならないが、端へと追いやったと言える。
街を歩いていても仕事をしていても妙な視線を感じることはなくなり、居心地の悪さは格段に少なくなっていた。
──どこか旅に出よう。
そう彼が笑いかけてから三か月だ。長かったし、あっという間だった。
お互いに仕事が多忙で、同じマンションにいるのに顔を合わせない毎日。けれど冷蔵庫にある二つ分のプリンや、風呂にためてくれていたお湯を見ると、恋人という肩書きは必要不可欠だと思い知らされた。
秋尋の母親はふたりのマンションの近くに住んでいて、いつでも行き来できる。一緒に住む提案は、彼の母親が断った。恋人同士の邪魔はできないと、首を縦に振らなかったのだ。
強風が身体を攫おうとするが、手すりに掴まりおぼつかない足下を確認しながら一歩一歩前へ進んでいく。
「いってらっしゃいませ」
笑顔でお辞儀をする女性に軽く頭を下げると、いよいよ旅だと実感した。
潮の香りは船の中に入っても鼻に届く。思っていたほど揺れず、地上にいるのと同じように船の中を歩けた。
バルコニー付きのスイートルームは、恋人が選んだ部屋だ。ドラマの撮影で使ってからお気に入りとなり、いつか泊まりにきたいと話していた。
最後は恋人に海へ身を投げられ……と後味悪い話だったが、ストーリーよりも恋人を見つめていた側からすればそれほど不快でもない。
荷物は置きっぱなしになっている。ひと足早く来ていたらしい。
食事は二十四時間、風呂は大浴場つきだがスイートルームにも湯船がある。映画館もバーもある。
どれもこれもしっくりこない。とりあえず風呂にでも……とドアノブに触れたとき、鍵が開いた。
「来てたのか」
変装のために、帽子を深く被った秋尋。表では顔を出すことはめったにない。
「あっくん! すごいよ、スイート! みかんがテーブルにある!」
「そこかよ。食べていいよ」
「うん!」
カゴには果物が山盛りだ。そのうちの一つを取り、皮を剥いていく。風呂に入りたかった気持ちがどこかに飛んだ。
雑に剥いたひと粒を口に入れようとすると、横から大きな口がやってきて奪いとられてしまう。
「こんな堂々とした盗人っているんだ……」
「なんで白い筋取らないんだ?」
「ここ栄養あるんだよ?」
「栄養より、食感を大事にしたいんだよ。ほら」
口を開ける窃盗犯に、筋を一つも取らないみかんを放り込んだ。
複雑そうな顔をしながら口を動かし、顔が迫ってきた。
「んうっ」
器用に実からそぎ落とされた白い筋は、口の中へ入れられた。
「………………不味い」
「だろ? ようやく分かったか」
「筋だけだからだよ! 実と食べたら味分かんないしっ。ってか器用なことするよね。あっくんってさくらんぼの茎を口の中で結べそう。口の中で結べる人ってキス上手いって言うし」
「今度チャレンジしてみるか。さくらんぼに頼らなくたって、上手いかどうかは分かるだろ」
覆い被さる影を受け止めながら、ベッドに倒れ込んだ。
オレンジ色の光が差し、窓夏は目を開けた。
秋尋はすでに起きていて、窓夏が目覚めたのを確認して隣に腰を下ろす。
「……電話してた?」
窓夏はテーブルにある携帯端末を見やる。
「マネージャーとな。俺が下坂家へ行くって言ってた件、雑誌に載らないことになった」
「なんで?」
「揉み消しがあったらしい」
「あっくんのおうちの人?」
「だろうな。雑誌が出て困る人と言えば、宗家しかいない。何枚の札束を積んだんだか」
「ってことは、下坂家へは行かなくていいってこと?」
「ああ。でもその他にもいろいろ手は打ってあったから、心配はいらなかった」
三か月前、秋尋はひとりで下坂家へと足を運んでいた。
宗家から秋尋を婿にやると話があったようで、ほとほと困っていたという。
結局は、宗家一人の暴走にすぎなかった。母親を追いやったのだけは恨みを募らせているが、母は家から出て違う世界を知るチャンスだから良かったと胸を撫で下ろしているので、呑み込むしかない。
「あっくんひとりに任せちゃったね」
「俺の家の問題だから、巻き込みたくなかった」
秋尋は小さな手をそっと握る。数々の小さな命を救ってきた手だ。
窓夏は今も動物園で働いていて、キリンだけではなく小動物の面倒も任されている。
よく見ると細かな傷があり、努力の結晶と言えば聞こえはいいが、心配も募る。
正義の味方で命を繋ぐ小さな戦士は、今日もコロコロとよく笑う。
安堵と同時に、絶対に宗家とは合わせられないと誓う。おそらく、葬式すら彼を呼ばない。
「これで今のところは恋路を邪魔する者はいなくなった。とりあえず、何か食いに行くか?」
「行く! チョコレートフォンデュが食べたい」
「あれは一階だったな。行こう」
いつも通り秋尋は帽子を深く被り、真似をして窓夏もお揃いの帽子を身につけた。
フロアはチョコレートの香りで満たされていて、子供がタワーを見て大喜びしている。
黒と白のタワーを前に、窓夏はマシュマロが刺さる串を手に取る。
斜め前にいる女性がこちらを見ては、窓夏に対しても無遠慮な視線を送る。
「窓夏」
「うん」
秋尋は何かあったときのために、それとすぐに動けるようにチョコレートフォンデュではなくクッキーに手を伸ばす。こちらの意図を悟られないために簡単なものを食べているふりをするためだ。溶けたチョコレートに触れてべたべたになった手では、一瞬の判断が鈍る可能性がある。
秋尋の視線は、彼女たちの後ろにあった。
どうして同じ世界線に立っているのだろうと、赤いふかふかのソファーに腰を下ろす。
どうして『世界線』なんていう難しい言葉を知っているのかというと、最近見たアニメの影響だ。テレビは禁止と言いつつ、タブレットを与えるのだから詰めが甘い。
与えられるすべてがつまらなくて、塾も習い事もなくなってしまえばいいと父と母に罵声を浴びせたのがついさっき。
残念ながら抱きしめて理由を聞く親ではなく、頬に往復ビンタをかますタイプの毒親だった。
親はふたりしか知らないので、これが毒性のある生き物なのかも分からない。ハブクラゲ、アカエイ、ヒョウモンダコ。海の生き物よりも毒が強いのかどうか。多分、戦えば親が勝つ。それくらいに毒まみれの人間。
ふたりは仕事の人と会うと言い、どこかへ行ってしまった。
一等スイートルームといえど部屋にずっといるのも飽きて、円はひとりで外の世界へ飛び出した。簡単な家出みたいなもので、わくわくもしたし反抗的な態度が胸を熱くさせる。自分がここまでできるんだぞ、と誇らしかった。
この船で一番良い部屋に泊まり、船の中で一番の金持ちだとふんぞり返っても、子供相手では誰も相手にしてくれない。
目の前を歩く女性に目が止まった。ポケットの膨らみから覗くのは、赤い財布だ。
金なら山ほどある。そうじゃない。満たされない何かが常にあって、つい円は手を伸ばしてしまった。
「あっ」
影が覆い被さり、手元の財布が奪われた。
恐る恐る後ろを振り返る。
男は財布を手に持っているが、こちらを見てはいなかった。
「すみません、財布を落としましたよ」
明瞭な声と男なのか女なのか分からない顔立ちの男。
目の大きさに吸い込まれそうになるが、あの目で見られると思うと恐ろしかった。
「あ、やだ、ほんと」
女性はポケットの中を確認し、申し訳なさそうに小走りでやってくる。
「一応、中身を確認何していただけますか? ついさっき落としたみたいですが、一応念のため」
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