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第一章 桜色の日から

020 母の存在

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 仕事の時間より一時間も前に着いた。
 早番の高田はすでに来ていて、餌の準備をしている。
「高田さん」
「おはよう倉木さん。今日早くない?」
 いつものように笑顔を見せるが、渋い顔のままでいる窓夏をを見るなり冷蔵庫から顔を出した。
「どうかした? キリンに何かあった?」
「お聞きしたいことがあります」
 尻込みしては駄目だ、と腹に力を入れる。
「雑誌記者とコンタクトを取りましたよね?」 
 高田の表情に緊張が走る。が、すぐに笑顔を取り繕い、
「なんの話だ?」
 口調が変わったと判断した。
 普段の高田は人が良さそうな、作った言葉遣いをする。わざとらしさがあってもそれも含めて高田だと、気にせず仕事をしてきた。
 苛立ちに変わりそうになり、さらに悪循環だ。
「会ったことは認めるんですね?」
「写真なんて売ってねえぞ」
「僕は写真の件は一言も話していませんよ」
 冷静にすっとぼけると、高田の顔から血の気が引いた。
「僕の姿を撮れる人は高田さんしかいないんです。ここに何度も出入りして、撮れるチャンスはあなたにしかなかった」
「安月給でよくそんなに働けるよな」
 高田は小声で呟いた。
 何を言っているのかと唖然としていると、
「ここの動物園、俺の親戚の人間が作ったもんなんだよ。誰もやりたがらないし夢も特になかったから、俺がいずれ継ぐことになるはずだ。働いてみたら生き物は言うことは聞かないわ臭いわ見合った給料でもねえし最悪」
「お小遣い稼ぎのために人のプライベートを売ったんですね」
「芸能人で、しかも男同士となれば売れると思った。モデルがこんなところにわざわざ来るはずないって、怪しんでお前のこともいろいろ調べた」
「最低」
「最低なのはお前だろ。俺が狙ってた女を奪いやがって」
「女? 何の話ですか」
「飲み会やっただろ。男だろうが女だろうが誰でもいいんだな」
 難癖だ。何かしら理由をつけて自分の正当性を通そうとしているだけだ。
「……お気持ちは分かりました。もういいです」
 呆れて怒りが通りすぎ、窓夏はため息だけを残してその場から離れた。
 犯人は想像していた通りだった。
 高田の正反対の一面は、頭が空っぽになるくらいには恐怖とショックしかない。
 人に恨まれる人生を送っていないつもりでも、相手の取り方一つでも変わることもある。
 問題なのはこれからだ。雑誌に載るのは暫定だろう。これは秋尋に任せるしかない。芸能界にいる彼は対応の仕方もうまく学んでいるはずだ。
 自分が成すべきことは、正文との一件だ。
 正文と会った話は、秋尋に知らせていない。言おうかどうしようか悩む前に、怒濤の連続で雑誌の件が耳に入った。しかも写真を提供したのは高田だ。頭がいっぱいいっぱいだった。
 一日悩みに悩み、答えは見つからないまま窓夏は秋尋の家へ向かった。足取りは重い。
 屋敷へ近づくと、大型のカメラを持った人がいて窓夏は素通りした。
 テレビ局か、雑誌記者か。屋敷の人間は知っていて出入りを控えているのだろう。
 腕を掴まれ、慌てて後ろを振り返った。
 女性は窓夏を離さないまま、敷地内へ引きずる。
 塀の一部がからくりとなっていて、開く仕組みになっていた。
「おいで」
「あの、僕が記者じゃないと分かったんですか? 外にたくさん集まっているのに」
「実は屋敷を囲んで防犯カメラがついているのよ。記者の数を確認していたら、たまたまあなたが映ってね。窓夏君でしょう? 息子がいつもお世話になっております」
「息子? あっくんのお母さん?」
 女性はしてやったりと子供みたいに笑う。
 秋尋によく似ていた。特に目元や高身長は息子に遺伝子を残している。
「お、お世話になっております……すみません、僕で」
「どうしてそんなことを言うの? 好き同士一緒にいるんだから、いいじゃない。おいで、お菓子とお茶を用意するわ」
 案内された建物は離れにあり、家というより小屋に近い。
 中はひと通り揃っていて、ひとり暮らしならわりと優雅に過ごせそうだ。
「いろんなことが重なってしまったのよ。息子の熱愛だったり、宗家が倒れたこともね。しかも娘をこんな離れに追いやったものだから、それの噂も嗅ぎつけたマスコミがわんさか来ちゃってるの」
「寂しくないですか? ひとりでここに住んでて」
「全然。息子も会いにきてくれるし、突然のお客様と一緒にお茶もできるし。今日は秋尋に会いにきたわけじゃないわよね? 誰かしら?」
「正文さんに……」
 ごまかしきれないと思い、正直に答えた。
「ああ、なるほどね。秋尋に戻ってこいと伝えてとか言われたんでしょ?」
「どうして? 何か聞いてるんですか?」
「正文の考えは分かるわ。誰よりも宗家のことを思って、誰よりも真面目に華道の稽古をしてきたんだから。でも生まれ持った才能は残酷で、秋尋の方がある。これは誰もが認めていることなのよ」
 才能は残酷だ。脳裏に浮かんだのは、高田のことだ。彼は仕事について何も触れていなかったが、元々キリンを担当していたのは彼だと聞いた。だが相性があまりに悪くて、担当を外されたと小耳に挟んだ。
 ときどきキリンについて語り始める彼を見ていると、目の奥に宿る火がおぞましく感じるときがあった。なんなのか分からず気づかないふりをしていたが、嫉妬が混じったものだと今さらながら知る。
「正文は真面目で、勉強したことを発揮するのが得意なの。逆に秋尋はまず自分の感覚を大事にするタイプ。子供のときからどちらを大事にしてきたかで大きくなったものが違うんだと思う。あの子にも戻ってきてって言ってたみたいだけど、まさかあなたにまで言っていたなんて」
「正文さんはそれだけ大事にしたいものがあるんだと思います。僕の気持ちとしては、秋尋さんの意見を尊重したいです。けれど僕が何か言わなくても、彼は芸能界に残ると思います。ずっと夢だった世界に足を踏み入れたんですから」
「それをそのまま伝えればいいのよ。さあ、お茶を飲んでお菓子を食べて。ふたりのお話しを聞かせてちょうだい」
 すべてを話すわけにはいかないが、中学生の想い出話もいくつかした。チェスが強かったこと、学校の七不思議に関わっていること、クラスでも人気者だったこと。
 懐かしくてもっと想い出を作りたくて、話しているうちに涙が溢れてきた。これで終わらせたくない。せっかく出会えた十年越しの恋を、永遠だと信じたい。
 たくさん泣いて、借りたタオルもぐちゃぐちゃにして、お茶のお代わりをもらっていた。
 お菓子も美味しくて、大ぶりの栗が入ったようかんも三切れ食べた。
 お土産にと渡された和菓子にお礼を言い、裏口から出たところで本来の目的を忘れてきてしまい、肩を落としながら帰った。
 ちょっぴり笑いが込み上げてきた。
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