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第一章 桜色の日から

05 キスの予兆

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 エンドロールが終わると、秋尋はテレビに切り替えた。
 恋愛ドラマは佳境に突入していて、三角関係の主人公は誰を選ぶのか。
「先週、年上のお兄さんとキスしてたのにな。女って分かんねえ」
「このドラマ観てるんだ」
「ああ。途中からだけど」
「キスシーンって、そわそわしない?」
 秋尋が横を向くと、顔が近くなった。
「純情」
「違うよ! 家族と観るとうわあってなるから、興味ないふりして急いでご飯かきこんでるだけ」
「経験なし?」
「…………ないよっ。そっちはあるの?」
「あるっちゃある。カウントしていいのか分からないけど」
 胸がきりきり軋む。
「多分これ、嫉妬だ。うん」
「何が?」
「胸がなんか、おかしい。先越されたから嫉妬してるんだよ、僕」
 秋尋は一瞬止まり、カップをテーブルに置いた。
「俺の場合、気持ちは関係なしにキスしたって感じだ」
「事故?」
「説明するのが難しい。事故っちゃ事故。胸が痛む?」
「うーん……さっきよりは痛まない。感情って勝手に先走ることがあるよね。意外と脳は冷静なままで、気持ちだけが先をいってる感じ」
「詩人みたいだな。でも分かる。俺もおんなじ感じ。なあ」
 秋尋の手が頬に触れた瞬間、電流のようなものが全身を駆け巡る。
 初めての感覚に怖くなり、彼の太股を掴んだ。
「してみる?」
「キス?」
「うん」
 頬に細かな振動が起こった。こちらまで震えが止まらなくなるので彼の手の甲に手を添えるが、さらに震えている。
「そ、そういうのは……大事な人とするものだよ」
 のしかかる重みを抱きとめる。震えは止まったが、秋尋は動かなくなった。
「馬鹿だわ、俺。ごめん」
 離れていく空気が冷たく感じた。
「なんだろ。ほんとに。俺って」
「いやいや、なんでそんなに責めるの?」
「おかしいだろ。下手したら友情にヒビが入る」
「友情」
 嬉しくて飛び跳ねそうだ。
「クラスの女子だって手繋いだりしてるじゃん」
「手繋ぐのとキスは全然違うだろ」
「触れ合ってるのはおんなじ皮膚だよ」
「妙に現実的だな。けど、ごめん。キスは大事な人とした方がいい」
「大事な人って、どうやったらできるかな」
「俺が一番聞きたい問題だ」
 大きく息を吐いた秋尋は、語尾が震えていた。
 中学生でなぜ一人暮らしをしているのか。
 家族はどこにいるのか。
 キスの相手は誰なのか。
「あっくんって、ミステリアスだよね」
「あっくん?」
 秋尋は素っ頓狂な声を上げる。ソファーが跳ねた。
「うん。秘密主義みたいだから、あっくんって呼ぶ」
「それ関係あるのか?」
「ある。そう呼んだ方が、仲良くなれる気がするじゃん」
「あーそう」
「なんだその声!」
 クッションで叩きつけると、ぼふんと頼りない音がした。
「はは、秘密っていったら、ふたりで作ったじゃん」
「鶏事件ね。実はね、ちょっと楽しかった。あんな遅い時間に忍び込んだの初めて」
「俺も。担任にばれなくてよかったよ。体育会系の教師が見逃すとも思えないし」
 映画を終えても、学校の話や宿題についてもずっと話していた。
 帰りは家まで送ってくれて、親とばったり対面しないかはらはらした。
 なんとなく、気恥ずかしかった。



 秋の風はアスファルトを転がる枯れ葉を後押しした。
 緑のない景色は寂しいものがあるが、反比例して学校では賑わいを見せていた。
 学級委員長がチョークを動かしていくたび、辺りからはうなり声が聞こえる。
「喫茶店、映画鑑賞会、お化け屋敷……他のクラスにあるようなものばっかだね」
 文化祭の出し物を決めなければならないのだが、他のクラスに出し抜かれたせいか、Aクラスだけはまだ決まっていなかった。
「藤宮君、なんかない?」
「被っても別に。色つけてみたらいいかも」
「色?」
「ただの喫茶店ってわけじゃなく、変わったものにするとか」
「おっいいねメイド喫茶!」
「誰も言ってない」
 はやし立てるクラスメイトに、秋尋は冷静につっこみをいれる。
「そこまで言うなら喫茶店やりたいなあ」
「メイド系?」
「んなわけない。藤宮君が客引きしてくれたらすぐに集まりそうだし」
「俺は映画鑑賞一択」
 秋尋は全力でやりたくないと遠回しに拒絶した。
 ああでもないと放課後までもつれ込んだ話し合いは、喫茶店に決まった。メイド喫茶ではなく、王道のものだ。
 一度決まればとんとん拍子で、すぐに文化祭がやってきた。
 寒波が到来した時期に、コーヒーや紅茶を出す喫茶店は良い選択肢だったといえる。
 窓夏は生徒と話す秋尋を見てため息をついた。
 ここのところ、秋尋とまったく会話をしていないのだ。憎き席替えのせいで席が離れてしまったし、部活も違うときた。
 なんとか話せるきっかけを作ろうとしたが、彼はいつも女子生徒に囲まれている。
「眼鏡変えた?」
「え、あ、うん。そうだね」
 声が裏返りながらも答えた。秋尋が話しかけてきたからだ。
「あっく……藤宮君もいつもと違うね」
「寝ぼけてたら踏んで、新しいの買った」
「災難だったね。僕は軽めのにした」
「どれ」
 眼鏡が外される瞬間、指先が鼻筋を撫でていく。
「ほんとだ。俺のより軽い」
「そっち貸して」
 秋尋がかがむ。自分で取れ、ということらしい。
「なんで顔背けんの」
「近い近い。確かに僕のより重いね……ん?」
 かけてみると、違和感があった。
「これ、度が入ってない?」
「あー、まあな」
「眼鏡にあるまじき侮辱だよ」
「何がだよ」
「眼鏡の効力が失われている」
「顔隠したい系男子だから。ほら」
 やはり馴染んだ眼鏡がしっくりくる。
「なんで顔隠したいの?」
「シャイボーイなんだよ。あんまり目立ちたくない」
 眼鏡をかけると、しっかりした顔立ちが眼鏡に気を取られる。それでも生徒たちにはよく話しかけられているので、効果があるのかは謎だ。
「ねえ、あの人……」
「え?」
「ほら」
 一般客が秋尋を指差し、何やら話をしている。
 彼女たちはこちらにやってきて、遠慮がちに声をかけた。
「もしかして、」
「ああ、あの、向こうで」
 秋尋はしどろもどろになりながら、女性たちを引き連れて出ていってしまった。
 知り合いという様子でもない。慌てる秋尋と驚く女性たちは、どのような関係なのか。
 しばらくして、疲れきった顔をした秋尋が戻ってきた。
「おかえり。どうしたの?」
「悪いんだけど、どこか人のいないところで食おう」
 手首を掴まれたまま廊下に出ると、女性たちは一斉に静まり返る。
 無言で端末を向けられ、窓夏は怖くなった。
「わっなに?」
 目の前が真っ暗になった。秋尋が頭に上着をかけたからだ。
「行こう」
 アキ、アキ、と甲高い女性の声が聞こえた。
 意味が分からないままでいると、手首から手のひら、指と下がっていき、指を絡めたままどこかへ連れていかれた。
「あっくんって有名人?」
「どっちのだろうな……ほんと」
「ええ?」
「なんでもない。ほら、行くぞ」
 窓夏とは、手の大きさも暖かさも対照的だった。
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