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第二部 第一章 港町イナイゴス
4 戦の準備
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レグナエラの市場は人々でごった返していた。大小の店が軒を連ね、様々な品物を並べている。行き交う人々は買い物客ばかりでなく、自ら商品を背負って売り歩く者もあった。
ソルマヌス王が物資を買い占めているという噂が市場を駆け巡っているにもかかわらず、豊富な品揃えは以前と変わらず、物価が高騰するほどの影響は与えていないように見える。
「いつもと変わらねえな」
巡回している兵士が誰に言うともなく呟いた。相方の兵士が返事をしなくても、気にする様子もなかった。兵士達はそのまま何事にも遭遇せずに詰所へ戻ってきた。座る間もなく一人の兵士が呼ばれて出て行った。残った兵士は空いた椅子を引き寄せ、ひょろりとした体を椅子へ慎重に乗せた。
「あいつは何処へ呼ばれたんだ」
「教練だとさ。最近、めぼしい奴を集めて色々訓練しているらしいぜ。一体どの国と戦うつもりか知らないけどよ、単なる噂じゃねえことは確かだな」
「訓練か。城の中でやるんだろうな。いいなあ、俺も呼ばれないかな」
ひょろりとした兵士が長い手足を伸ばしながら言うと、周囲にたむろする兵士達が爆笑した。
「うひゃひゃ。ムースが呼ばれるくらいなら、俺達全員隊長になれるぜ」
「お前の目当ては、訓練というより、あの王宮にお仕えしている色黒の娘だろう? このスケベ野郎、いひひ」
ムースは仲間にからかわれても怒らず、黙ってにやにやしているだけだった。長い腕を伸ばし、卓上に置いてある干し葡萄を摘んで口に入れた。兵士達は、彼が反論せずからかい甲斐がないので、別の話に移った。
「ここいらじゃ聞かねえが、海辺の詰所じゃあ、兵隊を募集しているっていう噂だぜ」
「敵は海から来るってことかよ。俺たち安全だな。辺境勤務じゃなくてよかった」
「ここなら物資も豊富に集まるしな」
兵士達はがやがやと、互いの幸運を喜ぶのであった。ムースはふいと立ち上がった。音もなく詰所を出ようとして、ちょうど戻ってきた兵士とぶつかった。
「おう、ムース。何処へ行くんだよ。まだお前が巡回に行く順番じゃあるめえ」
彼の一言によって、ムースはたちまち詰所の一同の注意を惹いた。
「こっそり抜け出ようたって、そうはいかねえぜ、スケベ男」
「行かせてやれよ。愛しいあの娘と密会するんだろう」
「いひひ、あの娘によろしくな」
ムースは仲間のひやかしに、にやにや笑いで応えると詰所を後にした。そして早足で王宮の方角へ向かった。その表情は一変して深刻で、急に何歳も年をとったようであった。
グーデオンは、レグナエラ王国のある半島の南端に位置する港町で、ロータス川の河口でもある。
河口の両岸には古に作られたイルカの石像が建っている。
石像は、実はイルカではなく魚神だという説もあるが、誰も真偽を証明できていない。イルカが魚神の遣いであるという言伝えから出た説だといわれている。
町の中心部はロータス川東岸にあるが、大きな船着場が西岸にあることから、船乗り達は上陸中の時間をなるべく西岸で過ごそうとするのであった。
西岸と東岸を結ぶのは小舟で、偏屈な老人が漕ぐことが多く、自ら船を操る船乗りにしてみれば、やりとりがしち面倒臭い。
「おらおら、もっと腰を入れて担げ! 大事な荷が塩水漬けになっちまう。おう、お前、休んでいるんじゃない! まだ積荷は残っているんだ。さっさと動けばさっさと終わって、たんまり休めるぞ!」
錨を下ろしたばかりの、他と比べて割合大型の船の甲板に、大柄な男が仁王立ちして積荷下ろしの人夫達を叱咤していた。
怒鳴り声は雷鳴の如く響き、却って驚いた人夫が荷物を落とすのではないか、と見る者に心配を与えた。
見物人の心配は杞憂で、積荷は無事に全て下ろされた。男は下船し、待ち構えていた荷受人とやりとりを交わした後、人夫を並ばせて一人一人に報酬を支払った。
それからまた船に戻り、後始末をする船員達に、それぞれ声を掛けて回った。
船に残る船員を除きあらかた下船すると、船長も手荷物を持って陸へ上がった。
大柄なだけでなく、毛むくじゃらの体は筋肉隆々で、積荷を運ばせたら人夫二人分の仕事をこなせそうな、がっしりとした体格の男であった。
「レニト船長」
まばらになった見物人の中で、最後まで熱心に作業を眺めていた二人組の兵士が声を掛けた。巡回の途中でさぼっているのとは違う様子である。レニトは怪訝な顔をしながらも、いざなわれるまま兵士に付いて、人の耳が届かないところまで来た。
「船長はあの船の持ち主でもありますね」
「そうだ、あれは俺の船だ」
グーデオンに接岸したのは久々とはいえ、兵士が発する聞き慣れない丁寧な言葉遣いが、レニトの表情をますます固くした。
二人組の兵士のうち、喋るのは年嵩の方だけである。大事そうに荷物を抱えた年若の兵士は、一歩引いて二人のやりとりを見守っている。
「レグナエラ王の命令により、船長の船を乗組員ごと徴発します。異議はありますか」
「なに?」
もじゃもじゃした眉を吊り上げ聞き返すレニトに、兵士はむしろ気の毒そうに同じ言葉を繰り返した。答えは諾しかない。
断れば、レグナエラ領内の全港へ入港できないばかりか、追討の対象となる。
「もちろん、慣例に従って、戦闘中に得られた貴金属などの人間を含む財産は、王族を除いてあなたの所有になります。王族を手に入れた場合の処置はおわかりですね」
髭もじゃの口をもごもごさせ、はっきり返答しかねているレニトに、兵士は付け加えた。あくまでも丁重な物腰である。レニトは頷いた。
「生死を問わず、速やかにレグナエラの本部に連絡し、指示を待つ」
そうです、と兵士も頷いた。何となしに、承諾したような雰囲気になってしまった。レニトは字の読み書きができたので、年若の兵士が差し出す契約書の内容も理解できた。まさに説明された内容が記されていた。
早速用意されたインクを使い、羊皮紙へ印章を押印させられた。
「ご協力ありがとうございます。あなたはマエナ隊長の指揮下に入ることになります。では、詳しい事は後日連絡しますので、それまで錨を下ろしたままでいるように」
兵士達は去った。レニトは呟いた。
「どうせメリディオンには当分入港できねえって言われたんだから構わねえか。とすると、噂の相手はメリディオンらしいな」
ソルマヌス王が物資を買い占めているという噂が市場を駆け巡っているにもかかわらず、豊富な品揃えは以前と変わらず、物価が高騰するほどの影響は与えていないように見える。
「いつもと変わらねえな」
巡回している兵士が誰に言うともなく呟いた。相方の兵士が返事をしなくても、気にする様子もなかった。兵士達はそのまま何事にも遭遇せずに詰所へ戻ってきた。座る間もなく一人の兵士が呼ばれて出て行った。残った兵士は空いた椅子を引き寄せ、ひょろりとした体を椅子へ慎重に乗せた。
「あいつは何処へ呼ばれたんだ」
「教練だとさ。最近、めぼしい奴を集めて色々訓練しているらしいぜ。一体どの国と戦うつもりか知らないけどよ、単なる噂じゃねえことは確かだな」
「訓練か。城の中でやるんだろうな。いいなあ、俺も呼ばれないかな」
ひょろりとした兵士が長い手足を伸ばしながら言うと、周囲にたむろする兵士達が爆笑した。
「うひゃひゃ。ムースが呼ばれるくらいなら、俺達全員隊長になれるぜ」
「お前の目当ては、訓練というより、あの王宮にお仕えしている色黒の娘だろう? このスケベ野郎、いひひ」
ムースは仲間にからかわれても怒らず、黙ってにやにやしているだけだった。長い腕を伸ばし、卓上に置いてある干し葡萄を摘んで口に入れた。兵士達は、彼が反論せずからかい甲斐がないので、別の話に移った。
「ここいらじゃ聞かねえが、海辺の詰所じゃあ、兵隊を募集しているっていう噂だぜ」
「敵は海から来るってことかよ。俺たち安全だな。辺境勤務じゃなくてよかった」
「ここなら物資も豊富に集まるしな」
兵士達はがやがやと、互いの幸運を喜ぶのであった。ムースはふいと立ち上がった。音もなく詰所を出ようとして、ちょうど戻ってきた兵士とぶつかった。
「おう、ムース。何処へ行くんだよ。まだお前が巡回に行く順番じゃあるめえ」
彼の一言によって、ムースはたちまち詰所の一同の注意を惹いた。
「こっそり抜け出ようたって、そうはいかねえぜ、スケベ男」
「行かせてやれよ。愛しいあの娘と密会するんだろう」
「いひひ、あの娘によろしくな」
ムースは仲間のひやかしに、にやにや笑いで応えると詰所を後にした。そして早足で王宮の方角へ向かった。その表情は一変して深刻で、急に何歳も年をとったようであった。
グーデオンは、レグナエラ王国のある半島の南端に位置する港町で、ロータス川の河口でもある。
河口の両岸には古に作られたイルカの石像が建っている。
石像は、実はイルカではなく魚神だという説もあるが、誰も真偽を証明できていない。イルカが魚神の遣いであるという言伝えから出た説だといわれている。
町の中心部はロータス川東岸にあるが、大きな船着場が西岸にあることから、船乗り達は上陸中の時間をなるべく西岸で過ごそうとするのであった。
西岸と東岸を結ぶのは小舟で、偏屈な老人が漕ぐことが多く、自ら船を操る船乗りにしてみれば、やりとりがしち面倒臭い。
「おらおら、もっと腰を入れて担げ! 大事な荷が塩水漬けになっちまう。おう、お前、休んでいるんじゃない! まだ積荷は残っているんだ。さっさと動けばさっさと終わって、たんまり休めるぞ!」
錨を下ろしたばかりの、他と比べて割合大型の船の甲板に、大柄な男が仁王立ちして積荷下ろしの人夫達を叱咤していた。
怒鳴り声は雷鳴の如く響き、却って驚いた人夫が荷物を落とすのではないか、と見る者に心配を与えた。
見物人の心配は杞憂で、積荷は無事に全て下ろされた。男は下船し、待ち構えていた荷受人とやりとりを交わした後、人夫を並ばせて一人一人に報酬を支払った。
それからまた船に戻り、後始末をする船員達に、それぞれ声を掛けて回った。
船に残る船員を除きあらかた下船すると、船長も手荷物を持って陸へ上がった。
大柄なだけでなく、毛むくじゃらの体は筋肉隆々で、積荷を運ばせたら人夫二人分の仕事をこなせそうな、がっしりとした体格の男であった。
「レニト船長」
まばらになった見物人の中で、最後まで熱心に作業を眺めていた二人組の兵士が声を掛けた。巡回の途中でさぼっているのとは違う様子である。レニトは怪訝な顔をしながらも、いざなわれるまま兵士に付いて、人の耳が届かないところまで来た。
「船長はあの船の持ち主でもありますね」
「そうだ、あれは俺の船だ」
グーデオンに接岸したのは久々とはいえ、兵士が発する聞き慣れない丁寧な言葉遣いが、レニトの表情をますます固くした。
二人組の兵士のうち、喋るのは年嵩の方だけである。大事そうに荷物を抱えた年若の兵士は、一歩引いて二人のやりとりを見守っている。
「レグナエラ王の命令により、船長の船を乗組員ごと徴発します。異議はありますか」
「なに?」
もじゃもじゃした眉を吊り上げ聞き返すレニトに、兵士はむしろ気の毒そうに同じ言葉を繰り返した。答えは諾しかない。
断れば、レグナエラ領内の全港へ入港できないばかりか、追討の対象となる。
「もちろん、慣例に従って、戦闘中に得られた貴金属などの人間を含む財産は、王族を除いてあなたの所有になります。王族を手に入れた場合の処置はおわかりですね」
髭もじゃの口をもごもごさせ、はっきり返答しかねているレニトに、兵士は付け加えた。あくまでも丁重な物腰である。レニトは頷いた。
「生死を問わず、速やかにレグナエラの本部に連絡し、指示を待つ」
そうです、と兵士も頷いた。何となしに、承諾したような雰囲気になってしまった。レニトは字の読み書きができたので、年若の兵士が差し出す契約書の内容も理解できた。まさに説明された内容が記されていた。
早速用意されたインクを使い、羊皮紙へ印章を押印させられた。
「ご協力ありがとうございます。あなたはマエナ隊長の指揮下に入ることになります。では、詳しい事は後日連絡しますので、それまで錨を下ろしたままでいるように」
兵士達は去った。レニトは呟いた。
「どうせメリディオンには当分入港できねえって言われたんだから構わねえか。とすると、噂の相手はメリディオンらしいな」
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