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第三章 明巴

7 密告された

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 大学祭を見に行った次の週末、俺と明巴はデートをした。

 行った先は明治村であった。明治期に造られた建築物をあちこちから集めた場所である。
 ついでだからと犬山城も見た。城はもちろん、明治村の建物は再現物ではなく、建材など本物を持ってきて組み立てている。どの建物も、歴史の重みを感じさせる。

 ただ、突如として豪勢な建物が密集して出現した、という違和感はある。普通の町ならばただよう生活感がないのである。

 観光地なのだからそれは仕方あるまい。旧帝国ホテルで優雅なティータイムを過ごしたり、今では珍しいSLに乗るのも楽しいが、てっきりホテルに行くものと思っていた俺は、肩すかしを食らった気持ちであった。

 しかし運転するのは明巴である。自分からホテルに行こう、とねだることもできなかった。

 「今日はだめな日なの。ごめんね」

 帰りの車中で、明巴が唐突に告白した。それで俺の気持ちがやっと落ち着いた。

 だめな日なら仕方がない。巷の話では、だめな日でもする男がいるそうであるが、俺はそこまでしたいとは思わなかった。何か怖いし。

 「その代わりというのも変だけれど、来週は私の父の別荘に泊まって、ゆっくり過ごしましょうよ」
 「別荘を持っているなんて、優雅ですね」
 「趣味人なのよ。空けておくのも勿体もったいないから、使わないと」

 たちまち俺は、妄想に支配される。

 どんな別荘なのだろう。洋風ならば、リゾートホテルのような白亜の城、和風ならば、黒板塀に囲まれて、見越みこしの松があるような家かもしれない。

 映画に出てくるような天蓋てんがい付きのベッドで、あるいは虎の毛皮が敷いてある暖炉の前で、あるいはしっとりと落ち着いた和室の布団の上で、明巴とたわむれるのである。

 「どんな格好をしていけばいいのでしょう」

 妄想の途中、自分の格好が思い浮かばず、我に返って尋ねた。

 「普通でいいわよ。山の中だから、少し寒いかもしれないわね」
 「楽しみです」

 アパートに帰るまで、足取りも軽かった。
 部屋に入ろうとして、ふと隣を見て、エイミのことをやっと思い出した。

 泊まりがけの外出となると、母対策のためにもエイミに言っておかなければならない。

 しかし、明巴と付き合っていることを、これまでエイミに伝えていない後ろめたさがあった。

 しばらく自分で対策を考えて、エイミには前の日ぐらいに言うことにしよう、と俺は思った。

 そしてそのまま考えることを忘れた。


 明巴の別荘へ行くという計画を聞いてから、模擬試験前だというのに、俺は授業も上の空であった。

 受験シーズンが近付くにつれ、模試の回数も増える。
 集中力を欠くのは、模試慣れしたせいかもしれなかった。

 週のなかばになって、フタケが近頃には珍しく、どこか人目を避けて昼飯を食おうと誘ってきた。近くの店で弁当と飲み物を買い、予備校へ戻って人気のない教室を探す。

 「俺たちのこと、噂になっとるって知っとるか」

 開口一番、弁当を開けるより早く言われ、俺は弁当を取り落としそうになった。フタケの方は、さっさと弁当に箸をつけつつ喋り続けた。

 「ここの職員と生徒ができとるって噂だわ」
 「知らん」
 「おみゃあ、うといなあ」

 周囲で交わされる、早口のネイティヴな地元弁を、いまだに聞き取れないだけである。

 「名前を特定されとらんで、今のところ表立った問題にはなっとらんみてゃあだ。生徒数多いしな。先生の方は限られるだろう? そろそろ潮時しおどきだ思うに」

 「ふーたはもう、切ったのか」
 「いや、まだだ。あっちはプライド高いでな。少し考えな」

 「俺のところは、全然そんな気配ないよ」
 「やっぱり本気で捕みゃあられるんじゃにゃあのか。タカのところも危にゃあがねな。案外あんがい、噂の出所はあの辺りかも」

 「自分で流したということ?」
 「まさか。おたぎゃあ夢中になって、ガードが甘いという意味だわ」
 「へええ」

 俺は明巴をもてあそんでいるつもりはなく、むしろ自分が弄ばれているように考えていた。向こうが本気になった場合、結婚するつもりがあるかと言われれば、まだ未成年の身で非現実的としか思えない。

 それを遊びと責められても仕方がなかった。

 午後授業が行われる教室へ移動する途中で、フタケが脇腹をつついた。

 「ほら、噂をせやあ」

 梶尾明巴が廊下の隅で、生徒と立ち話をしていた。
 相手の生徒を見て、俺はどきりとした。

 エイミであった。普段の2人を知る者には信じられないほど、互いににこやかな笑みを浮かべ話す辺りが、何故かひどく不穏ふおんな雰囲気をかもし出していた。

 フタケは何も感じないのか、一瞥いちべつしただけでさりげなく廊下を折れた。俺も周囲に怪しまれないよう、フタケを追った。

 その晩も、エイミの部屋で夕食を取った俺は、ついに週末の外泊を打ち明けた。
 食後のお茶を用意していたエイミの目が、眼鏡の奥で細められた。

 「土曜日の夕方から日曜日にかけて外泊なさる、と。どの辺りへ行かれるんですか」
 「近場ちかばとしか聞いていないんだけど」
 「さようですか」

 エイミはひどく静かに湯呑みを置き、全く音を立てずに俺の前へ座った。そして俺を見つめたまま、沈黙した。

 視線をらし、俺は茶をすすろうとした。上手く湯呑みを掴めず、こぼしそうになる。そろそろと湯呑みを置いて顔を上げると、エイミはまだ同じ表情で俺を見つめていた。

 「梶尾先生の別荘に行くんだ」

 とうとう白状した。急に力が抜け、肌寒い季節というのに汗が出てきた。
 タイミングよく差し出されるタオルで汗をぬぐう。
 そこでエイミが口を開いた。

 「私も先生の別荘に招待を受けました。ただし、日曜日です」
 「アオヤギも? どういうつもりなんだろう」

 全く訳がわからなかった。

 「フタミがこちらへ来ています。お母様の元へ、ユーキ様が予備校講師とお付き合いされているという電話があったそうで」
 「え、また? 学校は」

 次々に聞かされる予想外の情報に、俺は混乱した。フタミはまだ高校生である。親は文句を言わないのだろうか。

 「フタミにも災難なことです。ところで、梶尾先生とご一緒に大学祭へ行かれた際、磯川霞いそかわかすみに会われたようですが、何を話されたのですか」

 エイミはフタミに軽く同情しつつ、俺を追及してくる。悪いのはフタミではなく、命じた母である。それとも、俺か? 俺のせい?

 「デートしているのかって聞いてきた。そうしたら明巴が、俺と腕を組んで自己紹介したんだ」
 「まさか予備校の講師です、とでも言ったんですか」

 「そこまでは言わない。フルネームと、俺の学力を保証するとか何とか言っただけだ」

 エイミは考え込んだ。先生と呼ばずに明巴と言った時には、眉一つ動かさなかった。予備校内で噂になるぐらいだから、エイミが俺と明巴の交際を知っているのも当然のように思われた。

 というか、俺、大学祭へ明巴と行ったって、教えたっけ? それに霞と会ったことまで、何で知っているんだ?
 付けたのか。全然気付かなかったぞ。フタケや先生方もいたのに。

 「お母様に電話をしたのが磯川霞という可能性はありますが、今すぐ何か手を打つことはできません。フタミについてはご心配なく。ユーキ様が梶尾先生とご結婚されるのならば、時期をみて早めにご報告されるのがよろしいかと存じます」

 頭に浮かんだ疑問をぶつける隙もなく、エイミが畳み掛ける。もう、打ち明ける手間もなくなった。

 「そろそろ別れようと思っているんだけど」

 それまで、俺は明巴と別れることなど頭になかった。しかし結婚するつもりがないことも確かである。フタケに言われたことが、じわじわと浸透しんとうしていたらしい。ぽろりと言葉が出た。
 自分で言っておいて何だがびっくりした。そして同時に納得した。俺の本心だ。
 でも、一方で別荘でイチャイチャするのは既定路線きていろせんである。我ながらずるい。

 エイミはそうですか、と軽く流した。

 「それではフタミには、悪質ないたずらだった、という報告をさせましょう。いろいろ問題は残りますが、差し当たり決めておくべきことは、今度の外泊の口実ですね」

 「コトリかフタケの家に泊まるというのはどうかな」

 「その手は何度も使いました。泊まる先をお知らせするなら、いい加減電話番号を教えないと疑われます」

 「でも本当のことは言えないだろう。ただでさえ、予備校の先生と付き合っているという噂が耳に入っているんだから」

 「火のない所に煙は立ちません。いっそのこと、梶尾先生の特別講習を受けるためという口実で、別荘に行くと正直に話してはどうでしょうか。私も招待されているのは本当のことですし、他にも何人か選抜されているように話せば、選ばれたことをねたんだ誰かが嫌がらせをたくらんだ、と思わせることができるかもしれません。何ごともなく、ただのいたずらだったと言うよりも、よほど説得力があります」

 エイミの大胆な案に、俺はひるんだ。

 「俺、本当に別荘の電話番号も場所も知らないよ。それに、予備校に問い合わせするかもしれないじゃないか」

 「梶尾先生個人のご厚意こういで授業料を取らないから、予備校に知られたら先生のお立場が悪くなる、と言ってください。初めて行く場所なのですから、電話番号も知らなくて当たり前です。知っていたらかえっておかしいでしょう」

 「そうかなあ」

 と言いつつも、俺は段々うまくいくような気になってきた。それに代わりの案がある訳でもない。

 話が片付いたと判断したのか、エイミはお茶を下げる。それをしおに、俺も立ち上がる。

 あまり帰宅が遅れると、母からの電話に間に合わない。

 入校半年を過ぎて、毎日電話がかかることはなくなった。それでも俺からすれば、まだ頻繁である。

 「アオヤギはこれからどうするの」

 帰り際にふと訊いてみた。

 「週末の件について、フタミと相談します」
 「今から、行くのか」
 「‥‥ええまあ」

 如何にも嫌そうに答えるエイミに、俺は反感を覚えた。俺のため、というか母のためとはいえ、夜分、若い女が男の一人で泊まるホテルへ行く図が気に入らない。俺の監視をサボって遊びに行くような感じがした。

 「俺も行く」

 「夜に自宅を留守にして、お母様に今から怪しまれたら、外泊もできなくなりますよ。それに、明日は梶尾先生の化学があります。予習してください」

 「う」

 言い返せず、ひどく悔しい思いをしながら俺は部屋へ戻った。主人は俺なのに、どうもエイミの方が偉いように感じられた。
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