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しおりを挟むあてもなく、スラムの市場に向かった。ぼろの布切れや、錆付いたトタン屋根がパイプで支えられているだけのきれいとは言いがたい市場だが、ここらに暮らす人々の生活の中心だ。
市場に着くとさっそく果物屋の店主に声をかけられた。
「よう。仕事探しか?」
「いいや、今は困ってない」
「ははは、そうか。やっぱり、昨日のもお前がやったんだな」
「……なんの話か分からないな」
「憲兵相手に盗みを働こうなんて考えるやつはこの辺りじゃ、奏(そう)、お前くらいだろ?」
「そんなことないだろ」
「いいや、やってのけちまうのもお前くらいだ。憲兵共は気付いてないが、ここらに長いこと住みついているやつらはみいんな気付いているさ」
思わず顔をしかめた。誰かに余計なことを言われたら厄介だ。
「まあまあ、いざとなれば逃げ切る自信だってあるんだろう?」
「……当然だ」
「ははは。あんまり弟を泣かせるなよ」
ちっ。どいつもこいつもうるさいな。藍(あい)が勝手に泣くんだから仕方ないだろ。俺は何もしてない。それなのにアイツもいつもいつも藍を泣かせるなってうるさかった。
通行証を売ろうかと思ったけれど、せっかく苦労して手に入れた代物だ。少し惜しくなった。今はこの前の仕事でもらったお金が残っている。食べることに困ったら、そのとき考えよう。こんな世界の端っこにある小さな国でも出るためには通行証が必要だ。外に出たいやつらはわんさといる。売ろうと思えばいつだって売れるのだ。
……そうじゃなくても、弟の、藍の気持ちが変わるかもしれない。アイツをちゃんと忘れて兄弟で外に出るという夢を思い出して……。通行証が必要になるときが来るかもしれない。
まだとっておく意味はある。
市場に行ったものの、買い物をするわけでも仕事を探しているわけでもない。
仕方なく丘に向かった。海に沿って弧を描く、この港町を一望できる秘密の場所だ。俺と、藍と……アイツ、……伴(ばん)だけの。
市場と違って静でいい所だ。草原の上に寝転がり、目の前に広がる真っ青な空を眺めた。
(きれいだな。)
海の青は空の青を映したものだって伴が言っていた。本当かどうか知らない。どっちでもいい。ただきれいだなって思えればなんだっていい。それに伴の言ったことなんて……どうでもいい。
伴との出会いは、たしかそう。あれは市場にある屋台で日雇いの仕事をしているときだった。
買い物に行かせた藍の帰りがあまりにも遅く、俺はいらだっていた。
『藍!どこに行ってたんだ。遅い』
『兄ちゃん……』
『お前の弟か』
俺と同い年くらいの見知らぬ少年が泣いている藍の肩に手を乗せて宥めていた。
『誰だ?見ない奴だな』
『……たまたま、そう、たまたま通りかかったんだけど、この子が泣いていたんだ』
藍に目を向けると俯いて何度もこぼれ落ちる涙を手の甲で拭っていた。
『あぁ。いつも泣くから気にしなくていい』
『そういうわけには……』
少年を無視して藍の顔を覗き込む。
『今度は何を盗られたんだよ?』
『……パン。兄ちゃんが買ってくれたパン。明日と明後日の分……』
またか。それも二日分の食料だ。はあ、と大げさにため息を付いた。びくりと藍の肩がはねる。きっと怒られることを恐れているのだ。
『藍、罰としてお前が店番しろ。俺は疲れたから帰って寝る』
冷たく言うと、大きく見開かれた藍の目からまた涙がこぼれた。
『おい、そんな言い方しなくてもいいじゃないか』
『誰だか知らないが、関係ないだろ』
『そうだけど……』
見知らぬやつはうな垂れてそれ以上なにも言わなかった。じゃぁな、よろしく。と言い置いて二人に背を向ける。
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