上 下
93 / 105
8章 未来への布石

8章10話 運命の航海者 *

しおりを挟む
【新帝国歴1140年7月30日 アリーシャ】

 そうして迎えた、ベアトリクスの1歳の誕生日の式典だ。
 ここは公宮の式典の間で、普段の謁見には使わない。公宮で一番豪華な室内には、装飾の施された調度が並んでいる。厳粛な空気の漂う中、窓から入り込んだ陽光が床に踊っている。
  私たちの前に並ぶのは、近隣諸国からの使節団。だけど、ヴォルハイム大公、アルトゥル様ほどの地位にある方は、他にはいらっしゃらない。

 私は、緊張した面持ちでそれらを見渡している。傍らには正装姿のリヒャルト、そして私たちの間には、椅子に座らされたベアトリクスがいる。
 ベアトリクスは最近周囲の人々に対する認識ができてきて、自我も芽生えてきた。また動きも活発になってきて、そろそろ歩いたり話したりできるようになりそうな気配が見えている。
 しかし、私は不安だった。逆に言うと、この知らない人ばかりの今の状況に不快感を覚えれば、むずかって騒ぎ出したりするかもしれず、そうなったら式典は台無しだ。それとも主役のはずの赤ん坊が泣き喚いても、何事も起きていないかのように式典を続行すべきなのだろうか。幸い、今はベアトリクスは落ち着いていて、そんな大騒ぎの気配はなかった。彼女のお気に入りの人形を手に持たせているためかもしれない。こんなものを手にしていては王侯の威厳に関わるという気がしないでもないが、万が一を考えると苦肉の策だ。

 それにしても、アルトゥル様はこの状況をどう思っているんだろう。私は彼の表情に目を走らせる。表情に乏しい若者で、この場でも特に何かの感情を示してはいないが、こんな幼い赤ん坊とどうやら婚約することになった彼の気持ちを私は慮る。何せ、アルトゥル様とベアトリクスでは年齢がまったく違う。14歳の少年に向かって赤ん坊に恋しろと言っても、それは無理な話だ。
 でもその気持ちは、きっと私よりもリヒャルトの方がよく理解できるだろう。私は、彼の昨晩の言葉を思い返す。
『一番大事なことは、彼が、それからベアトリクスが自分の人生を制御していると思えることだ』と、そう彼は言っていた。
 これは政略結婚だ。政略結婚である以上恋愛感情は後回しになって、その不自然な状態は年若い当事者に過大な負担を強いるものになる。だから、リヒャルトと私は、この選択をした。ベアトリクスとアルトゥル様、二人の意志によって婚姻が成立するという形に拘ったのだ。
 まずは、恋愛しろとは言わない。でもそこに親愛の情が芽生えない限り、そして自分の人生を自分で選択しているという実感が得られない限りは、私たちもまた彼らに終わりなく続く呪いを引き継ぐことになる。
 私たちは強くはない、その呪いを完全に解くことができるほどには。これは形式論でしかないのかもしれず、また、未来の私たち、それから彼らにどんな困難が降りかかってくるか、それによって吉とも凶とも出かねない、そういう決断だった。

 式典は進んで、今はアルトゥル様が、ベアトリクスの前に立ち、身を屈めている。
 ベアトリクスはアルトゥル様に、どう見えるだろう。私はそのことが気にかかっている。貴族的なリヒャルトに似てくれればいいのだけど、貧乏くささが否めない若い頃の私に似てしまったらどう受け止められるのか、私にはなんとも分からない。でも、なんとなく私に似そうな気配も見えてきている。

 不意に、ベアトリクスが声を上げる。きゃっきゃと笑ってアルトゥル様の方に手を伸ばすが、どうもアルトゥル様ではなくて、その衣装の上を踊る陽光に手を伸ばしたようだった。その拍子に手にしていた人形を落としてしまい、私は慌てて立ち上がるとそれを拾い、彼女の腕に戻す。
 公妃がこんなことをするのは相応しくないのだが、幸い一同の視線はベアトリクスとアルトゥル様に注がれており、私の方には注意が向かなかったのが幸いだった。

 恐る恐るといった感じで、アルトゥル様はベアトリクスに指を一本差し出し、ベアトリクスも手を伸ばす。ヴォルハイム家の正装なのか、彼の手に嵌められているのは金属製の籠手だ。
 だけど、それでは幼児に触れるには相応しくないと考えたのか、この場において彼はその籠手を外してみせたのだ。
 差し出された指を、小さな、小さな手が握る。
 ベアトリクス。元々は航海者を意味しており、幸福の運び手という意味もある名前だ。幾多の困難もあるだろう人生を泳ぎ切っていけるように、そして、彼女自身の世界をその目で見ることができるように、リヒャルトが名付けた名前だった。
 私は、小さな声で呟く。
「ベアトリクス。あなたに、幸せが訪れますように。そしてあなた自身も、皆に幸せを運ぶことのできる人になりますように」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【完結】永遠の旅人

邦幸恵紀
SF
高校生・椎名達也は、未来人が創設した〈時間旅行者協会〉の職員ライアンに腕時計型タイム・マシンを使われ、強引に〈協会〉本部へと連れてこられる。実は達也はマシンなしで時空間移動ができる〝時間跳躍者〟で、ライアンはかつて別時空の達也と偶然会っていた。以来、執念深く達也を捜しつづけたライアンの目的とは。

深淵の星々

Semper Supra
SF
物語「深淵の星々」は、ケイロン-7という惑星を舞台にしたSFホラーの大作です。物語は2998年、銀河系全体に広がる人類文明が、ケイロン-7で謎の異常現象に遭遇するところから始まります。科学者リサ・グレイソンと異星生物学者ジョナサン・クインが、この異常現象の謎を解明しようとする中で、影のような未知の脅威に直面します。 物語は、リサとジョナサンが影の源を探し出し、それを消し去るために命を懸けた戦いを描きます。彼らの犠牲によって影の脅威は消滅しますが、物語はそれで終わりません。ケイロン-7に潜む真の謎が明らかになり、この惑星自体が知的存在であることが示唆されます。 ケイロン-7の守護者たちが姿を現し、彼らが人類との共存を求めて接触を試みる中で、エミリー・カーペンター博士がその対話に挑みます。エミリーは、守護者たちが脅威ではなく、共に生きるための調和を求めていることを知り、人類がこの惑星で新たな未来を築くための道を模索することを決意します。 物語は、恐怖と希望、未知の存在との共存というテーマを描きながら、登場人物たちが絶望を乗り越え、未知の未来に向かって歩む姿を追います。エミリーたちは、ケイロン-7の守護者たちとの共存のために調和を探り、新たな挑戦と希望に満ちた未来を築こうとするところで物語は展開していきます。

鉄錆の女王機兵

荻原数馬
SF
戦車と一体化した四肢無き女王と、荒野に生きる鉄騎士の物語。 荒廃した世界。 暴走したDNA、ミュータントの跳梁跋扈する荒野。 恐るべき異形の化け物の前に、命は無残に散る。 ミュータントに攫われた少女は 闇の中で、赤く光る無数の目に囲まれ 絶望の中で食われ死ぬ定めにあった。 奇跡か、あるいはさらなる絶望の罠か。 死に場所を求めた男によって助け出されたが 美しき四肢は無残に食いちぎられた後である。 慈悲無き世界で二人に迫る、甘美なる死の誘惑。 その先に求めた生、災厄の箱に残ったものは 戦車と一体化し、戦い続ける宿命。 愛だけが、か細い未来を照らし出す。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

もうダメだ。俺の人生詰んでいる。

静馬⭐︎GTR
SF
 『私小説』と、『機動兵士』的小説がゴッチャになっている小説です。百話完結だけは、約束できます。     (アメブロ「なつかしゲームブック館」にて投稿されております)

トモコパラドクス

武者走走九郎or大橋むつお
SF
姉と言うのは年上ときまったものですが、友子の場合はちょっと……かなり違います。

処理中です...