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6章 歴史の終わり

6章5話 病室にて *

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【新帝国歴1132年8月9日 ヨハン】

  ランデフェルト公国きっての技術者、生きていればこの世界の命運を左右することになったかもしれない自然哲学者であり、俺の師匠、ウワディスラフ・エミルはそうして死んだ。何も悪いことはしていない、『災厄』という、わけのわからない悪意と、世界の理不尽さを象徴するようなあの存在によって。
  あの巨大な災厄に持ち上げられた貨車から墜落した俺も、当然無事ではなかった。速やかに病院に運ばれて大手術を受け、一命は取り留めた。だが、命さえ助かればいいというものでもない。
 足から転落して、それも右足だけが先に接地したのは運が良かったのかもしれない、なぜなら他の部分が守られるから。当然右足は犠牲になって、再起不能なダメージを受けた。膝から下は切断せざるを得なかった。手術の際は、一種の麻薬が使われて痛みを軽減してもらえていたらしい。だが、その時はそんなことは感じなかった。何度も俺は痛みに絶叫して、終いには意識がなくなった。意識があったら発狂していたかもしれない。
 右下肢切断。これは、俺が二度と、軽快に走ることができないことを意味していた。二度と。だが、それがどれだけの損失であるかは分からない。冷静に考えれば凄まじい損失であるはずだが実感が湧かない。精神の防御機構が、それを正面から受け止めることを本能的に拒否しているのかもしれない。
 それに、身体中の他の部位が、完全に無事だったわけじゃない。鎖骨は見事に骨折したし、左足だって別に無事ではなく、動かすたびに痛んでいた。まともに動けるようになるかどうかすら分からない。しかし未来のことはこの時点では遠い話だった。何故なら、右足が痛んでいたから。切断した箇所が痛むというだけじゃなかった。存在しない右足が亡霊のように痛みを訴えている。仕方ないので薬を使ってもらっているが、これも長期的に考えると、頭に影響が出ないとは限らない。
 そんなわけで、俺は薬で朦朧としながらも、鬱々とした数日間を過ごしていた。病院、その言葉に陰鬱な響きだけを感じる人間は多い。ベッドはそんなに悪いものではなかったが、漆喰塗りの質素な壁と、これまた作りつけの悪い質素なテーブルと椅子は、俺の実家と比べてもいかにも殺風景だ。唯一窓だけは庭に面していて、初夏の緑の色が、一瞬だけこの状況を忘れさせてくれる役には立っている。

 だが、その日だけは違っていたのだ。
「……なんで、あんたがここにいるんだ?」
 がたがたの椅子に、ちょこんと座った小柄な女。ヴィルヘルミーナ嬢だった。相変わらず高そうな服だった。
「お分かりかと思いますけど?」
「分からんが」
「その態度はなんですの! せっかくこのわたくしがお見舞いに伺って差し上げてるんですから、もっと感謝なさい!」
「なぜあなたのような貴婦人が、私のような数ならぬ身に勿体無くもご関心を向けていらっしゃるのですか? って聞けばいいのか?」
 つい俺はそんな口をきく。昔からアリーシャに言われていた通り、無駄な皮肉は俺の悪い点だが、これは誤魔化しだった。お見舞い、この女はそう言った。 

 大惨事に終わったあの蒸気機関のお披露目の席で、彼女は来賓として最前列にいたのだ。 あの手に持ち上げられた蒸気機関車から俺が転落するところも、それから、地面に叩きつけられた機関車にウワディスラフが潰されるところまで目撃していたに違いなかった。威勢の良いヴィルヘルミーナ嬢だが、恐怖しないわけがない。こうしてわざわざ俺なんかの見舞いに訪れていることこそ、その証拠のようなものだった。

「……あんたには、酷い有様を見せたかもしれんな。折角だから、面白いものを見て帰って欲しかったんだが」
 俺の言葉には苦々しい響きが混じる。面白いものを見て帰って欲しかった。それは嘘偽りのない気持ちだった。
「怖かっただろう。悪かった」
「……なんであなたが謝るんですの! それから、わたくしがことに当たっていちいち臆しているような女みたいな言い方はやめていただけませんこと、無礼ですわよ!」
 そう叫んで彼女は俺の額を叩く。
「いだっ」
 大した力ではなかったが、身体中ボロボロの今の状態では、反動でベッドに当たっただけで痛む。
「ご、ごめんなさいませ!」
「大丈夫、そんなに痛くない」
「大袈裟ですわね!」
 実際には相当痛かったのだが。

 しかし、だ。最近は寝てばかりでろくに回っていない頭を働かせようと、俺は自分を奮い立たせる。ヴィルヘルミーナ嬢、この女はあのリヒャルト殿下の『元婚約者』だ。そして問題は、アリーシャと彼女、この二人を並べた場合の話だ。アリーシャの例の件は、何かにつけて俺の心に引っかかってくる。
『それが本来どうあるべきなのか、どんな選択を取らなければならなかったのか、他の人が決めることはできない。そこにある全ての経緯、全ての動機、全ての感情が見通せない限りは』
 ウワディスラフはそう言った。アリーシャ一人を取ってみれば、それは確かにその通りだ。だが、この女が絡んできた場合には違う。
 二人が婚約解消して、それから2年して、別の女が公妾に昇格。正直言って、かなり醜悪な構図だった。4歳年下の元婚約者、そして4歳年上の愛人。交際期間が被っていないから咎めることではないのかもしれない、だが交際期間が本当に被っていないのかは、俺には判断がつかなかった。
 とにかく、アリーシャは『今は殿下の正式な愛人です』と自己紹介したわけでもないし、俺は『この女の弟です』と自己紹介したわけでもない。この娘に、この娘を傷つけるような詳しい事情が伝わっていないことを祈るばかりだ。
 だがそんな俺の期待は、虚しくも打ち砕かれることになる。

「アリーシャ様には、あんまり似ていらっしゃらないんですのね?」
「……誰か、あんたに言ったのか? 俺たちが姉弟だって」
「だって、顔がそっくりですもの」
「似てないのにそっくり、どういうことなんだ」
「そうですわね……だって」
 それからヴィルヘルミーナ嬢は、その結論を口にする。
「アリーシャ様は、恋する乙女……でしょう?」
 終わった。
 俺は顔を覆わざるを得なかった。

「どうかしましたの?」
 沈んでいた俺に、ヴィルヘルミーナ嬢は無邪気に声を掛けてくる。
「……いや、その」
 俺はなんと表現していいか、言葉に迷う。考えろ。記憶から呼び起こせ、明るい材料を。
「……アリーシャは、あんたの話をしていたよ。3年前だったか? そっちに訪問した時のことを。愛らしいお嬢さんだったし、聡明だったと言っていた」
「当然ですわね!」
 そんな風に答えるものの、ヴィルヘルミーナ嬢は誇らしげだ。
「それだけに……すまない。こんなことになってしまって。誰も、そんな風に事態が進展するとは思っていなかったんだ」

 俺が口にしているこの言葉すら、欺瞞かもしれない。3年前の婚約解消に至ったリンスブルック侯国への訪問で、アリーシャは殿下に同行していた。女連れの訪問。他意がなければいい、だが他意はあったのか、なかったのか。現時点の状況から考えると、その醜悪さはあからさまだ。実際問題としては、あの女がそこで嘴を突っ込んだのか、突っ込まなかったのか。他人の目はいい、当事者が納得しているか、していないか。していれば問題ないだろう、していなければ謝っても謝りきれない。たとえ俺が部外者でしかなかったからって。

 ヴィルヘルミーナ嬢はしばらくきょとんとしていた。ややあってから、納得したように、嬉しそうに口を開く。
「ふーん。へえ。あなた、なかなか見所がありますのね」
「どういう意味だ?」
「見かけによらず紳士だと申し上げておりますの。ああでも、その言葉遣いも直した方がよろしいかと存じますけど。そうですわね……」
 そこまで言った。ヴィルヘルミーナ嬢だが、その後、頬に片手を当てて部屋の中をぐるぐると歩き回っている。

「どうした。檻の中の熊みたいに歩き回って」
「どう申し上げれば分からず屋さんにもご理解いただけるのか、考えておりましたのよ。そうですわね」
 そしてヴィルヘルミーナ嬢は立ち止まり、俺の方に向き直る。
「あなた、お名前は?」
「……ヨハンだ」
 答えながら、今まで彼女には名前を名乗ってすらいなかったことを思い出す。
「ヨハンって呼んでもいいかしら」
「お好きなように」
「ヨハン。正直にお答えくださるかしら?」

 それからヴィルヘルミーナ嬢は、屈み込んで俺の目を覗き込む。

「ヨハンは恋することができる? アリーシャ様に」
「は?????」

 突拍子もない質問に、俺は思わず声を上げる。

「なんでだよ!! ……やめてくれ」
 それから、俺は自分の立場に気が付く。彼女の微妙な話にこうして首を突っ込んでいる以上は、俺も微妙な質問だろうと、ちゃんと答えるべきことを。
「俺はあのクソ姉を大事に思っているが、恋だのなんだのは考えたこともない。分かるだろ、家族なんだから」
「やっぱり一言余計ですよね」
「ほっといてくれ」
 俺は閉口気味だ。俺があの間抜け女(つまり、アリーシャのことだ)を過剰なまでに気に掛けていることは否定できないが、そう捉えられるとしたら心外だ。この女が何を考えてそう言ったのかは、俺には定かではないのだが。
 ヴィルヘルミーナ嬢は笑みを浮かべる。得意げな満面の笑みで、状況と突拍子もない質問を考えると、正直不気味ですらある。
「わたくしも同じだということ。わたくしとリヒャルト様は、はとこの間柄ですの。ランデフェルトの血は、わたくしにも流れていますのよ」
「……ああ」
 俺はやっと、少しだけ得心が行く。彼女は確かに少し似ているのだ、あのリヒャルト殿下に。特にその鋭い目に漂わせる、まるで高貴な獣のような風情が、二人はよく似ていると言えた。
「世間では、はとこやいとこの婚姻はよくあることなのでしょうね。でも、そうはいきませんの。ランデフェルトの血は互いに反発する。そういうこと」
 もう一度俺は沈み込む、脱力感に襲われながら。ちょっと俺にはよく分からない事が多いのだが、あの公爵殿下と、この跳ねっ返り令嬢は、お互い反発し合いがちな気質なのかもしれない。

「……でも」
「何かしら」
「理解し合えることもあるんじゃないのか。それだけ、お互い似通っているのであれば」
 俺は低い声で疑問を口にする。話がやたらと彼女の内情に立ち入り過ぎている気もしているが、ここまで来たらもう仕方ない。
「ええ。でも」
「でも?」
「……わたくしは、リヒャルト様が怖かった」
「怖かった?」
 そろそろ問題が、彼女の、それからリヒャルト殿下の核心に近づいてきているということなのかもしれない。
「誤解なさらないでね。あの冷たくて無礼な態度、そんなのわたくしには大したことではありませんの。それよりも、あの冷たい……冷たい世界で、あの方が生きていらっしゃることですわ」
 しばらく黙ると、それからヴィルヘルミーナ嬢は再び口を開く。
「……まるで、針の先端に立っていて、そこから一歩も身動きすることを許さないような。……きっとあの高邁さゆえに、いつか自分で自分を壊してしまう。なのにそんなことをなんとも思っていないような、そんな感じです」
 そう言ってから、俺に向かって振り返る。その表情は誇らしげだ。
「あの方はきっと、人間ではないの。わたくしの言う意味が分かります?」
「分からん」
「まあ、分からないかもしれませんわね。それだけの感受性を備えているのでなければ」
「なんなんだそれは」
「あなたも想像してくださいませ。人間ではなくて、天使とか悪魔とか、そういう感じの生き物が、自分を人間だと思っているの。だけど、そっくりそのまま、人間のようには振る舞えない。人間の愛情も持てない。そのまま生きていても、やがて天国か地獄か、そこに帰るしかできないの」
「天使や悪魔って生き物だったか?」
「話の腰を折らないでくださる?」
「すまん。……想像した」
 それが彼女の言う通り、俺に想像できているかどうかは分からないが。
「それが人間の心を手に入れた、そういう感じでした。その、恋心は、ね」
 その最後の言葉を発すると、にんまり笑うヴィルヘルミーナ嬢。

 俺はまた顔を覆う。
 これは羞恥心だ。俺が恥ずかしいんじゃない、これは身内の恥だ。こんな小さな娘に、揃いも揃って肚の裡を見抜かれていた。馬鹿な大人たちだ、いや、大人じゃなかったか、誰一人として。これは子供の恋愛で、誰も苦しまなくて、みんな本当は幸せだった。それを奴らが認めようとしなかっただけで。

「これであなたも、理解していただけました?」
「……ああ、分かったよ」
 そう答える俺の声は嗄れていた。
「分かっていませんようね。この私が、賢くて強い女ってこと、あなたも、理解していただけました?」
 一言一言を強調するように、ヴィルヘルミーナ嬢は発している。勝ち誇った笑みを浮かべながら。
「理解した。これ以上ないほど」

 俺は窓の外に目をやった。光が差し込んできて眩しく、破滅的な世相とは切り離された初夏の光景を瞼の裏に焼き付ける。

「もう少しお話ししていいかしら? わたくし、とある計画がありますの。あなたの蒸気機関車に負けず劣らず、それどころかもっと凄い計画が、ですわ」
「そりゃ、ご挨拶だ」
「どんな計画かお聞きになりませんの?」
 どうやら聞いて欲しいらしい。だが、出会って間もない俺に聞く権利がある話でもなさそうだ。
「教えないだろ」
「実現するって言えるまでは、ですわね」
 
 その後のことはよく覚えていない。そんな会話で疲れ切って、そのまま寝てしまったんじゃないかと思っている、客人に挨拶もせずに。そのことで後から文句も言われなかったので、あのヴィルヘルミーナ嬢も分かってくれたんじゃないかと思っている。
 俺に関してはそんな感じだった。その後のことはあまり言うほどのことはなかったと思う。問題は、アリーシャの方だった。
 アリーシャは、俺の手術中、それから意識が朦朧としていた間には、看護婦役を買って出て、付き添っていてくれたらしい。当時は看護婦の役目なんて確立されていなかったから、これはありがたい話だった。痛み止めのための麻薬の使用はアリーシャが提案したらしいし、傷口の処置についても何か注文をつけていたらしい。
 そのアリーシャだが、俺が意識を回復して、まともに喋れるようになると、逆に顔を見せなくなってしまった。

 とまあ、この年の一件に関しては、俺に語れるのはこの程度だ。俺はベッドから離れることができなかったし、その後の物事の推移からもしばらく遠ざかっていた。だから、この後何が起こったのかを知ることは、公式の記録を読むとか、いろいろな人に聞いて回るしかなかった。それにそんなことができるようになったのも、それからずっと後の話だったのだ。
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