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5章 恋

5章5話 寵愛 *

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【新帝国歴1131年5月15日 アリーシャ】

「リヒャルト様」
 私は声を掛ける。どこか恨めしげに、リヒャルト様は私を見返す。
「そんな目で見るな」
 リヒャルト様は疲れ切っている様子だった。いつもはきれいに糊の当たった服装が、今日はよれよれな印象になっている。連日連夜の徹夜が続いているらしくて、もうなんと言うか、ブラック企業のサラリーマンみたいになっている。正直かわいそうだった。
「夜更かしもあまり苦にはならないかもしれませんけど、お若いから。でも程々になさいませ、まだ子供なんですから」
「私は子供じゃない。それに、好きでやってるわけじゃない」

 リヒャルト様の執務室でのことだった。ジャガイモの疫病に対する早期の対処は、この小さな国家にとって相当の代償を強いるものだった。種芋の焼却処分も、農業生産の縮小分の補填も、現時点では損失でしかない。信頼できる商人から借金をして数年で返済する計画だったが、便宜を図る見返りとして、ランデフェルト家の財産である奢侈品をそれなりに譲り渡すことにもなったという。
「いくつかの部屋が、寂しいことになってしまいましたね」
 そんなことを私は言う。リヒャルト様の書斎には影響がなかったのは幸いだった。
「奢侈品なんてこんな時のためにあるようなものだからな。空いた部屋の分、何を入れるのか考えてみるのも悪くない」
 そんな前向きな発言を口にしたのに、リヒャルト様の表情は暗かった。
「どうかしたんですか?」
 私は首を傾げている。
 でも、それは理解できることだったのだ。成果は見えないし、これからも数年間は影響が続いていくだろう。開発中の蒸気機関の件だって、影響が出ないとは言えなかった。
「多品種の輸入の件だ。あれに物言いがついた、宰相から」
 原産国からの、ジャガイモの原種複数種類の輸入。口で言うだけなら簡単だが、それは実は、凄まじく困難な課題だった。
 ランデフェルトには海がない、それを聞いただけで分かってくれるかと思う。でもヴォルハイム同盟諸国全体ですら、新大陸との海上交易のルートを確保しているとは言い難い。できることは、ヴォルハイム同盟に掛け合って、その総意としての輸入事業を推進することだった。これも時間がかかる話で、また金のかかる話だった。
 私は宰相殿のことを思い返す。髭をたくわえた威厳のある中年男性だった。ランデフェルト公国は別に、リヒャルト様とエックハルト様だけで運営しているわけじゃない。ちゃんと宰相がいて、国家としての機能を担う人々が他にもいて、それで成り立っているのだ。今まであまり私とは関わりがなかったので、話題には出てこなかったのだけど。
 私の提案に実効性があるのかどうか、宰相殿には分からないのだ。それはそうだろう。リヒャルト様にだって分からない。全く不要な事業かもしれないし、損失を抑えるだけで利益に転じる可能性は薄かった。
 そして宰相殿の懸念は、その提案をしたのが私であることにも及んでいた。私は傍から見て、なんだかよく分からない人物。そして、その提案の内容が、まだ全体像が掴めないジャガイモの疫病を事大視して、徹底的に排除しろというもの。私が誇大妄想に陥っているとか(そしてその可能性はゼロとは言い切れない)、ことによってはタチの悪い宗教にハマっているようにすら見えているかもしれない。

「宰相は、お前の立場をはっきりしろと言ってきた」
「どういう意味ですか?」
「国政に口を出すのであれば、相応の身分、それから職階である必要があるということだ」
 つまり私の身分の問題が、ここに来て噴出してきたということだった。
「じゃあ、もう何も言うな、と」
 それはかなり痛い話だ。下手をすると輸入事業すら頓挫しかねない。
「違う、そうじゃない。身分を与える必要がある、ということだ。それも、今までとは違う。廷臣になってもらうしかない」
 廷臣とは何なのか。君主の側近くお仕えして、日々のお世話をしたり、助言を行ったりする家臣だ。エックハルト様も廷臣だ。だけど、それだけではよく分からない。だって廷臣自体が曖昧な概念だ。
「どういう意味、ですか」
 何だか、嫌な予感がする。嫌と言っていいのか、私にはよく分からない。胸騒ぎ、この話を聞いたら、もう後には戻れない、そんな予感がしていた。だって、そう思ってしまうぐらい、リヒャルト様はそれを言いたくなさそうだった。
「……公妾。……一番簡単に用意できる身分だ、この私が」

 公妾。公的な支出を許される、君主の愛人だ。
 メイド部屋で歳下の女の子たちとそんな会話をしてたの、一年とちょっとしか前じゃないの? あの時はただの妄想だったし、それで良かった。
 私はいろんな感情に突き動かされる。
  そろそろ私は、自分自身に、誤魔化し続けてきたことを認めなければならない。私は、リヒャルト様のことが好きだ。ずっと前から好きだったし、たぶん最初から好きだった。じゃあその好き、って、どういう好きなのか? 尊敬している、とは、前に彼に告げている。主君として、それから人間として。でも。男性としての好き、がそれらに勝ち始めている。ここに至ってはそのことを認めざるを得ない。
 この提案。つまり私たちの関係が、恋愛関係だった、ってこと。私は女性として見られていた。それっていいことなのか、悪いことなのか。嫌いな男性からだったら、当然嫌なことだ。 じゃあ、好きな人だったら。好きな人から好きだと思われる、自分のことを好きな人のことを自分も好きになれる。そんなことは人生で、あるようでない。
 じゃあ、嬉しいの? こんな提案を受けて、今の私は。
 そう。違う。はいだけど、同時にいいえ。
 何か鋭いものが突き刺さったように、心臓が痛い。

 だってこれは罪深い話だ。そんなの当たり前でしょ?
 この申し出。下手を打ってしまえば、私は、彼は、罪深い人生に落とされる。こんな提案をすること自体が罪だ。この世界の罪だ、だけど同時に、これは彼の罪だった、疑いようもなく。
 私を正式に学者として遇することはできないのだ。だって、私は高等教育の経歴がないから、この世界では。その他のどんな可能性を考えても、私を何か、公的に重要な立場に付けることはできない。
 そんなの、なんとかしてくれないの、ねえ? 答えはノーだった。強権を発動すれば何だって可能だろう、だけどそれは権力の濫用だ。そんなこと言ったら、公妾みたいに自分の女に政治に口出させるのだってどうなの? でも、何の立場もない、得体の知れない人間に口を出させているよりはよっぽどマシだ。それどころか、実際にはその資格がない人物を、寵愛を理由にして学者の身分に就かせるとしたら、それは有り得ないぐらい醜悪な話だ。
 それでも。

「……公妾ということにすれば、私を廷臣として扱うことができる。それが理由。……でも、それだけじゃないですよね」
 それだけじゃない、そう言って。それだけだと言ったら、私はこの場を出ていく、今すぐに。
 私はリヒャルト様を睨みつけている。多分、今の顔は私の方が怖い、どんなに怒っている彼よりも。そうだ、私は怒っている。
 リヒャルト様は黙っている。表情は険しかったけど、私に気圧されている。彼は怒っているんじゃなくて、多分、傷ついている。
 やがて、リヒャルト様は口を開いた。
「……それだけじゃ、ない」
 それからリヒャルト様は視線を落とす。辛そうな、悲しそうな目で、その言葉を続ける。
「……私は、お前のことが好きだ。ずっと前から。多分最初から。だけど、私は自分の人生を選べない。私は駒なんだ。私は自分で自分を駒にするゲームに参加している、生まれた時から。降りるというのは、全て捨てるということだ。特権だけじゃない、父祖から受け継いだ義務も、存在意義も」
 その言葉の意味。

 私とは結婚できない。自分は政略結婚の駒だから。そう言っていた。
 私は前世の世界の歴史、そのいくつかの、政略結婚を巡る物語について思い返す。イワン雷帝は確か、イギリスに野心を抱いてエリザベス一世に求婚した、だけど相手にされなくて、酷い言葉で罵ったという。他の求婚者たちも似たようなものだった。政略結婚は愛で成されるわけじゃない。それはお見合い結婚では最初から相手が好きなわけじゃないって、そんな罪のない意味じゃない。好きではないのに、好きではないからこそ求婚する者だっている。そして、自分自身がその人生で見出した、愛する人とは添い遂げられない。彼女もそうだった、私たちの知り合いの誰かじゃなく、エリザベス一世のことね。
 公妾。その忌まわしい制度。なんでそんなものが存在しているのか、初めて私は理解してしまう。そうしなければ、感情の行き場がない。
 女王は言った、私は既に国家と結婚していると。リヒャルト様だって同じだ。彼も国家と結婚している、この国があの国より、もっとずっと小さな国でしかなかったとしたって。

「……酷い、よ」

 それでも私はそう言ってしまう。今後の政略結婚の可能性、それを彼は否定していない。政略結婚するつもりなら、あの子とすればよかったんだ、ヴィルヘルミーナ様と。できるでしょ、今だったら? 人と折り合うことができるようになった今のあなたなら。彼女だったら私は祝福できた。でも今からじゃ無理だ、今後彼がどんな人と政略結婚したって、私には祝福はできない。

「…………」

 私は顔を覆いかける、でも泣くことはできない。グズグズになったら駄目だ、負けてしまう。彼に? 彼だけじゃない、この理不尽を強いる世界のシステム、全てにだ。
 私は、彼の一番大事な人にはなれない。それが鍵だ。今この私を傷つけているのはその事実だけ、でもそれは、最初から分かっていたことだった。
 もう潮時なのか。全てを悟り、諦めて、でも譲ることができない自分の線引きを知って、黙って去るのが唯一の正解なのか。それは、今までのことを全部放棄して、そういうことなのか? それはアリーシャの三年じゃない、若葉として生きてきた人生を活かすための、唯一の手段なのに。
 違う、そうじゃない。今の問題はそれじゃない。
 問題はこの決定が、原種輸入事業、その成否に関わるということだった。私ももう巻き込まれている、自分の身を賭け種にした賭けの現場に。その乙女じみた発想はやめろ、私。これが多くの人の生命に関わるかもしれない決断だってことを、私は理解して、決断を下さなければならない。
 考えろ。結論を出せ。
 そうして私は、ずっと黙っていた。リヒャルト様も黙っている。その時間がどれだけだったのか。

 やがて口を開いたのは、彼の方だった。
「いい。わかった。……もういいんだ、最初から分かっていた。お前は高貴な人間だ。この身を差し出して、まだ存在してすらいない子孫をも賭け種にして権力争いに拘泥している、私よりずっと。そんな私が、お前をどうして縛ることができる? 済まなかった。いい」
 そんなリヒャルト様の口調は、今までには聞いたことがない位に優しかった。だけど。
「……あなたは分かっていない、全然、私のことを。……でも、本当は違うよね? 分かっている、全て。それなのにそんな選択を強いている。それも分かってるんでしょう、自分で?」
 私は立ちはだかる、彼の前に。
 何を理解させたいのか? 彼に、私は、私の何を。
「そうよ、あなたは酷い人。私が拒否しないことを分かっていて、そういうことを言うんだから。だからそんな酷い人には、」
 私は彼の首に手を回す。そうして、その唇に、唇を合わせる。
 そう、この私から。小心者で気が弱くて、お人好しで断るのが下手、そんな女のアリーシャが。それが本当に私自身のことか、もう私にはわからない。
 彼は拒否しなかった。驚きすらしない、私が本当はこんな女だってことにも。ただ悲しそうな、泣きそうな顔をしただけだった。

 そうしていたのは、どれだけの時間だったのか。
「…………」
「…………」
 どちらからともなく、私たちはお互いの身を離す。
 私はリヒャルト様の顔を見る。そして、リヒャルト様は私の顔を見ている。
 その青い目に宿るのは、その川底すら見通せるような清流の色なのか、遠く離れた暗黒の空で燃え盛る若い恒星の色なのか。でもきっと違う、私たちは罪の誘惑、あるいはそのくびきの前にあって、あまりにも無力だ。
 リヒャルト様が見ている私の目には、いったい何が宿っているのだろうか? 張り詰めた彼の顔からだけでは、それを読み取ることはできない。

「……リヒャルト様」
 私は口を開く。
「何だろうか」
 ああ、彼の声だ。若々しくて清洌で、でも今はその底に、ざらついた響きを私は聞き取る。
「私たちは共犯者です。いいですね?」
「……ああ」
 リヒャルト様は頷く。
「あなたは、私の一番大事な共犯者。私たちは、お互いを決して裏切れない。約束してください、それだけは」
 そうだ、共犯者。私たちは、ずっとそうだった。きっとそれは、彼がその責務に対して当然あるべき判断を超えて、私のことを庇った時から。
「……約束する」
「ですから、あなたは」
 ここまで言ってから私は、自分が言おうとしていることを思い、躊躇する。さすがにこんなことを口にするのは憚られる、だけど、言わなければならない。私が何を意図しているのか、それだけは彼に伝えないとならないのだ。
「……あなたは、私を恋人として扱ってもいい。だけど。きっとそれだけでは」
「それだけでは」
 彼は私の言葉を、鸚鵡返しに繰り返す。
「それだけでは、負けてしまう。だから」
 それから私は黙り込む。

 自分の中に答えを探す。
 答えは出てこない。
 違う、多分出ている、答えは既に。
 だけど。でも。

「……だから?」
 2、3分の沈黙の後、リヒャルト様が先を促す。
「……この先の話は、また。私の処遇を公式に決める場で、お話しすることになるでしょう」

 私はスカートをつまみ、持ち上げる。片足を後ろに引いて膝を曲げる、気取った挨拶のやり方だ。それから私は、彼の部屋を辞するのだった。

 私は外に逃れる、公宮の中、でも誰にも見つからない場所に。
 誰も悪くない、だけど、誰もが悪い。きっと、今思い浮かべることができる、この世界のありとあらゆる人間が。だから、こんなことを誰かに相談することはできない。これは身に余る、余りすぎるぐらいの栄誉なのだから。

 それなのにどうして私は、こんなに辛いと感じているんだろうか。
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