雨の烙印

月世

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第十三話 別離

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「寒そうだな」
 先輩が言った。俺の体はガクガクと大きく震えている。指の先も、震えが止まらない。
「うちに来るか」
「いい、今すぐ、ここで全部、話してください」
 ガチガチと、歯が鳴った。先輩は煙草を咥えると、へたり込んで壁にもたれる俺の隣にあぐらをかいて座った。
「二日前、学校の靴箱に隼人君からの手紙が入ってた」
「……隼人が? 先輩に手紙を?」
「相談したいことがある、でも亮には言わないで欲しいと書いてあった」
 俺には内緒にしたいこと。隼人の願いを聞き入れて、俺に黙っていたということか。
「午後の授業をさぼらせて、屋上で話を聞いてやった。父親を殺したときの記憶が鮮明に蘇ってきてつらい、他の人格の記憶も入り乱れて、自分が誰なのかもわからないと訴えた」
 先輩の話を聞きながら、首を横に振った。
 隼人は先輩を警戒していた。関わらないほうがいいと忠告しておいて、自分は相談に赴いた。やっていることが支離滅裂だ。
 それだけ追い込まれていたということなのか。
 でも、じゃあどうして、どうして俺に、何も言ってくれなかったのか。
「お前に迷惑をかけたくなかったらしい」
 先輩が心を読んだ。隼人はいつもこうだ。いとこ同士で迷惑なんて、思わないのに。
「体を乗っ取られるかもしれない。そうなる前に人格を統合したいと言ってきた」
「本当に?」
 隼人は先輩を怖がっていた。自分から先輩に接触したなんて、ピンと来ない。先輩はジャケットの内側からスマホを出すと、親指で操作し、「聞け」と言った。
――お願いします、もう、どうしたらいいのか、わからない。他に、頼れる人が、いない。
 隼人の声だった。
――手が、血で染まってるんです。足元に、お父さんの体があって、でも、首から上が。
 そこで言葉が切れた。ふう、と息を吐く音。
――隼人には関わるなと約束したはずだ。
 声色が変わった。人格が、「庇護者」に交代したのだろう。
――悪いな、約束を破るのが好きなんだ。
 先輩の声。
――人格を統合するなんて、できっこない。
 「庇護者」が言った。
――そう思うなら、黙って見てろ。
 しばしの、間。
――もし統合したら、私たちは消えちゃうの?
 弱々しい声が、ためらいがちに訊いた。女の人格だ。
――やってみないとわからない。
 そこで音声は終了していた。先輩がスマホを懐にしまい、「おそらく」と口を開く。
「あいつもこの会話を聞いてたと仮定すると、抵抗する意味で出てきたとも考えられる」
 あいつ。さっきの、あいつだ。
 抵抗するためというより、単に雨だったから、という気もする。
 雨の日に具合が悪くなっていた隼人。雨が大好きで、濡れるのもいとわず、はしゃいでいた「あいつ」の姿を思い出す。
 隼人の体を乗っ取るために、雨の日にじわじわと力を温存していたとしたら。
 まるで絵空事だ。こんな子どもじみた想像は、きっと笑われる。
「とにかく、棚ぼたではある。隼人君が意識を乗っ取られたときに、すべきことは一つ」
 一呼吸置いたあとで、「捕獲だ」とはっきりと言った。
「捕獲……? 棚ぼたって、なんで……」
「無差別に、そこらを歩いてる一般人を殺されると困る。警察より先に身柄を確保する必要が出てくる。俺を狙ってくれて助かった」
 それは隼人に対する優しさ? わからない。
「隼人をどうするんですか?」
 携帯灰皿に煙草を押しつけると、先輩が灰色の煙を一気に吐き出した。
「人格を操作して、能力を消さないように、調整しながら統合する。あれは、使える」
「全然、意味がわかりません」
 顔を覆って、震える声で喚くように言った。顔を上げると先輩が困った様子で眉間を掻いていた。
「さっきの二人は? 銃を持ってましたよね。命を狙われることが、わかってた? 準備がよすぎる。絶対に変だ。真実を話すって言いましたよね。もう嘘はつかないで、ごまかさないで、本当のことを教えてください」
 まくしたてるように喋っている途中から、気づいていた。先輩が俺を、悲しそうに見ていた。ぎゅ、と胸が痛む。唇を噛んで堪えた。
「わかった、話す。だから泣くな。お前に泣かれると弱い」
「泣いてません」
 目を擦って、「知りたいんです」と懇願する。
「先輩のことなら、なんでも知りたい。先輩を、理解したい」
 先輩がため息をついた。俺の頭に手を伸ばす。触れる寸前で静止した手は、行き場をなくし、ポケットに吸い込まれた。
 俺から目を背けると、体育館の壁に後ろ頭をぶつけ、遠くにある天井を見上げた。
「うちの親は、まあ、わかるだろうが、クソ金持ちで、アメリカを拠点に荒稼ぎをしてる」
 先輩の横顔を見つめて隣でうなずいた。
「無節操に有力企業を傘下に置いて、悦に入ってる気色の悪いクソ野郎だ」
 吐き捨てるように言って、上を向いたまま目を閉じた。
「日本にいる間、好きに使えと口座を与えられた。あいつの汚い金をできるだけ減らそうと頑張ってみたが、無駄な抵抗だった」
 何千万円もする車を何台も買っていたのは、車が好きというよりも、ただの反乱だったらしい。苦笑して、先輩が目を開ける。立てた膝に片肘をついて、俺を見る。
「買収のやり方が汚くて、あちこちで恨みを買ってる。俺は一応、一人息子だ。おかげで昔から身の危険は常にあった。誘拐されそうになったり、殺されそうになったり、な」
 自分のことを淡々と語る先輩は、相変わらず感情が読めない。言葉尻から、親を嫌っていることはわかる。でもどこか、他人ごとに聞こえた。
「自分の身は自分で守れるし、襲撃には慣れてる。お前には異様に見えるかもしれないが、これがプロだ」
「プロ?」
「俺は、人殺しの集団に身を置いてる。さっきの二人は部下だ」
 リズムを変えずに、なんでもないように、そんなことを言った。どう反応していいのかわからなかった。冗談なのか、本気なのか、わからない。
 でも先輩が、映画でしか見たことがないような、スパイだとか、犯罪組織のボスだとか、暗殺者だったとしても納得できる。初めて屋上で会ったときの、ナイフの扱い方。学校に銃を持った男が侵入したときのあしらい方。そしてたった今、目の前で起きた格闘。
 先輩が「殺し屋」だとしても、驚かない。「そういう設定」にしておきたいのだと捉えた。
 力強くうなずく俺に、先輩が笑って「違う」と少し肩をすくめた。
「ただの民間の軍事会社だ。合法的に、堂々と人を殺してる。表向きはな。お前が思ってるような裏の世界の住人とは少し違う」
 軍隊やSWAT、SASで経験を積んだ能力の高い人材を集めて、軍に送り込む。かみ砕いていうと元兵士で構成された軍隊の派遣会社で、兵器の開発や売買もやっている。
 先輩は、頭の悪い俺にもわかるように、難しい言葉を使わずに、丁寧に教えてくれた。
「親とは直接関係のない会社で、あくまで独立してやってる」
「先輩は、経営者ってこと?」
「相棒がいる。日本で馬鹿になれと言ったのも、そいつだ」
 その人の真意はわからないが、先輩が言う通り日本に来たのなら、信用する相手なのは確かだ。親でさえ憎んでいるような先輩にもそんな相手がいることに少し安心した。
「おかげで完全に腕が落ちた。三分半もあれば、何回殺せたか」
 先輩が口をつぐむ。俺は少し目を伏せて、苦笑した。
「俺、先輩が人殺しだとしても、嫌いになれません」
「なんでだ? 人殺しだぞ?」
「だって」
 口ごもる。自分の感情を、なんと言って説明すればいいかわからない。
「もっと怖がれよ」
「怖くないです。だって、先輩だし……」
 普通、恋人が人殺しだったら、気持ちが冷めてしまうものなのだろうか。
 恋人が、人殺しだったら。
 そもそもが「普通」どうなのか、と一般論に当てはめられるようなケースじゃない。
 俺から目を逸らし、先輩が自分の手のひらを見つめた。
「隠喩じゃない。俺は、人殺しだ。秘密裡に殺すこともあれば、戦場で殺すこともあるし、殺した数もいちいち把握してない」
「せん、じょう」
「お前には想像もできない世界だ」
「先輩、本当は何歳なんですか?」
 高校三年生が、会社を運営して、戦場で戦う。殺した人数を、覚えていないと、のたまう。
 ありえない。
 財閥の一人息子が、この若さでわざわざ過酷な環境に身を投じる理由がない。どこをどう間違えばそうなるのか。
「俺はちゃんとお前の一個上だよ」
「十八歳?」
「うん」
「信じられない」
「うん、だろうな」
 自分の手のひらを見つめたままで、先輩は暗い目でつぶやいた。
「俺が初めて人を殺したのは十歳のときだ」
「……十歳?」
「昔飼ってた犬に似てると言ったな。あれは嘘だ。犬を飼ったことはない」
 やっぱり、という思いと、じゃあ? という思い。先輩が俺を見た。
「お前は、俺が初めて殺した男に似てるんだ」
 だから、気になった。
 最初は罪滅ぼしのつもりだった。
 お前を、どんな形でもいいから、助けてやろうと思った。
 最初はそれだけだった。
 実際、関わってみたらあいつには全然似てなくて、ただの馬鹿で、でも放っておけなくて。
 隼人君の家が火事で焼けた、親も死んでると聞いて、お前が心配になった。
 調べたら、案の定。隼人君が父親を殺して家を燃やしたことは明白だった。お前が巻き添えに遭うのは阻止したかった。
 先輩の独白を聞いていると、泣いてしまいそうだった。自分がどれほど大事に想われていたのか思い知る。鳥肌が立つほど嬉しかった。
「俺が何をして生きてきたのか、お前には知られたくなかった。嫌われるのが怖かった」
 嫌われたくなかった、と吐露する先輩が、手のひらから目を上げて、俺を見た。
「そんなふうに思ったのは、お前が初めてだ」
 少し驚いたような先輩の顔。胸が痛む。心臓を直接、針で刺されているように、ズキズキとした痛みがずっと居座っている。苦しくて、胸を抑えて泣くのを懸命に、堪える。
「隼人を……、どうする気ですか?」
 深呼吸をしてから訊いた。
「記憶を巻き戻せ」
 先輩が人差し指を立てて、俺の頭のそばで回転させた。
「どういう意味?」
「俺の仕事はなんだ?」
「軍事……会社?」
 小声で答えると、先輩が指を鳴らす。
「隼人君は商売になる」
「それを、隼人が望んでるんでしょうか」
「真面目で大人しくて平和主義な隼人君が、人間兵器に自ら志願するとでも?」
「隼人の意志は、無視ですか?」
「俺は本来、悪い奴だ。心優しきボランティアは仮の姿だよ。利益になるか、ならないか。他人の感情なんてどうでもいい」
「先輩は、優しいよ」
 むきになって反論すると、先輩が声を上げて笑った。
「お前のそれが、好きだった」
 好きだった。だった。過去形だ。
 先輩は、終わらせようとしている。俺との関係を終わらせて、アメリカに帰ろうとしている。
「いつ、帰るんですか?」
 先輩が頭を掻いて俺を見る。意外そうな顔をしていた。そんなことに気づけないほど馬鹿じゃない、と言いたかった。唇を尖らせると、先輩が口の端を片方持ち上げて笑う。
「卒業までいようと思ったが」
「いてください」
「あのな、どうやら俺は出席日数が足りなくて、留年するらしい」
 視線が合った。俺が吹き出すと、先輩もおかしそうに笑う。
「一緒にもう一年、三年生しましょうよ」
「いい、もう飽きた」
「……俺に?」
 おずおずと訊いた。
「高校生活に、だよ」
「俺も、俺も連れて行ってください」
 ぐっ、と喉が詰まる。泣きたくないのに、次に何か喋れば、きっと泣いてしまう。
「お前はまだ高校生だろ」
「でも俺、学校行っても意味ないくらい、馬鹿だし、行かなくたって」
 震える声で反論する。先輩が「大丈夫」と目を細めて笑う。
「生徒を盗聴してて思ったが、お前が特別馬鹿ってわけじゃない。安心しろ。それに、集団生活は社会に出るうえでそれなりに役に立つ。いいか、まっとうしろ」
「先輩と一緒にいたい。離れたくない」
「俺は嘘つきだぞ。人も殺すし、人格破綻者だし、きっとお前を傷つける」
「俺のこと、好きですか?」
 唐突な俺の質問に、先輩は口を閉ざし、うつむいた。迷っている。好きか、嫌いか。簡単な二択なのに、ためらっている。俺が、嘘をつくな、ごまかすな、と牽制したからだ。
「俺は人間嫌いで、他人には興味がない。前にそう言ったな」
「はい」
 人間らしさを取り戻すために、休息のために、日本に来たと言っていた。
「日本に来た意味はあった。お前と会えたことは、確実に俺の中の何かを変えた。好きだよ、お前が」
 涙がせり上がる。
「その言葉だけで、いいんです。俺を好きだと言ってくれるなら、他のことはどうだっていい」
 人殺しだろうと関係ない。離れたくない。そばにいたい。
 先輩にすがりつき、哀願する。
「お願い、連れてって」
「お前はこっち側の人間じゃない。平和で安全な国で、幸せに暮らしてくれ」
 先輩がいないなら、幸せはどこにもない。
 行かないで。俺を置いて、行かないで。
 泣いて、喚く。
 先輩の大きな手が、俺の頭を撫でた。丁寧に、大事そうに。その手が頬に移動して、親指が、涙を拭う。
 先輩、先輩、と狂ったように繰り返す。
 泣きじゃくる俺の顎を持ち上げて、キスをくれた。
 優しいキスは、俺を落ち着かせた。宥めるように、穏やかに、頭を撫でながら、キスが続く。そのうち意識が遠のき、俺は気を失った。
 気がついたときは、自室のベッドの中だった。部屋の中は暗かった。カーテンの隙間からわずかな街灯の灯り。夜だ。温かい布団に潜り込み、体を丸めて目を閉じた。
 もう一度眠ろうとしてみたが、頭と体が妙に重い。だるくて、腰も痛い。ゲホッと咳が出た。病的な響きに驚いた途端に、咳が止まらなくなった。
 あれ、と首をひねる。
 俺は、どうやって帰ってきた?
 どうして体が鉛のように重いのか。
 違う、そんなことよりも。
 先輩。
 脳が活動を始める。暗い天井のあちこちに、視線をさまよわせた。乱雑に置かれた記憶たちが、整列を始める。
 雨。点滅する灯り。裸足で駆けていく隼人の後姿。闇。学校の体育館。煙草の香り。
 先輩。
 心臓が乱れ打つ。慌てて起き上がると、ベッドから転げ落ちた。体に力が入らない。もがいていると、部屋の明かりが点いた。眩しさに顔をしかめ、ドアのほうに視線を向けると虹子が立っていた。
「兄貴」
 ホッとした顔をしている。廊下に向かって「お母さん、兄貴が起きた!」と叫ぶ。階段を駆け上がるスリッパの音が聞こえ、廊下から母が顔を出す。なぜか、涙ぐんでいる。母のこんな気弱な表情を見たのは初めてだった。
 俺は、丸一日、高熱を出して寝込んでいたらしい。冷たい雨に体を打たれ、そのままにしていたのがいけなかったようだ。
「病み上がりですまないが、大事な話がある」
 遅れて部屋に来た父が、神妙な面持ちで言った。俺をベッドに座らせると、目の前に腰を下ろす。手には、白い封筒を持っていた。
 俺の部屋に家族全員が集まることなんて、多分初めてだ。体がまともに動かないうえに、居心地も悪かったが、ただならぬ空気を感じて背筋を伸ばす。
「これは隼人君からの手紙だ」
 封筒に目を落とし、父がため息をついた。
「隼人」
 ぎく、とした。隼人は、どうなった。母と虹子の顔を順番に見た。二人とも、俺から目を逸らす。母は寒そうに腕をさすり、虹子は壁に寄りかかって唇を噛んでいた。
 あの日。帰りの遅い俺を心配して、何度も電話をかけたらしい。そのうちバッテリー切れになり、母が隼人のアパートに駆けつけた。すると、鍵の開いた部屋に俺が倒れていて、一通の手紙がテーブルに残されていたらしい。
 俺の記憶は間違っているのか、あれは夢だったのか、と困惑したが、そうじゃないとすぐに思い至る。先輩が俺をアパートに戻し、手紙を置いた。それしか考えられない。
「隼人は」
 なんとか唾を飲み込んで、荒くなる息を抑えながら訊いた。
「手紙を読みなさい」
 父が手紙を差し出した。受け取って、乾いた指で封を開ける。便箋が二枚。開くと、見覚えのある隼人の整った文字がびっしりと敷き詰められていた。
 疲労して鈍くなった頭でも、事の重大さがよくわかる。そこには恐ろしい内容が記されていた。
 すべて、本当のことが書かれていたのだ。
 自分が解離性同一性障害だということ。いくつかある人格のうちの一つが、父親を殺したらしいこと。そして、家に火を点けたこと。
 父に疎まれ、憎まれていた。それでも自分は父を嫌うことができなかった。殺したいなどと、思ったこともなかった。
 殺人も放火も、自分の意志でやったのではない。でも、もしかしたら心の奥底で、こうしたいと望んでいたのかもしれない。
 罪を償わなければならないのは当然で、出頭して自首をすることも考えた。でも、親戚がこんな事件を起こしたとなれば、みんなに迷惑がかかる。それは避けたい。この重すぎる罪を背負って一人で生きていくことを、どうか許して欲しい。
 最後に、探さないでください、という一文で締めくくられていた。
「大丈夫か?」
 父が俺の顔を下から覗き込んでいた。
「驚いただろうが、隼人君がいなくなったのは本当だ」
 俺の手の中で、手紙がカサカサ鳴っている。手が、震えているからだ。
 全部知っていた、とは言えず、手紙を握り締める。
 隼人はどうなるのだろう。父は、どうするつもりだろう。ぐるぐると、恐怖が胸のうちを渦巻いている。
「この手紙の内容が本当かどうかはわからない。でもどうやら隼人君本人が書いたものに間違いはなさそうだ」
 父が、俺の手からしわくちゃになった手紙を救出する。しわを伸ばし、封筒に戻すと、立ち上がった。
「この手紙は処分するよ」
「え?」
「倫理的には、警察に提出すべき内容だと思う。殺人事件の手がかりだからね。でも、前にも言ったが、隼人君を自由にしてやりたい」
 これでやっと、本当の意味で彼は自由になれた。
 父は、笑っていた。少し悲しそうに眉を下げ、泣き顔のような表情で、笑っていた。
「お前もつらいだろうが、これは家族だけの秘密だ。絶対に、誰にも、話すんじゃないぞ」
 念を押し、父は部屋を出ていった。母と虹子と俺の三人が、顔を見合わせた。母の目には涙が浮かんでいた。
「お腹空いてない?」
 母が涙声で訊いた。
「空いてる。今、何時?」
「もうすぐ十二時」
 虹子が答えた。
「夜の?」
 混乱している。丸一日寝込んでいた。つまり、あれから二日経った。そのことに気づくと、ゾッとした。二日。先輩には充分すぎる時間だ。
 隼人を連れて、姿を消すには充分すぎる時間。
 スマホを探した。枕元のいつもの場所に、充電器が刺さったままのスマホが転がっている。手に取ると、電源を入れる。すぐに確認したいのに、起動に時間がかかる。舌を打った。
「秘密、守れる?」
 母が出て行くと虹子が疑わしそうな目で俺を見ていた。
「言わないよ。誰にも言わない」
 元々、誰にも知られないように一人で抱えていた秘密だ。それが、家族共通の秘密になっただけ。逆に肩の荷が軽くなった。
 無言で首を縦に振ると、虹子が俺の動作を真似た。それから壁に寄りかかったままで、腕組みをした。
「兄貴、隼人君のアパートで、何か見たんじゃない?」
「……何かって?」
 聞き返すと、「だって」と唇を尖らせた。
「変だろ、なんで兄貴がびしょ濡れで、隼人君の部屋で倒れてんの?」
「覚えてない」
 とぼけた声で答えて目を逸らすと、虹子が変だよ、と声を高くした。
「ボクがずっと変だって言ってるのに、お父さんもお母さんも取り合ってくれなかった。考えたくないんだよ、歳を取ると、細かいことなんてどうでもよくなるんだ」
 虹子は探偵にでもなったつもりでいるらしい。人差し指を立てて、気取った仕草をすると、ニヤリと笑った。
「ボクの推理、聞きたい?」
「聞きたくない」
 ちら、とスマホに目をやった。虹子がそれに気づき、俺の手からスマホを取り上げた。
「ちょ、返せよ」
「ボクの推理、聞きたいよね」
 後ろ手にスマホを隠し、再び壁に寄りかかる。虹子を倒さないと、スマホを取り返すことができない。仕方なく、はい、とうなずいた。
「隼人君の手紙は、偽物だよ」
 はあ、と相槌を打つ。
「兄貴は多分、雨の中で、隼人君を攫いに来た犯人と揉み合いになったんだ。覚えてないって言うなら、倒れた拍子に頭を打って、記憶が混乱しちゃったとか」
 俺は頭を掻いて、ため息をつき、投げやりに返事をした。
「そうかもな」
「隼人君は、謎の組織に連れ去られたんだと思う」
「漫画の観すぎだよ」
 声に動揺が出ないように、気を遣った。虹子は心外そうだった。
「だって、隼人君が人を殺すなんて、信じられない。ボクは、信じない」
「お前も手紙、見たんだろ? あれは隼人の字だよ。隼人は自分の意志でいなくなった」
「あんなのは、偽装できるし、隼人君が脅されて書いたものかもしれないだろ」
 返事に詰まる。それは実際にありえるからだ。虹子の推理は、まったくの的外れでもない。俺も、変だとは思った。隼人が事前に書いた手紙を、先輩に託しておいたと考えるのが自然だが、もしかすると、先輩が作った偽物かもしれない。
 そうだとしても、どうでもいい。
 誰が手紙を書いたかなんて、大した問題じゃない。
 書かれていたことは事実で、隼人の心情も理解できる。
 隼人は、人格の統合を望んでいた。攫った。確かにそうかもしれない。でも、あの凶悪な人格を押さえつける方法が、他にあっただろうか。
 静かに首を振って、なるべく自然に咳き込んでみせた。
「ちょっと横になる」
 虹子は苦虫を噛み潰したような顔をして、俺にスマホを放り投げて返すと、「おやすみ」と肩をすくめて部屋を出て行った。
 一人になると、急いでスマホを操作した。先輩の電話番号をコールする。
 おかけになった電話は、現在使われておりません、という絶望的なアナウンスが聞こえた。スマホを取り落とす。
 ベッドから飛び降りて、パジャマの上にジャケットを羽織ると、部屋を出た。思うように体が動かない。階段を踏み外しそうになりながら、駆け下りる。
「ちょっと、亮、どこ行くの!」
 母がおにぎりを握った格好のままで廊下に飛び出してきた。
「すぐ戻る!」
 叫んで答え、家を出ると、自転車にまたがって、漕ぐ。向かう先は、先輩のマンション。夜道を自転車で、疾走する。頭は痛いし脚はパンパンだし、動悸息切れがすさまじい。倒れてもおかしくはない。でも、脚を止めるわけにはいかなかった。
 マンションに到着すると、自転車から飛び降りて、敷地の前で、凍りつく。遠目で見てもわかっていた。マンション全体が、暗い。一切の明かりを消した、コンクリートの塊がそびえている。
 敷地自体に入れないように、鉄製のバリケードが張られていた。それを飛び越えて、中に入る。マンションの入り口の自動ドアが、反応しない。エントランスは暗い。人影もない。駐車場への入り口は、シャッターが下りていて入れない。
「先輩!」
 拳でガラスを、叩いた。厚いガラス扉は、びくともしなかった。冷たい音が、空しく響くだけ。
「先輩、先輩、いやだ、置いてかないで」
 泣きながら、ドアにもたれた。返事のない虚空に絶叫を浴びせ、膝をつく。
 もう会えない。
 先輩は、いなくなった。
 学校を辞めたことも、噂で知った。ろくにお別れも言っていない。俺たちの仲が良かったことを知っている生徒たちに理由を訊かれた。知らない、としょんぼりと答えるしかなかった。
 多分先輩はもう、日本にいない。隼人を連れて、俺を置いて、行ってしまった。隼人が羨ましかった。必要とされている隼人が、死ぬほど羨ましい。醜い嫉妬がどす黒く、俺の中に居座り続けた。
 俺にはなんの能力もない。価値もない。こんな惨めな終わり方が、あるだろうか。
 どうして、どうして、と嘆いてばかりいた。何もかも空しくて、毎日が退屈で、抜け殻だった。
 時が経ち、次第に冷静になった俺は、先輩のくれた言葉を思い出す。それは唐突に、天啓のように、優しくふわりと、降ってきた。
 好きだよ、お前が。
 俺は大切に思われていた。嘘のない、心からの言葉を残していってくれた。
 そうだ、卑屈になることはない。
 俺は充分落ち込んだ。落ち込むのに疲れ果てた。もういい。くよくよするのは今日でおしまい。そろそろ這い上がる時間だ。
 目の前には配られた進路希望調査の用紙がある。第一志望から第三志望まで書く欄が設けられていた。
 迷いなく、第一志望の欄にペンを走らせる。第二と第三は、大きくバツ印をつけた。
 アメリカに行く。
 俺の望みは、未来は、その一択しかない。
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