妖精が見える三十路童貞の話

月世

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番外編

目を逸らす

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 首に、何かが見えた。
 内出血の痕。キスマークだとは思うが、こいつに限ってありえない。
 ワイシャツの襟からわずかに見えるそれを、どうしても確認したくなった。
 画面を凝視する築城の脇に立ち、襟に人差し指を引っかけた。
「うわ」
 築城が身をすくめ、首を素早くガードして、俺を振り仰ぐ。
「何? 今、何かしました?」
「首を覗こうとした」
「なぜ……」
「築城、彼女できた?」
 椅子に座る築城の前に腰をかがめ、声を潜めた。
「いえ、できてません」
 部下の築城は、典型的な仕事人間だ。
 休みの日は何をしているのかと訊ねると、テレビを眺めてゴロゴロしていると言うし、趣味はと訊くと、寝ることと答える。
 彼女もいないと言っていた。顔はいいし、シュッとしていて清潔感もある。モテそうなのになぜか女が寄りつかない。社内の女性社員からの評価は、「目が死んでる」「会話が続かない」「マザコンぽい」「童貞臭がする」と散々だった。
「存在がAIぽい」
「プログラミング言語なら流ちょうに喋りそう」
 彼女たちは真顔でうなずき合った。
 言いたいことはわかる。少し会話をすれば、他人に関心がない男だとよくわかる。
 でも、仕事ぶりはとにかく真面目だし、責任感があって向上心も持っている。
 俺は築城を嫌いじゃない。淡々としていて協調性はないが、合理主義で無駄がない。高いスキルを持っているし、部下として扱いづらいこともない。悪い奴ではないのだ。
 人付き合いが苦手で浮いている築城をなんとなく放っておけず、いつも気にかけていたが、今年に入ってから奇行が目につくようになった。
 何もない空間に返事をしたり、ボソボソつぶやいていたり、独り言が目立つのだ。
 もし何かの兆候なら、上司として、築城の助けになりたい。
「これ、今日中にバグつぶし終わる?」
「はい、もう終わります」
「おっ、さすが。じゃあ今からメシ付き合って。ちょっと話そう」
「話すって、何をですか?」
 警戒されると厄介だ。一旦心を閉ざすと、開くのに時間がかかる。
「いやいやただのランチ。すぐそこにパンケーキの店あるだろ? なんかキラキラしたの。ずっと気になってて、でもおっさん一人じゃ入りにくいしさ」
「おっさん二人のほうが入りにくそうですけど」
「確かに」
 思わず納得してから慌てて言い募る。
「パンケーキじゃなくてもラーメンでも肉でもうどんでもそばでもなんでもいいんだわ。築城の食いたいのでいいよ。何食いたい?」
「パンケーキでいいですよ」
 築城が腰を上げた。
 外に連れ出すことに成功し、とりあえずパンケーキの店に入ってみたはいいが、予想以上に居心地が悪かった。昼にパンケーキなんて、働く男は選択しない。周囲の客は全員女性で、面白そうに俺たちを見てくる。
「なんかすまん」
 小声で謝ると、築城はメニューを見ながら少し笑った。
「場違い感はありますね。でも、美味しそうです」
「甘党?」
「スイーツ全般好きです」
 上司に気を遣ったとかではなく、本当に好きらしい。三段重ねのパンケーキの上に、なんだかよくわからないフルーツやらアイスやらがゴテゴテに乗っかったやつを注文した築城は、ウキウキして見えた。こいつでも、何かに心を動かされることがあるらしいとわかり、ホッとした。
「それで、お話というのは」
 注文を終えると、水を一口飲んだ築城がまっすぐ俺を見て訊いた。
「ああ、うん、特に何ってわけでもないけど、最近どう? 仕事でつらいこととか、人間関係に悩んでるとか、何かあったら相談乗るよ」
「何もないです」
「残業しんどいだろ? 体調は? 眠れてる?」
「もう慣れてますし、特につらくもないし、睡眠も摂れてます」
「そっかあ」
 しん、と間が開いた。会話が終了してしまった。
 築城は、築城だ。病んでいる様子もないし、むしろ、少し柔らかくなった気がしないでもない。
「あ、そうそう」
 キスマークの映像が脳裏によみがえり、これだと手を打った。
「さっき見えたんだけど、ここ」
 自分の首筋を指差して言った。
「めっちゃついてるぞ。やるじゃん」
「なんですか?」
 築城が怪訝そうに首をかしげた。とぼけている感じじゃない。
「彼女、いるんだろ?」
「いませんよ?」
「いやでもお前それはどう見ても……、まさか風俗か?」
「風俗? あ、彼女はいないけど、先月からお付き合いしている人はいます」
「ん?」
「男だから、彼女ではないですね」
「あー、なるほど」
 グラスの中でカランと氷が崩れる音。目を伏せて、テーブルに両肘をつき、ひたいを押さえてグラスの中を凝視する。
 話題を見つけたという軽い気持ちだったのだが、とんでもない引き出しを開けてしまったようだ。
 普通、隠さないか? いや、やはり築城は多少変わっているから、普通などという物差しで測ることができないのだ。
 男と付き合っている。
 あのキスマークをつけた男がいる。性的なこととは無縁そうな築城が、男と。
 うっかり想像しそうになって、激しく首を左右に振る。
 いや待て。今、先月、と言った。築城の様子がおかしくなった時期と、かぶるのではないかと気づき、恐る恐る目を上げた。築城は窓の外を見ていた。
「なあ築城、その男」
「はい?」
「お前の男、その、大丈夫か?」
「おっしゃっている意味がよくわかりません」
「なんというか、無理やり何か、ねえ? ほら、不本意なことされてたり、嫌がってるのに強制されたり、暴力的なこととか……、大丈夫か?」
「いい人ですよ」
 嘘をついている感じはしない。築城は俺の目をよどみなく見返してくる。
「……本当に? 助けが必要なら言えよ?」
「なんでそんなに心配されてるのかわかりませんけど、本当にいい人ですよ。すごく大事にしてくれるし、俺もその人の……」
 築城が言葉を切って、胸に手を当てた。
「あ、今、すごく、ぶわってきました」
「ぶわってきました?」
「彼のこと考えると、うわー、好きだなあってなるんです」
 築城の顔が、ほころんだ。能面が剥がれ落ちた瞬間だった。
 目に生気が宿り、頬がほんのり朱に染まる。
 なんて顔をするんだよ。
 顔を背け、はあ、と息をつく。
 まぎれもなく、恋をしている表情だ。
 築城が。あの築城が。
 よかったなあ、と思うと同時に、靄がかかる。
 俺は築城を勝手に理解していたつもりでいた。俺が一番、こいつをわかっているのだと思っていた。誰がどう評価しようが、俺だけはいつでも味方でいようと決めていた。
 何かあったときに、築城が頼るのは俺だろうという謎の自信もあった。
 ちくしょう、と毒づいた。
 多分俺は、嫉妬している。
 もちろん、これは恋愛感情ではなく、単純に、寂しい。
 築城に、仕事以外の何かがあった。それがこいつを笑顔にしているのならそれでいいのに、俺にはこの笑顔を引き出せなかったのだと思うと、若干悔しい。
 口の中の水分を奪われながら、パンケーキをなんとか完食する。会計を終えて店を出た。オフィスビルは横断歩道を渡った真向かいにある。近くて便利だが、二度目はなさそうだ。よく考えなくても俺は甘いものがそう得意でもない。
「そういえば、ついてるって、何かついてます? ここ?」
 並んで信号待ちをしていると、築城が自分の首をごしごししながら訊いた。
「とれました?」
「そんなんで落ちないって。だってそれ、……キスマーク」
 顔を寄せてこっそり教えると、築城が無言で動きを止めた。その横顔は、まんざらでもなさそうに微笑んでいた。
 可愛いなあ、と思った。
 思えばずっと、俺は築城が可愛かった。
 不器用で、ひたむきで、可愛かった。
 幸福そうな横顔から目を逸らす。
 口の中が甘ったるい。唾を飲み込むと、胸にチク、とかすかな痛み。
 その痛みからも、目を逸らす。

〈おわり〉
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