電車の男ー社会人編ー

月世

文字の大きさ
上 下
2 / 16
Ⅰ.倉知編

「はじまり」

しおりを挟む
「俺、明日からお弁当持っていくんですけど」
 そこまで言うと、加賀さんが布団の中で「可愛い」とつぶやいた。
「え、何がですか? お弁当が?」
「お弁当、うん。俺のもついでに作ってよ」
「邪魔じゃないですか? 食べられそう?」
「明日は大丈夫だと思う」
 加賀さんの仕事は昼休憩の時間が明確に決められていない。職場に戻らず外で済ませることが多いし、食べる暇がない日もある。
 だから普段は作らないのだが、単純に、職場で俺の作った弁当を食べてくれるのが嬉しい。言ってみてよかった。薄暗い寝室で、満面の笑みを浮かべてしまった。
「わかりました。じゃあ二人分作ります」
「わーい」
 スリスリしてくるのが可愛くて、抱き寄せた。
「寝ますか」
「待った」
 スタンドライトの照明を落とそうとする俺を、加賀さんが止めた。
「明日からそれ、外さないとな」
 あくび混じりにそう言われたとき、それとは? 何を外すのか? と間抜け面で熟考し、思い至った瞬間に愕然とした。
「これか……」
 左手の薬指に目を落とし、重苦しいため息を吐く。
「三年以上、ずっと着けたままなのに。もう体の一部だし、外れないかもしれません」
 往生際の悪い俺の腹の上で、加賀さんが笑った。
「教育実習のとき外してなかった?」
「え? あ、そうですね、そうでした」
 教育実習は期間が決まっているから、今回とは状況が違う。俺は明日からずっと、教師なのだ。
 ペアリングではあるが、加賀さんは休日にしか着けない。最近は休日でも着けないことが多くなった。忘れているのか面倒なのかはわからない。着けてくださいと強要はしないし、なんで着けないのだと責める気持ちもない。
 俺もきっとやがてそうなる。二人とも着けなくなって、静かに、思い出に変わる。
 ベッドの上で左手を天井に翳し、はあ、と息を吐く。
 ついに、このときが。
 指輪を外すときが、きた。
 初めて自分で稼いだアルバイト代で購入した、思い入れのあるペアリング。外すのは忍びない。
「つらい」
 うめくと、俺の胸板に頭を乗せて、加賀さんがまた笑う。
「社会に出るってそういうことだよ」
 真面目な口調で言ってから、よしよしと俺の腹を撫でて、「俺とお前の分身が、仲良くお留守番してると思えばほっこりしない?」と、フォローした。
「分身が仲良くお留守番……」
 可愛い単語の連続にときめいていると、加賀さんが俺の体を下敷きにして手を伸ばし、ナイトテーブルの引き出しを開けた。
「はい、片付けようか」
 指輪のケースを開いて、俺の前に突きつけてくる。
「なんか、離婚するみたいで抵抗が……」
「お手」
 加賀さんが差し出した手のひらに、ほとんど本能的に右手を置いた。
「おかわり」
 なんだか逆らえない。わかっていながら左手をのせる。
 薬指を握られて、根元をぐいぐいと引っ張ってくるが、関節に引っかかってなかなか抜けない。
「あれ、しぶといな」
「痛い痛い痛い、指がもげちゃう」
「はは」
「はは、じゃなくて」
「あ、抜けそう」
 関節を抜けるとあとは早かった。あっさりすっぽ抜け、途端に落ち着かなさに囚われた。
 指輪のなくなった薬指を見て、愕然とする。寂しさと喪失感で胸が痛い。
「跡ついてる」
 何もなくなった俺の薬指を、加賀さんが擦った。
 黙って目元を覆っていると、「何? 泣いてる?」と手をどかして顔を覗き込んできた。
「なんか、心のパンツを脱がされた気分です」
「面白いな。じゃあ物理のパンツも脱がしていい?」
 加賀さんの手が、下着の中に入ってくる。
 明日は五時起きだ。初出勤だし、寝不足になるわけにはいかなかった。
 キスをしながら、布団の中で、二人とも、下半身だけ裸になる。
 無駄のない動きで準備を済ませ、繋がった。
 加賀さんもわかっている。時間をかけられない。体中にキスをしたり、抱きしめ合ったり、見つめ合ったり、愛を囁いたり、する暇がない。
 合わさった体を揺すり、快感のみを貪って、二人で果てた。
「こういうの、多くなるのかな」
 独り言に近い俺の言葉に、加賀さんは聞き返さず、「あー」と同意の色を含んだ声を漏らした。
「時短プレイ?」
 言ったあとに、心底眠そうなあくびをして、俺のふところに潜り込んでくる。
「ただの性欲処理にならないか、心配で」
「ないない、ならない」
 即答した加賀さんが面白そうに続けた。
「百万回言ったけど、愛があるからセックスするんであって。性欲処理って感覚は倉知君に対しては抱いたことがない。性欲が湧いたから倉知君で処理するんじゃなくて、倉知君だから性欲が湧く。俺はね」
 感動で、「はあっ」と変な吐息が漏れた。
「真理ですよね。目が覚めました」
「いや、寝ようよ」
「それより、百万回も聞いたかな?」
 小さく吹き出して、笑わすな、と肩を震わせた。
「あの、俺も、加賀さんだから性欲湧きます」
 加賀さんが手探りで俺の頭に手を伸ばし、すごく雑に撫で回した。
「愛してる」
「加賀さん」
 キュンとして、ホッとした。
 わかっている。環境が変わっても、俺たちの関係には、なんら影響がない。
「もしかして、すげえすれ違うかもしれないけどな。あ、メンタルじゃなくてフィジカルな」
「夜ご飯とか?」
「まあ早く終わったほうが作ればいいし、それに夜は絶対一緒に食べなきゃいけませんってわけでもないし、各自で外食だっていいんじゃない? 臨機応変にやってこうよ」
 夜は絶対一緒に食べなきゃいけません、と反論しそうになって、飲み込んだ。自分ならいい。今までもそうだった。加賀さんの帰りが遅いとき、よほどのことがなければ食べずに待っていた。
 でも俺の帰りを待って、加賀さんがお腹を空かせているのは可哀想だ。自分が待つ分には苦痛はないが、健気に俺を待つ加賀さんの姿を想像してみると悲しくなって、涙が出そうになった。
「なるようになるよ。いずれ慣れるし、それが普通になる」
 その通りだ。悲観して、変化を恐れていても始まらない。
 なるように、なる。
「平日にセックスする余裕なくても、土日にめちゃくちゃイチャつけば、解決」
 まったくもってその通りだ。というか、今までも土日はめちゃくちゃイチャついている。
「それいつも通りですよね」
 返事がない。
 寝息が聞こえてきた。素晴らしい寝つきのよさだ。
 笑って目を閉じる。
 いつの間にか心が軽い。
 眠ることにした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

遊園地の帰り、車の中でおしっこが限界になってしまった成人男性は

こじらせた処女
BL
遊園地の帰り、車の中でおしっこが限界になってしまった成人男性の話

ゆるふわメスお兄さんを寝ている間に俺のチンポに完全屈服させる話

さくた
BL
攻め:浩介(こうすけ) 奏音とは大学の先輩後輩関係 受け:奏音(かなと) 同性と付き合うのは浩介が初めて いつも以上に孕むだのなんだの言いまくってるし攻めのセリフにも♡がつく

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

淫らに壊れる颯太の日常~オフィス調教の性的刺激は蜜の味~

あいだ啓壱(渡辺河童)
BL
~癖になる刺激~の一部として掲載しておりましたが、癖になる刺激の純(痴漢)を今後連載していこうと思うので、別枠として掲載しました。 ※R-18作品です。 モブ攻め/快楽堕ち/乳首責め/陰嚢責め/陰茎責め/アナル責め/言葉責め/鈴口責め/3P、等の表現がございます。ご注意ください。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

電車の男

月世
BL
──毎朝、同じ電車に乗るその人を、眺めるのが好きだった。 童貞高校生×イケメン社会人のほのぼの物語。 事件は起きません。ただの日常です。 主人公二人の視点で交代しながら描いていきます。 家族や会社の人間など、脇役がわさわさしています。中には腐女子も登場しますので、苦手な方は回避願います。 また、本編→番外編→同棲編→同棲編番外と続いていきますが、あとのほうでリバ色が強くなります。リバに抵抗のある方は読まないことをオススメします。 ※この作品は他投稿サイトで公開済みです

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

処理中です...