電車の男

月世

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Ⅵ.加賀編

時よ、止まれ

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 汚れたシーツを剥ぎ取って、カーテンを開け、窓を全開にする。
 今日もいい天気だ。
「朝ご飯作ってくるから、先シャワーしろよ」
「え、一人で?」
 何も毎回二人でシャワーをする必要はない。振り返ると、パンツ一丁の倉知が寂しそうに立ち尽くしていた。
「一人でできないってのか?」
「一緒にしたいんです」
 長身の男がそんなことを甘えた声で言っても気持ち悪いだけだ。と言いたいところだが、どうしたことか異様に可愛い。
 一緒にシャワーをすることにした。
 俺の体を上機嫌で洗う倉知をよそに、鏡を見て愕然としていた。
 歯形とキスマークが、体中に刻まれている。一見すると暴力を受けたあとのようだった。
「何これ」
「すいません」
 ばれた、という顔で身をすくめ、心配そうに訊いた。
「痛いですか?」
「痛くない。でもこれ、来週までに消えるかな」
「来週?」
「あ、俺、来週土日いないよ。会社の慰安旅行」
「え……? 旅行?」
 倉知が泡立てたボディタオルを落とした。
「寂しい?」
 冗談めかして聞いた。
「寂しいです」
 涙声だったから、思わず振り返ってしまった。
「え、泣くほど? たかが二日間だぞ」
「俺は加賀さんに会える日を励みに日々生きてるんです」
 大仰なことを言い出した。ボディタオルを拾い上げて、咳払いをすると、倉知の体を洗ってやった。
「毎日会ってるだろ。電車で」
「電車でキスしていいなら、こんなに落ち込みません」
 俺が許可したら、きっとなんのためらいもなくやってのけるだろうな、と思った。
「旅行って、どこ行くんですか?」
「箱根の温泉」
「お」
 倉知の体がよたよたと後ずさり、風呂場の壁に激突した。
「それって、他の人に裸見せるんですよね」
「温泉だからね。あのな、俺の裸に興味ある男なんてお前だけだぞ?」
「そんなことはわかりません」
 怖いことを真剣な顔で言う。頭を掻いた。
「そこまで嫌なら別にキャンセルしてもいいよ。どうせ去年も行かなかったし」
 強制参加じゃないし、入社した年は参加したものの、それ以降はずっと不参加で通している。
 今年もそうするつもりだったのに、高橋と前畑が結託し、知らない間に出席で提出されていた。倉知と出会う一ヶ月も前の話だ。
 自由参加だから出席するのは一握りの社員だし、そろそろ廃止になってもおかしくない。
 うちの会社は運動会やらバーベキュー大会やらよくわからない社内行事が多い。運動会以外は強制参加じゃないのが救いだ。
 倉知が急に、自分の顔を両手で叩いた。ばちん、と痛々しい音が風呂場に響く。
「束縛するのはよくないですよね。楽しんできてください」
「今の痛くなかった?」
「目が覚めました」
 赤くなった倉知の頬を撫でてやりながら、いいことを思いついた。
「今度、二人でどっか行くか」
「え」
「お許しが出るなら泊まりで」
 倉知の顔に生気が戻る。
「俺免許持ってるし、車借りればどこでも行けるよ」
「加賀さん、優しい」
 抱きついて、すり寄ってくる。
「どうせなら今度の三連休にする? なんか用事ある?」
「あっても関係ないです。加賀さんより優先順位高いものなんて存在しない」
 こいつの徹底ぶりはすごい。感心しながら頭を撫でる。
「温泉の次の週だな。それまでにどこ行きたいか決めといて」
 何気に丸投げした雰囲気になったが、倉知は気づいていない。嬉しくてたまらない犬のようにしがみついて何度もキスをする。
 好きにさせていたら永遠にやっていそうだ。
「はい、終わり。続きはまたあとで」
 倉知の口を手のひらで押さえて言った。大人しくなった倉知と並んで髪を洗う。脱衣所に出て体を拭いて、お互いの髪を乾かし、全裸のままで寝室に戻る。
 クローゼットを開けて、着替えを出そうとしたら、後ろから襲われた。
「倉知君」
「さっきの続きです」
 続きはまた後で、なんて言わなければよかった。腰から肩甲骨の辺りを、じりじりと舌が這う感触。身をよじり、倉知の腕から逃れようとするが、体の力が入らなくなった。
「勘弁してよ。もう俺、おかしくなる」
「俺はすでにおかしくなってます」
 自分で認めて一度俺の体を力強く抱きしめると、すぐに解放した。
「加賀さん、好きです」
 振り向くと、目を細めて、苦しげに囁く倉知が胸を押さえていた。
「好きすぎて、どうしていいかわかりません」
 倉知の気持ちは痛いほど伝わってくる。よしよし、と優しく頭を撫でながら、言った。
「ゆっくりでいいよ。急がなくていい。俺はずっとお前のものだから」
「加賀さん」
 泣きそうに歪む倉知の頬をこねくり回す。
「だから、とりあえず、ブランチだな」
 俺は腹が減っていた。
 倉知のリクエストでチャーハンを作り、すき焼きの材料の残りで適当な物をこさえて、ものの数分で平らげると、借りてきたDVDの残りを観ることにした。
 セカンドシーズンの途中から見始めた倉知のために、ファーストシーズンから借り直した。つまり俺は一度観ている。何回観ても面白いのだが、それ以上に倉知が面白い。
 ドラマを観ている間は世界に入り込み、俺が隣にいても大人しくなる倉知が、なんだかおかしかった。横顔を見る。俺の視線に気づかない。真剣な顔は、まるで自分がドラマの一員であるかのようだった。感情移入がすごい。主人公が涙を流せば一緒に泣き、楽しそうにしていると、顔を綻ばせる。
 本当に面白い。
「海外ドラマって面白いですね」
 観終わると、旅から帰ってきた倉知が満足そうに息をつく。
「倉知君のほうが面白いよ」
「え、なんで俺?」
「素直だよなあ、お前は」
 よっこらせ、と倉知の膝に向かい合う格好でまたがった。驚いた顔を見せたのは一瞬で、すぐにスイッチが入った。
 俺の体をがっちりとホールドし、口を塞いできた。舌をねじ込まれ、歯列をなぞる。
 口の中を貪欲に徘徊する舌。俺はそれに応え、酔った。
 唾液が絡む音と、二人の息遣い。何も考えない。無言でキスを交わし、どれくらい時間が経っただろうか、倉知の体がかすかに痙攣した。
「イッた?」
「すいません」
 勃起しているのは途中で気づいたが、どうなるのか試そうと思った。
「ていうか精液出た? あんだけやったんだから、ほとんど出てなくない? 見せて」
「見なくていいです。あの、パンツ替えてきます」
 今さら恥ずかしがる意味がわからない。しがみついたままどこうとしない俺の体を持ち上げて、寝室に向かう。
「パンツ多めに持ってくるとか、賢いな、倉知君は」
「用心深いんで。加賀さん」
「ん?」
「降りてくれませんか」
「あれ、俺がくっついてるの嬉しくないのか?」
「いいですけど、外から丸見えですよ」
 寝室の窓もカーテンも開けっ放しだった。下に歩行者がいたが、運良くこっちには気づいていない。倉知から降りて、急いでカーテンを引いた。
「なあ知ってるか。もう五時だぞ」
 ズボンとパンツを脱いで、下半身をさらけ出す倉知の尻を見る。
「知ってます。さっきから時間を止める魔法使おうとしてるんですけど、止まってませんか?」
「止まってないね」
 はあ、と倉知は大息を吐き出した。
「止まるか戻るかしないかな」
 本気で言っているらしい。眉間にしわを寄せて、しばらく気張っていたが、やがて諦めた。下半身を露出したまま何をやっているのか。本当にこいつは飽きない。
 パンツを穿いて、ズボンに足を通したところで倉知のポケットの中でスマホが震えた。メールか何からしく、すぐに止まる。
 失礼します、と俺に断りを入れてからスマホの画面に目を落とす。
「晩ご飯いらないって言ってあるんで、帰りがてら付き合ってもらえませんか?」
「ん、いいよ。何食いたいの?」
「すいません、二週連続で申し訳ないんですけど、六花が丸井の店に加賀さん連れてこいって。お世話になったから奢るって言ってます」
「根掘り葉掘り聞かれそうで怖いな」
「断りますか?」
 倉知が簡単に言った。どちらにせよ、倉知は六花の質問攻めに合うだろう。それなら俺もその場に居合わせたほうがマシに思えた。
「行くよ」
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