電車の男

月世

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Ⅵ.加賀編

ダークサイド

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「加賀さん、弟がいたんですね。すごい歳離れてません?」
「そうだね」
 政宗の前に箸と皿を置いて腰を下ろす。
「覚えてる? 俺の二つ下に妹もいるよ。三人兄弟」
 政宗が言った。鍋に箸を突っ込んで、「すげえ肉」と顔を輝かせる。
「つーか、なんで兄ちゃんと倉知が友達になってんの? 何繋がり?」
「電車?」
 倉知が首をかしげて答えた。
「え、鉄オタ?」
 面倒だからそういうことにしておけ、という目で倉知を見る。倉知が笑って肩をすくめる。
 気づいているのかいないのか、気を遣っているのか。倉知のことだから、多分後者。
 俺と政宗は名字が違う。まだ政宗が小学校に上がる前に両親が離婚した。原因は、母の浮気だった。
 俺は父親に、政宗と妹の小春は母親に引き取られた。
 当時中学生だった俺は、母を嫌悪し、問答無用で父についていったが、まだ小さかった二人は事態を把握できずに、母親から離れたがらなかった。
 政宗が高校に上がった頃、親戚のお節介な人間が離婚の経緯を二人に話し、それ以来弟と妹も母を嫌うようになった。
 母は離婚してから心を入れ替え、父がその後別の女性と再婚しても、自分は独り身を貫き、女手一つで二人の子どもを育てあげた。立派だと思う。でも俺は、いまだに許せない。もう何年会っていないか、思い出せないほどだ。
「お前、小春置いてきたのか?」
「連れてきてよかった?」
 母と二人きりにしておくのは可哀想だと思っただけだ。連れてこられたら困る。
「最近あいつ、ますますやばいよ。兄ちゃんの」
 俺の険しい視線に気づき、そこで言葉を切って倉知を見た。
「倉知はまだバスケしてんの?」
 不自然に話題をすり替えたが、倉知は特に不思議そうにせずに「うん」と言った。
「上手かったもんな。お前に勝てる奴いなかったし」
 どうやら二人は小学校が同じで、中学校は別だったらしい。しばらく小学校時代の思い出話で盛り上がる二人を見ながら、すき焼きをつついた。
 倉知は俺といるときに比べて、幼いというか、年相応に見えた。俺と二人でいると、たまに高校生だということを忘れるくらいしっかりしている。
 屈託なく笑う顔を見て、可愛いな、と思った。
 ビールを呷って倉知の横顔を眺めていると、聞き慣れない音楽が流れた。政宗が箸を咥えたまま、スマホを手に取る。
「やべ、小春だ」
「出てやれよ」
「えー、やだなあ」
 そう言いながらも立ち上がり、ソファに体を投げ出して「はいはい」と電話に出た。
「え、いや、敦子さんの店だよ。……違うって。ご飯? いらないって母ちゃんに言った。いやいやずるいってなんでだよ」
 顔をしかめて電話する政宗から目を逸らし、倉知を見る。目が合った。何か言いたそうだ。
 今まで自分の家族のことを一切話してこなかったのには、いろいろと理由がある。
 倉知の仲良し家族とは真逆で、うちの家族は自慢できたものじゃない。できればずっと知られたくなかった。
 父はまともな人間だし、尊敬している。俺の家族は父だけだと思っている。
 政宗は俺を慕っている。俺も嫌いじゃないが、付随してくる人間が疎ましいのだ。
「兄ちゃん、俺、もう行くわ。ごっそさん」
 電話を切り上げると、慌てて玄関に飛んでいく。靴を履く政宗の後ろ姿に訊いた。
「大丈夫か?」
「本当に敦子さんとこか、店に行って確かめるって」
 敦子というのは政宗の彼女で、美容師をしている。彼女が勤務する店は、ここから遠い。間に合わなかった場合を想像すると怖い。小春は自分の思い通りにならないとすぐに拗ねる。
「倉知、またな!」
「うん、気をつけて」
 嵐のように弟が去ると、静かに息を吐いてドアの鍵を閉めた。
「なんか、大変そうですね」
「あー……、うん」
 倉知の体を押して、リビングに戻る。もう鍋はほとんど空だ。火を切ってソファに座り、隣のスペースを叩く。倉知が無言で腰を下ろした。
「ごめん、うちの家族ややこしくて」
 俺が言うと、倉知は笑った。
「うちも相当ややこしいですよ」
「お前んとこみたいな楽しい感じならいいんだけどな。兄弟いることも、できれば知られたくなかった」
「どうしてですか? 俺、小学校の頃、ほとんど毎日辻と遊んでましたよ」
 いい奴ですよ、と弟をフォローする倉知の頭を無意識に撫でた。いい奴はお前だ。
「あいつ、彼女妊娠させて、もうすぐ父親になるよ」
「え?」
「まだ十七だし、結婚はできないけどな」
「辻に子どもが……。俺と同い年なのに、なんかすごいですね」
 感心する倉知の膝の上に倒れ込んだ。下から見上げると、倉知が嬉しそうに微笑んでいた。俺の髪に指を絡ませ、頭を撫でてくる。
「稼ぎもないのに子ども作るなんて、アホだよ」
 吐き捨てた俺の科白に、その動作が止まる。
「名字違うからわかるだろうけど、親が離婚したんだ。政宗とはしょっちゅう会ってるけど、母親と妹にはなるべく会わないようにしてる」
 こいつの前では俺の黒い部分を、永遠に隠しておきたかった。
 腕で顔を覆って、息を吐く。
「妹は、俺と血が繋がってないって思い込んでるんだ。物心ついた頃から俺に惚れてて、結婚するって言い張ってる。だからこのアパートも隠してるし、勤務先も内緒。異常だろ」
 倉知の指は止まったまま、動かない。どんな顔をしているのか、見る勇気がない。
 体を起こしてソファから腰を上げた。テーブルの上を片付けながら、わざと明るい声を出した。
「まあ別に、そんな深刻でもないんだよ。ただ、めんどくさいんだ。正直あんまり関わりたくない。会いたくない。妹は、母親に似てる。だからあいつも好きになれない」
「加賀さん」
「もう十年以上経ってるのに、母親を、許せない」
 母は、あいつは、あろうことか自宅に男を連れ込んでいた。まだ小さかった小春を一人別室に寝かせ、リビングで男と絡み合う母。脳裏に焼き付いた映像は何年経っても鮮明に残ったままだ。
「駄目なんだ。俺は、家族が絡むと自分が嫌な奴だって思い知る。関わりたくないとか、最悪だよな。薄情だよな。だからお前には、家族を会わせたくなかった」
 ビールの空き缶を手に取ると、音を立ててひしゃげた。力を入れたつもりはなかった。手の中で潰れた空き缶をぼんやりと見下ろす。
「加賀さん」
 後ろから抱きすくめられた。
「加賀さんは絶対に、嫌な奴じゃない」
 倉知の声は優しかった。
「話すのがつらいなら、やめてください。俺は追求しない。それに、どんな加賀さんでも好きです。すいません、この気持ちは揺るぎようがないんです。家族が嫌いでも、関わりたくなくても、いいじゃないですか。そんなに悪いことですか?」
 倉知の言葉を聞いて、全身から何かがすっと抜け落ちる感覚に陥った。
 憑き物が落ちた。そんな感じだった。
「家族だから絶対に好きにならなきゃいけないなんて、俺は思いません。加賀さんに嫌いな人がいて、逆に安心しました」
 倉知の体温に包まれて、冷えた心の奥底が、暖まっていく。一度深呼吸をした。
「俺、ほんと、お前に会えてよかったわ」
 倉知はすかさず「俺もです」と言った。
 自分自身にかけた呪いが、解けた。清々しいほど、どうでもいい。しつこく抱え続けていた母への恨みが馬鹿馬鹿しく思えた。
 母と妹を疎ましいと感じる自分を、悪だと決めつけていた。
 嫌いでもいい。そういう発想はなかった。
「なんかおかしいな」
 倉知の腕の中で、体の向きを変える。倉知は一度軽くキスをしてから、優しい顔で俺を見る。
「何がですか?」
「逆転してる。倉知君がポジティブで、俺がネガティブになってた」
 倉知が笑って「本当ですね」と同意する。
「バランスいいですね、俺たち」
「うん」
 倉知の顔をまじまじと見つめる。こいつを愛しいとか可愛いとか大事だとか思うのは、なんなのだろうか。まだ出会って一週間ちょっとの他人。
「この世にお前だけいれば、それでいいな。全員いなくなって、俺とお前だけになればいいのに」
「加賀さん」
 倉知の頬が赤くなるのに気づいて、自分の科白を反芻する。変なことを言ってしまった。
「ごめん、なんかまだネガティブか? 俺」
「わかりません、けど、すごい、効きました。う、じわじわくる」
 耳まで赤くして、口を手で覆って逡巡している。
「言い直そうかな」
「え」
「俺とお前だけで、他は全員ゾンビ。片付けてゾンビ観るぞ」
 切り替える俺を、どこかホッとした表情で見る倉知が嬉しそうにうなずいた。
 片づけを終え、DVDを連続で三本見続けると、そろそろ日付が変わる時間だった。いつもなら寝ている時間かもしれない倉知は、特に眠そうには見えなかったが、「寝る?」と訊くと「えっ?」と過剰に反応した。
「眠くない?」
「眠くないです。けど、その、い、一緒のベッドで寝るんですか?」
 多分ずっとそれが気になっていたのだろう。急にそわそわし始めた。
「シングルベッドだから狭いけど、寝れないことないよ。俺を抱き枕だと思って抱っこして寝れば」
 ギャグで言ったのに、真に受けた倉知はソファから勢いよく立ち上がった。
「寝ましょう、今すぐ」
「あー、俺、やっぱソファで寝ようかな。一応お前、お客様だしな」
「そんな!」
 大げさに崩れ落ちた倉知がソファに顔を埋めて「一緒に寝たい」と呟いた。
「加賀さんを抱っこして寝たい……」
「お、おう。じゃあもう寝るか」
 テレビと電気を消して、寝室に移動した。暗闇の中に、昼間の行為後のまま乱れたシーツがある。やっぱり新しいのに取り替えようか、と考えていると、倉知が俺をベッドに押し倒した。
「俺、今日は多分、眠れません」
 耳の横で、倉知が切なげな声で訴えた。俺は笑って、うん、と答える。
 寝ている場合じゃない。倉知が俺の顔の横に両手をついて、上から見下ろしてくる。
「もう一回、していいですか?」
「一回でいいの?」
「え」
「朝まで寝ないでやらない?」
「……っ、あ、あの、いいんですか?」
 部屋が暗くても、顔の赤さがわかる。俺は笑いながら倉知の服をめくった。
「したいんだよ。今、めちゃくちゃお前が欲しい」
 俺の恥ずかしい科白に、倉知の理性が飛んだ。
 まるで獣だ。腹を空かせた獣が、俺を貪る。
 食べられて、身体がなくなっていく錯覚。
 何も考えなかった。倉知はずっと、「加賀さん」と「好きです」と「気持ちいい」の三つの言葉を繰り返していた。俺は息をするのもやっとで、倉知の全力の性欲を受け止めるのに必死だった。
 技術はないのに、倉知のセックスは悪くない。いや、悪くないどころか、今まで感じたことがない心地いい満足感が、全身を支配した。
 溶ける。
 身体が。
 脳が。
 心が。
 溶けて、なくなる。
 目を開けると、倉知の顔が目の前にあった。
「おはようございます」
 カーテン越しに、太陽の光がほんのり透けている。日が昇っている。
「嘘だろ……」
 声が掠れている。咳き込んでから、「何時?」と訊いた。
「九時過ぎです」
「マジでか」
 体を起こして時計を見た。すさまじい堕落だ。
「俺、いつから寝てる? なんか記憶にない」
「四時間くらい寝ましたよ。俺もちょっと前に起きました」
 溶けてなくなったはずの脳みそが、セックスの所要時間を勝手に計算して、突きつけてくる。
「外が明るくなりつつあったんで、本当に寝ないで朝までできましたね」
 嬉しそうな倉知の顔を見て、脱力する。あれはその場の勢いというか、雰囲気で言っただけで、比喩のつもりだった。いくらなんでもやりすぎだ。
「体、平気ですか?」
 疲労感はあるものの、尻が痛くて座れないとか、そういうことはない。よく思い出せないが、一晩中突っ込んでいたわけではなさそうだ。
「大丈夫」
「どこも痛くないですか?」
「痛くないよ。ちょっと水飲んでくる」
 ベッドから下りると、何かを踏んだ。足の裏に、コンドームの袋が張りついている。よく見ると、床に封を開けた袋と使用済みのティッシュが散乱している。
 俺は無言でそれらを掻き集めて、ゴミ箱に投げ込むと、空になったコンドームの箱を握り潰した。
「十個入りのがなくなってんだけど」
「全部使ったんで。これどこに売ってるんですか?」
「馬鹿、お前は買わなくていい」
 それだけ言って寝室を出た。
 自分が猿化するとは思わなかった。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、寝室に戻ると、倉知がベッドの上で腹筋をしていた。
「倉知君の体力は無尽蔵なの?」
 ペットボトルを差し出すと、礼を言って受け取った。
「いえ、限りはあります」
 クソ真面目に答える。水を吹きそうになった。
「お前がバスケやってるとこ、見たいな。なんか試合とかないの?」
「練習試合ならありますけど。うちのチーム弱いんで、見ても面白くないかも。公式戦は全部予選敗退だし、この前の選抜もボロ負けで」
「弱くてもいいよ。お前を見たいだけだから」
 倉知が動揺して手を滑らせた。ペットボトルの蓋が、床を転がっていく。拾って手渡してやると、倉知が俺を見る。すぐに目を逸らしてため息をついた。
「加賀さん、お願いですから、服を着てください」
 そうすることにした。 
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