電車の男

月世

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Ⅴ.倉知編

風香の分析

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「とりあえず、学校行こう」
 俺が言うと、丸井は「は?」と顔をしかめた。
「今すぐ話せ、今すぐ。気になるだろが」
「遅刻したくない」
「馬鹿たれ」
 戻ろうとする俺の手首を丸井が引っ張った。
「マックでも行くぞ」
「学校サボって? そんな不良みたいなことできない」
「真面目か!」
「真面目だよ。走るぞ」
 丸井を置いて走り出す。
「ああもう!」
 文句を言いながら、走る俺の後ろをついてくる。
「倉知のせいで朝からぐったりだわ」
 予鈴が鳴る前に学校に着いた。ホッと息をつくと、丸井が靴箱の前で脱力して愚痴をこぼす。
「ごめん、あとでちゃんと話すから」
「つかお前、なんでケロッとしてんの? 俺自転車よ? 太ももパンパンよ?」
 日頃の鍛え方が違うからだと思う。純粋にバスケが好きな俺と違い、丸井はただモテたいからバスケ部にいるだけのチャラ男だ。
 教室を覗くと風香の席を確認した。席に座って頬杖をつき、窓の外を眺めている。
「風香ちゃん、怒ってんじゃない?」
 丸井が俺の脇から教室を覗いている。まだ俺たちを恋人関係だと思っているらしい。どうしてそうなるのか教えて欲しい。
「風香も言ってただろ。俺たちは付き合ってないんだって」
「わかった。そうだな、お前、あの人と付き合ってるもんな。で、あの人って誰?」
 チャイムが鳴った。
「あとで話す。席に着こう」
「あの人って誰なの!」
 しつこい丸井を無視して席に着くと、ちょうど担任が入ってきた。俺の席は窓側の一番前で、風香は教室の真ん中辺りの席だ。視線を感じる。気がする。多分、気のせいじゃない。
 視線が痛い。
 首の後ろを両手で隠し、机に両肘をついた。
――あの人と付き合ってる。
 俺の吐いた科白を、風香はわからない、という顔をしていた。でも、考えればすぐに気づく。どう思った?
 というか、そんなこと、普通信じるか?
 冗談だったと言って笑って済ませられれば。
 もやもやと考えていると、視界に人の手が現れた。
「倉知くーん」
 コンコンと机をノックされ、顔を上げると丸井が立っていた。教室はざわついている。いつの間にか休み時間になっていた。
「え、授業は?」
「お前、一限ずっと寝てたべ」
「ね、寝てない。考えごとしてて」
「同じだろ。ほら、立て。全部話すって言っただろ」
「今?」
「今でしょ」
 唇をとがらせて言ってから、俺の背後に目をやった。
「風香ちゃん」
 丸井が揉み手をしながらへこへこと頭を下げる。
「私にも教えてくれる?」
 肩越しに振り向くと、穏やかな表情の風香が立っていた。
「昼休みまで待てない?」
「待てない」
 二人が声を揃えた。圧がすごい。
「……わかった」
 次の授業は現国だ。現国の教師はヨボヨボのおじいさん先生で、自習の時間と認識している生徒も多い。
「部室行こうぜ」
 丸井が先頭に立って歩き出す。部室は鍵が掛かっているが、無断で合い鍵を作り、中で悪さをする部員がいる。丸井もその一人だ。
 悪さというのはたとえば女生徒を連れ込んでイチャイチャしたり、授業をさぼったり、その程度のことなのだが、俺にはどちらも理解できない。
「なんで鍵持ってるの?」
 風香が不思議そうに訊いた。
「えっ、ああ、その、俺、時期キャプテンだから?」
「え? 丸井君が? なんで?」
「なんでってなんで?」
 二人の会話はいつも噛み合わない。俺は一人、誰か来ないか警戒していた。人の気配はない。こんな時間に部室に用のある人間はまずいない。
「倉知君のほうが向いてそう」
「出た、ほら出た。旦那贔屓」
「だから、違う!」
 風香が切れた。
「うん、違う」
 冷静に同意して、ドアを開けた。全員が中に入ると、静かにドアを閉める。
「本当に俺と風香は付き合ってない。俺も風香もちゃんと別に好きな人がいるんだ」
 後ろ手で鍵を掛けて、はっきりと告げた。
「え、風香ちゃん、倉知が好きなんじゃないの?」
「どうして丸井君がそう思うのかわからないけど、違うよ。友達としては好きだけど、恋愛対象じゃないもん」
 風香は顔をしかめて薄暗い部室を見回した。
「男子の部室って臭い」
「すいませんねえ」
 丸井が椅子を引いて、「座る?」と訊いた。
「汚くない?」
「失敬だね、君は!」
 風香が椅子を手で払ってから、腰を下ろす。
 遠くで響くチャイムの音が聞こえた。初めて授業をさぼってしまった。胸を押さえる。罪悪感がすごい。
 みんなは馬鹿にするが、俺は現国の小寺先生が好きだ。あとで謝ろう。
「倉知も座れば。お前ただでさえでかくて邪魔なんだから」
 俺は素直に椅子に座った。丸井は椅子には座らずに、机に腰掛ける。
「はい、じゃあ全部話せよ」
 丸井が手のひらを俺に向けて体を前後に揺すった。
「全部……。どこから話そう」
「あの人って誰よ。まずそこだろ」
 丸井が足をぶらぶらさせながらふんぞり返る。
「俺ら親友だろ。なんで俺に内緒で彼女作ってんだよ。結構ショックよ?」
 丸井から目を逸らし、首の後ろを撫でて、自分のつま先に視線を落とす。
「言えないよ、だって……」
「男の人だからでしょ」
 風香が口を挟んだ。顔を上げて風香を見た。怒ってはいないようだ。俺を見る目に嫌悪感はない。
「お」
 丸井が口を「お」の形にしたまま、硬直した。
「え、お、男って?」
「……お前んちに連れてった人」
 両手を組み合わせて、握りしめた。もしかしたら、同性同士で付き合うことに対して寛容なのは、女のほうかもしれない。
 風香が六花のような趣味だとは思えないが、すべてを悟って、受け入れているふうに見える。
 でも丸井は俺を、多分、受け入れない。受け入れられない。
「例のイケメンと付き合ってんの? え? 何それ。あ、これどっきり?」
「俺、電車で毎朝一緒になる人のこと、見るのが好きだったんだ」
 丸井が茶化すのをやめて、机の上で背筋を伸ばした。
「ただ、綺麗だと思ったからで、好きだとか、そんなんじゃなかった。最初は」
「ちょっと待って。まず確認させてくれ」
 丸井が咳払いをした。机から飛び降りると、椅子を引いて俺の前に座り、前のめりになって訊いた。
「お前、ホモだったの?」
「違う」
「あ、ゲイ?」
「違うって」
「俺の裸見てムラムラきてた?」
「丸井君」
 風香が丸井を睨む。
「あ、だからお前、エロ本に食いついてこなかったんだ? 男が好きだから」
「そういうんじゃない」
「女子に告られても断ってたのって、そういうこと?」
「ほんっと丸井君って人の話聞かないよね。黙ってられないの?」
 風香が丸井の背中を叩く。
「ごめんなさい」
 丸井が肩をすくめて口にチャックをする真似をして「黙ります」と言った。二人が、「続けて」という目で見てくる。俺は深呼吸をしてから口を開いた。
「男が好きってわけじゃないと思う。だって男の裸なんて見てもなんとも思わないし、特別な感情なんて抱きようがない」
「じゃあ、俺と風香ちゃんの裸だったらどっち見たいの? どっち触りたいの?」
 風香が呆れた顔で丸井を見る。
「お前の裸なんて見たくもないし触りたくもない」
「てことは風香ちゃんの裸は見たいし、触りたいんだ?」
 変な誘導尋問をされた。風香と目が合った。顔が瞬時に熱くなる。
「おい今想像しただろ、風香ちゃんの裸」
「ちょっとやめてよ、馬鹿じゃないの」
 風香が自分の体を抱いて、俺の視界を遮ろうと必死だ。顔の前に手を翳して目を逸らし、「ごめん」と謝った。いくら五月や六花の裸を見慣れていても、他の女子も平気なわけじゃない。
「わかった」
 丸井が足を組んで、人差し指を立てた。
「さてはお前、ホモでもゲイでもないな?」
 名探偵にでもなったつもりらしい。
「だから、そうだって」
 熱くなった顔を冷まそうと手で仰いでいると、丸井が胸を撫で下ろした。
「よかった。俺、狙われてるかと思った」
「誰が狙うか。でも、好きになったのは」
 男なのだ。
「ゲイでもないのに男に惚れるっていまいちピンとこないんだけど。そのイケメン、綺麗系ってやつ?」
 丸井が組んだ足を落ち着きなく揺らしながら訊く。
「綺麗だよね。頭良さそうだし、清潔感あるし」
 風香が俺の代わりに答えた。丸井が「ん?」と首をかしげる。
「なんで風香ちゃんが倉知のイケメンのこと知ってんの?」
「私も電車で見たから」
 風香が少し照れた表情を見せる。丸井はそれを見逃さなかった。
「あれ? 風香ちゃんもしかして、倉知のイケメンのこと好きなの?」
「好きっていうか、カッコイイなって思うだけで」
 慌てて手を振る。でも丸井は聞いていない。丸井の中で、一人の男を取り合う俺と風香という構図が完成した瞬間だった。
「そのイケメンは倉知を取ったの? ゲイなの? 普通の男なら風香ちゃんを選ぶよね」
「ゲイじゃない。風香とは面識がないんだ」
「どゆこと?」
「今から説明するから、口出ししないで黙って聞けるか?」
 丸井は組んだ足を元に戻して、姿勢を正すと、「どうぞどうぞ」と言った。
 俺と加賀さんが知り合うに至った経緯を説明した。俺から告白して付き合うことになった、と言ったときになぜか小さく拍手をしただけで、口は出さなかった。
 その後、電車で俺と話す加賀さんを見て、風香が恋心を抱いたのだが、丸井がそこで手を挙げた。
「じゃあ、タイミングが少しずれてて、風香ちゃんが先に告ってたら、もしかしてイケメンと付き合ってたのは風香ちゃんだったかもしれないってこと?」
 それは、俺も考えた。もしそうだったら、かもしれない。全部仮定の話だ。でも、多分、そうなっていた。
「そんなことにはならないよ」
 風香が俺の思考をぶった切り、断言した。
「あの人、絶対モテると思うんだ。私が告白したからって、簡単に付き合えるわけないじゃん。告白されるのも断るのも慣れてると思う。ありがとう、で終わりだよ。多分、恋愛より仕事が大事ってタイプだよね」
 風香の分析は、説得力があった。丸井も黙って聞いている。
「でもある日、自分よりでかい男子高校生が現れて、やけに親切だなこいつって思ってたら、告白されるんだよ?」
 そこで言葉を切って、耐えきれない様子で笑った。
「なんか面白いよね?」
「マジで面白い」
「付き合っちゃうよね?」
「付き合っちゃう」
 丸井が同調して、吹き出した。しばらく二人でケタケタ笑っていた。
 俺はそれを見て、ひたすらホッとした。
 二人に、嫌われなくて、よかった。
 ふいに涙が出そうになって、必死で堪えた。
「それにさ、出会い方がいいよね。すごい自然に知り合えたわけじゃない」
「倉知だからできる技だよ。普通、乗り過ごそうとしてるからって、本取り上げて教えてやろうって思うか? 俺にはできない芸当だわ」
「優しいし真面目だし、できちゃうんだよ、倉知君には」
 なんだかわからないけど誉められた。
「二人とも、ありがとう」
 俺の声は涙声だった。二人が揃って俺を見る。そして、同時に笑った。
「お前、なんで泣いてんの?」
「もしかして、私たちに嫌われると思った?」
 頬に伝う涙を拭い、顔を覆う俺を、二人は容赦なくバシバシと叩いてきた。
「私、そんな心狭い人間じゃないよ」
「俺だって、差別しないぞ?」
「丸井君、嘘臭い」
「えっ、なんでよ。だって倉知は幼なじみだし、親友よ? そんなことで嫌える? お前、逆に俺が男と付き合ってるって言ったら、嫌うの?」
 丸井が男と。
「ごめん」
 俺は顔を上げて、謝った。
「えっ、嫌いになるの? 俺たちの友情はどこへ?」
「違う、丸井が男と付き合うってあり得なさすぎて」
「大好きだもんね、女の子」
 風香が冷めた目で丸井を見る。丸井は椅子から腰を上げて、風香の目の前に片膝をつき、「はい、大好きです」と手を差し伸べる。
 その手を払いのけて、風香が俺を見た。
「ねえ、倉知君」
「うん」
「何かあったら相談に乗るよ。一人で悩んでたら駄目だからね」
「ありがとう」
「俺にも相談しろよ」
 丸井が俺の膝を平手で打った。
「お前、いつも一人でぐるぐるぐるぐる……、あっ、この前様子おかしかったのって、そのせいか?」
 スマホを眺めていたり、部活でミスばかりしたり、俺はおかしかった。
「ごめん」
「早く言えっての」
 丸井が頭を掻いて立ち上がる。
「まあ、言えるわけないか。あ、お前、あれか? お前が自転車通学やめたのって……」
 数ヶ月前、まだ一年の頃だったが、部活で足を痛めてしばらく自転車で通うのをやめていた。そのときに加賀さんを見つけて、足が完治してからも見ていたかったから電車通学を続けた。
 母は、電車がいいと言った俺に理由を訊かず、定期を買ってくれた。
「おかしいと思ったんだよ。お前が電車って。どんだけなんだよ」
 それまでは毎日丸井と自転車で通学していた。俺の変化はさぞかし謎に映っただろう。
「ごめん」
 さっきから謝ってばかりだ。
「なるほどね。今度また、うちにイケメン連れて来いよ。母ちゃんも喜ぶし、お前がそこまでメロメロになった男、見てみたいわ」
「わかった」
 うなずくと、右手を差し出してくる。握手を交わすと、風香が突然声を上げた。
「よし、教室戻ろ」
 立ち上がる風香にならって、俺も腰を上げた。
「ねえねえ、待ってよ、もうちょっとさぼらない? どうせ現国じゃん?」
「どうせって何? 戻るよ」
 風香が先に部室から出て行った。
「風香ちゃんも真面目なんだよなあ。お前ら真面目コンビでお似合いなのに」
「恋愛対象じゃないって言ってたし、風香は俺を男として見てないんだよ」
「お前それ自分で言ってて虚しくない? あ、なあ」
 部室を出ようとする俺を、丸井が手首をつかんで呼び止めた。
「男だけだから訊くけど」
 丸井の顔がにやけていたので、下品な話題だと悟った。
「もうヤッた?」
 顔を背けてため息をつく。
「付き合って一週間経ってないんだけど」
「だから? 関係ある?」
 丸井は軽い。特に付き合っているわけじゃない女の子とも、そういうことをしているらしいと知ったとき、結構衝撃だった。
「男相手に勃つのか?」
 ギク、として思わず丸井を振り返る。
「お」
「お?」
「男とか、そういうんじゃなくて、あの人だから俺、三回も」
「三回? え? 何? そんなに?」
 触って、触られただけで、三回達した。昨日のあれをカウントすると、四回だ。
 昨日のあれ。昨日、俺のベッドで加賀さんが。網膜に焼きつけた映像が脳内で勝手に再生された。慌てて停止する。
「倉知、顔赤い」
「ごめん」
「なんで謝るんだよ。別にいいと思うよ。男同士っていいって聞くし。はー、あの倉知がねえ。純朴少年がねえ」
「違う、やってない。お前の言うそれって、あれだろ、その」
「それとかあれとかなんだよ。あのな、もうチンコ突っ込んだ? って訊いてんの」
「ち……」
 絶句すると、部室のドアが向こう側から激しく叩かれた。
「ちょっと、聞こえてる!」
 風香が押し殺した声で外から警告する。丸井が「やばい」と今さら口を手で覆う。
 ゆっくりとドアを開けると、外にいた風香が一歩後ずさる。二歩、三歩と後ずさる。
「あの、風香、さん。俺、そんなことしてないから」
「まだ、してない。だろ」
 後ろで丸井が笑いながら言った。
「丸井君、サイッテー」
 真っ赤な顔で怒った風香が、走り去る。
「えー、盗み聞きのほうがサイテーだよね?」
 そんなつもりはなかったのだと思う。俺たちを置いて先に行かなかった風香が優しかったのと、丸井の大声がドアを貫通しただけのことだ。
 丸井は腕組みをして風香の後ろ姿を見ながら、真顔で言った。
「なあ、やっぱ風香ちゃんって絶対処女だよね」
 丸井が最低なのは間違いない。
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