電車の男

月世

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Ⅳ.加賀編

倉知家の人々

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 腕時計を見る。七時五分過ぎ。約束の時間から五分経過した。ちょうどいい時間だ。
 チャイムを鳴らそうとインターホンに手を伸ばすとドアが開き、倉知が飛び出してきた。
「びびった」
「すいません、ドアの向こうで待ち構えてました。あの、お疲れ様です」
「おう」
 なぜか中には入らず、ドアを閉めると「魔女が……」と呟いた。
「魔女?」
「魔女がいますけど、惑わされないでください」
「なんだそれ」
「七世ー? いらしたのー?」
 倉知の母だろうか、中から呼ぶ声が聞こえる。
「入らないの?」
「入ります、けど……」
 本当に嫌そうだ。うつむいて自分の足を見つめている。ここまできて往生際が悪い。
「大丈夫だって。信用ねえなあ」
「違います」
 慌てて顔を上げて否定する。
「恥ずかしい姉なんで、その……、嫌われたくないっていうか」
「お姉さんとお前は別物だろ?」
 頭を撫でて「大丈夫」と繰り返す。もうこの科白は言い飽きた。
 情けない顔の倉知が、唐突に俺の肩に触れた。両手を添え、顔を近づけてくる。
「うおい! 危ねえ、何してんだよ」
 慌てて体を押して堰き止めた。倉知はハッとした顔で頭を下げた。
「すいません、体が勝手に」
「もういいからおうちに上がってもいいかな」
「……はい、どうぞ」
 倉知がしぶしぶドアを開けると、廊下の奥から顔を覗かせた女性が「あっ、ようこそ、いらっしゃいませ」と飛び出してきた。倉知の母のようだ。小柄で優しそうだ。
「こんばんは、はじめまして」
 頭を下げると、倉知の母が突然振り返り、「五月ー、六花ー、加賀さんいらっしゃったわよー!」と外にまで聞こえそうな大声で叫んだ。二階から「はあい」と二人分の返事が聞こえる。
 なんだか自由でいいな、と思った。隣の倉知を見上げると、「すいません」と小声で謝った。恥ずかしそうだ。玄関を開けて一分で、この家庭の温かさを感じた。恥じることはない。
「どうぞ、上がってください」
「お邪魔します」
 家に上がると、階段を下りてくる足音が聞こえた。生白い足が見える。本当に下着姿で現れたのかと思うほど、丈の短いシフォン生地のワンピースを着た女だ。胸元が大きく開いていて、思わずそこに目がいく。やたら、でかい。そのでかい乳に不釣り合いな童顔だった。童顔だが、化粧は完璧に施してあり、戦闘態勢に見えた。
 なるほど、と思った。倉知が「魔女」と表現した意味がわかる。見た目は魔女からはほど遠い人形のような女だが、来客があるのをわかっていてこの格好をするのだから性格がわかる。
 これが長女の五月だろう、と見当をつけた。五月は俺を見ると少し目を見開いてから「こんばんはぁ」とやけに甘ったるい声で言った。
「こんばんは、お邪魔します」
「あたし、加賀さんが来るの、楽しみにしてたんですよぉ。チョー嬉しいです」
 上目遣いで体をくねらせる。若いな、という感想しか出なかった。笑いながら「僕もです」と同意する。
「こんなとこで話してないで、中入ってよ」
 倉知が五月の体をぐいぐいと押した。
「いたーい、何よぉ」
「七世」
 階段の上から声がして、何かが降ってきた。倉知がそれをキャッチする。女物のカーディガンだ。
「そんな格好でお客様の前に出ないで。みっともない」
 階段を下りてきた女が、淡々とした口調で言った。俺を見て、「失礼しました」と頭を下げる。
「はじめまして、七世の姉の六花です」
「こんばんは、加賀です」
 なんてしっかりした子だろう、と感心する。倉知から聞いた話だと、五月が二十一歳の大学生、六花が十九歳の専門学校生だそうだが、こっちが上に見える。
 化粧気がなく、おそらくすっぴんだが、細身で綺麗な子だった。父の不在を丁寧に詫びてから、俺をリビングに招き入れた。
 中に入ると、カーディガンを着せようとする倉知と、逃げる五月がテーブルを軸にして追いかけっこをしていた。面白い。五月が俺に気づくと急に立ち止まり、愛想笑いをする。その隙に倉知がカーディガンを着せてボタンを留め始めた。パツンパツンで逆にエロい。姉の巨乳は見慣れているのか、倉知は動じていない。
「変なものお見せしてすみませんでした」
 倉知が真顔で言う。別にいいのに、と思ったが黙って笑う。
「狭いところでごめんなさいね」
 倉知の母がせかせかと動き回りながら言った。ダイニングテーブルに食事が並べられていた。どれも手が込んでいそうだ。申し訳ない。
「とんでもないです。あの、お口に合うといいのですが」
 手土産を差し出すと、五月が飛んできて小さく跳ねた。
「あっ、あたしここのプリン大好きなんですよぉ。わぁい!」
 恐縮して受け取る母の手から奪い取り、クルクル回転している。倉知が苦虫を噛み潰したような顔でそれを見ている。
 なんだか五月とは、初めて会う感じがしない。少し考えて、高橋に似ているのだと気づく。高橋の女版だ。笑いが込み上げてくる。
「五月、行儀悪いよ」
 六花が冷めた目で言いながら、「加賀さん、座ってください」と椅子を引く。礼を言って腰を下ろすと、五月が「あたし隣!」と隣の椅子に座ろうとする。
「あんたはあっち。そこは七世。七世、突っ立ってないで座りなさい」
 すっかり空気になっている。姉二人のインパクトが強い。
「加賀さん、ビール飲みます?」
 倉知の母が訊く。
「はい、いただきます」
「あたしも!」
 すかさず高橋、じゃなくて五月が手を挙げる。六花が何か言いたそうに五月を見ている。隣を見ると倉知も同じ顔をしている。酒乱じゃあるまいな。
 グラスにビールを注がれ、倉知の母が席につくと「じゃあ、手を合わせて、いただきます!」と号令をかける。三人の子どもがそれにならって「いただきます!」と見事に声を合わせた。あっけにとられた。なんだこれは、清々しすぎる。
 耐えきれず笑う俺に気づき、倉知の母が「ああっ、しまった、ついいつもの癖で」と慌てた。クールな素振りを見せていた六花も、ハッとした顔で恥ずかしそうに赤面する。
「いえ、全然変なことじゃないんで。なんか感動しました」
 出遅れてしまったが、手を合わせ、「いただきます」と軽く頭を下げる。倉知がちゃんとしているのはやはり親の教育のおかげらしい。
「うちはぁ、親がこういうの厳しいんですよぉ。ご飯に感謝しろって」
 五月がビールのグラスを両手で持って、上目遣いで俺を見ながら口をつける。目の前に陣取った五月は、いつの間にかカーディガンのボタンを胸の下まで外していた。わざと見せつけられているような気がするのはきっと気のせいじゃない。せっかくだからしばらく眺めていよう。
「加賀さん」
 六花に呼ばれて乳から視線を移す。
「勤め先の名刺って持ってます? 私にくれませんか?」
「六花、失礼よ」
 母が止めたが、笑って「いいですよ」と応え、スーツの内ポケットから名刺入れを出した。倉知が言うには両親ではなくこの二番目の姉が俺を怪しんでいるそうだ。
 どういう経緯で知り合ったのかとしつこく訊かれて、本当のことを言うわけにもいかず困っていると倉知が言うので、適当なシナリオをでっち上げた。
 電車の中に忘れ物をしそうになったのを、倉知が声を掛けて助けてくれた。次の日も同じ電車だったので、お礼にお好み焼きを奢る約束をした。話をしているうちに意気投合し、仲良くなった。
 そう伝えさせると六花は納得していたらしいが、まだ疑いを持っているようだ。
「はいどうぞ。こういう者です」
 立ち上がって両手で差し出すと、六花も立ち上がり、両手で受け取った。倉知はこの姉の影響を受けているのかもしれない。
「高木印刷にお勤めなんですね」
 六花の目つきが変わる。うちの会社は地元ではそれなりに有名だ。五月と母も俺の名刺を覗き込んでいる。
「あたしも加賀さんの名刺欲しい」
「あんたは駄目」
 六花がぴしゃりと牽制する。
「なんでよぅ」
「なんか悪用しそう」
「それどういう意味よ?」
 五月の声色が変わった。多分これが地だろう。
 六花は名刺をポケットにしまうと、「食べてください」とにこやかに笑う。明らかに警戒が薄れ、好感度が上がっている。名刺の効果はあったようだ。
 隣を見ると倉知が黙々と食べていた。陰が薄い。
「七世って、つまんなくないですか?」
 五月が訊いた。ビールを一口飲んでから、「面白いですよ」と答える。
「喋っててもあんまり歳が離れてる感じもしないし」
「達観してるからね、七世」
 六花が誇らしげに言った。五月がつまらなそうにエビフライをかじりながら冷めた目で倉知を見ている。
「若者っぽくないのよ、彼女もいないしぃ。あ、加賀さんは彼女とかいますかぁ?」
 これはくるだろうなと思っていた質問だ。倉知を見ると、目が合った。今この場で、弟さんと付き合っていますと言ったらどうなるのか。怖くて想像も追いつかない。
「いませんよ」
 答えると、五月の目が光った。
「えぇー、じゃあ、あたしと付き合ってって言ったら」
「五月」
 六花と母が険しい顔をして、たしなめる視線を送る。
「お姉さん、今彼氏いるんですよね。七世君から聞きました」
 微笑むと、五月が言葉に詰まる。一瞬、倉知のほうを見てすぐに俺に視線を戻す。
「加賀さんが付き合ってくれるなら、別れちゃう!」
「最高の彼氏なのに?」
 そう言っていたと倉知から聞いた。五月がひきつりながらなんとか笑顔を保ち、「えぇー、そうでもないですよぅ」と頬杖をつく。直後に脚を蹴られた。多分、五月が弟の足と勘違いしてテーブルの下で蹴っている。三回蹴られたところで笑いを噛み殺し、「それ俺の脚です」と言った。五月がまずい、という顔になる。
「え、やだぁ、あたし脚長くてぇ」
 体を左右にくねらせ、上目遣いで「ごめんなさぁい」と手を合わせた。
 いつまでこの路線でいくのだろうか。多分、この子は素のほうが面白いし、そっちのほうならまだ好きになれそうなのに。猫を被って天然ぶってみても可愛いと思えない。損だな、と思った。
「ごめんなさいね、加賀さん」
 倉知の母が、俺のグラスにビールをつぎ足しながら謝った。
「この子カッコイイ男の人に弱くて、普段はこんな子じゃないんですよ。言葉遣いも男みたいだし、子どもの頃から飛んだり跳ねたりで、七世も中学生までよく泣かされてて」
「お母さん!」
 五月が顔を赤くして抗議するが、母は止まらなかった。どうやらフォローのつもりらしい。
「何かあると、おっぱい見せるわよって攻撃するんですけど、七世ったら全然嫌がらないんです。姉のおっぱい見慣れてるってどう思います?」
 六花がうなだれて、肩を震わせている。倉知を横目で見た。顔を背け、笑うのを堪えている。
 やばい、伝染する。
「この子がこんなだから、多分女の子に夢を抱けなくって、高校生なのに彼女の一人もいないのかしらって」
「お母さん、もうやめて、ごめんなさい」
 五月が泣き顔で訴えたが、母は聞こえていない。
「今日だってこんなポロッと出ちゃいそうな格好だし、失礼だから着替えなさいって言っても全然言うこと聞かないんですよ。誰に似たのか頑固な子で、私のおっぱいは世界を救うのよ、とか意味不明なことまで言い出して」
 ぶはっ、と六花が吹き出して、倉知が椅子からずり落ちた。二人とも、笑い崩れている。もう駄目だ。たまらず、声を上げて笑う。
「すいません、最高に面白すぎます」
 口を覆って笑いを噛み殺す。
「え、何? なんで笑ってるの?」
 なるほど。倉知の天然はこの人譲りのようだ。
「私、何か変なこと言ったからしら。よく笑われるんですけど、自分じゃわからなくて」
 困惑顔で、首をひねっている。自覚がないからこそ天然なのだ。
「いえいえ、お母さん。これだけ子どもを笑わせられるって幸せなことですよ。一種の才能です」
 倉知の母はきょとんとしてから、少し誇らしげに胸を張った。
「才能……、かあ。加賀さんは優しいのねえ。そんなふうに言われるの初めてでびっくりしちゃった」
「もうやだ……、恥ずかしくて死にそう」
 五月が長い髪で顔を隠してうなだれている。
「ほら、恥ずかしいでしょ? だからちゃんとした服着なさいって言ったの」
 母がちぐはぐなことを言い、五月は「そうじゃなくて!」と声を荒げる。
「もうさ、五月の正体なんて七世から筒抜けだとか思わない? 大人にはあんたのそのキャラ、通用しないよ。ねえ加賀さん」
 平静を取り戻した六花がちらし寿司を皿にとって、俺に渡してくる。礼を言って受け取った。
「一般的な男受けはわからないけど、多分、普段のお姉さんのほうが可愛いと思いますよ」
「えっ……」
 五月が顔を上げて俺を見る。じわ、と涙が浮かんだ。今までの作った表情ではなく、素の表情になっている。断然、こっちのほうがいい。
「普段の五月はおっぱいさらけ出して弟をいじめてるだけなんですけど」
 六花が冷静にツッコミを入れた。
「りっちゃん」
 弱々しく妹を呼んで腕を引っ張っている。髪が邪魔で感情はわからないが、急に大人しくなった。
「加賀さん」
 ずっと黙っていた倉知が突然喋った。家で食事中は喋らない自分ルールでもあるのかと思ったが違うようだ。
「早く食べて」
「え」
「早く、ふた」
 危険なことを口走る予感がして、咄嗟に脇腹を殴った。ぐっ、とうめいてなんで殴るんだ? という顔で俺を見る。お前今、「早く二人きりになりたい」とか言おうとしなかったか。危なかった。嫌な汗が出た。
「あら、仲がいいわね」
 ニコニコと嬉しそうな母に「すいません、大事な息子さんを殴ってしまって」と謝った。
「いえ、どうぞ。頑丈なので平気ですよ。五月なんてもっと強烈なパンチ打ち込んでますから。ねっ」
 母が五月に同意を求めたが、五月は黙って料理を口に運んでいる。怒っているわけじゃなさそうだが、どこか心ここにあらずだ。
「ねっ、六花」
 五月の同意を得られなかったからか、今度は六花に矛先が向いた。六花は険しい顔で、俺と倉知を見比べている。
 母がしょんぼりしているのが可哀想になり、「お母さん、どれも美味しいです。ありがとうございます」とお礼を言った。ぱあ、と顔を輝かせて、「やったー」と小さくガッツポーズを作る。可愛い人だ。
 そこからは俺と母とが二人で会話を続けた。一人暮らしなのか、自炊するのか、から始まり、ほとんどが料理の話だった。
 その間、五月は無言で食べ続け、六花は考えごとを始め、倉知はもう自分は食べたから、とリビングの床で腕立てを始めた。
 自由だ。
 食事が終わり母から解放されると、倉知が飛んできて「俺の部屋行きましょう」と手を引っ張った。ずっと筋トレをしていたからか、手のひらが熱く湿っていて、ひたいにも汗が滲んでいる。
「もう、七世ったらすっかり懐いちゃって」
 母が困り顔で肩をすくめる。
「すいません、失礼します」
 三人に頭を下げて、引きずられるまま退室した。
 五月が何か言いかけて、やめた。俺に媚びを売るのをやめたのはありがたかったが、不気味なほど静かで心配だった。
 六花は、泣きたいのか、嬉しいのか、よくわからない複雑な顔で俺たちを見送る。そしてそのままテーブルに突っ伏した。
 途中から二人の姉の様子が変なのが気になった。五月はもしかしたら酔ってああなったのかもしれないが、酔うほど飲んではいないはずだ。
「ちょ、倉知君、わかったから離せって」
「今日、本当は二人きりのはずだったのに」
 二階に上がると、俺を振り返り、抱きつこうとする。
「待った。お前の部屋どれ」
 倉知が無言でドアを指差し、俺を引きずった。中に入ると、ドアを閉めて、電気も点けずに抱きしめられた。やたら体温が高く、服が汗で濡れている。
「やっぱり、やめとけばよかった」
 倉知が俺を抱きしめながら頭の上で言った。
「何が?」
「加賀さんを連れてくるの」
「なんでだよ。俺はお前の家族に会えて楽しかったぞ」
「五月が、本気で惚れたんです」
「……あー、俺に?」
「他に誰が?」
 はあ、とため息を吐いて俺を解放すると、電気を点けた。
「一度だけ、あったんです。五月が本気で惚れた人がいて、その人の前ではろくに喋れなくて、ちょうどさっきのあんな感じでずっともじもじしてて」
 俺は頭を掻いて、「ごめん」と謝り、ベッドの上に腰掛けた。
「五月のこと、可愛いと思いますよね」
 俺は責められているらしい。適当に嘘をついてはぐらかすことは簡単だが、正直に言った。
「うん、可愛い。ああいう子に好きだって言われたらどんな男も舞い上がる」
 倉知がわかりやすくシュンとなる。俺は笑って手招いた。倉知がおずおずと俺のそばにくる。右手を取って指に唇を押し当てた。倉知の体がビクッと反応する。
「でも俺は、今お前と付き合ってるし、お前のほうが可愛い」
 見上げると、顔を赤く染めた倉知が泣きそうになっていた。
「俺、可愛くないですよ」
「いや、自分で可愛いって思ってたら怖いぞ」
「五月みたいな胸もないし」
「あったら怖いって」
 姉の五月に対して劣等感を抱いているのだろうか。
「お姉さんは、可愛い。それだけ。お前は可愛いし、好きだよ」
「加賀さん」
 倉知が床に膝をついて、ベッドに座る俺にすがりついてくる。
「俺でいいんですか?」
「お前がいいよ」
「なんでだろう……」
 本当にこいつはネガティブで自分に自信がない。でも、わからないでもない。俺も「なんでだろう」と言いたい。
 俺たちは男同士で、付き合って一週間も経っていない。俺はゲイじゃないし、男と付き合ったことはない。
 そこに童顔で色白なマシュマロおっぱいの女が現れたら、普通はそっちに傾く。でもそうならない理由は、自分でもよくわからない。倉知のほうがいいと漠然と思う。
「俺、一途だよ。浮気したことないし」
「……したことない、ですか」
 俺の膝の上で倉知が呟いた。
「加賀さん、今まで何人の人と付き合ったんですか?」
「お前、過去のことまで気にしてたらキリねえぞ」
 倉知は黙ってしまった。しばらくして、暗い声で言った。
「俺、うざいですよね」
「うざくないよ」
 後ろ頭を撫でてやる。
「別に、知りたいなら教えてやるけど。お前にとっちゃ一人でも百人でも、変わらないだろ?」
「そう……、そうですね」
 物わかりのいい、納得した声を出した。倉知は顔を上げて、俺を抱きしめると、そのまま体重をかけてきた。折り重なってベッドに倒れ込む。
「もうちょっと経験積んでから加賀さんに出会いたかったです」
 スーツが皺になるとか、もし誰か入ってきたらどう言い訳するんだとか、言おうとしたが、倉知の一言で霧散した。
「はあ?」
「自分でもガキだと思うし、加賀さんは面白いって言ってくれるけど、俺はその、何も知らないし、……面倒で、きっと満足できない」
 経験を積む、というのは単純に人生経験のことを言っているのではなく、もしかしてそっちか?
「ずっと考えてたんです」
 お前はネガティブなんだから考えないほうがいい、と口を挟もうとして堪えた。
「修行したほうがいいんじゃないかって」
「修行ってお前」
「知識もないし、耐性がないんです。だから、少し時間をくれませんか?」
 倉知は俺の上に覆い被さったまま、一度深呼吸をした。体を起こし、上から覗き込んでくる。その目は悲しそうだった。
「今も俺、触りたくて、キスしたくてたまらないけど、そしたらいろいろ不都合が起きるんです」
「だから? 修行って、他の奴とするとか、そういう意味か? それでエロいことに免疫つけるの?」
「え」
「そんなことされたら嫉妬で死ぬわ」
「加賀さん、あの」
「なあ、お前が不慣れなことで、俺が迷惑してると思う?」
 倉知は困った顔で少し間を空けてから答えた。
「思います」
「逆だろ。この前、穢すみたいで気が引けるって言ったけど、ごめん、結構楽しいんだよ。お前が簡単に勃起するのだって、俺のせいだって言ってたよな。俺が好きだからだろ? お前のそういうピュアなところが新鮮だし、可愛いと思うのに、どっかの誰かとやって経験値稼ぐって?」
 一気にまくし立てると、倉知は「違います」と顔をしかめて俺の上から退いた。ベッドの上で正座すると、すがるような目で俺を見て、一生懸命力説する。
「ほんと、違うんです。だって俺、他の誰かと、何かそういう、エロいことしたいとか思わないし、多分気持ち悪くてできません。キスだって無理です。加賀さん以外としたくないです。ていうかできません」
 俺は息をついて、体を起こした。
「修行って何? 時間が欲しいってどういう意味?」
「それはその……、友達にAVとか、雑誌とか、借りようかなと。それで少しでも知識を」
「倉知君」
「はい」
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「AVは俺が貸してやる。今度一緒に観ればいい」
「え、や、そ……、それはちょっと」
「約束しろ、一人で修行するな。俺にやらせろ。いいな?」
「……っう、……はい」
 倉知は羞恥に耐えながらやっとのことで返事をした。赤い顔を背ける倉知を見て、罪悪感を覚えた。俺が悪い。勝手に勘違いして問い詰めて、恥ずかしいことを言わせた。
 というか、大人げなかった。勘違いとはいえ、自分でも驚くほどショックを受けたし、余裕をなくした。誰かが倉知を触るのは、許せない。
「倉知君」
「はい」
「キスする?」
 こっちを見た倉知の答えを聞かずに、唇を塞いだ。また、目が合う。
 だから、目ぇ閉じろって、と文句を言おうとしたとき、ドアが開いた。
 六花が目を見開いて、仁王立ちしていた。 
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