電車の男

月世

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Ⅳ.加賀編

定時の男

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 水曜日。
 朝、電車で会った倉知の顔は沈んでいた。
 挨拶を交わしたあと「今日は本当にすみません」とでかい体を小さくして謝った。
 倉知は姉に会わせたくないようだが、俺は密かに楽しみにしていた。
 別に下着姿がどうこうではなく、単純に倉知の家族を見てみたいと思った。
 どうやったらあんな男が育つのか。興味がある。
 姉が二人というのも影響しているかもしれない。両親も、きっといい人間だ。
 会うのが楽しみだから、今のこの状況に少しいらついていた。
 朝から計画を立てて仕事を片付け、定時で帰れるように調整していたのだが、終業時間の三十分前に厄介ごとが舞い込んだ。
 目の前には精算書をかざした総務部の経理担当、花岡が立っている。用があるのは高橋らしいが、見あたらないからとりあえず俺のところに小言を言いにきたのだ。
 別に俺は高橋の教育係でもないし、直属の上司でもない。高橋は主任、とさも上司のように呼んでいるが、主任というのはただの肩書きで役職でもなんでもない。
 勤続年数によって勝手についてくるものだ。だから俺を主任と呼ぶのは高橋だけで、でもそうなると、他部署の人間からは俺が上司に見えるようだった。
「これなんなの? 交通費の申請でこの金額ってどうなってるの。あとこれ、なんで請求書が混じってるのよ。それにここ、あの人電卓も使えないの? どうやったらこの数字が出てくるのか理解不能だわ!」
 花岡が息巻いてフロアに入ってきたときから、空気が張り詰めるのがわかった。経理のお局としてみんなに恐れられている。ときには感情に任せて理不尽に当たり散らすこともあるが、古株なので誰も逆らえない。
「そもそも部長のハンコ抜けてるじゃない。なんで上司すっ飛ばして経理に回してくるのよ。あの人どうなってるの? 何回言ったらわかるのよ」
「ですよね。よく言って聞かせます」
 精算書を受け取って、目を落とす。高橋の乱れた字の上に、花岡の指先が刺さる。
「あとこの字。小学生なの? 漢字も二カ所間違ってるし、毎回毎回あの人のせいで仕事が進まないのよ!」
 ブチ切れる花岡の後ろで、前畑がシャドウボクシングをしている。その横で後藤が鬼の角に見立てた人差し指を頭の上に立てている。
 ちら、と二人を見ると、花岡が俺の視線を追って振り返る。前畑は知らん顔で踵を返してコピー機に向かい、後藤は髪を整えるフリをする。
「花岡さん」
 息を吐いて、名前を呼ぶ。花岡が、鬼の形相で振り向いた。
「今日はもう部長もいないので、今日中に直させて明日の朝一で提出します。本当にすみません」
 申し訳なさそうな顔と声を演出すると、花岡の眉間のしわが消えた。
「そうしてくれる?」
 まんざらでもない様子で鼻から息を吐き出した。
「別に、加賀君が悪いわけじゃないものね。大変よね、あなたも」
 あんたが言うか、と思ったが、笑って「いえいえ」と応える。
「じゃあよろしくね」
 最後は機嫌が直って笑顔になり、俺の肩に軽く触れてからフロアを出て行った。ピリピリしていた空気が一気に和らぎ、全員が「はあ」と息を吐く。
「たーかーはーしー」
 怒りを込めた声で高橋を呼ぶ。
「……はあい」
 隣のデスクの下から高橋がのそのそと出てきた。花岡が見えた瞬間、他人のデスクの下に慌てて隠れたのだ。まさかこんなところに隠れているとは思わなかっただろう。近くにいたのに気づかれずに済んだ。
「あんた、そんなとこにいたの?」
 前畑が「信じらんない、この馬鹿!」と吠えた。
「加賀君、知ってて黙ってたの?」
 後藤が眉根を寄せる。何か言いたそうだが、「まあまあ」と両手のひらを見せる。
 高橋が相手だったらあんなもんじゃ済まない。ヒートアップして、確実に定時を越える。高橋が俺に泣きついてくるのは目に見えている。今日は一秒も惜しい。時計を確認する。
「さっきから時間気にしてるよね。……デートだ!」
 前畑が泣き真似をする。前畑の俺に対するアプローチは以前となんら変わりがない。結局、そこまで本気じゃないということだ。
「あ、そうなんですか? じゃあ僕、主任のために頑張って直します」
 高橋が両手で拳を作って「よーし」と気合いを入れる。こんな精算書一つで大ごとになるのはこいつくらいだ。
「あんたねえ、なんで加賀君が手伝うこと前提になってんのよ。自分でやりなさいよね!」
「でもこれ意味わかんないんですもん」
 頬をふくらます高橋を俺のデスクに座らせ、新しい精算書を用意する。
「意味なんてねえんだよ。ぐだぐだ言わずに俺の言う通りに書け」
 ボールペンを握らせると、高橋は目を白黒させて「はい」と魂の抜けた声で返事をする。
「キャー、加賀君カッコイイー!」
 前畑の黄色い声を無視して高橋に指示を出す。それにしても本当に汚い字だ。象形文字に見える。
「お前……、もうちょっとなんとかならないのかよ、この字」
「でも僕、習字の段持ってますよ。ボールペンが苦手なんです。まだ筆ペンなら綺麗な字書けますけど。筆ペンにします? 僕持ってますよ。確か机の中に」
「いらん」
 立ち上がろうとする高橋を押さえつけて座らせる。領収書を捲りながら電卓を叩く。検算をして高橋の顔の前に突きつけた。
「合計はこの数字」
「あれ、これだけ? おかしいなあ」
「請求書混ぜて水増ししてんじゃねえよ。いいから書け」
 ブーブー言いながら合計欄に数字を書いたのを見届けて、精算書を手に取った。ざっと目を通して間違いがないことを確認して、部長のデスクに置いた。
 時計を見る。定時の六時ジャスト。
「主任、僕、頑張りました!」
 何をだよ、と周囲の目が自分に集まっているのに意に介していない。
「よくやった。はい、どいて」
 高橋の頭を撫でてから、椅子から退かし、背もたれに掛けてあったスーツの上着を羽織る。
「今度晩ご飯奢らせてくださいね。この前のお詫びです」
「お前にしちゃ気が利いてるな。じゃあ、お先。お疲れさん」
 高橋の背中を叩く。鞄を持って身をひるがえし、フロアから出ると、バタバタと足音が追いかけてきた。振り向くと、前畑と後藤だった。
「何?」
「下まで一緒に行こうよ」
 後藤が言って、俺の腕を強引に組んでくる。
「定時で上がる加賀君も素敵」
 反対側の腕に前畑がぶら下がってくる。
「歩きにくいんだけど」
 廊下ですれ違う社員がニヤニヤして見てくる。前畑はともかく、後藤がこんなことをするのは珍しい。
「なんだよ、めぐみさんまで」
「なんだろね。ほら、誰のものでもなかったのに、人のものになったのかって。ちょっと寂しくなったっていうか。仕事一本の男が時間気にしてる姿にお姉さんは感慨を覚えました」
 大げさな、と思ったが、自分でも少し空恐ろしい。
「加賀君、別れたら私のものになってね」
 前畑が腕にすり寄りながら言った。
「不吉なこと言うなよ」
「ああーん、どうして私じゃ駄目なのよう」
 社内恋愛をしない信条もあるが、仕事が第一だ。私生活を優先したことは、今までなかった。
 恋愛に向いていない自覚はあったし、面倒だと思う瞬間すらあった。
 俺も落ち着いてきたということだろうか。
 社員入り口でタイムレコーダーに社員証をかざし、三人揃って外に出る。外は薄暗かった。
「今度詳しく聞かせなさいよ」
 後藤が言った。この人になら、本当のことを教えてもいいかもしれない。ただ、そのときは前畑は抜きだ。男と付き合うことにしたなんて、きっと納得しない。
「まあそのうち。お疲れ」
 いつまでもこっちを見て手を振り続ける前畑を、後藤が引きずっていく。俺は駅と反対方向に向かい、途中でタクシーを拾った。
 何か適当に手土産を買って、倉知家へ向かうことにした。
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