電車の男 番外編

月世

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二人のバレンタイン

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〈倉知編〉

 テレビでバレンタインの特集をやっていた。隣で一緒に見ていた加賀さんが、ゲッと声を漏らす。
「もうそんな時期? 一年早いな」
「まだ先ですけどね。加賀さんすごい貰いそうですね」
 横顔は、憂鬱そうだ。
「もう義理チョコは法律で禁止してほしい」
「加賀さんが貰ってるのは本命ばっかりだと思いますけど」
「そんなわけないだろ」
 何故そこで自信満々に断言できるのかわからない。目に浮かぶ。恥ずかしそうに手渡す女性の姿が。むら、と嫉妬心が沸いた。
「俺もあげたいけど……」
 たくさん貰っているならきっと邪魔になるし、嬉しくないだろう。
「え、誰にあげるの?」
「加賀さん以外いませんよ」
「欲しい、ちょうだい」
 予想外に食いついてきた。体を起こして目を輝かせている。
「たくさん貰うのに、欲しいんですか?」
「好きな奴からチョコ貰えるとか、すげえテンション上がる」
 じわじわと顔が熱くなる。そんなに嬉しそうに言われると、照れる。目を逸らして、テレビを見ているフリをした。
「あ、あの、もし俺が、他の人から受け取らないでって言ったら」
「ん、ああ、そういうの気にするタイプ?」
「すいません、独占欲強くて」
 ソファの上で膝を抱える俺の頭を、加賀さんが乱暴に撫でた。
「極力そうしたいんだけど、なかなか難しいんだよな」
「そう、ですよね。付き合いがありますよね」
 特に加賀さんの場合は人を突き放すことをしないから、断り切れなくて受け取ってしまうのは理解できる。
「取引先とかでも貰うし、仕事関係は受け取らざるを得ないっていうか」
「わかります」
 俺がうなずくと、加賀さんが笑った。
「たとえ本命チョコだとしても、気持ちまで受け止める気はないから。お前以外」
「加賀さん」
 感動で胸が熱くなり、衝動的に抱きつくと、すぐに性欲が沸き起こる。
 服の中に手を突っ込んで、胸を撫でた。
「俺の」
 囁くと、加賀さんが小さく「うん」と同意した。
「お前だけのものだよ」
 その言葉が、全身に心地よく広がった。
 加賀さんは俺だけのもので、俺も加賀さんだけのものなのだが、バレンタインという行事があると、不安になる。
 他人が平気で割り込んでくるからだ。
 でも、それくらいは我慢できるようにならなければ。
 加賀さんは、モテる。バレンタインは無関係に、これから先もずっとモテ続けるのだ。
 とりあえず他人のことは置いておいて。
 チョコレートを用意しよう。貰ったことはあっても、当然、自分でバレンタイン用のチョコを買ったことはない。
 恋人にチョコを送るなら、手作りだろうか。
 チョコの手作りってどうするんだ? というところから始まる。
 溶かして固めるだけ?
「もしかしてバレンタインのチョコ、手作りにするつもり?」
 リビングでスマホを眺めていると、後ろから六花が覗き込んできた。
「そのほうがいいよね?」
「できても溶かして固めるだけでしょ。やめときな、クソまずいから」
「え、そうなの?」
「市販の買ったほうがいいよ」
「それもハードル高いんだよな」
 バレンタインコーナーは男には近寄りがたいものがある。それ用のチョコをこの時期に買うのも恥ずかしい。
「よし、明日一緒に買いに行こうか」
「いいの?」
「私も買いたいし。ついでだよ」
 六花がバレンタインに誰かにチョコを渡す予定があるなんて知らなかった。驚いて見つめると、「違う」と不快そうに眉間に皺を寄せる。
「自分用と、友達用。あとあんたとお父さんのも」
「六花は男の人にあげたりしないの?」
「あげるよ、男の友達に」
「友達じゃなくて」
「あ、加賀さんにもあげようかな」
「え」
「でもすごい貰いそうだし迷惑かな」
「あたしはあげるよ!」
 突然現れた五月がはいはいと手を挙げて主張する。
「お酒にしようかな」
「あ、それいいかもー」
「あの、二人とも、本命じゃないよね」
 五月と六花が揃って俺を見る。真顔だ。
「なんで弟の恋人に本命チョコ渡すの」
 六花が呆れた顔で言った。
「はあ? 本命ですけど? 何か?」
 当然のように胸を張る五月に、何も言えない。五月のこれは、本気か冗談か、もはや判断がつかなくなっている。
 結局姉二人引き連れてデパートのバレンタインコーナーでチョコレートを調達し、あとは二月十四日を待つだけになったのだが、大きな誤算があった。
 それに気づいたのは二月十二日の金曜日。
 登校すると靴箱に手紙が入っていた。なんだろうと思いながらポケットに突っ込み、教室に入ると風香がチョコレートを手渡してきた。
「え、なんで?」
 不意を突かれ、そんな言葉が口をついて出た。
「なんでってどういう意味? いつも通りの義理チョコだよ?」
「いや、じゃなくて、なんで今日?」
「だって十四日って日曜日じゃない」
「え、あ、そうか。え? そういう場合、バレンタインは中止に」
「大体休日前にやるんじゃない? みんな朝から配ってるよ」
「風香さん、俺には?」
 丸井がこそこそと近づいてきて、やけに腰の低い体勢で手もみしている。
「欲しいの?」
「欲しい!」
「じゃあ予備あるからあげる」
「予備!」
「何か不満?」
「いえ、いただきます!」
 二人のやり取りを横目で見ながら机の中に教科書を入れる。指が、何かに触れた。覗き込むと、見慣れないものが入っていた。
「お前、それ」
 丸井が俺の手元を見て、頭を抱えた。
「チョコか!?」
「嘘、誰から?」
 騒ぎ出す二人にシー、とやってから思い出した。さっきの手紙はもしかして。
 ポケットから手紙を出して、封を破り、目を落とす。
「え、何、その手紙。ラブレター?」
 丸井が盗み見ようとしてくるのをそのままに、ざっと目を通し、落胆する。
 そこには昼休みお話があります、という内容と、何年何組の誰それ、と書いてあった。
「これマジで呼び出しじゃん!」
「そのチョコと別の子? 倉知君すごい」
「大変だ」
「何?」
 二人が同時に言って首を傾げる。
「世の中は、今日がバレンタインだ」
「だからそうだって」
「倉知君、もしかして加賀さんに?」
「誰よりも先に渡したかったのに」
 愕然として呟き、椅子から素早く腰を上げた。
「今からなら間に合うかも。加賀さんの会社に……」
「ちょ、落ち着け」
「あ、駄目だ、チョコは家だ」
 終わった。どこかの誰かに先を越される。
「そんなに落ち込まなくても、日曜日に会えるならそっちのほうが強いよ」
「そうだよな、休みなのにわざわざ十四日に家に届ける女子とか、本気じゃんって思うもん」
 うなだれる俺を二人が励ましてくる。
「丸井君って、休みなのに女子が届けにくるって、そんな経験あるの?」
「俺の話じゃないよ。あれ? 風香ちゃん、気になる? 気になるの? 俺のこと」
「そんな珍しい女子がいるのかなって信じられなかっただけ」
「どうして風香ちゃんは俺に対して辛辣なの? もしかして好きなんじゃない?」
「私、理想高いからごめんね」
 二人の仲の良さそうな会話が右から左に流れていく。
 加賀さんはきっと何も気にしない。順番とかにこだわるような人じゃない。
 でも俺がこだわってしまう。
「で、倉知はそれどうすんの?」
「それ?」
「手紙。告白されんだろ、それ」
「机に入ってたチョコも、本命ぽいよね」
「そうなの?」
 そうでしょ、と二人が声を揃える。
「ちゃんと、お断りしてきます」
「あー、もったいねえ。代わりに俺と付き合わないかな、その子たち」
「倉知君を好きな子が丸井君で妥協するとは思えないんだけど」
「風香ちゃん、俺別にMじゃないからね? 人並みに傷つくよ?」
 もう二人は付き合えばいいのに、と思いながらスマホを操作した。
 加賀さんにメールを送って、息をつく。
 出遅れたことがものすごい失態に思えた。
 今頃加賀さんは大勢の女性にチョコを手渡されているに違いない。
 もやっとした。慌ててその感情を追いやる。
 心配しない。不安にならない。頑張って、慣れなければ。

〈加賀編へつづく〉

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

〈加賀編〉

 バレンタインは好きじゃない。苦行、と言ってもいい。
 小学校まではよかった。チョコが貰える、と単純に、馬鹿みたいに喜んでいるだけで済んだ。
 中学に上がると、チョコ以外に、重苦しい女子の気持ちがくっついてくるようになり、見返りを求められることが多くなった。受け取る、受け取らないの選択を間違えるととんでもない事態に発展することを学んだ。
 大人になって社会に出てからは、ビジネスの一部として受け入れることにした。
 それでも苦痛なのには代わりない。ホワイトデーで大金が吹っ飛ぶのが馬鹿らしく、次の年からは受け取らないでおこうと思ったが、女たちは許さなかった。ほぼ無理やり、押し付けていく。
 今では出社すると、否応なしに机の上にチョコが山積みになっている。
 取引先から一斉に呼び出しがかかり、待ち構えていた女性社員からチョコを渡される。 もう、諦めた。そのうちこんな行事は廃れていく。
 本来甘ったるいイベントなのに、夢も希望もなくなった頃に、倉知と出会った。
 クリスマス同様に、倉知が相手だと、なぜこうも新鮮なのか。
 倉知から、チョコを貰いたがっている自分が少し恥ずかしい。
 今日は二月十二日。
 バレンタインデー当日は日曜日なので、世間ではこの日にチョコを渡すことになっているらしい。今日は一日外回りで予定が埋まっていた。
 電車で顔を合わせた倉知といつも通りに目で挨拶を交わす。
 倉知はきっと、気づいていない。学校でも今日がバレンタインデーに相当するということを。
 そういえば、倉知は女子からチョコを貰ったりするのだろうか。するだろう。バスケ部で、背が高く、真面目で、顔も可愛い。モテないほうがおかしい。
「今日、晩ご飯作ってもいいですか?」
 下りる駅が近づくと、倉知が小声で訊いてきた。金曜の夜に泊まってそのまま土日を一緒に過ごすことが増えてきている。
「いいよ」
 答えると、嬉しそうに微笑んだ。
「お前今日」
 世間はバレンタインだぞ、という言葉を飲み込んだ。チョコを要求しているようで気が引けた。
 電車を下りて手を振って、歩き出す。まあいいか。俺たちのバレンタインは二月十四日で構わない。どうせ日曜日は一緒にいる。
 にやけそうになる口元を抑えて歩いていると、背後から「加賀さん!」と呼び止められた。振り返ると、大月が手を振ってコンビニから飛び出してきた。
「大月君」
「お久しぶりです」
 倉知と三人で食事をして以来、遭遇していなかった。待ち伏せをやめる、という約束を守っていたのだろう。今日までは。
「偶然だね?」
「はいー、ぐ、偶然っす」
 たじろいでから、もじもじと体を動かし、後ろ手に持っていた物を差し出してきた。見るからにバレンタイン用のチョコレートだ。
「何これ」
「バレンタイン日曜でしょ? 会えないし、今日渡そうと思って」
 手を出さずにチョコを見下ろしていると、大月が言い訳を始めた。
「コンビニ寄ったら目についたんで、深い意味はないすよホント。この前のお礼だと思って、受け取ってください」
「受け取ったら倉知君が怒りそう」
 倉知の冷ややかな目を思い出したのか、大月の体が硬直した。
「今ここで食べて証拠隠滅して!」
「そういう問題じゃないよね」
「男から貰っても嬉しくないですよね……」
「そういう問題でもなくて、悪いけど間に合ってるから」
 落ち込んだ様子の大月が、上目遣いで見てくる。これっぽっちも可愛くない。
「じゃあ急ぐから。バイバイ」
 手を振って通り過ぎようとする俺のコートに、大月がチョコを突っ込んできた。
「何してんの」
「逃げろー!」
 キャーッと悲鳴を上げて自転車に飛び乗り、すごい勢いで遠ざかっていく。ポケットに突っ込まれたチョコを引きずり出し、ため息をついた。
 別に、一個増えたところで何も変わらないのだが、大月から貰ったとなれば倉知がいい顔をしない。
 わざわざ言わないでおこう。チョコを鞄に入れて、会社に向かう。
「加賀君来た!」
 タイムカードを通して振り返ると、女性社員が数人待ち構えていた。毎年のことなので驚かない。
「おはようございます」
 俺の挨拶にかぶせるようにして顔の前に包装されたチョコレートを差し出してくる。
「はいこれ、チョコ」
「私も」
「好きです!」
「受け取ってください!」
 腕の中に詰め込まれていくチョコをすべて受け取ると、女性社員たちがキャハハと笑いながら去っていった。悪魔の笑い声だ。もしかしたらこれは新手のいじめかもしれない、と気づいた。
 チョコを抱えて社内を歩くという罰ゲームをやらされている気持ちになった。
「あ、加賀君。おはよう」
 階段を上りかけたとき、ちょうど上から後藤が下りてきた。紙袋を広げながら「ん」と入れるように促してくる。
「サンキュ」
「あのね、例年通りではあるんだけど、朝からご指名びっしりだから。絶対加賀君を寄越してくださいって」
「あー、うん、頑張るわ」
 おそらくまだ在庫が残っているであろう品物を発注して、配達日をこの日に指定してくる。他の社員に任せると苦情がくるのでこの日は朝から忙しい。
「あ、主任だ」
 営業のフロアに入ると、早い時間なのに珍しく高橋が出社していた。
「主任、主任、デスク大変なことになってますよ」
「お前今日早いな」
「だってバレンタインじゃないですか。チョコ貰えるかなーと思って早く来たんですけど」
 ちら、と前畑を見て、もう一度声のボリュームを上げて「チョコ貰えるかなーって思って!」と叫んだ。
 前畑が席を立ち、手に紙袋を持ってこっちに駆け寄ってくる。
「これベルギーのチョコ。お取り寄せだからね」
 手を出す高橋をすり抜けて、俺に手渡してくる。
「いやいやいや。なんで俺?」
「すんごい美味しいから、絶対食べてね」
「去年、来年はいらないって言ったのに」
「他の女子があげてるのに、負けてられないじゃない!」
「前畑さん……」
 高橋が手のひらを上に向けた状態でしょんぼりしている。
「僕には?」
「ああ、はいはい」
 前畑がベストのポケットから取り出した物を、高橋の手のひらに置いた。
「ブラックサンダーじゃないですか」
「それ美味いよな」
 多分、ベルギーのお取り寄せチョコより美味い。
「これ三十円くらいですよ?」
「何よ、いらないなら返してよ」
「いりますけどぉ」
 ため息をついてから、俺のデスクの上を指さして訊いた。
「主任はこの大量のチョコどうするんですか?」
「この程度で大量なんて、あんた甘いわね。増えるわよ、この十倍は」
 何故か前畑が誇らしげに胸を張る。
「派遣の主婦連中とか、取引先とか、もうすごいんだから。持って帰れないから段ボールで自宅に送ってるもんね」
「はあ? なんですかそれ、羨ましすぎます」
「欲しいならやるよ」
 デスクの上のチョコを紙袋に突っ込みながら言うと、「えー、貰っていいんですか?」と袋の中を覗き込む。高橋は甘党だ。
 最初の年は律儀に自分で食べていた。食べきれないばかりか体調を崩すので、もう意地を張るのはやめた。貰うときに、食べきれないから困るというと、大抵「食べなくていいから貰って」と言われる。要は受け取って貰えばなんでもいいのだ。大いなる自己満足だ。
「人が貰ったチョコ貰って嬉しい?」
 前畑が冷めた目で高橋を見る。
「そんなこと言うなら僕にもお取り寄せのチョコくださいよぅ」
「貰えるだけマシだと思いなさいよ」
「高橋、今日一日俺の補佐な」
 言い合う二人に割り込んで言った。注文書を見る限りでは今日は休憩なしで一日中外回りだ。
「おこぼれ貰えるかなあ」
「浅ましい奴!」
 前畑が吠えた瞬間、携帯が震えた。見ると、倉知からのメールだった。
『ちまたではどうやら今日がバレンタインみたいです。もうチョコ貰いました?よね。おれが最初に渡したかったです』
 学校に着いて、誰かからチョコを貰ったかして、ようやく気づいたのだろう。
「先に製造部下りて積み込んどいて。ちょっと一本電話してくる」
 時間を確認してから、高橋の背中を叩いて言った。
 フロアを出て廊下の突き当たりの窓際に立つ。携帯を操作して、耳に当てる。しばらくして倉知が出た。
『加賀さん』
「授業まだだよね?」
『まだです、あの』
 倉知の声が沈んでいる。
「今日まだ十二日だろ?」
『はい』
「十四日にお前以外のチョコ受け取らなくていいんだから、ラッキーだったと思う」
 日にちがどうとかは興味がない。そもそもこのイベントに対して思い入れもこだわりもない。でも倉知にとってはどうでもよくない大事なことのようだ。
 それなら俺も、同じ温度で接してやりたい。
『さすがポジティブですね』
「うん」
 声の調子が浮かんできた。気が楽になったらしい。
「チョコ貰った?」
『あ、はい、なんか朝来たら机に入ってて』
「はは、青春だな」
『靴箱に手紙も入ってて、昼休みに呼び出されてます』
「それ告白されるやつじゃねえか」
『ヤキモチ妬いてくれますか?』
 期待した声。
「どうかな」
『……加賀さんってどうやったら嫉妬するんですか?』
 自分の付き合っている相手に誰かが告白したら、嫉妬するのが自然なのだろうか。倉知にチョコを渡す女子がいたとして、共感しても嫉妬はしない。取られたわけでもない。お目が高い、としか思わない。
「うーん、たとえばお前が目の前で誰かとキスするとか?」
『加賀さんを嫉妬させるのって大変なんですね』
「嫉妬して欲しいの?」
『はい』
「即答かよ。だからって誰かとキスしたりすんなよ」
『しません。っていうかできません。加賀さんとしかしたくない』
 またこいつは。
 たまに破壊力のある殺し文句を言うから気を抜けない。
「もう授業始まるだろ。切るわ」
『はい、仕事頑張ってください』
「うん、じゃあね」
『加賀さん』
 耳から携帯を離しかけたところで倉知が呼び止めた。
「どした?」
『好きです』
 周囲を気にしてか、押し殺した声で言った。耳に息がかかる錯覚。脚が萎えて、窓ガラスに手をついて体を支えた。
「……うん」
『また夜に』
 そう言って切れた。
 腰にきた。
 携帯の画面を見ながらしばらく動けないでいた。
「加賀」
 背後から呼ばれて、驚いて声を上げる。
「うわ、びっくりした」
「……大丈夫か?」
 九條が立っていた。一気に体の熱が引いて、頭の中が白くなる。いつからそこにいた? 聞かれたらまずい単語を口にしていなかったか、思い返してみる。多分、大丈夫。
「なんでもないよ。何?」
 九條が少しためらいがちに、何かを差し出してくる。
「今日、一日外回りだってな。朝のうちにと思って」
 目眩がしそうだ。これは、まさか、チョコか?
「お前に渡してくれって頼まれた」
「え」
 硬直していると、九條が苦笑して言った。
「同じ課の、新人の社員からだ。俺たちが同期だと誰かから聞いたらしい。直接渡すのが恥ずかしいそうだ」
「わざわざ悪いな。サンキュ」
「俺からだと思ったか?」
 チョコを受け取ると、九條がポケットに手を突っ込んで、真顔で言った。
 冗談のつもりだろうか。笑えない。
 どう答えるのが正解なのか、わからない。
「笑わないのか?」
「九條、ごめん」
「謝られると惨めになるな」
 悲しそうな笑顔に、胸が痛む。目を逸らし、「もう行くわ」と言い置いて歩き出す俺の背中に、九條の声が追いかけてくる。
「学生なのか?」
「はっ?」
 思わず振り向くと、九條が「付き合ってる相手、高校生か?」と追い打ちをかけてくる。
「なんで?」
 何食わぬ顔で、笑って訊いた。
「授業、って言ってただろう」
「聞いてたのかよ」
「聞こえた。仲が良さそうだな」
 悪びれない顔で答える九條が黙り込んだ。九條は人事の人間だ。これをネタに揺すろうと思えばいくらでもできる。でも、俺の知っている九條はそんなことはしない。
「誰にも言わない」
「助かる」
「ただし、口止め料を貰おうかな」
「え?」
 耳を疑った。九條が微笑みながら、俺の肩に手を置いた。
「今度、晩飯でも奢れよ」
 それだけ言って、去って行った。
「……心臓に悪い」
 ばらされたくなければ抱かせろ、とか言われるのかと思った。九條がそんなことを言うわけがない。
 きっともう、決着がついている。九條の中では整理がついていて、今更俺をどうこうしようなんて考えていない。自惚れて、勝手に深刻になっていたのは俺だ。
 携帯をポケットに入れて、歩き出す。今日は忙しい。一分一秒も惜しい。
 とっとと仕事を終わらせて、早く家に帰ろう。
 倉知の、顔が見たい。

〈倉知編へつづく〉

++++++++++++++++++++++++++++++++++

〈倉知編〉

 今日は二月十四日、バレンタインだ。
 今年は十四日が日曜日だから、学校や会社では実質金曜日がバレンタインだった。
 俺も学校でいくつかチョコを貰い、中には割と本気で付き合って欲しいと言ってくる子もいた。
 何モテてんだよ、と丸井にからかわれたが、この程度でモテているとは言えない。おこがましい。
 加賀さんはきっと紙袋にどっさりと持って帰ってくるだろうと身構えていたが、金曜日に帰ってきたときにはチョコを持っているふうではなかった。
 変だな、と思っていたら、今日昼前に大きな段ボールが届き、中にはチョコが敷き詰められていた。この人は規格外にモテる、と確信した。
「倉知君のお父さん、甘いの好きじゃなかった?」
「いただいていいんですか?」
「減らしてくれたら助かる。好きそうなの持ってって」
「あ、忘れてた。五月と六花が加賀さんにチョコ渡したいって言ってたんだった」
 日曜日に加賀さんを連れてこい、と五月が騒いでいたが、六花は邪魔したくない、と遠慮していた。
「じゃああとでお前んち行くか」
「はい、あの……」
 肝心の、自分のチョコをまだ渡せていない。タイミングがつかめなくて、出しそびれている。なんせ人生で初めて、バレンタインチョコを人に渡す。
「俺のチョコ……」
「うん、いつくれるの?」
 この膨大な数のチョコを前にすると、本当にいらないもののように感じて余計出しづらい。
「手作りでもなんでもないんですけど」
「チロルチョコでも板チョコでもなんでもいいよ」
「いえ、ちゃんとした、なんだっけ、ゴディバのチョコです」
「うん」
「五月と六花と一緒に買いに行って」
「なんで出し惜しみすんの?」
 段ボールの中のチョコを掻き混ぜながら、「だって」とうめく。
「は、恥ずかしいじゃないですか。男がチョコって」
「そうか? そういや大月君から貰ったんだった」
 加賀さんが悪びれずに言った。
「忘れてたわ。どこやったかな、あれ」
「受け取ったんですか?」
「いらないって言ってんのに人のポケット突っ込んで逃げてったんだよ」
「諦めてないってことですね」
 宣戦布告をされた気分だ。ゆっくり腰を上げて、寝室に向かう。
「この前のお礼だって。それ以外に意味ないんじゃない」
 加賀さんがリビングで声を張り上げているが、わざわざチョコを用意して待ち構えていたのなら、真意は他にある。
 クローゼットのダウンジャケットのポケットから、チョコを引っ張り出したところで、後ろから加賀さんが抱きついてきた。
「怒った?」
「怒りました」
「ごめんね」
「加賀さんに対してじゃないです。奴です」
「やつ」
 おかしそうにおうむ返しをして、くっく、と笑っている。
「俺のも、受け取ってください」
「お、やっとくれる気になった?」
 背中から離れた加賀さんに向き直り、両手で持ったチョコの箱を差し出した。それを片手ずつ受け取って、恭しく天井に掲げる。
「やったー、ありがとうございます」
「あんなに貰ってても嬉しいですか?」
「どれだけ貰うかじゃなくて誰に貰うかだよな」
 ごもっともだ。うきうきしている加賀さんが可愛くて抱きしめたいのを我慢していると、チャイムが鳴った。
「あ、来たかな」
「え? 誰ですか?」
「ナイスタイミング。ちょっと待ってて」
 寝室に取り残され、力なくベッドに腰かけた。丸井が言っていたことを思い出してしまった。日曜日なのにわざわざ家にチョコを届けにくる本気の女子。
 そうかもしれない。どれだけモテれば気が済むんだ、と腹が立ってきた。
 ただのイケメンならここまで好かれたりしない。気さくで誰にでも優しいから人が群がってくる。もっと近寄りがたいオーラを出して、気難しそうで、話しかけづらい高嶺の花であってくれたら。
 そんな人だったら、俺はここまで好きになっただろうか。
 玄関で話し声が聞こえる。女性の声だ。やっぱり、そうだ。本気の女子に違いない。
「お待たせ。ってなんかへこんでない?」
 戻ってきた加賀さんが、俺の前に立って頭を撫でてきた。加賀さんの足の指を見つめながら、言った。
「チョコですか?」
「え?」
「今の女の人」
「ああ、違う。配達の人」
「また段ボールのチョコですか?」
「チョコじゃないよ。はい、どうぞ」
 目の前に急に現れた赤い物体に、驚いて身を引いた。
 真っ赤な薔薇の花束だ。
「あ、あの、これ、俺に?」
「うん」
 まったく予期していなかった物を渡されて、言葉を失っていると、加賀さんが俺の隣に腰かけた。
「チョコ以外のもので驚かせたいなと思って」
「お、驚きました……」
「チョコのがよかった?」
「いえ、あの、俺、花束なんて貰ったことないし、すごい……」
 嬉しくて、涙が出てきた。
 そもそも加賀さんに、バレンタインに何か貰えると思っていなかった。どうしてか、俺が渡して完結するものだと思い込んでいた。
「薔薇って本数で意味変わるんだって。知ってた?」
 涙を拭って、「いえ」と答える。加賀さんが笑いながら俺に寄りかかってくる。
「一本だと一目惚れらしい」
 俺が渡すとしたら、それだ。花束に視線を落とし、本数を数えてみる。
「十一本はどんな意味ですか?」
「さてなんでしょう」
 はぐらかされた。
「教えてくれないんですか?」
「えー、恥ずかしい」
 まったく恥ずかしくなさそうな言い方だ。
「自分で調べます」
 スマホをポケットから出して操作すると、加賀さんが「現代っ子め」とあくびを噛み殺しながら言った。
 十一本の薔薇の花束の意味。
 一本から順番に説明を読んで、画面をスクロールさせ、十一本のところで手が止まった。その文字を見た途端、指が震え、頑張って堪えた涙が再び流れそうになる。
「最愛、あなた一人だけ」
 声に出して読み上げて、加賀さんを見る。優しく笑って俺を見ていた。恥ずかしげもなくこういうことをさらっとできて、なおかつ嫌味じゃなく、ナチュラルに決まってしまうのはこの人くらいかもしれない。
「俺、もう死んでもいいくらい感動しました。幸せです。本当に、ありがとうございます」
「うん、死なないでね」
 綺麗に笑う最愛の人を、十一本の薔薇と一緒に抱きしめた。

〈おわり〉
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