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三味線の修繕
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私の働いていた店では、一階は私たちみたいな下働きが働いている場所で、食事の用意、洗濯、繕い物などはそこでしていた。お客さんたちが遊びに来るのは二階以降だ。
裏遊郭ではどうも見世にもよるものの、男娼のみが住んでいるこの見世では、地下が存在し、御陵さんは小さな童……この子も男の子だろうから禿と呼んでいいかがわからなかった……から提灯をもらうと、慣れた様子で階段を降りていった。
蛇の胃袋のように長い廊下をぐるぐると歩き、やっと辿り着いたのは明かりひとつ入ってない物置だった。そこからシクシクと泣き声が聞こえる。
「万屋さんが到着しましたわ。もう泣き止んでくださいまし」
御陵さんが戸の奥にそう声をかけると、すすり声と一緒に「兄さん……」と声が返ってくる。
「開けますね」とひと声添えてから戸を開くと、篭もったにおいと一緒に泣き濡れた目でこちらを見る、御陵さんのように男か女かわからない人が、薄い着物を着てぺたんと座り込んでいた。この人が例の芸子さんらしい。
そこへ先生がすたすたと歩いて行くと、芸子さんの前に屈む。
「さて、呼ばれてきたのだけれど。これいったいどこの誰からもらい受けた三味線だい?」
「あう……妙音天様です……」
「ただ弦が切れたくらいならば張り替えれば済む話だが、そうじゃないんだね?」
「はい……」
泣きながら芸子さんが抱きかかえていた三味線を差し出した。それはどう見ても、なにかに大きく踏まれたかのように、真っ二つに折れてしまっている。たしかにこれじゃ職人さんに修繕を頼めば直せるなんてもんじゃない。
それに先生は溜息をついた。
「……ずいぶんな壊れ方だね。これどうやったんだい?」
「あたしは今日の座敷のために稽古をしていました……そしたら……あたしの稽古場にまだ座敷に上げるにゃ早いお客様がいらっしゃって。まだ早いからお帰りくださいませと押し問答の末、こうやって折られてしまいました」
「こりゃ遣り手の怠慢じゃないか」
「はい……でも今晩は妙音天様がいらっしゃるんです……もしこのことがばれてしまったら最後……あたしは徳を一切喝采吸い取られてしまいます」
そう言いながらしくしくと芸子さんは泣いた。徳は裏吉原の物品売買以外にも使えるらしいし、実際に先生も自分の徳を溜め込んだ瓶を何本も持ち込んでいる。一切喝采吸い取られるって、いったいどういうことかはわからないけれど、多分まずいんだろう。
先生は深く溜息をつくと、「不明門、包みの中身を出しな」と言った。不明門くんは「へーい」と答えると、持っていた包みを開きはじめた。
相変わらず先生の瓶の中に溜まった徳は墨汁のように黒い。
私がそれを眺めていたら、先生は自身の着流しの懐から和紙を取り出すと、それを床に敷き詰めはじめた。畳一畳分くらいだ。続いて、徳の瓶の蓋を開けると、そこに指を突っ込んだ。
墨汁のようだと思っていた徳を指に付けると、それを使って和紙に円を描きはじめた。私にはよく読めないけれど、これはどうにもアルファベットのように思える。
「あのう……先生のこれって……」
「これ? 先生の魔法。表の吉原で使うんだったらもうちょっと他にやりやすい方法があるらしいんだけど、裏吉原はないない尽くしだからって、ここで魔法使う方法を研究して、自分自身の徳を使って魔法を使う方法を編み出したんだってさ」
「でも、これって……先生の徳、消えちゃいませんか?」
墨汁だって、たくさん硯に入れて筆で含んでしまったら減る。畳一畳分にたくさん指で文字を描き込んでいる徳の量は、私の持っている瓶に占めている徳の量をとっくの昔に越している。徳が全くなくなったらいろいろ問題が生じるみたいだけれど、先生は大丈夫なんだろうか。
それに不明門くんは「えー」と笑う。
「先生、俺なんかよりよっぽど徳を溜め込んでるから、それはないよ」
「でも普段、お使いみたいなものばかりしてますし……私たちにも分けてくださってますのに……」
「そりゃ音羽が裏吉原に来たばっかりだっつうから、大きな仕事を請け負う訳ねえだろ。今回みたいな神様関わってくるような厄介ごとだったら、先生も関わらざるを得ないけどさ」
商売をしているところだったら、どこにだって神棚は存在するし、困ったときは神頼みするのが定番だけれど。
この裏吉原の常識では、神様に目を付けられるっていうのは大変なことらしい。よくよく考えれば、音楽の神様の楽器を壊すようなふてえひとが客になるんだから、そりゃ質が悪いんだ……吉原でだって、どれだけ大店で遊女の姐さんたちから評判の悪い客であったとしても、自分より著名人の持ち物を壊すような愚かな真似はしない……するような見世だったらするかもしれないが、少なくとも私の見世ではそんな客はいなかった。
そうこうしている間に「よし」と先生が指を止めた。和紙はたっぷりと徳という名の墨汁を吸い込んで、少し皺が寄っている。その皺を先生は伸ばすように広げると、「さて、その三味線を貸しておくれ」と折れた三味線に手を伸ばす。
それを乗せた途端、三味線が勝手に「ピィーンッッ」と音を立てはじめた。
「……えっ?」
「三味線が修繕されようとしているんだよ」
「ええ、どういう意味で?」
「先生の描いた魔法陣に描かれているのは、物に意思を持たせる魔法、物に五感を教える魔法、物に自己修復しようとする魔法がかかってるんだよ」
「あれ。普通に物が直る魔法じゃ駄目なんですか?」
「……妙音天様の楽器を他の神様が壊したってのが問題なんだよ。普通に考えたら、自分より格下の神様に楽器を触れさせただけでも怒るだろうに、それを壊されたとなったら、職務怠慢でそこの芸子の徳は吸われ尽くす」
「そんな無茶苦茶な……」
「神は面子を気にするから。だからまず素直に謝ることができない。となったらどうするかというと、まずは三味線が付喪神になったと誤魔化す」
「あれ、それで誤魔化せるんですか?」
「本当だったら、持ち物が百年経つか経たないかくらいでないと、物は付喪神になんてならないけれど、そこは先生が魔法で意思を与えることで誤魔化した。あとは自分の意思で壊れたから修繕させたと見なして自己修復させてから、意思を奪う」
理屈としてはとてもまどろっこしいし面倒だ。でもこの方法じゃないと神様を怒らせてしまうのだとしたら。こんな手しか取れないんだろうなあ。
私が見つめている間にも、勝手に三味線が鳴り響く。
「ピィーンッ」
「ピィーンッッ」
「ピーンッ」
まるで自身で音を調整するようにして鳴り、折れた部分が勝手にくっつき、糸のような液体でどんどん形を修繕させていく。
最後にもうひと際高い音で「ピィーンッッッッ」と弾いた音がしたあと、三味線はもうどこが折れていたのか、どこを修繕したのかさえわからないようになっていた。
「わあ……すごい」
「はい。修繕完了。これでいいか、音を確認しな」
「は、はい……」
芸子は怖々と三味線に手を伸ばすとばちを当て、バンラバンラと音楽を奏ではじめた。その手の動きは滑らかで、よく見世で聞いていた音楽が響きはじめた。
芸子さんはポロポロと泣いている。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
「はい、それじゃあお代はいただくよ」
そう先生が言うと、「はあい」とにこやかに御陵さんは物置から大きな徳利を取り出す。それはあからさまに人ひとり背後に隠れられるくらいに大きく、私は唖然とする。しかし先生も不明門くんも平然としている。
「あ、あのう……あの徳利の中身って、全部本当に徳で……?」
「売れっ子だったらそれくらい徳が積めるんだよ。そもそも先生だって、瓶一本丸々空にしてんだからさ、それくらい徳もらわねえと割に合わないよ」
「ああ、そういえば」
先生が墨汁代わりに使っていた徳を占めていたはずの瓶は、すっかり空になってしまっているし、あと一本は底のほうまで徳がない。
そうこうしている間に、桃色の徳が瓶に注がれていった。
それが墨汁色に変わった頃、「不明門、音羽」と呼ばれる。
「あんたたちにもやるからおいで」
「はーい」
「あ、あのう……私まだなんにもしてないんですけど」
「なに言ってんだい。これは見稽古だったんだから。帰ったら魔法の修行するよ。なんのために弟子になったと思ってるんだ」
そもそも描いてた文字も読めない。なにをそこまで描いてたかわからない。
私はとんでもないことになったんじゃと目を白黒とさせながら、瓶に徳を注がれたのだった。
裏遊郭ではどうも見世にもよるものの、男娼のみが住んでいるこの見世では、地下が存在し、御陵さんは小さな童……この子も男の子だろうから禿と呼んでいいかがわからなかった……から提灯をもらうと、慣れた様子で階段を降りていった。
蛇の胃袋のように長い廊下をぐるぐると歩き、やっと辿り着いたのは明かりひとつ入ってない物置だった。そこからシクシクと泣き声が聞こえる。
「万屋さんが到着しましたわ。もう泣き止んでくださいまし」
御陵さんが戸の奥にそう声をかけると、すすり声と一緒に「兄さん……」と声が返ってくる。
「開けますね」とひと声添えてから戸を開くと、篭もったにおいと一緒に泣き濡れた目でこちらを見る、御陵さんのように男か女かわからない人が、薄い着物を着てぺたんと座り込んでいた。この人が例の芸子さんらしい。
そこへ先生がすたすたと歩いて行くと、芸子さんの前に屈む。
「さて、呼ばれてきたのだけれど。これいったいどこの誰からもらい受けた三味線だい?」
「あう……妙音天様です……」
「ただ弦が切れたくらいならば張り替えれば済む話だが、そうじゃないんだね?」
「はい……」
泣きながら芸子さんが抱きかかえていた三味線を差し出した。それはどう見ても、なにかに大きく踏まれたかのように、真っ二つに折れてしまっている。たしかにこれじゃ職人さんに修繕を頼めば直せるなんてもんじゃない。
それに先生は溜息をついた。
「……ずいぶんな壊れ方だね。これどうやったんだい?」
「あたしは今日の座敷のために稽古をしていました……そしたら……あたしの稽古場にまだ座敷に上げるにゃ早いお客様がいらっしゃって。まだ早いからお帰りくださいませと押し問答の末、こうやって折られてしまいました」
「こりゃ遣り手の怠慢じゃないか」
「はい……でも今晩は妙音天様がいらっしゃるんです……もしこのことがばれてしまったら最後……あたしは徳を一切喝采吸い取られてしまいます」
そう言いながらしくしくと芸子さんは泣いた。徳は裏吉原の物品売買以外にも使えるらしいし、実際に先生も自分の徳を溜め込んだ瓶を何本も持ち込んでいる。一切喝采吸い取られるって、いったいどういうことかはわからないけれど、多分まずいんだろう。
先生は深く溜息をつくと、「不明門、包みの中身を出しな」と言った。不明門くんは「へーい」と答えると、持っていた包みを開きはじめた。
相変わらず先生の瓶の中に溜まった徳は墨汁のように黒い。
私がそれを眺めていたら、先生は自身の着流しの懐から和紙を取り出すと、それを床に敷き詰めはじめた。畳一畳分くらいだ。続いて、徳の瓶の蓋を開けると、そこに指を突っ込んだ。
墨汁のようだと思っていた徳を指に付けると、それを使って和紙に円を描きはじめた。私にはよく読めないけれど、これはどうにもアルファベットのように思える。
「あのう……先生のこれって……」
「これ? 先生の魔法。表の吉原で使うんだったらもうちょっと他にやりやすい方法があるらしいんだけど、裏吉原はないない尽くしだからって、ここで魔法使う方法を研究して、自分自身の徳を使って魔法を使う方法を編み出したんだってさ」
「でも、これって……先生の徳、消えちゃいませんか?」
墨汁だって、たくさん硯に入れて筆で含んでしまったら減る。畳一畳分にたくさん指で文字を描き込んでいる徳の量は、私の持っている瓶に占めている徳の量をとっくの昔に越している。徳が全くなくなったらいろいろ問題が生じるみたいだけれど、先生は大丈夫なんだろうか。
それに不明門くんは「えー」と笑う。
「先生、俺なんかよりよっぽど徳を溜め込んでるから、それはないよ」
「でも普段、お使いみたいなものばかりしてますし……私たちにも分けてくださってますのに……」
「そりゃ音羽が裏吉原に来たばっかりだっつうから、大きな仕事を請け負う訳ねえだろ。今回みたいな神様関わってくるような厄介ごとだったら、先生も関わらざるを得ないけどさ」
商売をしているところだったら、どこにだって神棚は存在するし、困ったときは神頼みするのが定番だけれど。
この裏吉原の常識では、神様に目を付けられるっていうのは大変なことらしい。よくよく考えれば、音楽の神様の楽器を壊すようなふてえひとが客になるんだから、そりゃ質が悪いんだ……吉原でだって、どれだけ大店で遊女の姐さんたちから評判の悪い客であったとしても、自分より著名人の持ち物を壊すような愚かな真似はしない……するような見世だったらするかもしれないが、少なくとも私の見世ではそんな客はいなかった。
そうこうしている間に「よし」と先生が指を止めた。和紙はたっぷりと徳という名の墨汁を吸い込んで、少し皺が寄っている。その皺を先生は伸ばすように広げると、「さて、その三味線を貸しておくれ」と折れた三味線に手を伸ばす。
それを乗せた途端、三味線が勝手に「ピィーンッッ」と音を立てはじめた。
「……えっ?」
「三味線が修繕されようとしているんだよ」
「ええ、どういう意味で?」
「先生の描いた魔法陣に描かれているのは、物に意思を持たせる魔法、物に五感を教える魔法、物に自己修復しようとする魔法がかかってるんだよ」
「あれ。普通に物が直る魔法じゃ駄目なんですか?」
「……妙音天様の楽器を他の神様が壊したってのが問題なんだよ。普通に考えたら、自分より格下の神様に楽器を触れさせただけでも怒るだろうに、それを壊されたとなったら、職務怠慢でそこの芸子の徳は吸われ尽くす」
「そんな無茶苦茶な……」
「神は面子を気にするから。だからまず素直に謝ることができない。となったらどうするかというと、まずは三味線が付喪神になったと誤魔化す」
「あれ、それで誤魔化せるんですか?」
「本当だったら、持ち物が百年経つか経たないかくらいでないと、物は付喪神になんてならないけれど、そこは先生が魔法で意思を与えることで誤魔化した。あとは自分の意思で壊れたから修繕させたと見なして自己修復させてから、意思を奪う」
理屈としてはとてもまどろっこしいし面倒だ。でもこの方法じゃないと神様を怒らせてしまうのだとしたら。こんな手しか取れないんだろうなあ。
私が見つめている間にも、勝手に三味線が鳴り響く。
「ピィーンッ」
「ピィーンッッ」
「ピーンッ」
まるで自身で音を調整するようにして鳴り、折れた部分が勝手にくっつき、糸のような液体でどんどん形を修繕させていく。
最後にもうひと際高い音で「ピィーンッッッッ」と弾いた音がしたあと、三味線はもうどこが折れていたのか、どこを修繕したのかさえわからないようになっていた。
「わあ……すごい」
「はい。修繕完了。これでいいか、音を確認しな」
「は、はい……」
芸子は怖々と三味線に手を伸ばすとばちを当て、バンラバンラと音楽を奏ではじめた。その手の動きは滑らかで、よく見世で聞いていた音楽が響きはじめた。
芸子さんはポロポロと泣いている。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
「はい、それじゃあお代はいただくよ」
そう先生が言うと、「はあい」とにこやかに御陵さんは物置から大きな徳利を取り出す。それはあからさまに人ひとり背後に隠れられるくらいに大きく、私は唖然とする。しかし先生も不明門くんも平然としている。
「あ、あのう……あの徳利の中身って、全部本当に徳で……?」
「売れっ子だったらそれくらい徳が積めるんだよ。そもそも先生だって、瓶一本丸々空にしてんだからさ、それくらい徳もらわねえと割に合わないよ」
「ああ、そういえば」
先生が墨汁代わりに使っていた徳を占めていたはずの瓶は、すっかり空になってしまっているし、あと一本は底のほうまで徳がない。
そうこうしている間に、桃色の徳が瓶に注がれていった。
それが墨汁色に変わった頃、「不明門、音羽」と呼ばれる。
「あんたたちにもやるからおいで」
「はーい」
「あ、あのう……私まだなんにもしてないんですけど」
「なに言ってんだい。これは見稽古だったんだから。帰ったら魔法の修行するよ。なんのために弟子になったと思ってるんだ」
そもそも描いてた文字も読めない。なにをそこまで描いてたかわからない。
私はとんでもないことになったんじゃと目を白黒とさせながら、瓶に徳を注がれたのだった。
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