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庭師
二
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薄墨は一旦小屋に戻って、雪山装備を取りに戻った。戻り際に薄墨は「鬱金」と呼ぶ。
「お前は無茶なことをするからな。今日は若木の世話が終わったら、そのまま小屋に戻れ。絶対に他に出るな」
「……わかった」
その棟梁命令に、少なからず鬱金はしゅんとした。
自分はちっとも期待されていないのだと。そのしょげかえった鬱金に、紅華がぽんと彼の肩を叩いて言う。
「単純に適材適所って奴だよ。あんな危ない雪山の様子を見に行くのなんて、棟梁ほどの熟練じゃなかったらまずしないし、できないよ。あたしは役所に何度も通っているから、早めに報告ができるっていうだけ。あんたはやれることやったら、さっさと小屋に戻るんだよ。いいね?」
「……うん」
しょげ返った鬱金を残して、紅華も役所へと行ってしまった。
ますます立つ瀬のなくなった鬱金は、ひとりでのろのろと弁当を食べ終え、若木の世話をする。雪がある程度溶けたら、山に登って植樹するんだろうか。
そう思いながら作業をしているときだった。
鬱金はツンとする獣の臭いを鼻にした。
それは山に登った際に、たびたび対峙している物の怪の発する臭いだった。
サク、サクと、足音が近付いてくる。雪が積もっているのをものともせずに、歩いているのだろう。
それに鬱金はうろたえた。
櫻守の作業中に物の怪と遭遇して退治することはたしかにあった。しかし、こんな麓で、それも民家が近い中で起こったのは初めてなのである。
櫻守たちが暮らしている小屋の近くには、鬱金や薄墨が通っている市場や役所があるし、もうしばらく歩けば百姓たちが住まう区画もある。そんなところで物の怪に遭遇しても……戦える人間なんてそう多くはない。
だからと言って、鬱金も今は木刀を持ってきていないし、この場にあるのは肥料にそれを入れている樽、肥料を汲む木杓くらいしかない。
そもそも相変わらず何度物の怪と遭遇しても、鬱金は戦うことも、殺すこともできずにいた。
だが今、薄墨は雪山に登っていったし、紅華は役所に行ってまだ帰ってこない。この場で戦える術を持っている櫻守は、鬱金ただひとりである。
来ないで、来ないで、来ないで……!
鬱金はそう必死に祈ったが、残念ながらその祈りは物の怪には届かなかった。
やがて、足音が止まった。その足を止めた物の怪を、鬱金は凝視した。
若木の苗の近くにやって来たのは、目を見張るほどに美しい物の怪であった。
真っ白な毛並みは冬の弱い日差しの中でも光沢を放ち、その尾は九尾に分かれている。顔立ちも美しく、ちょん。と鬱金の前に座った。その様はずいぶんと気品に満ち溢れている。
九尾の狐であった。
その様に、鬱金は少しだけ驚いて、目を瞬かせた。
この物の怪は、ちっとも襲ってくる気配がなかったのだ。それどころか、問答無用で若木を食らおうとする気配もない。本当に静かだった。
「た、食べないの……?」
思わずそう鬱金は尋ねると、驚いたことに九尾の狐は「くすり」と笑ったのである。
そんな人間と同じような反応をすると思っていなかった鬱金は、目を白黒とさせる。
──食べません。野蛮な他の輩だったらいざ知らず、わたしはあなたも、桜の雛も食べません
そうはっきりと声が聞こえ、驚いて鬱金はきょろきょろと辺りを見回した。女性のような男性のような、中性的な声であった。
この場にいるのは、鬱金以外だと九尾の狐だけである。鬱金はますます困惑した顔で、九尾の狐の顔を覗き込んだ。
やはり九尾の狐は静かであり、他の物の怪たちのように問答無用でよだれを垂れ流しながら襲い掛かって来る様子すらなかった。きちんと鬱金と視線を合わせている。
鬱金は恐々と尋ねてみる。
「あなたが……しゃべったの?」
──あなたがそう思ったのなら、そうなのでしょうね
返事をした。しかも鬱金の言葉をはっきりと理解した上で。鬱金は混乱した。
今まで、紅華からさんざん叩き込まれた座学の中でも、物の怪とは意思疎通ができないとされていたのに、これはどういうことだろう。
「待って。あなたは人間の言葉がわかるの?」
──おかしなことをおっしゃるんですね
「ぼくは、おかしいことを言ったの?」
──そうですね
九尾の狐の言葉に、鬱金は意味がわからず、胸にせり上がってくる気持ち悪さで、めまいを覚えた。だが九尾の狐は気にする素振りを見せない。徹頭徹尾、静かなままであった。
とりあえず、会話が成立する物の怪がいるということに驚きながらも、鬱金は疑問をぶつけてみることにした。
「野蛮な他の輩って、他の物の怪のこと? あなたは若木を食べないのに、他の物の怪は食べてしまうってこと?」
そんなことを聞かされても、九尾の狐も困るだけではないだろうか。一瞬鬱金はそう躊躇ったものの、九尾の狐は鬱金の切り出した話題にもあっさりと答えてくれた。
──そうですね。他の物の怪は、腹を減らせていますから、冬場でも空腹に耐え切れずに冬眠することができずに、こうして狩りに出ることもあります。あまりやり過ぎると山が枯れてしまいますが、飢えると次は人を襲うしかできなくなりますから
「そんな……でも、あなたは食べないね?」
そこが一番の疑問であった。
どう考えても九尾の狐は桜の若木や人間である鬱金を前にしても理性を保っているし、今まで襲ってきた物の怪たちはどれもこれも食欲を抑えることなんてできていなかったのに。
鬱金の素朴な疑問に九尾の狐はあっさりと言う。
──わたしはそういう風にできていますから
それは答えになっていないような気がする。
鬱金はそう思ったものの、九尾の狐からいろいろと話を聞けば、もしかすると櫻花国で起こっている異常事態についても、なんとか対処できるのではないか。そう判断して、会話を重ねた。
「そう、なんだ……でも物の怪はあれだけ桜のこけや若木を食べてもお腹を空かせているのはどうして?」
──どれもこれも、栄養が足りていないんです。だから空腹が凌げず、次の餌を探すんです。
その言葉に、鬱金は押し黙る。
それは何度も何度も薄墨が指摘していたことだ。そもそも母樹が枯れかけているのがけちのつきはじめなのだが、それをどう対処すればいいのか。
「……栄養が足りないのは、千年花が枯れかけているからだって、棟梁が……えっと、この山を管理している櫻守の棟梁がそう言ってた。千年花が枯れてしまったら、物の怪も困るし、そもそも櫻花国の人も困るよね。どうにかならないのかな……」
そんなこと、いくらなんでも九尾の狐に聞くべきことではないのだが、鬱金は他に聞ける相手が思いつかなかった。
櫻守には致命的に知識が足りない。現場のこと以外は本当になにもわからないのだから。
薄墨は「やることは変わらない」と櫻守の仕事を続ける傍ら、問題を役所には報告を続けているが、役所の上にいるはずの朝廷がなにを考えているのかがさっぱりわからなかった。
紅華も同じだ。
彼女も「庭師の管轄」と言って、困っているが手をこまねいているばかりで、どうにかできないと諦めている。
鬱金は、自分が偉そうに言っているだけで、櫻守としては中途半端だ。
物の怪と戦うことだってできないし、だからと言って他に秀でたものがなにもない。せめて千年花がどうにかできないのかと、そればかり考えている。
知識があるらしい庭師や樹木医も頼りにならない以上、藁にもすがる思いだったのだ。
九尾の狐は綺麗な鼻先をじっと鬱金に向けた。
静かなたたずまいで、雪の上でも物ともしない姿勢。そしてふさふさとした九尾に分かれた尻尾を振りながら言う。
──母樹の代替わりが行われれば、千年花は枯れません
その言葉に、鬱金は目を見張る。
今まで、千年花が枯れかけているという話題は出ても、それの根本的な解決策を提示できたことが、棟梁である薄墨の口からすら出たことがなかったのだ。
どうして物の怪であるはずの九尾の狐から、そんな言葉が飛び出るのか。
「……ちょっと待って。それってどうやればいいの? というより、できるものなの?」
そもそも、櫻花国は、千年花の上に存在している国のはずだ。
千年花の上にこの国の住民が住んでいるのだから、そこから人間も動植物も物の怪すらどかずに代替わりというのは、どうやれば成立するのかが鬱金の頭ではさっぱりと思いつかない。
九尾の狐は続ける。
──本来、代替わりが滞りなく行われれば、この国がおかしくなることはありませんでした。でも事故が立て続けに起こってしまったので、問題が起こったのです
それにますます鬱金は衝撃を受けた。
そういえば。千年花が枯れかけているのは、異常現象だと薄墨も言っていた。
「今までは……事故が起こらなかったの?」
鬱金が震える声で尋ねると、九尾の狐は短く「はい」と答える。
──今まで通り誰に気付かれることもなく千年花の代替わりが行われていたのなら、千年花が枯れかけるもなく、それが原因で物の怪が暴走したり、櫻守に迷惑をかけることもありませんでした
「だとしたら……千年花の代替わりさえ、いつも通りにできたら、全部元に戻るの!?」
──全てかどうかまではわかりませんが。少なくとも物の怪が飢えに苦しむことはなくなり、若木まで食い尽くしてしまう心配はなくなるでしょう
その言葉に、鬱金は目を輝かせた。
皆で役所や庭師の動向を気にする以外やることがなかったというのに。千年花を救う希望が見えてきたのだ。
「そ、それじゃあ。どうすればその問題を解消して、千年花の代替わりが行えるの!?」
鬱金はもう一度、九尾の狐に向かって尋ねたときだった。
「鬱金、伏せな……!」
怒号が響き渡った。
走ってきたのは、役所に行ってきたはずの紅華だった。
彼女は背中に佩いた刀を抜くと、それをそのまま九尾の狐に降り下ろした。
九尾の狐は紅華の描いた弧をひらりと避ける。それに紅華は「ちっ」と舌打ちをする。九尾の狐は流麗な動きのまま、ちらりと鬱金を見た。
──仕方がありませんね、わたしは一度帰ります。またお会いしましょう
それだけを鬱金に告げると、そのまま九尾の狐が去っていった。再び紅華が刀を振るうが、それよりも逃げ足が速く、あっという間に見えなくなってしまった。
「しまった……! 山に逃げられた……! 人郷を襲われるよりは、まだましだったけれど……!」
紅華は悔し気に、地団太を踏みながらも、刀を鞘に戻す。それを見ながら、鬱金はおろおろと言い募る。
「待って、あの九尾の狐、なにか言おうとしてくれてたよ」
「なに言ってんだい、あんた。物の怪がしゃべれる訳なんかないだろ」
そう言われて、鬱金は目を瞬かせる。
たしかに鬱金は九尾の狐の言葉が理解できたし、普通に会話が成立していた。紅華とやり合っているときですら、九尾の狐はしゃべっていたというのに、それすらも紅華には聞こえなかったことになる。
そもそも、今の時期は桜の木の近くに巣をつくって冬眠しているはずの物の怪が、どうしてこんな場所にまで出てきていたのか。
ひとまず鬱金は、先程九尾の狐が言っていたことを、紅華に伝えた。
「……九尾の狐は、千年花は代替わりが必要だって言ってたよ。弱っているんだから、代替わりしないとこのままだと枯れるって」
その代替わりの方法を聞き出そうとしたところで、紅華に妨害されたのだが。だが紅華の態度は変わらなかった。むしろ、なにかに対して苛立っているようだった。
「……あんた、本当になに言ってんだい?」
そう吐き出した紅華に、鬱金が呆然として彼女の顔を見た。
そこで初めて、鬱金は紅華が浮かべている表情に気が付いた。
普段は明朗快活な姉御肌で、喜怒哀楽が激しいもののわかりやすい彼女が、露骨に嫌悪を剥き出しにして鬱金を睨みつけていたのだ。これだけ湿度のある怒りを向ける紅華を、鬱金は初めて見た。
紅華はそのままがしっと鬱金の胸倉を掴んで、ぶんぶんと上下に振り回しはじめた。
小柄な鬱金の足が地面から離れ、首が締まったり緩まったりして苦しいが、普段の彼女だったら謝って手を放してくれるというのに、今の彼女は気付く素振りもなく鬱金を振り回している。
「あんた、物の怪になにかされたのかい? なんで物の怪なんかを庇うんだ。あいつらが桜の木を齧るから、桜だって弱るんだろうが。それだってのにどうして迷惑だ、死んでくれって思っちゃいけないんだい?」
彼女はまるで、自分に言い聞かせているようだった。彼女はなにかを抑え込んでいる。それは物の怪に対する、露骨な嫌悪感と憎悪のようにも思える。
鬱金は今まで紅華と一緒にいて、居心地のよさこそ感じこそすれ、彼女がこれだけ禍々しい感情を抱えていたことに気付きもしなかったので、彼女の変貌に、ただ困り果てる。
「あの……違……」
必死でそう訴えるが、紅華は聞く耳を持たない。
「なにが違うっていうんだい!? それともあんたは、心の底から物の怪が可哀想だっていうのかい!? ならどうしてあんたは櫻守を続けてられるのさ! 桜が枯れて、桜が折れて、この国が沈んだって本当にいいって思っているのかい!?」
「ちょっと待って……! 本当に落ち着いて……!」
必死で鬱金は紅華をなだめようとするものの、彼女の怒りが治まる気配がない。
まるで彼女は怒りに引きずり回されているようだった。既に怒りの矛先を向けるべき九尾の狐の姿はなく、それはかの物の怪としゃべったと伝えた鬱金に向けられたのだ。
薄墨がいたら、紅華に対してひと言「落ち着け」と伝えて、彼女の怒りを冷まさせたことだろうが、残念ながら今は山に登っている以上、戻ってくるまでもうしばらくはかかるだろう。
どうしよう、どうしよう。いつもの優しい紅華に戻って欲しいが、鬱金は彼女にかける言葉を見つけられなかった。
鬱金は必死で彼女を止める手立てを考えている中。
ふいになにかが飛んできた。
「お前は無茶なことをするからな。今日は若木の世話が終わったら、そのまま小屋に戻れ。絶対に他に出るな」
「……わかった」
その棟梁命令に、少なからず鬱金はしゅんとした。
自分はちっとも期待されていないのだと。そのしょげかえった鬱金に、紅華がぽんと彼の肩を叩いて言う。
「単純に適材適所って奴だよ。あんな危ない雪山の様子を見に行くのなんて、棟梁ほどの熟練じゃなかったらまずしないし、できないよ。あたしは役所に何度も通っているから、早めに報告ができるっていうだけ。あんたはやれることやったら、さっさと小屋に戻るんだよ。いいね?」
「……うん」
しょげ返った鬱金を残して、紅華も役所へと行ってしまった。
ますます立つ瀬のなくなった鬱金は、ひとりでのろのろと弁当を食べ終え、若木の世話をする。雪がある程度溶けたら、山に登って植樹するんだろうか。
そう思いながら作業をしているときだった。
鬱金はツンとする獣の臭いを鼻にした。
それは山に登った際に、たびたび対峙している物の怪の発する臭いだった。
サク、サクと、足音が近付いてくる。雪が積もっているのをものともせずに、歩いているのだろう。
それに鬱金はうろたえた。
櫻守の作業中に物の怪と遭遇して退治することはたしかにあった。しかし、こんな麓で、それも民家が近い中で起こったのは初めてなのである。
櫻守たちが暮らしている小屋の近くには、鬱金や薄墨が通っている市場や役所があるし、もうしばらく歩けば百姓たちが住まう区画もある。そんなところで物の怪に遭遇しても……戦える人間なんてそう多くはない。
だからと言って、鬱金も今は木刀を持ってきていないし、この場にあるのは肥料にそれを入れている樽、肥料を汲む木杓くらいしかない。
そもそも相変わらず何度物の怪と遭遇しても、鬱金は戦うことも、殺すこともできずにいた。
だが今、薄墨は雪山に登っていったし、紅華は役所に行ってまだ帰ってこない。この場で戦える術を持っている櫻守は、鬱金ただひとりである。
来ないで、来ないで、来ないで……!
鬱金はそう必死に祈ったが、残念ながらその祈りは物の怪には届かなかった。
やがて、足音が止まった。その足を止めた物の怪を、鬱金は凝視した。
若木の苗の近くにやって来たのは、目を見張るほどに美しい物の怪であった。
真っ白な毛並みは冬の弱い日差しの中でも光沢を放ち、その尾は九尾に分かれている。顔立ちも美しく、ちょん。と鬱金の前に座った。その様はずいぶんと気品に満ち溢れている。
九尾の狐であった。
その様に、鬱金は少しだけ驚いて、目を瞬かせた。
この物の怪は、ちっとも襲ってくる気配がなかったのだ。それどころか、問答無用で若木を食らおうとする気配もない。本当に静かだった。
「た、食べないの……?」
思わずそう鬱金は尋ねると、驚いたことに九尾の狐は「くすり」と笑ったのである。
そんな人間と同じような反応をすると思っていなかった鬱金は、目を白黒とさせる。
──食べません。野蛮な他の輩だったらいざ知らず、わたしはあなたも、桜の雛も食べません
そうはっきりと声が聞こえ、驚いて鬱金はきょろきょろと辺りを見回した。女性のような男性のような、中性的な声であった。
この場にいるのは、鬱金以外だと九尾の狐だけである。鬱金はますます困惑した顔で、九尾の狐の顔を覗き込んだ。
やはり九尾の狐は静かであり、他の物の怪たちのように問答無用でよだれを垂れ流しながら襲い掛かって来る様子すらなかった。きちんと鬱金と視線を合わせている。
鬱金は恐々と尋ねてみる。
「あなたが……しゃべったの?」
──あなたがそう思ったのなら、そうなのでしょうね
返事をした。しかも鬱金の言葉をはっきりと理解した上で。鬱金は混乱した。
今まで、紅華からさんざん叩き込まれた座学の中でも、物の怪とは意思疎通ができないとされていたのに、これはどういうことだろう。
「待って。あなたは人間の言葉がわかるの?」
──おかしなことをおっしゃるんですね
「ぼくは、おかしいことを言ったの?」
──そうですね
九尾の狐の言葉に、鬱金は意味がわからず、胸にせり上がってくる気持ち悪さで、めまいを覚えた。だが九尾の狐は気にする素振りを見せない。徹頭徹尾、静かなままであった。
とりあえず、会話が成立する物の怪がいるということに驚きながらも、鬱金は疑問をぶつけてみることにした。
「野蛮な他の輩って、他の物の怪のこと? あなたは若木を食べないのに、他の物の怪は食べてしまうってこと?」
そんなことを聞かされても、九尾の狐も困るだけではないだろうか。一瞬鬱金はそう躊躇ったものの、九尾の狐は鬱金の切り出した話題にもあっさりと答えてくれた。
──そうですね。他の物の怪は、腹を減らせていますから、冬場でも空腹に耐え切れずに冬眠することができずに、こうして狩りに出ることもあります。あまりやり過ぎると山が枯れてしまいますが、飢えると次は人を襲うしかできなくなりますから
「そんな……でも、あなたは食べないね?」
そこが一番の疑問であった。
どう考えても九尾の狐は桜の若木や人間である鬱金を前にしても理性を保っているし、今まで襲ってきた物の怪たちはどれもこれも食欲を抑えることなんてできていなかったのに。
鬱金の素朴な疑問に九尾の狐はあっさりと言う。
──わたしはそういう風にできていますから
それは答えになっていないような気がする。
鬱金はそう思ったものの、九尾の狐からいろいろと話を聞けば、もしかすると櫻花国で起こっている異常事態についても、なんとか対処できるのではないか。そう判断して、会話を重ねた。
「そう、なんだ……でも物の怪はあれだけ桜のこけや若木を食べてもお腹を空かせているのはどうして?」
──どれもこれも、栄養が足りていないんです。だから空腹が凌げず、次の餌を探すんです。
その言葉に、鬱金は押し黙る。
それは何度も何度も薄墨が指摘していたことだ。そもそも母樹が枯れかけているのがけちのつきはじめなのだが、それをどう対処すればいいのか。
「……栄養が足りないのは、千年花が枯れかけているからだって、棟梁が……えっと、この山を管理している櫻守の棟梁がそう言ってた。千年花が枯れてしまったら、物の怪も困るし、そもそも櫻花国の人も困るよね。どうにかならないのかな……」
そんなこと、いくらなんでも九尾の狐に聞くべきことではないのだが、鬱金は他に聞ける相手が思いつかなかった。
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紅華も同じだ。
彼女も「庭師の管轄」と言って、困っているが手をこまねいているばかりで、どうにかできないと諦めている。
鬱金は、自分が偉そうに言っているだけで、櫻守としては中途半端だ。
物の怪と戦うことだってできないし、だからと言って他に秀でたものがなにもない。せめて千年花がどうにかできないのかと、そればかり考えている。
知識があるらしい庭師や樹木医も頼りにならない以上、藁にもすがる思いだったのだ。
九尾の狐は綺麗な鼻先をじっと鬱金に向けた。
静かなたたずまいで、雪の上でも物ともしない姿勢。そしてふさふさとした九尾に分かれた尻尾を振りながら言う。
──母樹の代替わりが行われれば、千年花は枯れません
その言葉に、鬱金は目を見張る。
今まで、千年花が枯れかけているという話題は出ても、それの根本的な解決策を提示できたことが、棟梁である薄墨の口からすら出たことがなかったのだ。
どうして物の怪であるはずの九尾の狐から、そんな言葉が飛び出るのか。
「……ちょっと待って。それってどうやればいいの? というより、できるものなの?」
そもそも、櫻花国は、千年花の上に存在している国のはずだ。
千年花の上にこの国の住民が住んでいるのだから、そこから人間も動植物も物の怪すらどかずに代替わりというのは、どうやれば成立するのかが鬱金の頭ではさっぱりと思いつかない。
九尾の狐は続ける。
──本来、代替わりが滞りなく行われれば、この国がおかしくなることはありませんでした。でも事故が立て続けに起こってしまったので、問題が起こったのです
それにますます鬱金は衝撃を受けた。
そういえば。千年花が枯れかけているのは、異常現象だと薄墨も言っていた。
「今までは……事故が起こらなかったの?」
鬱金が震える声で尋ねると、九尾の狐は短く「はい」と答える。
──今まで通り誰に気付かれることもなく千年花の代替わりが行われていたのなら、千年花が枯れかけるもなく、それが原因で物の怪が暴走したり、櫻守に迷惑をかけることもありませんでした
「だとしたら……千年花の代替わりさえ、いつも通りにできたら、全部元に戻るの!?」
──全てかどうかまではわかりませんが。少なくとも物の怪が飢えに苦しむことはなくなり、若木まで食い尽くしてしまう心配はなくなるでしょう
その言葉に、鬱金は目を輝かせた。
皆で役所や庭師の動向を気にする以外やることがなかったというのに。千年花を救う希望が見えてきたのだ。
「そ、それじゃあ。どうすればその問題を解消して、千年花の代替わりが行えるの!?」
鬱金はもう一度、九尾の狐に向かって尋ねたときだった。
「鬱金、伏せな……!」
怒号が響き渡った。
走ってきたのは、役所に行ってきたはずの紅華だった。
彼女は背中に佩いた刀を抜くと、それをそのまま九尾の狐に降り下ろした。
九尾の狐は紅華の描いた弧をひらりと避ける。それに紅華は「ちっ」と舌打ちをする。九尾の狐は流麗な動きのまま、ちらりと鬱金を見た。
──仕方がありませんね、わたしは一度帰ります。またお会いしましょう
それだけを鬱金に告げると、そのまま九尾の狐が去っていった。再び紅華が刀を振るうが、それよりも逃げ足が速く、あっという間に見えなくなってしまった。
「しまった……! 山に逃げられた……! 人郷を襲われるよりは、まだましだったけれど……!」
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「待って、あの九尾の狐、なにか言おうとしてくれてたよ」
「なに言ってんだい、あんた。物の怪がしゃべれる訳なんかないだろ」
そう言われて、鬱金は目を瞬かせる。
たしかに鬱金は九尾の狐の言葉が理解できたし、普通に会話が成立していた。紅華とやり合っているときですら、九尾の狐はしゃべっていたというのに、それすらも紅華には聞こえなかったことになる。
そもそも、今の時期は桜の木の近くに巣をつくって冬眠しているはずの物の怪が、どうしてこんな場所にまで出てきていたのか。
ひとまず鬱金は、先程九尾の狐が言っていたことを、紅華に伝えた。
「……九尾の狐は、千年花は代替わりが必要だって言ってたよ。弱っているんだから、代替わりしないとこのままだと枯れるって」
その代替わりの方法を聞き出そうとしたところで、紅華に妨害されたのだが。だが紅華の態度は変わらなかった。むしろ、なにかに対して苛立っているようだった。
「……あんた、本当になに言ってんだい?」
そう吐き出した紅華に、鬱金が呆然として彼女の顔を見た。
そこで初めて、鬱金は紅華が浮かべている表情に気が付いた。
普段は明朗快活な姉御肌で、喜怒哀楽が激しいもののわかりやすい彼女が、露骨に嫌悪を剥き出しにして鬱金を睨みつけていたのだ。これだけ湿度のある怒りを向ける紅華を、鬱金は初めて見た。
紅華はそのままがしっと鬱金の胸倉を掴んで、ぶんぶんと上下に振り回しはじめた。
小柄な鬱金の足が地面から離れ、首が締まったり緩まったりして苦しいが、普段の彼女だったら謝って手を放してくれるというのに、今の彼女は気付く素振りもなく鬱金を振り回している。
「あんた、物の怪になにかされたのかい? なんで物の怪なんかを庇うんだ。あいつらが桜の木を齧るから、桜だって弱るんだろうが。それだってのにどうして迷惑だ、死んでくれって思っちゃいけないんだい?」
彼女はまるで、自分に言い聞かせているようだった。彼女はなにかを抑え込んでいる。それは物の怪に対する、露骨な嫌悪感と憎悪のようにも思える。
鬱金は今まで紅華と一緒にいて、居心地のよさこそ感じこそすれ、彼女がこれだけ禍々しい感情を抱えていたことに気付きもしなかったので、彼女の変貌に、ただ困り果てる。
「あの……違……」
必死でそう訴えるが、紅華は聞く耳を持たない。
「なにが違うっていうんだい!? それともあんたは、心の底から物の怪が可哀想だっていうのかい!? ならどうしてあんたは櫻守を続けてられるのさ! 桜が枯れて、桜が折れて、この国が沈んだって本当にいいって思っているのかい!?」
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必死で鬱金は紅華をなだめようとするものの、彼女の怒りが治まる気配がない。
まるで彼女は怒りに引きずり回されているようだった。既に怒りの矛先を向けるべき九尾の狐の姿はなく、それはかの物の怪としゃべったと伝えた鬱金に向けられたのだ。
薄墨がいたら、紅華に対してひと言「落ち着け」と伝えて、彼女の怒りを冷まさせたことだろうが、残念ながら今は山に登っている以上、戻ってくるまでもうしばらくはかかるだろう。
どうしよう、どうしよう。いつもの優しい紅華に戻って欲しいが、鬱金は彼女にかける言葉を見つけられなかった。
鬱金は必死で彼女を止める手立てを考えている中。
ふいになにかが飛んできた。
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