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果心居士
四
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寝て起きるというのは、気持ちに一旦区切りを付けるということだ。
ただだらだらと区切りなく時間を浪費するのではなく、きちんと起きるということ。ありていに言うと、百合は自分の中で湧き出た不安を一旦抑え込むことに成功したのだ。
その日出された朝餉を寝ぼけ眼で食べていたら「おひいさん」と果心居士に声をかけられた。
「なんだ」
「仕立ては明日にはできるそうで、明日になったらふたりで出かけやしませんか?」
「小十郎はどうする?」
一応は小十郎の師匠をしている以上は、彼の面倒は見なくてはいけなかったが。小十郎はあっけらかんと答えた。
「俺、留守番しててもいいよ?」
「……余計な気を遣うなよ?」
思わず百合は昨日さんざん小十郎におちょくられたことを思い出し、必死に脳裏に抑え込んだ。しかし小十郎はいつも通りだ。
「別に? 師匠が尼僧様の体で変な顔しているのが珍しいから、しばらく見られたほうが平和だと思っただけだけど。尼僧様のときの師匠はおっかないし」
「小十郎」
「食べ終わったら槍を見ておくれよ」
百合に怒鳴られないよう、のらりくらりとかわして小十郎は中庭へと逃げてしまった。それに百合は「ふんっ」と鼻息を立てる。
その中で、果心居士は「ははは」と笑う。
「なにがおかしい」
「いやなに、子供に気を遣われたと思いましてな」
「なにをだ」
「いや、逢い引きなんて平和な土地でなかったらできるもんでもありませんし」
とうとう百合は握っていた箸を落とした。元が城勤めで城主以外の男を知らない女なのだ。少しつついただけで、ひどくうろたえる世間知らずなまさしく「おひいさん」の部分がまろび出てしまう。
「……あまりからかうな」
「へえ、自分はからかったつもりはありゃしませんて」
「いい加減にしろ」
「まあ、そういう訳ですから、本日はさっさと作業を仕上げてしまわねばなりますまいな。ほら、おひいさんの絡繰りもだいぶ完成に近付きましたし」
そう言いながら、果心居士は百合の絡繰り人形を見せてくれた。あれだけばらばらに分解されていたものが、少しずつ組み立てられていっているのがわかる。やがては人間とほぼ変わらない見た目のものとなるだろう。
(私の体ですもの。私の本来の見た目ですもの。戻らないといけないのはわかっていますけど……でも)
今の気持ちも、ただ八百比丘尼の体に入っているから感じるだけのものなのか、百合には自信がなかった。
絡繰り人形には跳ねる心臓がない。上がる体温がない。恋のときめきなんてわからない。
この気持ちも絡繰り人形に戻った途端に消えてなくなるものなのかと思うと、あまりにも儚くて惨めに感じる。
それを繰り返し繰り返しなかったことにして、百合は「槍を見てくる」と小十郎の出て行った中庭に出て行った。
その日の稽古は厳しく、山で育って足腰丈夫な小十郎が、珍しく夕餉になるまで足腰立たずに起き上がれなくなるほどのものだった。
その間も、果心居士はずっと作業を続けていた。
そろそろ器は蘇る。百合の絡繰り人形だけは、まだ全ての組み立てが終わってはいなかったが。
****
まんじりとしないまま、約束の日になった。
小十郎は珍しく大店の店子から「お手伝いをお願いできますか? お駄賃は出してくださるそうです」と頼まれ、薪割りをすることとなった。
それに百合と果心居士が頭を下げた。
「すまない、小十郎をよろしく頼む。少し出かけてくるから」
「はい、行ってらっしゃいませ。むしろこちらがなにからなにまでお世話になっております身分ですので、あまりかしこまらないでくださいませ」
「すまない、行ってくる」
「それじゃあ、逢い引きに参りましょうか」
果心居士が軽く言うので、百合は肘鉄でも打とうかと思ったが、面倒な気分になって取りやめた。ふたりでのんびりと道を歩いて行く。
「訳がわからないんだが」
「なにがですかい?」
「お前がどうして私に着物を仕立てる。そもそもこの体は普段使っていない。使うのは絡繰りの器のほうだ。こちらに着物を仕立てたとしても意味が」
「はあ……自分。普通におひいさんに着物を仕立てたつもりですが?」
「……あの布地でか?」
「へえ」
綺麗な布だった。あれで仕立てた着物はさぞや美しいだろうが。
器量よしである八百比丘尼の体でだったらいざ知らず、名前の通り、山に密やかに咲く百合のような絡繰りの器では、着物だけが浮き上がってしまうだろう。
思わず百合は首を振った。
「せっかく仕立ててもらっても、これでは着られない」
「自分、自分が一度手がけたものにはきちんと始末は付ける性分で。二年経ってあれだけ見事にぼろぼろになるまで使ったおひいさんに、少しばかり枷を付けたいんですよ」
「……私が無駄に壊したから、怒っているのか?」
「どうして怒らなくちゃならないんで? 自分はきちんと使ってもらえたんだから、それでかまいやしないんですよ。ただ、それはそうと自分のつくったものを壊されるのは面白くないんで、綺麗なおべべを買って、しばらくは無茶は控えてもらおうかと」
「……そうか」
どうにもこの男の感情表現は独特であった。
「変わっていると言われないか?」
「それはおひいさんのほうでは? 大概の人間は、自分としゃべっていると頭がおかしくなると思って距離を置くんで。これでも自分はなんでもできる便利屋として、そこそこ羽振りを利かせていた頃もありましたが、今は誰についてもあまり得をしないんで、権力者からは距離を置いているんです」
「それは本当の話か?」
「おひいさんの信じたい方を信じてくだせえ」
ふたりでしゃべっている間に、仕立屋まで到着した。
「大変お待たせしました。こちらになります」
「おお……ずいぶんと見事なもんで。さあ、おひいさん。こちらにどうぞ」
そう言いながら、果心居士は仕立屋の隅で百合の着物を脱がせはじめた。いくら元々自分の体ではないとはいえども気恥ずかしく、百合はギャーギャーと騒いだが、果心居士はどこ吹く風であった。
(この人……ほんっとうになにを考えているのかわからない……! なんでこんな訳のわからない人に、私は……私は……)
殴りたい、蹴飛ばしたい、抱き締めたい、手を繋ぎたい、蹴りたい、平手したい、口を吸ってみたい、足形付けたい。
暴力的な衝動が、次から次へと湧き上がったが、羞恥心で悲鳴を上げるのに精一杯で、結局はなにひとつできなかった。
しかし果心居士はというと、百合の体を本当に服を脱がせるだけ、着物を着せるだけしか触らないあまりにも事務的な手つきだったので、いやらしさは全くなかったのだ。
ただ着物を着替えさせるだけでなく、帯まで綺麗に結い、前掛けまで付けてもらえた。
「ほらおひいさん。見事に別嬪さんになった」
「……これは」
果心居士は姿見で百合の全身を写してやる。
そこに立っていたのは、京の市中を生きる娘のような、美しい姿の娘であった。どこから出したのか、果心居士は貝紅まで引っ張り出してくると、背後から彼女の唇に指で紅を伸ばしてくる。
百合の薄い唇は、光加減で玉虫色にも、赤にも見える、不思議な色合いのものに変わった。
「ほら、別嬪さんになった」
「……八百比丘尼は元々美しい。私はその体を借りているだけだ」
「ですけど、この仕立てた着物は、これ全部あの絡繰り人形に合わせて仕立てたもんですけど?」
「……ええ?」
「おひいさんは八百比丘尼の体を嫌っているし、でも絡繰り人形になるのも迷っているし。どうしたもんかと思いましてね。どちらにもいい思い出をこしらえてやらないことには、どちらも大事にしないでしょうに」
そう言って果心居士は肩を竦めた。
……彼には百合の悩みを見抜かれていたのだ。
今の百合は、人間なのか絡繰り人形なのかもわからない、中途半端な存在だ。そもそも魂だけしか生きていると証明できず、その魂だって放っておいたらいつ八百比丘尼の体に飲まれて、侵食されて消えてしまうかわからないものだ。
人魚の肝を食べたとしても、八百比丘尼の体が人間に戻るだけ。十数年前になくなってしまった百合の体は返ってこない。
百合の姿をした絡繰り人形は、どれだけ見目が百合に近くとも、あの体では人間の営みを行うのはまず無理だ。絡繰り人形は生きてはいないのだから。
そんな悩みだって、必死で過ごしていた二年間、できる限り考えないように誤魔化していたもので、小休止の今しか悩むことのできない贅沢品だった。再び大坂まで出て行ったら、悩んでいる暇なんてないだろう。
「……どうして、お前はそこまでしてくれるんだ」
「言ったでしょう、つくり手としての責任は果たすと」
(ずるいひと)
百合は言葉にできなかった。
果心居士が親切にしてくれたのは、あくまで百合の絡繰り人形の産みの親だからであり、それ以上の感情を全く向ける素振りはない。
全ては彼女の独り相撲だということくらい、いくら箱入り娘であったとしてもわかるのだから。
ただだらだらと区切りなく時間を浪費するのではなく、きちんと起きるということ。ありていに言うと、百合は自分の中で湧き出た不安を一旦抑え込むことに成功したのだ。
その日出された朝餉を寝ぼけ眼で食べていたら「おひいさん」と果心居士に声をかけられた。
「なんだ」
「仕立ては明日にはできるそうで、明日になったらふたりで出かけやしませんか?」
「小十郎はどうする?」
一応は小十郎の師匠をしている以上は、彼の面倒は見なくてはいけなかったが。小十郎はあっけらかんと答えた。
「俺、留守番しててもいいよ?」
「……余計な気を遣うなよ?」
思わず百合は昨日さんざん小十郎におちょくられたことを思い出し、必死に脳裏に抑え込んだ。しかし小十郎はいつも通りだ。
「別に? 師匠が尼僧様の体で変な顔しているのが珍しいから、しばらく見られたほうが平和だと思っただけだけど。尼僧様のときの師匠はおっかないし」
「小十郎」
「食べ終わったら槍を見ておくれよ」
百合に怒鳴られないよう、のらりくらりとかわして小十郎は中庭へと逃げてしまった。それに百合は「ふんっ」と鼻息を立てる。
その中で、果心居士は「ははは」と笑う。
「なにがおかしい」
「いやなに、子供に気を遣われたと思いましてな」
「なにをだ」
「いや、逢い引きなんて平和な土地でなかったらできるもんでもありませんし」
とうとう百合は握っていた箸を落とした。元が城勤めで城主以外の男を知らない女なのだ。少しつついただけで、ひどくうろたえる世間知らずなまさしく「おひいさん」の部分がまろび出てしまう。
「……あまりからかうな」
「へえ、自分はからかったつもりはありゃしませんて」
「いい加減にしろ」
「まあ、そういう訳ですから、本日はさっさと作業を仕上げてしまわねばなりますまいな。ほら、おひいさんの絡繰りもだいぶ完成に近付きましたし」
そう言いながら、果心居士は百合の絡繰り人形を見せてくれた。あれだけばらばらに分解されていたものが、少しずつ組み立てられていっているのがわかる。やがては人間とほぼ変わらない見た目のものとなるだろう。
(私の体ですもの。私の本来の見た目ですもの。戻らないといけないのはわかっていますけど……でも)
今の気持ちも、ただ八百比丘尼の体に入っているから感じるだけのものなのか、百合には自信がなかった。
絡繰り人形には跳ねる心臓がない。上がる体温がない。恋のときめきなんてわからない。
この気持ちも絡繰り人形に戻った途端に消えてなくなるものなのかと思うと、あまりにも儚くて惨めに感じる。
それを繰り返し繰り返しなかったことにして、百合は「槍を見てくる」と小十郎の出て行った中庭に出て行った。
その日の稽古は厳しく、山で育って足腰丈夫な小十郎が、珍しく夕餉になるまで足腰立たずに起き上がれなくなるほどのものだった。
その間も、果心居士はずっと作業を続けていた。
そろそろ器は蘇る。百合の絡繰り人形だけは、まだ全ての組み立てが終わってはいなかったが。
****
まんじりとしないまま、約束の日になった。
小十郎は珍しく大店の店子から「お手伝いをお願いできますか? お駄賃は出してくださるそうです」と頼まれ、薪割りをすることとなった。
それに百合と果心居士が頭を下げた。
「すまない、小十郎をよろしく頼む。少し出かけてくるから」
「はい、行ってらっしゃいませ。むしろこちらがなにからなにまでお世話になっております身分ですので、あまりかしこまらないでくださいませ」
「すまない、行ってくる」
「それじゃあ、逢い引きに参りましょうか」
果心居士が軽く言うので、百合は肘鉄でも打とうかと思ったが、面倒な気分になって取りやめた。ふたりでのんびりと道を歩いて行く。
「訳がわからないんだが」
「なにがですかい?」
「お前がどうして私に着物を仕立てる。そもそもこの体は普段使っていない。使うのは絡繰りの器のほうだ。こちらに着物を仕立てたとしても意味が」
「はあ……自分。普通におひいさんに着物を仕立てたつもりですが?」
「……あの布地でか?」
「へえ」
綺麗な布だった。あれで仕立てた着物はさぞや美しいだろうが。
器量よしである八百比丘尼の体でだったらいざ知らず、名前の通り、山に密やかに咲く百合のような絡繰りの器では、着物だけが浮き上がってしまうだろう。
思わず百合は首を振った。
「せっかく仕立ててもらっても、これでは着られない」
「自分、自分が一度手がけたものにはきちんと始末は付ける性分で。二年経ってあれだけ見事にぼろぼろになるまで使ったおひいさんに、少しばかり枷を付けたいんですよ」
「……私が無駄に壊したから、怒っているのか?」
「どうして怒らなくちゃならないんで? 自分はきちんと使ってもらえたんだから、それでかまいやしないんですよ。ただ、それはそうと自分のつくったものを壊されるのは面白くないんで、綺麗なおべべを買って、しばらくは無茶は控えてもらおうかと」
「……そうか」
どうにもこの男の感情表現は独特であった。
「変わっていると言われないか?」
「それはおひいさんのほうでは? 大概の人間は、自分としゃべっていると頭がおかしくなると思って距離を置くんで。これでも自分はなんでもできる便利屋として、そこそこ羽振りを利かせていた頃もありましたが、今は誰についてもあまり得をしないんで、権力者からは距離を置いているんです」
「それは本当の話か?」
「おひいさんの信じたい方を信じてくだせえ」
ふたりでしゃべっている間に、仕立屋まで到着した。
「大変お待たせしました。こちらになります」
「おお……ずいぶんと見事なもんで。さあ、おひいさん。こちらにどうぞ」
そう言いながら、果心居士は仕立屋の隅で百合の着物を脱がせはじめた。いくら元々自分の体ではないとはいえども気恥ずかしく、百合はギャーギャーと騒いだが、果心居士はどこ吹く風であった。
(この人……ほんっとうになにを考えているのかわからない……! なんでこんな訳のわからない人に、私は……私は……)
殴りたい、蹴飛ばしたい、抱き締めたい、手を繋ぎたい、蹴りたい、平手したい、口を吸ってみたい、足形付けたい。
暴力的な衝動が、次から次へと湧き上がったが、羞恥心で悲鳴を上げるのに精一杯で、結局はなにひとつできなかった。
しかし果心居士はというと、百合の体を本当に服を脱がせるだけ、着物を着せるだけしか触らないあまりにも事務的な手つきだったので、いやらしさは全くなかったのだ。
ただ着物を着替えさせるだけでなく、帯まで綺麗に結い、前掛けまで付けてもらえた。
「ほらおひいさん。見事に別嬪さんになった」
「……これは」
果心居士は姿見で百合の全身を写してやる。
そこに立っていたのは、京の市中を生きる娘のような、美しい姿の娘であった。どこから出したのか、果心居士は貝紅まで引っ張り出してくると、背後から彼女の唇に指で紅を伸ばしてくる。
百合の薄い唇は、光加減で玉虫色にも、赤にも見える、不思議な色合いのものに変わった。
「ほら、別嬪さんになった」
「……八百比丘尼は元々美しい。私はその体を借りているだけだ」
「ですけど、この仕立てた着物は、これ全部あの絡繰り人形に合わせて仕立てたもんですけど?」
「……ええ?」
「おひいさんは八百比丘尼の体を嫌っているし、でも絡繰り人形になるのも迷っているし。どうしたもんかと思いましてね。どちらにもいい思い出をこしらえてやらないことには、どちらも大事にしないでしょうに」
そう言って果心居士は肩を竦めた。
……彼には百合の悩みを見抜かれていたのだ。
今の百合は、人間なのか絡繰り人形なのかもわからない、中途半端な存在だ。そもそも魂だけしか生きていると証明できず、その魂だって放っておいたらいつ八百比丘尼の体に飲まれて、侵食されて消えてしまうかわからないものだ。
人魚の肝を食べたとしても、八百比丘尼の体が人間に戻るだけ。十数年前になくなってしまった百合の体は返ってこない。
百合の姿をした絡繰り人形は、どれだけ見目が百合に近くとも、あの体では人間の営みを行うのはまず無理だ。絡繰り人形は生きてはいないのだから。
そんな悩みだって、必死で過ごしていた二年間、できる限り考えないように誤魔化していたもので、小休止の今しか悩むことのできない贅沢品だった。再び大坂まで出て行ったら、悩んでいる暇なんてないだろう。
「……どうして、お前はそこまでしてくれるんだ」
「言ったでしょう、つくり手としての責任は果たすと」
(ずるいひと)
百合は言葉にできなかった。
果心居士が親切にしてくれたのは、あくまで百合の絡繰り人形の産みの親だからであり、それ以上の感情を全く向ける素振りはない。
全ては彼女の独り相撲だということくらい、いくら箱入り娘であったとしてもわかるのだから。
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