あなたの推し作家は私

石田空

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ファンに見つめられるのはいささか照れるし

1話

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 私と浜尾さんの同居生活は、かなり順調だった。
 互いにパーソナルスペースが広い者同士、互いに遠慮をしながら距離を置いて生活し、互いの部屋にはドアを叩かずに絶対に入らない。共同スペースではできる限り邪魔にならないように過ごす。
 家事はそれぞれ別にするものの、できるときは互いの分を「やりましょうか?」と声をかけてからやる。基本的に「大丈夫です」とか「問題ないです」とか言われた場合はやらない。
 他人の家、ましてや私のファンだとは言えど男性と一緒に暮らすというのはどういうことだろうと緊張していたものの、思っているよりスムーズに生活は進んでいった。
 あー、よかった。心の底からそう思う。
 なによりも浜尾さんが私のファンだというのを知ったのは、私がゲラの作業に取りかかっているときだった。本当だったら私の部屋で全部やってしまいたかったけれど、ゲラ作業はどうしても手元に電子辞書を置いて逆引きしながら進めるので、ひとりで狭い部屋でやっていると、だんだんと疲れてくる。
 手元に飲み物を置いてやるとなったら、リビングでやったほうがいい。私は家主の浜尾さんに許可をもらうことにした。

「あのう……ゲラ作業をリビングでやってもいいですか? もしテレビとか見るんでしたら、喫茶店に行ってやってきますけど」
「ええっと、ゲラ作業っていうのは?」

 ああ、そっか。小説を書かない人。ましてや世に流通している小説の原稿を知らない人は知る訳ないか。私は簡単に説明する。

「本にして店に流通する直前の作業って言いましょうか。担当さんに引き渡した原稿の誤字脱字や文法ミスを見つけたら潰す最後のチャンスなんですよ」

 赤入れとか著者校とかいろいろ言い方はあるけれど、大まかに言ってしまえばそういうことだ。それに浜尾さんは「おー……」と言った。

「それ、まだ本になる前のかしこ先生の話が読めるってことでしょうか?」
「まあ……そうなりますね……」
「どうぞ! もし必要なものがありましたら買いに行きますし、お茶もコーヒーも置いておきますから好きなように飲んでください!」
「あー、どうも……」

 そこまで喜ばなくっても。
 ひとまず出版社から送られてきたゲラ、消しゴムで消せる赤ペン、よく削った鉛筆、電子辞書を持って、作業を開始した。
 もう既に話の大まかな部分は全部書き終わってしまうけれど、ここで油断していたら、一ページまるまるその場で書き直しとかになりかねないから、慎重に慎重に作業を進める。
 出版社の校閲から「これは差別用語では?」とか「これは文法ミスでは?」とか「これはことわざですから漢字にしないとおかしいのでは?」とか、心臓を掴まれそうな指摘が多く、そのたびに電子辞書で内容を確認し、もしそれでも納得がいかなかったらスマホでネット検索して確認を取り、そのひとつひとつに赤を入れたり、時には鉛筆で注文を付けたりしていく。
 一枚一枚を慎重に進めていく様を、浜尾さんはまじまじと眺めていた。

「あのう……」
「はい?」

 思わず乱暴な返事になってしまい、口を噤む……ああ、本当に。ゲラ作業中は気が昂ぶり過ぎて、言動がほとんどBL小説の攻めだ。声が荒過ぎる。
 一瞬ビクンッと肩を大きく跳ねさせた浜尾さんは、おずおずと尋ねてきた。

「これが見終わった分ですよね?」

 私が電子辞書で重りをしている、確認済みのゲラを指差して、浜尾さんが尋ねてきた。

「そうですよ?」
「よ、読んでも……大丈夫でしょうか……?」

 思わず浜尾さんの表情を凝視した。彼はまたも私をビクビクして視線を合わせない……これじゃ私が俺様攻めで、浜尾さんが流され受けだ。俺様攻めは今のトレンドではない。

「……大丈夫ですよ。ただ私もある程度作業が終わったらもう一度確認しますから、あんまり遠くに持っていかないでくださいね」
「あ、ありがとうございます……!!」

 途端にパァーっとした表情を浮かべ、嬉々としながらページを捲りはじめた。まだこの段階じゃ挿絵も入ってないし、本当に小説だけなんだけれど、それでもこんなに喜んで読んでくれている。
 私の読者さん、いつもこんな風だったのかな。
 少しぼんやりとしながら、浜尾さんを眺めていた。
 前からの素朴な疑問、そもそも浜尾さんは女性が恋愛対象なのかそうでないのかは、今のところ保留になっている。この人、本当にいい人だし。わざわざこちらからセンシティブな質問をして、今の居心地のいい環境を壊すような真似はしたくなかった。
 そしてゲラを進めていった。普段だったら規定数終えたら、次は明日に回すんだけれど。でも今日は規制数の倍進んでしまったのは、浜尾さんが読みながらすぐに感想をくれたせいだろう。

「……やっぱりかしこ先生の話は素敵ですねえ。すごく乾いた関係に、一点の水が落ちるまでの過程が丁寧です」

 詩的な感想だなと、私は思わず赤ペンを止めた。
 今回出版社から依頼を受けて書いていたのは、オメガバースの小説だった。アルファでなかったら王位を継げない国で、オメガに生まれてしまい王位を継げないことが確定してしまった王子が、騎士団に入って騎士団長と体の関係になりながらも、波乱の巻き起こる国内を抑えて王になるまでの過程の話だった。
 最初は武力を抑えて利用するだけだった関係から、少しずつ互いを支え合う関係になるまでの物語になっている。
 浜尾さんはそれを夢中で読んでくれていた。

「片や野望のために自分の体を利用する人、片や叶わないと諦めきっていた恋を叶えようと奔走する人。互いの執着と野望が煮こごりのようになっていて、それでいてものすごく乾いた雰囲気のおかげで粘着質にはならないんですよねえ」
「……浜尾さん、かなり感想が詩的ですね」
「ポ、エムは……かしこ先生嫌でしょうか……?」
「いえ、これはかなり褒めています。だいたいもらう感想って、どこが尊かったとか、どのキャラが好きかとか、かなり感情的なものしかもらってないんで、こんな詩的に流々とした感想はじめていただけたんで、嬉しいんです」
「あ……はははは……かしこ先生が嬉しいんでしたら、俺も嬉しいです」

 そう言って照れた浜尾さんに、私は何故か込み上げるものを感じた。
 ……なんだろう。私は少しだけ首を捻った。とりあえず今日のノルマまでゲラを進めてから、私はクリップでしおりを付けて今日の作業を終えた。この分ならいつもよりも早めにゲラを出版社に送れるな。浜尾さんが「よろしかったらどうぞ」とインスタントコーヒーをくれたのを、ありがたくいただいた。
 砂糖なしのミルク入り。私の好みまで、気付いたら覚えてくれていた。

****

 他社の原稿をしていたところで、メールの通知が入った。
 なんだろうと思ったら、この間断った出版社からだった。袖にしたから、それでなにかしらのリアクションかな。私はメールを確認して、目を細めてしまった。

【乃々原かしこ様
 先日のメールの返答誠にありがとうございます。
 先生は断るとおっしゃっていますが、こちらとしてはぜひともと思っています。先日の先生の著書を拝読し、こちらのジャンルにまで裾野を広げるお手伝いができればと思っています。】

 裾野ねえ……ジャリッと砂を噛んだような感覚を覚えた。スケジュールを私に合わせるとか、一般文芸に新しい風はとか、なにかしら綺麗なオブラートに包んで、本音をさらけ出さないのが気味が悪い。そもそも私のどの本を読んで一般文芸の打診をしてきたのかがわからないのが、尚のこと気味が悪かった。
 なによりも。この人BLを馬鹿にしてないか、と引っ掛かったのが強い。人の仕事を下に見ている人に、自分の原稿を預けることほど怖いことはない。
 私はワープロソフトで書いた原稿を保存すると、メールの返信を再度書くことにした。丁寧なビジネスメールの文面で書いたけれど、「なんの本を読んで打診したのかがわからない」というのと「私はBL小説を書いて生活しています。よそのジャンルを馬鹿にする気はないですが、私のジャンルを馬鹿にされたら普通に嫌です」ということを主張した。
 多分これで、よっぽど人の気持ちがわからない人でない限りは諦めてくれるとは思うけれど……この業界、ときどきなにを言っても噛み合わない人はいる。この人がその手のタイプでないことを祈るしかない。

「送信。今日の仕事は終わり」

 そう言ってパソコンを落とそうとしたとき。タイミングよくスマホが鳴った。誰かと思って見てみたら、うちの妹からだった。
 私も自分のスマホの番号なんて、家族くらいにしか教えていない。

「はい、もしもし」
『もしもしお姉ちゃん?』

 年が離れている妹のたつきは、相変わらず溌剌とした声をしている。人間嫌いの私と、人懐っこいたつき。
 私たち姉妹のことをよく知っている人は、皆首を傾げて「なんで?」と言う。
 そりゃそうだ。この子は私みたいにならないように、精一杯根回ししたんだから、たつきが私みたいになるはずがない。
 この人懐っこい妹がこんな時期に電話をしてくるのは珍しかった。

「どうしたの。普段アプリで連絡してくるのに」
『だってお姉ちゃん。仕事に興じているときは全然スマホ見ないでしょう? それだったら困ると思ったから』
「なに? どうしても私じゃないと駄目だったの?」
『お姉ちゃんお願い。週末泊めて! 今度の企業面接、東京まで出ないと駄目なんだけれど、ホテルがどこもかしこも全滅で……もう私の予算で泊まれるところがないの』
「あー……」

 そういえば、たつきは現在就活中だった。東京のホテル代は馬鹿にならない上に、学生だと出せるお金にも限度がある。そりゃ私ひとりだったら問題ないんだけど。
 内心「無理!」と叫んでいた。
 そもそも浜尾さん家に住ませてもらっている状態で、個室まで与えられているという至れり尽くせり状態だ。その上妹まで泊めるって、どんだけヤクザな同居人だよ。
 私は「あのね、たつき」とどうにか声を窄めて言う。
 この子の性格上しないだろうけれど、万が一にでもうちの親がいるとまずい。私は続ける。

「私、今居候してるから。居候先の大家さんに許可取らないと、あんたを泊めることはできないから」
『え? どうして人間嫌いのお姉ちゃんが人と住んでるの?』

 私のことをよく知っているたつきは、当然の質問をする。そうだよね、まずはそこに突っ込むよね。私は明後日の方向を見てから、答える。

「……いろいろあったから。とにかく大家さんに確認してからまた連絡するから。いきなり問答無用で押しかけてこないでよ?」
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