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新説、賤ヶ岳の戦い

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新説、賤ケ岳の戦い

第壱節 秀吉からの相談

1582年6月27日、堀秀政は尾張国清洲城(愛知県名古屋市)にいる。
ここでこれから会議が行われるのだが、秀政自身は会議の出席を招待されてはいない。
ではなぜ清洲城にいるのか?
ある男に会議前に相談したいことがあると呼び出されたからだ。

そして堀秀政は、男の前に座った。
「秀政よ、先の山崎の戦いでは大義であったの。褒美に不満はないか?」
男はおもむろに話し掛けた。
羽柴秀吉である。
「滅相もございませぬ。過分なる褒美を頂き、恐縮しております。どんなお話にございましょう? 何でも申し付けくさいませ」
秀政は改めて秀吉に深々と頭を下げた。

秀吉は本題に入った。
「そうか、そうか。ところで、どうしても会議の前にそちに相談したいことがあっての。織田家のことじゃ。
信長様と後継者の信忠様が討たれ、筋から言えば信忠様の嫡男の三法師様が織田家当主となるが、三法師様は3歳に過ぎん。三法師様が成人するまではわし含む4人の重臣達の話し合いで織田家の物事を決めることになる。
ただ、重臣4人はそれぞれ自分の任地に行っており、常に一ケ所に集まって話し合うのは難しかろう? 何か良い方法はないか?」

重臣達が一ヶ所に集まれないとなると、重臣4人の意見を調整する能力のある実務者が必要になる。
4人の意見が別れることも多々あるからだ。
まさか、秀吉は自分にそれを任せようとしているのか?
あまりにも荷が重い。秀政は沈黙した。

「わしの聞き方が回りくどかったかのう? 単刀直入に申す。そちに重臣4人の意見を調整する実務者をやってもらいたいのじゃ」
やはり、そうだったか……秀政の予感は的中した。
「それがしは非才の身にて、重臣の方々の意見を調整するなど恐れ多いことにございます」
やんわりと断った。
しかし秀吉は粘った。
「良いか、秀政。信長様の三男の信孝様は多少賢い。自分がその役割を果たしたいと言ってくるはずじゃ。なぜ信孝様が名乗りでるかわかるであろう?」
「実務者がうまく立ち回れば、裏で重臣の方々を操ることもできるからにございましょう」

そうなのだ。重臣4人は親密なわけではない。重臣同士の交流も乏しい。
ならば、『あの重臣はああ言っておりました』と、嘘を言うことさえできてしまう。
そうやって裏で操ることも可能となるのだ。
多少賢い信孝ならば狙ってくるのは十分あり得る。
だからと言え、自分がやるのも荷が重い……秀政は悩んだ。

だが、秀吉は熱心であった。
「わしは、信孝様では無理だと思っておる。あの者は目の前のことしか見えぬ。そちは違う。そちには物事を俯瞰(ふかん)して見ることのできる能力がある。山崎の戦い、坂本城、わしはそちの働きを見てきた。実務者を任せられるのはそちしかおらぬ」
ついに秀政は折れた。
「承知致しました。懸命に務めさせて頂きます」


第弐節 二人の織田家当主

織田信長の三男、織田信孝は清洲会議の決定に大いに不満であった。
一番の不満は、実務者に堀秀政を当てられたことだ。
自分が狙っていたからである。
重臣4人は親密ではなく重臣同士の交流も乏しいことを知っていた。
うまく立ち回れば、裏で操ることも可能なのだ。

堀秀政に三法師を握られてはまずい。
焦った信孝は行動を起こす。
安土城に向かう三法師を、自身のいる岐阜城へ強引に連れて行ったのである。
重臣の一人、柴田勝家は秀吉との対立を決意し信孝の行動を支持する。

一方秀吉は、この信孝の行動に危機感を覚えた。
信孝が三法師を握っている限り官軍であり、このままでは自分は賊軍となってしまう。
そこで秀吉は一つの結論を出す。
清州会議で決定したことを覆し、信長の次男、織田信雄を織田家当主としたのである。
織田家当主の信雄の命令という大義名分を得たことで、秀吉は賊軍とならずに済んだ。

だがこれにより、織田家当主が二人存在するという異常事態になってしまう。
一人目は、清洲会議で決めた、わずか3歳の織田三法師。これを握るのが信長の三男、織田信孝で、織田家筆頭家老の柴田勝家が支持している。
二人目は、信長の次男、織田信雄。明智家を吸収し織田家最大の勢力となった羽柴秀吉、次席家老の丹羽長秀と池田恒興が支持している。

当然ながら、織田家当主に二人はいらない。
どちらが当主か白黒をはっきり付けなければならない。両者の決戦は不可避となった。
つまり、三法師を握る信孝を支持する勝家軍と、信雄を支持する秀吉軍の決戦である。
これが日本史上有名な、賤ケ岳の戦いだ。


第参節 前哨戦

まず先手を打ったのは秀吉である。
本能寺の変及び清洲会議から約半年が経過した1582年12月、秀吉は大軍をもって清洲会議で勝家に譲ったばかりの近江国長浜城(滋賀県長浜市)を包囲する。
勝家の本拠地は越前国(福井県)である。
この時期は越前国と近江国を隔てる山岳地帯は雪がうず高く積もり人が通ることなど不可能になり、長浜城を救うための援軍を送ることができない。
秀吉はこの隙を狙ったのだ。

だが、勝家も冬に備えていた。
長浜城の大将に自身の息子を送り込んでいたのである。養子ではあるが。
息子ならば雪が解ける春まで頑張ってくれるだろう、そう期待してのことだ。

秀吉は大軍で長浜城を包囲すると、大谷紀之介を送り込んだ。後の大谷吉継である。
実は勝家の息子は病を患っていた。
本来なら病の者を最前線に送り出すだろうか?
紀之介は息子に訴えた。
「その病のゆえに、いつ死んでも構わない最前線へ送りこまれたのです。これが父親のやることですか?」
と。
息子は大いに動揺する。同じことを思っていたからだ。
「あなたは戦場にいるべきではない。戦場を離れ、養生されるがいいと存じます。養生の場所はこちらで用意致します。これからはご自身のことだけ考えなされませ」
これが決め手となり、長浜城は何の抵抗もなく降伏した。
それから程なく息子は養生先で死んだ。死因は不明である。一体誰が……?

大谷紀之介の謀略によって長浜城は戦うことなく落ちた。
勝家はこの結果を聞き、息子の不甲斐なさに怒り狂ったと言われている。
愚かな息子よ……城を明け渡した途端、用済みになるのが分からなかったのか?
まさか、秀吉が本当に自分を大事にし、養生されてくれるとでも思ったのか?
と。

勝家にとって、長浜城を奪われたままにしておくわけにはいかない。
加えてどちらの織田家当主が正しいのかをはっきりさせねばならない。
家督は、嫡男が相続することこそが筋である。
次男の信雄が継ぐなど、決して許すことはできないのだ。
正義は貫かねばならない。

秀吉は、長浜城を落とすと勝家との決戦の準備を始める。
雪解けになれば勝家は必ず大軍を率いてやってくると考えていた。
勝家が率いる軍の進路は決まっている。
北国街道または北陸道とも言う。京と北陸を結ぶ道だ。現在の国道365号線に当たる。
福井県から滋賀県に入るには長い山岳地帯を越えなければならない。
秀吉はその出口の余呉湖の付近に多数の砦を作り始めた。


第四節 最前線の2つの城

秀吉が作った砦は10近くにのぼる。
まず最前線は、道が狭くなる場所に置いた。
街道を見下ろす東西の山に2つの砦を築く。東は東野山(とうのやま)砦、西は堂木山(どうきやま)砦と言う。
その後方には、岩崎山砦、大岩山砦、田上山砦そして賤ケ岳(しずがたけ)砦などを次々と築いた。
砦を縦に厚く配置したことになる。

さて、秀吉は全ての砦を同じように作れたわけではない。
特に敵正面かつ最前線の東野山砦、堂木山砦の2つの砦は人員、資材を最優先に回して工事した。
いくつも堀を巡らせ、土塁を高く積み、高い防御力を持つ砦とした。
この2つの防御力は、砦と言うより城に近いかもしれない。
そこで、今後は東野山城、堂木山城と呼ぶことにする。

さて、敵がこの2つの城の間を素通りしようとすれば、通っている最中に城から打って出て両側から挟み撃ちが可能だ。
もしどちらかの城を攻めてくれば、攻められてない方の城から打って出て背後を突くことができる。
この2つの城は、敵にとって非常に厄介な存在となるだろう。
だが、その後方の岩崎山砦、大岩山砦、賤ケ岳砦そして田上山砦は人員や資材そして時間的制限があり仮の砦程度にしか作れなかった。
秀吉は準備不足を心配した。


第五節 三方面の敵

年が変わり1583年3月、春。
雪が解け始めた。
焦る勝家は、雪が解けきる前に大軍を起こす。3万人である。
雪をかきわけながら山岳地帯を強引に進軍した。
これに対し秀吉は5万人の大軍を用意し、最前線の2つの城、後方の砦に兵を配置、秀吉自身は木之本(きのもと)という場所に本陣を置き、迎撃態勢を取る。

すると、岐阜城の織田信孝と、伊勢長島城(三重県長島町)の滝川一益(たきがわかずます)が不穏な動きを見せ始める。
勝家軍が到着すれば、彼らは軍事行動を起こし秀吉軍のいない尾張(愛知県)、美濃(岐阜県)や伊勢(三重県)を荒らしにかかるつもりだ。
これを秀吉は放置することはできない。
放置すれば、秀吉軍に参加している領主は自分の領地が心配になり、領地に帰りたいと言い出すからだ。
信孝と一益が軍事行動を起こせば、軍の大部分をそちらに割かざるを得ない。
二方面どころか、三方面に敵とは非常に辛い。
さて、どう戦う……?
秀吉は、頭の中でその後の展開を想像してみた。

秀吉軍の5万人に対し、勝家軍こそ3万人いるが信孝軍と一益軍は数千人程に過ぎない。
秀吉軍とまともに渡り合えるのは、勝家軍のみだ。
信孝軍と一益軍は軍勢の数が少なすぎて、秀吉軍とまともにぶつかれば一瞬で全滅だろう。
このような場合、戦い方は一つしかない。

まず勝家軍は長期戦を想定した布陣を構え、攻める機会を待つ。
3万人で5万人の秀吉軍に突撃しても勝てるわけがない。逆に言うと、機会を待つ以外にない。
勝家軍が攻める機会とは、いつか?
信孝軍と一益軍が行動を起こし、秀吉軍の大部分がそちらに対応したときだ。

必ず、信孝軍と一益軍は行動を起こす。
勝家軍に攻撃の機会を与えるためだ。
だからこそ信孝軍と一益軍は、秀吉軍のいない場所を荒らし、秀吉軍がやって来れば岐阜城と長島城に籠る。
このような嫌がらせによってできるだけ秀吉の大軍を自分へ引き付けるのだ。
逆に言えば、信孝軍と一益軍は兵の数が少なすぎて嫌がらせをやるくらいが精一杯だとも言える。
やはり秀吉軍に強力な打撃を与えることができるのは3万人いる勝家軍しかないのだ。


第六節 秀吉の想定

秀吉は、信孝軍と一益軍が行動を起こし、秀吉軍の大部分がそちらに対応した後の展開を想像した。
分かりやすくするために、信孝軍と一益軍に対応しにいった秀吉軍を秀吉軍主力部隊、残った秀吉軍を秀吉軍残存部隊と名付けることにする。
当然、秀吉軍残存部隊は大きく数を減らしたため城や砦に立て籠もって待つことになる。
何を待つのか?
秀吉軍主力部隊が信孝軍や一益軍を叩き、戻ってくるのを待つのである。
戻ってくれば合わせて5万人になる。そうすれば3万人の勝家軍は手を出せない。何の成果も得られず越前に戻ることになるだろう。
つまり秀吉軍は、秀吉軍主力部隊が戻ってくるまで、秀吉軍残存部隊が勝家軍の攻撃を耐え切ればいいのだ。

では、勝家軍は秀吉軍残存部隊をどう攻めてくるのか?

正面の東野山城、堂木山城の2つの城は高い防御力を持っている。
ここを攻めれば甚大な被害を受け、落とすのに時間もかかるだろう。落とす前に秀吉軍主力部隊が戻ってきたら終わりだ。
勝家軍はこの正面の2つの城は放置するだろうと秀吉は読んだ。

とするとやはり、勝家軍は正面の2つの城を避けるように迂回して後方の手薄な砦に襲いかかるだろう。岩崎山砦、大岩山砦、賤ケ岳砦あたりか。
これらの砦を落とすと、正面の2つの城を孤立させることもできる。
城の兵は激しく動揺し、戦意喪失するだろう。戦わずして落ちるかもしれない。
最悪、2つの城が落ちれば、結果的に勝家軍によって秀吉が作った城や砦を全て落とされたことになり、秀吉軍残存部隊は完全な敗北となってしまう。
こうなれば秀吉軍主力部隊が戻ってきても、秀吉に勝ちはない。

秀吉は頭の中での戦の想定を終え、考えた。
勝家軍の攻撃を防ぐ上で、最も重要な場所はどこか?
東野山城だと結論付けた。
堀秀政を呼び、周辺の地図を見せる。
「秀政、そちに東野山城を任せたい。なぜかわかるか?」
「最前線の右翼にございますな。高い防御力を持つ城にござれば、勝家軍は被害を避けるためにもこの城を放置して迂回し、後方の手薄な砦を攻めてくると思われます。そうなればこの城は孤立しますな……あ、なるほど。そういうことにございますか」
「分かったか?」
「それがしの任務、承知致しました。お任せください」
「それと秀政、そちには5千人の兵を預ける」
「高い防御力を持つ城に5千人もでございますか? 2千人もあれば十分に守り切れますが、5千人は多過ぎるかと。他が更に手薄に……いや、違う。秀吉様の狙いは、まさか……」
「そちなら分かるであろう。この戦は全てそちの動きにかかっておるのじゃ。頼むぞ」
堀秀政は、自分の動きの重要性を知るとさすがに緊張した。


第七節 佐久間盛政の提案

3月12日、雪をかきわけながら来たとは思えない程の速さで、勝家は来た。
勝家は内中尾山、行市山付近に砦をいくつか築き、長期戦の備えを始めた。
あとは攻勢の機会を待つだけである。

4月16日、勝家が待ちに待った瞬間が訪れた。ついに信孝と一益が軍事行動を起こしたのだ。
翌4月17日、秀吉軍主力部隊がこれに対応するため岐阜方面に向かう。
数が一気に減った秀吉軍残存部隊は城や砦に立て籠もり守りに徹した。

いよいよ勝家軍に絶好の機会が訪れる。
すぐに軍議が開かれた。
「3万の全軍をもって、後方の手薄な砦を火の玉の如く攻めるべきでござる」
最初に発言したのは佐久間盛政(さくまもりまさ)である。
他の者がすかさず反論する。
「盛政殿、待たれよ。全軍でと言われるが、長期戦に備えて作った内中尾山や行市山の我が軍の砦は? 空にせよとおっしゃるのか?」
「信孝殿と一益殿が囮(おとり)となって羽柴軍主力を引き付けている以上、短期決戦であろう。ぐずぐずしておれば信孝殿と一益殿が秀吉軍主力部隊に討たれるぞ? その前に羽柴軍残存部隊を潰すことが我らの役割であろう。もはや長期戦などない。砦は不要じゃ」
「しかし、正面の東野山城、堂木山城の2つの城への備えはどうなさる?」
「備える必要などござらん」
皆が顔を見合わせた。

羽柴軍の後方の手薄な砦を攻めること自体は、皆が賛成していた。
だが、全軍で攻めるのは反対のようだ。
長期戦に備えて作った内中尾山や行市山の砦には食料や武器弾薬を備蓄している。
ここを奪われることは、補給を断たれることを意味する。
普通に考えて、そこを空にするのはあり得ないことだ。

盛政の意見に反対する者の一人が発言した。
「正面の2つの城のうち、東野山城には堀秀政なる者が4、5千人の兵を率いて立て籠もっていると聞く。この兵に備えず内中尾山や行市山の砦を空にすれば、我らは補給が断たれるではござらぬか?」
他の皆も、その通りだとうなずいている。
だが皆が反対しても、盛政は譲らない。
「今は短期決戦のときにござるぞ? 補給が断たれようとも戦に勝てばすぐ回復するであろう。
それに、もし仮に東野山城への備えに1万人もの兵を置けば、攻める兵が2万人になってしまうではないか。2万人の攻めでは攻撃力は大きく減る。
3万人で攻めなければ我らが大軍を率いてきた意味がないわ」

「勝家殿、どうなさる?」
皆が総大将の勝家を見た。
勝家はようやく口を開いた。
「後方の砦が手薄だとなぜはっきり言える?」
すぐに盛政が返答した。
「殿、放っていた密偵の多数は後方の砦が手薄で秀吉も心配しているとの報告をしてきております。間違いありません」
「秀吉が、そう見せていたらどうする? それとじゃ。東野山城を放置すれば、堀秀政は我らの補給を断つ動きを必ずするであろう。補給を断たれれば兵の士気は確実に落ちるぞ」
盛政はなおも粘る。
「堀秀政が防御力の高い東野山城から打って出れば、むしろ幸いではございませぬか。後方の砦を落とした後に、それこそ全軍で潰せば良いかと。秀政が5千人率いてたとして、3万人対5千人にござる。秀政の首など容易く取れましょう」

「勝家殿、よろしゅうございますか?」
別の男が発言した。前田利家(まえだとしいえ)と言う。
「前田殿、申されよ」
「今、信孝殿と一益殿のおかげで秀吉軍主力部隊は去り我らに好機が訪れています。ただし、信孝殿も一益殿も軍としては小さく、長くは持たぬと存ずる。迅速に秀吉軍残存部隊を潰さねばなりません。信孝殿と一益殿が倒されてからでは遅い。多少危険な賭けでも、早さに勝るものはないのではありますまいか」
回りくどい言い方だが、要するにこの前田利家だけは盛政の意見に賛成していたのである。

利家の意見は的を突いていた。
勝家、信孝と一益で三方から秀吉を囲み、一見有利に見える。
ただし、3人とも秀吉には及ばない。
何もしなければ秀吉の各個撃破戦法で一つ一つ潰されるのだ。
3人が同時に秀吉を攻めねばならない。
一瞬の狂いも許されない。一瞬でも1対1になれば負けるのだから。
備えが不十分であったとしても、今は攻めるべき瞬間なのだ。

攻める瞬間がずれるとたちまち負けが確定する勝家、信孝と一益と比べれば、むしろ秀吉が有利と考えた方がいいかもしれない。
「明智光秀め、山崎の決戦では秀吉に苦戦を強いていながら、負けるとなると無抵抗に秀吉に吸収されおって。光秀の城が頑強に抵抗しておれば秀吉はこうも早く巨大にならずに済んだであろうに……。秀吉め、光秀と何か密約でも交わしたのではあるまいな?」
口には出せないが、勝家の心の中でそう愚痴っていた。

勝家は結論を出した。
「盛政の意見はもっともじゃ。ただし、相手はあの秀吉ぞ。後方が手薄と見せ掛け罠を張っている可能性もある。念のためもう一度、密偵を放つのじゃ。
その間、全軍で東野山城を攻める。落とせれば良し、落とせなくても防御力や兵力が見極められる。それを見てどれだけの兵を備えておくべきかが分かるだろう」


第八節 勝家軍迂回部隊

勝家軍はまず、正面の東野山城を攻めた。堀秀政のいる城だ。
だが、攻めた兵は堀秀政隊のすさまじい数の銃撃で誰一人戻ってこない。城の防御力の高さは予想以上であることが分かった。
勝家は一気に全軍で攻めず小出しにしたため、損害は小さく済んだ。

しかし、この攻撃は勝家を心理的に苦しめることになる。
勝家が一番気にしたのは、防御力や兵力よりも凄まじい数の鉄砲だ。
一体、何挺あるのだ……?
東野山城に備えるだけでも1万人以上の兵は置いておかねばならぬ……。

念のため後方の砦を偵察した密偵が次々と戻ってきた。
やはり、後方の砦は手薄であった。
こうして、盛政の意見通りの攻撃をすることが決まったが、その兵力は1万5千人程度に留められた。
手強そうな東野山城や周辺の備えに1万5千人は必要と見積もったからだ。
これからは分かりやすく、迂回して後方の砦を攻める軍を柴田軍迂回部隊と、東野山城や周辺の備えに残した軍を柴田軍後方部隊と呼ぶことにする。
柴田軍迂回部隊の指揮は佐久間盛政に、その支援は前田利家に決まる。

柴田軍迂回部隊を率いる盛政は焦っていた。
念のための偵察や、東野山城の攻撃に余計な時間を使ってしまった。
勝家殿は何を考えておられるか。信孝殿と一益殿が倒されてからでは遅いのだぞ……。
盛政は凄まじい速さで進軍し、3万人から1万5千人へ数は半減したものの圧倒的な攻撃力を見せつける。
大岩山砦、岩崎山砦の2つの砦を立て続けに潰し、賤ケ岳砦も陥落寸前に追い込む。
だがこの賤ケ岳砦は丹羽長秀の増援によってかろうじて立て直し、盛政の攻勢はここで一旦止まってしまった。

ここで盛政は勝家に使番(つかいばん)を出し、援軍を求めた。
丹羽長秀が増援した賤ケ岳砦を攻略するためである。
この砦さえ落とせば一帯を全て押さえたことになるのだ。
「時間がないのだ、早く援軍を送られよ」
使番が一人では不安に思ったのか、何人も立て続けに送った。


第九節 堀秀政隊

舞台を堀秀政のいる東野山城に移す。
ここでは動揺が走っていた。
「殿、後方の砦が立て続けに落ちております。ここは孤立いたしますぞ」
「うろたえるな」
「し、しかし、孤立すれば兵糧などの補給は断たれます。ここは孤立する前に撤退した方がよろしいのでは……?」
「考えてみよ。なぜ秀吉様は後方の砦を手薄なままにされたのか?」
「そ、それはこの砦に優先的に人員や資材を回したからにございましょう」
「そう見せていたとしたら?」
「な、なんと……」
「砦の工事は極秘に行ったわけではない。敵の密偵もうろうろしていよう」
「秀吉様が、後方の砦が手薄なままで心配しているとの噂は……?」
「敵を欺くにはまず味方から、と言うではないか」
「殿、分かりませぬ。なぜ秀吉様は味方までも欺いて後方の砦を手薄にされたのでございますか?」
「秀吉様は後方の砦を手薄にしつつも、この東野山城は高い防御力を持つ城とし5千人もの兵を籠らせた。しかも鉄砲は千挺以上じゃ。これによって勝家軍はここへの備えに1万5千人もの兵を置かざるを得なくなっている。勝家軍迂回部隊は1万5千人程に減ったではないか。これでもまだ分からぬか?」
「ま、まさか……勝家軍に二方面作戦を強いるためでございますか?」
「そうだ。後方の砦が手薄なだけなら勝家軍は3万人の全軍を持って後方の砦を次々と潰せる。だが、厄介なこの東野山城があれば? 勝家軍はこの城に備えの兵を置くために全軍投入ができない。全軍投入できなければ、後方の砦の全てを潰すことは難しくなる。事実、賤ケ岳砦は持ちこたえているではないか。我らは5千人で3倍の1万5千人の兵を引き付け動きを封じているのだ。この城の役割が分かったか? 分かったら皆の者に伝えよ。勝利は間近ぞ」
「か、かしこまりました!」
こうして、秀吉軍最前線の東野山城の兵の士気が落ちることはなかった。

舞台を勝家軍に戻す。
勝家軍後方部隊は、盛政率いる勝家軍迂回部隊の凄まじい活躍に士気は大いに上がった。
勝った勝ったと言う者もいる。
そして、盛政から援軍を要請する使番が来た。立て続けに。
家臣の一人が発言した。
「殿、何を迷われます? 直ちに援軍を出すべきにございます」
だが勝家は、迷っていた。
東野山城へ備えている後方部隊の兵を減らせば、堀秀政は打って出てくるかもしれない。
あの鉄砲の数だ。もし崩されるようなことがあれば、それこそ負けではないか。
勝家は、盛政へ返答の使番を出した。

「後方部隊から兵を割けぬ、だと。秀政ごとき若造に何を恐れるか!」
盛政は使番から渡された書状を見るや否や、そう叫び書状を破り捨てた。
勝家は、後方部隊からこれ以上は兵を割けぬこと、援軍なしで何とか賤ケ岳砦を落とすか、難しければ元の陣へ戻るように言ってきたのだ。
「使番! 勝家殿にこう申せ。『東野山城にいる堀秀政は、我らに二方面作戦を強いるための秀吉の罠だと。ここは速やかに賤ケ岳砦を落とすことじゃ!
信長様の桶狭間の戦いを思いだされよ。信長様なら躊躇(ためら)わずに全軍を投入される』と。急げ!」

さて、勝家と盛政を行き来する使番もまた迂回しながらである。
行き来に時間が費やされていった。
勝家は盛政からの返事に、
「仮に今から援軍を送っても到着には時間がかかる。賤ケ岳砦を落とせぬなばらば一度兵を退け。大岩山砦と岩崎山砦を落とし、十分成果を上げたではないか」
と返事し、盛政はこれに対しさらに、
「たかが大岩山砦と岩崎山砦を落とした程度では、戦に勝ったことにはならぬ。この賤ケ岳砦を落とさなければ意味がない。早く援軍を!」
と、ひたすら援軍を催促した。


第十節 時、既に遅し

こうしている間に、好機は去った。
勝家は堀秀政を警戒する余り、ただでさえ秀吉より少ない兵をさらに分け、二方面作戦をやってしまった。
兵の少ない側が最もやってはいけない過ちだ!
軍を投入しないならしない、するなら全軍を投入する、こういう決断をできない者が戦に勝つことはない。

堀秀政は、見事に秀吉の期待に応えた。
5千人の兵で3倍の勝家軍を引き付け動きを封じたために、勝家軍でまともに働いたのは佐久間盛政率いる1万5千人のみだったのだから。

勝家は3万人を用意した。だがその半分は何の働く機会もなく、皮肉にもただ食料を消費していただけであった。

もう一度言う。
勝家はただでさえ秀吉より少ない兵力なのに、その貴重な兵力の半分も無駄にしたのだ!
5万人 対 1万5千人。
これが賤ヶ岳の決戦の真の姿である。

そして、賤ケ岳砦を攻略中の盛政は、眼下に数え切れない程の大量の松明が近づいてくるのを見た。
数万人もの秀吉の大軍だ。
そう、秀吉軍主力部隊である。
秀吉は2つの砦を立て続けに潰されたとの報告を受け、凄まじい速さで引き返してきたのだ。
「ああ……」
盛政は、思わず天を仰いだ。

前田利家は、盛政が退却するのを見ると助けるどころか撤退を開始する。
利家はとっくにこの戦は負けと思っていた。
何度も言うが、勝家軍は3万人しかいない。秀吉軍の5万人より少ないのだ。
兵力が少ないのに、どれに対しても万全の体制で臨めるはずがない。
どちらかを取りどちらかを捨てる、取捨選択の時であった。
それを中途半端にも、どちらにも対応しようと二方面に分けた。この時点で負けは決まっていた。
前田利家隊の撤退は、勝家軍の士気を大きく落とした。

「これより我らは攻めに転ずる。全軍、打って出よ!」
堀秀政は立ち上がった。采配を振った。
佐久間盛政が秀吉の大軍に迫られ撤退し、それを見た前田利家も撤退を開始したことにより、勝家軍の士気が下がったことを堀秀政が見逃すはずがない。
東野山から地響きの音がした。数千人が山を一斉に降りる足音だ。
続いて数え切れない程の射撃音が響く。
勝家軍は堀秀政に止めを刺された。

秀吉と堀秀政はそのまま北陸まで攻め込み、柴田勝家は自害した。
佐久間盛政は捕らえられたが、秀吉は盛政の才能を惜しみ一国まで与えようとした。
だが、盛政は死を選ぶ。
もし一般的に言われている、賤ヶ岳の戦いの敗因が佐久間盛政なら、秀吉がここまで惜しむだろうか?
敗因は盛政ではない、勝家なのだ。
さて、信孝は降伏したが、兄の信雄によって処断された。
こうして秀吉は織田家のほぼ全てを掌握する。
天下人秀吉が、誕生した。

新説、賤ケ岳の戦い 終わり

新説、賤ケ岳の決戦 イラスト
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