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第伍章 信長と勝頼、決戦の章
第七十節 斎藤道三の愛娘・帰蝶
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「すべては……
帰蝶が来たときに始まったのじゃ」
「帰蝶様が?」
愛娘のことを聞いたはずが、濃姫とも言う織田信長の妻の話になったことに万見仙千代は訝しげな表情を見せた。
主は構わず話を続ける。
「仙千代よ。
美濃国[現在の岐阜県]のマムシとも呼ばれた斎藤道三殿が、わしの元に愛娘の帰蝶を送り込んだのは……
『なぜ』だと思う?」
「なぜ、ですか?
織田家と斎藤家の同盟のためでは?」
「覚えておくといい。
父にとって……
愛娘を送り出すのは、とても大きな意味のあることだと」
「大きな意味!?」
「うむ。
そちは知っているか?
道三殿は、武士ではなく『商人』の出身であることを」
「存じております。
油売りの行商で成功して一財産を築くと……
美濃国の支配者であった土岐家の兄である政頼に対して兵を挙げた弟の頼芸を全面的に支援し、結果として兄を追放に追い込んだとか」
「仙千代よ。
その話、『おかしい』とは思わないか?」
「おかしい?」
「本来ならば、弟ではなく兄が家を継ぐのが道理であろう?」
「確かに、その通りです」
「では……
道三殿が、家を継ぐべきではない弟の味方をしたのは『なぜ』じゃ?」
「なぜ?
分かりませぬ」
「それが、京の都の武器商人の屑どもの『やり口』だからよ」
「やり口!?」
「奴らは武器弾薬で銭[お金]を儲けるために……
国の支配者が兄弟で醜い身内争いを起こすよう盛んに嗾けていた」
「同じ家族、血を分けた兄弟で醜い身内争いを?
巧みに嗾けられたとはいえ……
戦まで始めるとは何たる愚か!」
「武器商人どもから全面的な支援を約束された弟は、こう考えるようになった。
『ふざけるなっ!
このわしが、なぜ!
兄よりずっと実力のある、このわしが……
わずかに遅れて生を受けたというだけで、あんな単純で、馬鹿な奴に従わねばならないとは!
もう我慢ならん!
よし、今こそ立ち上ろうぞ!
わしこそが当主に相応しい実力の持ち主であることを、国中の者どもに知らしめようではないか!』
とな」
「武器商人とは、それほどまでに薄汚いのですか」
「ああ。
己の利益のためなら、平然と他人を犠牲にできる連中だからのう」
「お待ちください。
信長様。
美濃国のマムシとも呼ばれた、あの斎藤道三様が……
京の都の武器商人の『手先』であったと仰るのですか?」
「最初は、そうであったらしい」
◇
仙千代は、主の話に付いていけない。
「最初!?
それは、どういう意味です?」
「道三殿は最初、京の都の武器商人どもの手先として働いていた。
すべては美濃国の中で争いを引き起こし続けるためにな。
弟を支援して兄を追放した後、今度は弟を裏切って兄を支援し、こうして戦をひたすら長引かせたのじゃ」
「……」
「ところが!
やがて道三殿は良心の呵責に苦しむようになった。
『わしは、この国にとって害でしかない。
これでいいのか?』
と」
「……」
「そして、一つの決意をした。
『わしは……
己ばかりを安全な場所に置き、他人ばかりを危険な場所に送り込むような恥知らずで卑怯者の犬でいたくはない!
決めたぞ。
わしは、犬であることを捨てて人になろう』
と」
「要するに道三様は……
京の都の武器商人と手を切ろうと決意なされたのですか?」
「うむ。
道三殿は、盛んに刃を交えていた我が父[織田信秀のこと]との同盟に突如として舵を切った」
「信秀様は尾張国の津島[現在の愛知県津島市]の商人と手を組んで成功されたと聞きますが……
もしや!
津島の交易相手は、京の都の商売敵である堺であったと!」
「そういうことよ。
帰蝶は、堺との取引を成功させる『使命』を果たすために来たのじゃ」
「お待ちください。
稲葉、氏家、安藤などの美濃国の有力な国衆[独立した領主のこと]は、数百年に亘って京の都と取引していました。
堺と手を組むことに賛同するはずがありません」
「うむ。
猛反発した国衆は、道三殿の長男である義龍を立てて反旗を翻した。
結果として道三殿は……
長良川の戦いで討ち取られてしまった。
わしは援軍を率いて向かったが、間に合わなかった」
「そういうことだったのですか」
「あの日。
わしは、父を喪って悲嘆に暮れる妻に対して誓った。
『そなたの父の意志は……
わしが必ず継いで見せる。
何年掛かろうとも美濃国を我が物とし、京の都の武器商人の屑どもを追い払ってやるぞ!
だから、帰蝶よ。
そなたの故郷への侵略を開始するわしを許してくれ。
これからも、ずっと……
我が妻としてわしを支えて欲しい』
と」
「それがしも信長様を見習い、妻を大切にしたいと思います」
「最も身近な己の妻を大切にできない者が、民を大切にできるはずがないではないか。
妻を得たなら、己の生涯最後の日まで大切に扱うと誓え」
「はっ」
「話を戻すが。
あの日、帰蝶はこう申したのじゃ。
『美濃国を我が物とされるのならば……
2人の御方を側に置かれませ』
と」
「2人の御方とは、誰と誰です?」
「一人目が明智光秀。
そして二人目が、わしの妹の夫である遠山直廉よ。
どちらも抜きん出て優れた男であった」
「帰蝶様には人を見る目がおありなのですか」
「ああ、そうじゃ」
◇
主の話は続く。
「明智光秀も遠山直廉も抜きん出て優れた男であったが……
光秀は幕府の家臣であり、直廉も領地を治める立場であったため側に置くことができなかった。
ただし。
直廉の屋敷へ行った際、わしは直廉の娘に『衝撃』を受けてしまった」
「衝撃?」
「千里眼の異能を持っているかのような鋭い目。
加えて、わしのうつけ者の振る舞いが芝居[演技のこと]に過ぎないことを瞬時に見抜きおった。
わしは己の理解者に出会えた衝撃のままに……
『我が手元で大切に育てると約束しよう。
だから、付いて来て欲しい』
と頼んだ。
そして。
娘を勝手に連れて帰ったことを帰蝶に詫びつつ、実の娘として育てたいと伝えた。
人を見る目がある帰蝶は……
娘の才能を一目で見抜き、『弦』と名付けて徹底的な教育を施したのじゃ」
「箏の名手にして、人と人をつなぐ糸となる御方。
素晴らしい名と存じます」
「いつしかわしは……
帰ると必ず、弦に会いに行くのが習慣となっていた」
◇
美濃国・岐阜城。
箏の音が響いている。
一人の武者が、その音に惹かれたのか立ち止まった。
馬から降りて辺りを見回す。
音は近くの屋敷の中から聴こえてきている。
「この響きは……」
武者が屋敷の中に入ると、一人の娘が一心不乱に箏を弾いていた。
音楽の世界に入り込んでいるかのようだ。
箏とは、およそ180cmの細長い木の箱に13本の弦が張られた楽器である。
13本の弦にそれぞれ柱[柱と呼ぶ]を立てて前後にずらしながら音を調節し、右手の親指、人差指、中指の3本に箏爪をはめ、弦を弾いて音を出す。
続いて箏爪をはめた娘の3本の指が、激しく躍動し始めた。
曲のフィナーレが近づいているのだろうか。
武者の方は娘の近くに立ったままで目を瞑って聴き入っているが、娘の方は武者の存在に気付いてさえいない。
最後の命の炎が燃え尽きたかのように演奏がフィナーレを迎える。
演奏が終わって深呼吸して身体中の力を抜いた娘は、ここでようやく武者の存在に気付いたようだ。
「信長様?
あ、お父上様!
いつの間にいらしていたのです?」
武者の正体は織田信長であった。
◇
「弦よ。
箏の腕を更に上げたようだな」
「あら!
それは真にございますか?」
「真じゃ。
そなたの箏の音は、人を惹き付ける魅力がある。
また聴かせて欲しい」
「お父上の願いであればいつでも。
ところで。
わたくしに、何か御用があって来られたのです?」
「用がなければ来てはいかんのか?」
「まあ!
何と意地悪なお父上。
幼い頃はいつも遊んでくれたのに、今は御用がなければ会いに来てくださらないではありませんか」
「そ、それは……
多忙ゆえにいつも遊んでやれぬだけじゃ。
それに、そなたはもう15ではないか。
遊んでもらう歳でもなかろう」
「娘は、いくつになっても尊敬する父に甘えたいものなのですよ」
「分かった。
岐阜にいるときは、できるだけそなたに会いに来よう」
「まあ!
嬉しい!」
「ところで……
弦よ。
わしはようやく美濃国を制圧し、帰蝶への誓いを果たすことができた。
これからどうすべきだろうか?」
「お父上には、己に課された『使命』がありましょう?」
「使命?」
「『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい』
と」
「……」
「今こそ、その使命を果たすべきときでは?」
【次節予告 第七十一節 使命を果たすべきとき】
弦は、父に対して強く言い切ります。
「武田信玄公に背後を襲われる心配はありません。
安心して『全軍』を京の都へと進め、使命を果たされませ」
と。
帰蝶が来たときに始まったのじゃ」
「帰蝶様が?」
愛娘のことを聞いたはずが、濃姫とも言う織田信長の妻の話になったことに万見仙千代は訝しげな表情を見せた。
主は構わず話を続ける。
「仙千代よ。
美濃国[現在の岐阜県]のマムシとも呼ばれた斎藤道三殿が、わしの元に愛娘の帰蝶を送り込んだのは……
『なぜ』だと思う?」
「なぜ、ですか?
織田家と斎藤家の同盟のためでは?」
「覚えておくといい。
父にとって……
愛娘を送り出すのは、とても大きな意味のあることだと」
「大きな意味!?」
「うむ。
そちは知っているか?
道三殿は、武士ではなく『商人』の出身であることを」
「存じております。
油売りの行商で成功して一財産を築くと……
美濃国の支配者であった土岐家の兄である政頼に対して兵を挙げた弟の頼芸を全面的に支援し、結果として兄を追放に追い込んだとか」
「仙千代よ。
その話、『おかしい』とは思わないか?」
「おかしい?」
「本来ならば、弟ではなく兄が家を継ぐのが道理であろう?」
「確かに、その通りです」
「では……
道三殿が、家を継ぐべきではない弟の味方をしたのは『なぜ』じゃ?」
「なぜ?
分かりませぬ」
「それが、京の都の武器商人の屑どもの『やり口』だからよ」
「やり口!?」
「奴らは武器弾薬で銭[お金]を儲けるために……
国の支配者が兄弟で醜い身内争いを起こすよう盛んに嗾けていた」
「同じ家族、血を分けた兄弟で醜い身内争いを?
巧みに嗾けられたとはいえ……
戦まで始めるとは何たる愚か!」
「武器商人どもから全面的な支援を約束された弟は、こう考えるようになった。
『ふざけるなっ!
このわしが、なぜ!
兄よりずっと実力のある、このわしが……
わずかに遅れて生を受けたというだけで、あんな単純で、馬鹿な奴に従わねばならないとは!
もう我慢ならん!
よし、今こそ立ち上ろうぞ!
わしこそが当主に相応しい実力の持ち主であることを、国中の者どもに知らしめようではないか!』
とな」
「武器商人とは、それほどまでに薄汚いのですか」
「ああ。
己の利益のためなら、平然と他人を犠牲にできる連中だからのう」
「お待ちください。
信長様。
美濃国のマムシとも呼ばれた、あの斎藤道三様が……
京の都の武器商人の『手先』であったと仰るのですか?」
「最初は、そうであったらしい」
◇
仙千代は、主の話に付いていけない。
「最初!?
それは、どういう意味です?」
「道三殿は最初、京の都の武器商人どもの手先として働いていた。
すべては美濃国の中で争いを引き起こし続けるためにな。
弟を支援して兄を追放した後、今度は弟を裏切って兄を支援し、こうして戦をひたすら長引かせたのじゃ」
「……」
「ところが!
やがて道三殿は良心の呵責に苦しむようになった。
『わしは、この国にとって害でしかない。
これでいいのか?』
と」
「……」
「そして、一つの決意をした。
『わしは……
己ばかりを安全な場所に置き、他人ばかりを危険な場所に送り込むような恥知らずで卑怯者の犬でいたくはない!
決めたぞ。
わしは、犬であることを捨てて人になろう』
と」
「要するに道三様は……
京の都の武器商人と手を切ろうと決意なされたのですか?」
「うむ。
道三殿は、盛んに刃を交えていた我が父[織田信秀のこと]との同盟に突如として舵を切った」
「信秀様は尾張国の津島[現在の愛知県津島市]の商人と手を組んで成功されたと聞きますが……
もしや!
津島の交易相手は、京の都の商売敵である堺であったと!」
「そういうことよ。
帰蝶は、堺との取引を成功させる『使命』を果たすために来たのじゃ」
「お待ちください。
稲葉、氏家、安藤などの美濃国の有力な国衆[独立した領主のこと]は、数百年に亘って京の都と取引していました。
堺と手を組むことに賛同するはずがありません」
「うむ。
猛反発した国衆は、道三殿の長男である義龍を立てて反旗を翻した。
結果として道三殿は……
長良川の戦いで討ち取られてしまった。
わしは援軍を率いて向かったが、間に合わなかった」
「そういうことだったのですか」
「あの日。
わしは、父を喪って悲嘆に暮れる妻に対して誓った。
『そなたの父の意志は……
わしが必ず継いで見せる。
何年掛かろうとも美濃国を我が物とし、京の都の武器商人の屑どもを追い払ってやるぞ!
だから、帰蝶よ。
そなたの故郷への侵略を開始するわしを許してくれ。
これからも、ずっと……
我が妻としてわしを支えて欲しい』
と」
「それがしも信長様を見習い、妻を大切にしたいと思います」
「最も身近な己の妻を大切にできない者が、民を大切にできるはずがないではないか。
妻を得たなら、己の生涯最後の日まで大切に扱うと誓え」
「はっ」
「話を戻すが。
あの日、帰蝶はこう申したのじゃ。
『美濃国を我が物とされるのならば……
2人の御方を側に置かれませ』
と」
「2人の御方とは、誰と誰です?」
「一人目が明智光秀。
そして二人目が、わしの妹の夫である遠山直廉よ。
どちらも抜きん出て優れた男であった」
「帰蝶様には人を見る目がおありなのですか」
「ああ、そうじゃ」
◇
主の話は続く。
「明智光秀も遠山直廉も抜きん出て優れた男であったが……
光秀は幕府の家臣であり、直廉も領地を治める立場であったため側に置くことができなかった。
ただし。
直廉の屋敷へ行った際、わしは直廉の娘に『衝撃』を受けてしまった」
「衝撃?」
「千里眼の異能を持っているかのような鋭い目。
加えて、わしのうつけ者の振る舞いが芝居[演技のこと]に過ぎないことを瞬時に見抜きおった。
わしは己の理解者に出会えた衝撃のままに……
『我が手元で大切に育てると約束しよう。
だから、付いて来て欲しい』
と頼んだ。
そして。
娘を勝手に連れて帰ったことを帰蝶に詫びつつ、実の娘として育てたいと伝えた。
人を見る目がある帰蝶は……
娘の才能を一目で見抜き、『弦』と名付けて徹底的な教育を施したのじゃ」
「箏の名手にして、人と人をつなぐ糸となる御方。
素晴らしい名と存じます」
「いつしかわしは……
帰ると必ず、弦に会いに行くのが習慣となっていた」
◇
美濃国・岐阜城。
箏の音が響いている。
一人の武者が、その音に惹かれたのか立ち止まった。
馬から降りて辺りを見回す。
音は近くの屋敷の中から聴こえてきている。
「この響きは……」
武者が屋敷の中に入ると、一人の娘が一心不乱に箏を弾いていた。
音楽の世界に入り込んでいるかのようだ。
箏とは、およそ180cmの細長い木の箱に13本の弦が張られた楽器である。
13本の弦にそれぞれ柱[柱と呼ぶ]を立てて前後にずらしながら音を調節し、右手の親指、人差指、中指の3本に箏爪をはめ、弦を弾いて音を出す。
続いて箏爪をはめた娘の3本の指が、激しく躍動し始めた。
曲のフィナーレが近づいているのだろうか。
武者の方は娘の近くに立ったままで目を瞑って聴き入っているが、娘の方は武者の存在に気付いてさえいない。
最後の命の炎が燃え尽きたかのように演奏がフィナーレを迎える。
演奏が終わって深呼吸して身体中の力を抜いた娘は、ここでようやく武者の存在に気付いたようだ。
「信長様?
あ、お父上様!
いつの間にいらしていたのです?」
武者の正体は織田信長であった。
◇
「弦よ。
箏の腕を更に上げたようだな」
「あら!
それは真にございますか?」
「真じゃ。
そなたの箏の音は、人を惹き付ける魅力がある。
また聴かせて欲しい」
「お父上の願いであればいつでも。
ところで。
わたくしに、何か御用があって来られたのです?」
「用がなければ来てはいかんのか?」
「まあ!
何と意地悪なお父上。
幼い頃はいつも遊んでくれたのに、今は御用がなければ会いに来てくださらないではありませんか」
「そ、それは……
多忙ゆえにいつも遊んでやれぬだけじゃ。
それに、そなたはもう15ではないか。
遊んでもらう歳でもなかろう」
「娘は、いくつになっても尊敬する父に甘えたいものなのですよ」
「分かった。
岐阜にいるときは、できるだけそなたに会いに来よう」
「まあ!
嬉しい!」
「ところで……
弦よ。
わしはようやく美濃国を制圧し、帰蝶への誓いを果たすことができた。
これからどうすべきだろうか?」
「お父上には、己に課された『使命』がありましょう?」
「使命?」
「『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい』
と」
「……」
「今こそ、その使命を果たすべきときでは?」
【次節予告 第七十一節 使命を果たすべきとき】
弦は、父に対して強く言い切ります。
「武田信玄公に背後を襲われる心配はありません。
安心して『全軍』を京の都へと進め、使命を果たされませ」
と。
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