大罪人の娘・前編

いずもカリーシ

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第弐章 戦国乱世、お金の章

第十九節 正しいか間違いかの区別ができない者たち

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「教育に男女の差を付けない」
現代では常識だが、凛のいた戦国時代では非常識であった。

ところが。
妻・煕子ひろこの強い影響を受けた明智光秀は、当時の常識さえ平然と無視する。
長女の凛と、次女の玉[後のガラシャ]が『幼い』頃から教育を施し、読み書きを学ぶことを強制し、手を抜くと厳しくしかってらしめることさえしたのだ。

「凛!
なぜ読み書きを学ぶことをおこたるのか」

「申し訳ありません……」
「『女子おなごは学ぶ必要などない』
こんな声をよく聞くが、だから怠っているのか?」

「違います」
「凛。
そなたは『人』か、それともけもの[動物のこと]か?」

「人です」
「読み書きを学ばない者は、読み書きの出来ない獣と何ら違いはない。
人であるならば……
生きる限りずっと学び続けよ」

「しかし!
父上。


「ほう。
ならばそなたは……
他人の話を、全てに受けるのだな?」

「全てではありません」
「では。
真に受ける話と、真に受けない話を……
どうやって『区別』するのか?」

「……」
「他にもあるぞ。
その他人が、全てを知った上で話しているのか……
一部を見た程度で、全てを知ったと勘違いしている素人しろうとに過ぎないのか……
あるいは、おのれの言葉に何の責任も負わなくて済む、無関係な、安全な場所からたださえずっているだけの卑怯者に過ぎないのか……
どうやって『区別』するのか?」

「……」
「まだあるぞ。
そなたのことを十分に知った上で、そなたのことを思って話しているのか……
ただおのれの仲間に引き込みたいだけで話しているのか……
あるいは、己の利益のためにそなたを利用し、あやつろうとして話しているのか……
どうやって『区別』するのか?」

「……」
「正しいか間違いかの区別[識別力のこと]ができない者は……


「……」
「違うか?」

「わたくしが間違っていました。
これからは、ちゃんと学びます。
ただ……
一つだけ教えてください。
読み書きを学ぶことで、正しいか間違いかの区別ができるようになるのですか?」

「なる」
「どうしてです?」

「物事の仕組み、過去の出来事などの『正確な知識』は、読んで調べることでしか得られないからだ。


「なるほど」
「加えて。
相手におのれのことを『上手に伝える[コミュニケーション能力]』には、書いて要点を整理することでしか得られない。
要点を整理せず、思い付きの話だけを並べたらどうなると思う?」

「『あの人の話は訳が分からない』
こう、相手からあきれられてしまうかと」

「うむ。
上手に伝えられない者は、結局のところ『損』をするのだ。


「よく分かりました」
「凛よ。
『類は、友を呼ぶ』
この言葉を忘れてはならん。
読み書きを学ぶことをおこたり、正しいか間違いかの区別ができない大人になれば……
同類の友しかできず、他人から利用され、操られ、結果として損な人生を送ることとなろう」

「……」
「そなたのことが『大切』だからこそ……
そなたに、そのような人生を歩んで欲しくないのだ。
分かってくれるか?
凛よ」

「はい。
父上」

凛はその後、読み書きを学ぶことに手を抜かなくなった。

 ◇

光秀と凛のやり取りは、現代では非常識な部類に入るかもしれない。

それでも凛は、現代を生きる若者よりも『幸せ』であった。
現代を生きる若者は、凛よりもずっと辛い環境に置かれているからだ。

「昔のように強制してはダメ。
昔のように厳しく叱ってらしめるなど言語道断。
もっと自由を重んじよう」

一見すると、この価値観は正しく見えるかもしれない。
ただし。
光秀が言った、この大いなる疑問が残る。

「正確な知識もなく、上手に伝えることもできないのに、どうやって正しいか間違いかの区別ができるのか?」
と。

正しいか間違いかの区別ができないために……
犯罪行為の実行役をさせられ、売春のために街角に立ち、安全というデマを信じて大麻を吸い、オーバードーズ[市販薬の過剰摂取のこと]に陥って損な人生を送る若者が増えている。

ある程度賢い若者ならば、強制されなくても、厳しく叱って懲らしめられなくても、人生を踏み外したりはしないだろう。
ただし『全員』がそうとは限らない。

人生まで踏み外さなくても……
正確な知識がなく、上手に伝えることもできなければ、社会に出たときに悲惨な目に合う。
そもそも日本は資本主義であり、ビジネスという『戦争』が毎日のように行われている場所なのだから。

「人の話を何でもに受けるとは……」
「イエスかノーしか言えないのか」
「SNSのような報連相をするな」
「会話もろくにできないのか」
「何を言ってるかさっぱり分からん」
「使えない」
はっきり言われなくても、心の中でこう思われて社会から切り捨てられていく。

言わば……


これを『辛い』環境と言わずして、何と言えば良いのだろう?

 ◇

太平記たいへいき』という歴史書がある。
鎌倉時代末期から室町時代初めの……
日本全土が無法地帯と化し、戦国乱世が始まった時期を扱っている。

この時期を光秀は重要視していた。
凛にも全て読ませていた。

その太平記も、北畠顕家きたばたけあきいえの最期についてはこう書かれているのみだ。
「不意を突かれた」
と。

顕家あきいえ男山八幡宮おとこやまはちまんぐう[現在の京都府八幡市]に奥州おうしゅう軍全軍を布陣させた後、そこを抜け出して河内国かわちのくに和泉国いずみのくに[合わせて現在の大阪府]で暴れ回った理由ついて納得のいく説明を書いていない。

 ◇

「北畠顕家ほどの天才であっても……
足利尊氏あしかがたかうじの開いた室町幕府にはかなわなかったのですね」

足利あしかが家は、鎌倉幕府の時代に一族を日ノ本ひのもと各地に張り巡らせていた。
筆頭の斯波しば家、二番手の畠山はたけやま家、三番手の細川家、今川家、一色いっしき家、渋川しぶかわ家、そして尊氏たかうじの母の実家・上杉家。
尊氏はこれら一族をことごとく『大名』に任命していた。


「どんな天才でも、これほど多くの敵が相手では……」
「うむ。
最後に敗北したのは仕方ないかもしれん」

「父上。
『策略』を用いて敗北を避ける方法などはなかったのでしょうか?」

「策略か。
それなら2つある。
敵をあざむき、身内争いを引き起こして『弱体化』させるか。
あるいは……
敵より『強い』者を欺き、おのれの味方にするかだ」

……
ですか」

「それこそが勝利の秘訣ひけつよ。
信長様は読み書きを上手うまく使って敵より強い者をあざむき、おのれの味方とされた」

「読み書きを上手く『使って』?
具体的に何をしたのですか?」

 ◇

顕家の死から、およそ230年後。

「ここが青野原あおのがはらか」
かつての戦場に、一人の騎馬武者きばむしゃが立っている。

「悪い事柄の根をち、腐り切った世をあるべき姿に戻さねばならない」
こう言って武人としての使命をまっとうしようと決めた若者は……
奥州おうしゅうの地で兵を挙げ、電光石火の早さで奥州軍を率いて京の都の目と鼻の先まで迫り、絶望的な兵力差がありながら幕府軍をあと一歩まで追い詰めた。

その立派なこころざしたぐいまれな実力は、どれだけ長い時間が経っても多くの人間を魅了みりょうしてやまない。
しくも。
この騎馬武者も北畠顕家という天才に憧れ、電光石火の早さを追求し続けた。

7年近い歳月をかけて妻の実家・美濃国みののくに[現在の岐阜県]を制圧すると……
直ちに住まいを移して『岐阜ぎふ』と名付け、『天下布武てんかふぶ』という印鑑を使い始めた。

岐阜、そして天下布武という言葉。
この騎馬武者は織田信長その人である。

ちなみに。
岐阜の『岐』は、中国で徳のある君主と名高い文王ぶんおうの出身地・岐山ぎざんから取ったもの。
岐阜の『阜』は、同じく中国で徳を唱えた思想家の孔子こうしの出身地・曲阜きょくふから取ったもの。

もう一つ。
徳とは……
じん[自分より他の人を優先すること]、義[私利私欲より正義を重んじること]、礼[上下関係の秩序を守ること]、智[学ぶことを怠らないこと]、しん[誠実であること]の5つを指す。

歴史書のほとんどが信長を野心家や破壊者のイメージで書いているが、岐阜という言葉とのいちじるしい『矛盾むじゅん』を感じるのはわたしだけだろうか?


【次節予告 第二十節 敵を欺くか、無知な人々を欺くか】
人々の心に幕府の支配への『疑念』を植え込みつつ……
更に煽っていきます。
「本当に罰せられるべき悪人は、誰か?」
と。
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